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黒田官兵衛29 別所長治の正妻は波多野氏

2014年05月28日 | 戦国時代

 現在の大河では「荒木村重の謀反」をやっている。残念ながら有岡城址には行った事がないので、近々訪れようと思っているが、荒木村重はもともと波多野氏の出身であり、摂津に32万石を構えた。波多野氏は平安時代の末期から相模国を本拠地とした豪族という古い歴史を持っていたのであるが、実は1580年まで続いたの三木合戦の最中に壊滅した。時の城主は波多野秀治といって、娘は別所長治の正妻である。波多野秀治はもともと織田信長にくみし、明智光秀の軍勢に加わって丹波国で織田氏に反抗する豪族を討伐を担当していたが、1576年1月に突如謀反に走り、光秀を撃破している。(黒井城の戦い)。織田・毛利の天王寺砦の戦いの直前のことである。激怒した信長はさらなる大軍を投入してきたことにより、地の利を活かした攻撃もやがて衰え、光秀の調略で織田氏に寝返った豪族もでたことから1579年に降伏した。このとき波多野秀治は安土に送られて6月2日磔に処され、波多野氏は途絶えたのである。

 さて荒木村重が波多野氏出身であることを踏まえて、謀反を記載する。荒木村重が謀反を起こしたのは1578年7月、終結は1579年10月19日である。黒井城の戦いの頃はともかく、波多野秀治が織田側に抵抗した後半部分は、村重の謀反とリンクしている。このあたりが村重謀反の理由なのかもしれない。波多野秀治の娘は別所長治の正妻である。播磨一帯を制していた別所氏と大坂本願寺の結びつきは強く、別所氏と結びつきが強い波多野氏も大坂本願寺を加勢するのは当然であり、織田信長と対立するのは必然であった。かくして別所・波多野・荒木の一族が団結して織田に抵抗する流れが発生していったと考えるのは当然であろう。荒木村重が有岡城に篭城して1年3ヵ月後の1579年9月、村重が城を抜け出したことで抗戦意欲はなくなり、後の指揮を任されていた荒木久左衛門は11月に開城に及んだ。このとき荒木一族の助命を条件に村重説得を申し出たが、説得できずに荒木久左衛門本人も尼崎城に立て篭もり、結局村重の妻・だしを含む一族全員が処刑された。総勢125名に及んだというから信長の憤りがどれほどだったかが伺える。

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