宇野ルーツだより

ご先祖のルーツを探す旅

清源院の金比羅参り

2017-01-23 22:14:47 | 日記
     相変わらず寒い日が続いていますね。どうぞ皆さま、暖かくしてお過ごしください。
   先日放送された「ブラタモリ」(NHK・1月21日)では金比羅参りが取り上げられていました。
   私は訪れたことはありませんが…宇野家のご先祖はどうだったか?調べてみました。

   宇野甚五郎さん(熊本藩家臣)が、江戸時代の天明2年にどうも訪問していたようなのです。
   ただし、私的参詣ではなく仕事としてのものでした。以前にも紹介した清源院(細川軌子)の
   旅に同行していたようです。清源院の旅日記「海辺の秋色」の一節を見てみましょう。

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     9月19日(旧暦)夜をこめて舟出せむと思ふに、風も閑かなりける。自の舟は大船なれば、
      たどつのうらまではつかぬよしいへば、萬亀丸に乗うつりて、夜の明はなるる頃出舟し、
      巳に近き頃、湊につく。夫より駕に乗じてゆく。御山近き家居あるに休らひ、是より
      山までは十八丁の坂を歩行にてのぼる。からうじて宮居につく。神体開帳させて拝む、
      いと尊くおぼゆる。かねて此御神しんじけるに、はからずも詣でける事と恵のほど
      かけまくもかしこくぞ思ふ。坂をのぼりてみればみれば四方の山々を目のしたにみやりて
      絶景なり。飴といふ物をあきなふもの数多ある、初の家にて休む。ひまどりては日も
      暮なむ、たどつの浦までは三里も有なんとて、いそぎ駕に乗じて野みちをゆく。此道
      左右うちはれ、山々を見渡し、川の流も有。酉に過る頃、萬亀丸に乗て三里計ゆけば、
      しし島に鳳麟丸かかる所へつきぬ。  (前田淑編『近世地方女流文芸拾遺』より)
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     天明2年(1782年)秋、清源院は湯治を理由に江戸から熊本へと向かっていました。
     その途中で金比羅さんに立ち寄ったのです。江戸時代の金比羅さんの様子の一端が
     わかる興味深い記述です。いくつかの注目点をあげてみます。

     ① 熊本藩の船…鳳麟丸では多度津の港には停泊できず萬亀丸に乗り換えたこと。
     ② 十八丁の坂を歩行。785段という石段のことでしょうか。彼女は58歳でした。
     ③ 当時から飴を売る店がたくさんあったこと。ブラタモリに出ていた飴かな?

     私たちの宇野家の先祖付けでは、宇野甚五郎について次のように記しています。

     安永6年(1777年)時習館にて大日本史書写を担当(熊本)
     安永7年(1778年)9月に江戸詰代に(江戸へ)
     安永9年(1780年)10月、細川重賢参勤のお供で江戸から熊本へ
     天明元年(1781年)3月、細川重賢参勤のお供で熊本から江戸へ
     天明2年(1782年)8月、清源院里帰りのお供で江戸から熊本へ
     天明3年(1783年)3月、細川重賢参勤のお供で熊本から江戸へ
     寛政6年(1794年)7月、清源院の病気に付き従う

     清源院とは浅からぬ縁があったようです。金比羅参りの時も奥女中の警護で同行した
     ことでしょう。この時、宇野甚五郎は40歳。長い石段を上り、あの飴を口にしていた
     かもしれないと思うと感慨深いものがあります。

      晩秋の石狩川河口です。今はきっと真っ白なことでしょう。

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