うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

検察審査会の小沢起訴決定

2010-10-04 20:07:38 | 政治・行政
検察審査会が、小沢一郎氏の起訴を議決した。日本の民主主義が新しい段階に入ったと言っていい。

国家権力とは何か。それは、畢竟、裁判権とその強制力にある。我々は、国家というと行政権を思う。近代社会においては、国家が提供する様々なサービスなくして生活することはできない。しかし、近代以前、国家の役割は裁判であった。逆にいえば、裁判権が及ぶ範囲が国家の範囲であり、裁判権に服する範囲が国家の領域であり、その領域に住むのが国民である。

民主主義とは、定義上、人民が権力をコントロールすることだ。つまり、人民による裁判は、民主主義の不可欠の要素ということになる。中世日本では、村落共同体内で、神社の神人が湯起請(熱湯に手を突っ込みただれ具合で証言の信ぴょう性を判断した)などを利用して裁判権を行使した。残念ながら、明治以降の中央集権化により、地域の裁判権は否定されることとなった。今回の検察審査会の決定は、裁判員裁判と並び、裁判権を人民の手に取り戻す歴史的な具体例となった。

日本では、臭いものに蓋という諺にあるように、当事者が処理すべき不快な事項を他人まかせに転嫁する傾向が強い。裁判員制度に反対する意見もその現れだ。しかし、他人が自分のために誠実に働くというように世界はできていない。経済学では、この問題は、agency理論として研究されている。

官僚バッシングが盛んだ。国民の思うように官僚が働かないというのである。これも、agencyの問題といっていいだろう。政治家は、国民のagentの筈であるが、菅総理の行動をみれば、国民の代理人として機能しているか、大いに疑問となるであろう。Agentは、誰でも依頼人の利益よりはagent自身の利益を優先するものだ。

国民が、自らの利益を確保するにはどうすべきか。一つの手段が、自ら権力を行使することだ。この意味で、検察権を国民が行使した今回の仕組みは画期的なものであろう。

折しも、日本の検察は、尖閣と証拠ねつ造問題で崩壊状況にある。その中での、一点の明るい動きが今回の起訴だ。是非とも有意義な展開を期待したい。

なお、アメリカでは、一般人で構成するgrand jury(大陪審)の制度があり、重大事件において起訴を決定するのは大陪審だ。日本でも、単に検察の結果を審査するだけではなく、すべての起訴案件自体を審査する制度将来検討すべきであろう。

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