うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

震災被災者の構造的悲惨

2012-06-05 20:33:21 | 政治・行政
震災復興が一向にすすまない。政府の対応に遅さは、阪神の場合に比べてもお粗末に過ぎる。これは、政府の無能による人災と言ってもいいだろう。

しかし、単なる現象面に留まらず、より深いところに思いをめぐらす必要もある。

例えば、故郷から一時間くらいかかる二間の仮設住宅に住んでいる初老の夫婦。生活の頼りは、支給期限が延長された失業保険。土地勘がなく、やることもない。仮設住宅の中でじっとしている。電気代を節約するため、夜も明かりを付けず、テレビの明かりですましている。幸い六畳一間に道具はおさまっているので、これで十分だ。そして、政府は、自分たちの生活を保証するために次に何をしてくれるかをじっと待っている。誇張があるかもしれないが、これが、被災者の一側面だろう。

この被災者は、受刑者より悲惨だろう。受刑者は、出所後の生活に思いをはせる。更正後の生活設計とその準備、あるいは、更なる犯罪計画かもしれない。肝心なのは、自分で自分の将来を考えていることだ。誰も政府に、生活保障をしてもらおうとは思わない。

敗戦後、日本国民は、今回の震災よりずっと悲惨な状態にあった。しかし、現在の被災者のような悲惨はなかった。人々は希望に燃え、国家の再建に取り組んだ。誰も励ます必要はなかった。今はどうだ。励ましの言葉は溢れている。しかし、それは、すべて空虚なものだ。頑張る気持ちは、内面から湧くもので、マスコミが垂れ流す外交辞令のステレオ・タイプをいくら聴こうと無意味だろう。

誰が、被災者を受刑者以下の存在にしたのか。

首謀者は、福祉に名を借り、国民に依存心を培養してきた厚生官僚とそれに巣食った利権あさりの政治家だろう。官僚は、福祉の提供を申請主義とし、それにくだらない条件をつけ、申請を査定する。申請者は、条件を満たすため、官僚の顔色を伺い、従順を学ぶ。また、共犯者は、福祉を「勝ち取る」ことを煽った「市民グループ」や、それを宣伝したお粗末なマスコミ・「知識人」だろう。残念ながら、国民も無実ではない。目先の利益に眼が眩み、唯々諾々と自己の尊厳をなげうった。

被災者支援には、賛成だ。しかし、それは、被災者の尊厳に配慮した形で行なわなければならない。具体的には、一定の要件を満たした被災者に対し、こまぎれの生活保障でなく、二~三年程度の生活資金の一括提供だ。使途には、一切口をはさまない。しかも、これは一回限りとする。それ以外の後出しの処置は一切とらない。

同様の支援方策は、被災自治体に対しても行なう。被災面積と被災人員に応じた一律定額一回限りの復興予算処置だ。同じく、使途には、自治体自ら立案する復興計画に沿って使うこと以外の条件をつけない。現行システムは、復旧と復興の予算を峻別する。そのため、当初の復旧予算では、時代遅れの施設でもそのまま復元することが行なわれた。官僚の都合だけを考えた馬鹿な考えだ。これは、阪神災害時に、後藤田官房長官が考えた。まさに、国民に「依らしむべし」を信条とする内務官僚の真骨頂だろう。更に、小出しの査定主義だ。これは、自治体の創造性を奪い、予算確保のために猿知恵をしぼらせる。早稲田大学の原田泰は、今回の震災による物的損害は、一人当たり966万円に過ぎないのに、復興予算は、一人当たり4600万円になったと試算するが、それもむべなるかなだ。

しかし、ことは、震災に留まらない。実は、震災対応は、通常の国の地方補助制度を基本的にはそのまま利用している。ということは、われわれは、平常時にも同じ構図にどっぷりつかっている訳だ。つまり、震災被災者の悲惨は、実は我々全体がどっぷりつかっている悲惨でもある。そして、それが構造化された無駄創出システムとして機能しているということだ。日本の産業競争力低下も、一面では、無駄なことに投資をしてきたことのつけが回ってきた側面がある。

日本と我々の将来を開くためには、いまこそ、この戦後の政官コンプレックスを解体しなければならない。そのためには、我々自身が、自己を再認識し、浅薄なメディアに鉄槌をくだし、国家の統治機構の改革に乗り出す必要があるだろう。


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