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法然と知恩院

2009年07月18日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然が現在の知恩院・勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。 法然は1133年、美作国に生まれ、13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度する。 18歳で比叡山・西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名した。 「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りたのは43歳の時であった。 「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀如来の名を唱え続ければ極楽往生できるとする当時は画期的な思想であったが、旧仏教側からは激しく糾弾され、攻撃の的となった。そのため1207年には讃岐国に流罪となり、4年後の1211年には都に戻るが、翌年80歳で没した。 法然の住房である知恩院勢至堂付近での法然の布教活動は、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、ここに法然の廟が造られたが1227年、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。 1234年、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜され、応仁の乱などで幾度となく焼失しえは再興された。  現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍建設が行われたのは江戸時代で、浄土宗徒であった徳川家康は1608年から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、日本一を誇る三門は1621年に建設された。 徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であり、京都における徳川家の拠点とすることによって徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制する背景もあったという。

空・無相・無作の解脱を意味する三門と男坂・女坂

 

 

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