憂国の花束

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雑記 宮妃たちの公・侯・伯・子・男

2023-06-07 18:19:42 | 雑感



「爵位」は、皇族家族令(明治17年、1884年7月に施行)において制定され、制定された「爵位」としては、5段階の公・侯・伯・子・男があった。

香淳皇后 父 皇族久邇宮邦彦王 
     母 邦彦王妃 俔子 (父:従一位公爵島津忠義)

秩父宮妃勢津子 父 実父松平恒雄(松平容保6男)
        母 松平信子(父:従一位侯爵鍋島直大)
        養父 正三位子爵松平保男(松平容保7男、松平恒雄異母弟) 
      *皇族家族令では皇族の妃は皇族、または華族と規定があった。

高松宮喜久子 父 正三位公爵徳川慶久(従一位公爵徳川慶喜7男)
       母 徳川 實枝子 (父 有栖川宮 威仁親王 )

三笠宮百合子 父 従四位子爵高木正得(父 従五位下子爵高木正善)
       母 高木邦子(父 正二位子爵入江為守


比べてみると、三笠宮百合子さまご実家が香淳皇后、勢津子さま、喜久子さまご実家より一段落ちで家格が低いことがわかる。
勢津子さまの養父となった松平保男も百合子さまの父高木正得も子爵だが官位が違う。
松平の会津藩は28万石、高木の河内丹南藩は1万石。

ご結婚は昭和16年1941年10月太平洋戦争開戦の直前、爵位の制度は生きている。

百合子さまの父方は格別のことはないが、百合子さま母方はなかなかなものです。
母方の祖父入江為守
1868-1936 明治-昭和時代前期の官僚,歌人。
京都に冷泉為理の四男として生まれ後に入江為福の養子となる。母は柳原隆光の娘・よし。妻は柳原前光の娘・信子。

慶応4年4月20日生まれ。冷泉為理(れいぜい-ためすけ)の3男。入江相政(すけまさ)の父。明治30年貴族院議員。のち東宮侍従長,侍従次長をへて昭和2年皇太后宮大夫。この間大正4年から御歌所所長をかね,「明治天皇御集」「昭憲皇太后御集」編集事業を完成させた。昭和11年3月19日死去。69歳。京都出身

入江為守から見ると、母の実家、柳原家から母の姪を妻にした。ということですね。

為守の母の実家、柳原家は公家の家格は「名家」(めいか)、最下位の「半家」(はんか)の上とされるが家格としては大したことはない。
が、このころの柳原家には日が当たっていた。
明治天皇の側室となった柳原隆光の孫で前光の妹愛子(なるこ)が大正天皇の生母となっていたからです。
愛子(なるこ)によって栄光を得た柳原家。
百合子さまは母方が柳原家につながるということ、つまり大正天皇と血でつながっているということで、家格は低いが宮妃に選ばれたのか。
彬子さまが大正天皇に格別の思いを抱いていらっしゃるのも解るような気がします。



常陸宮妃華子 父 伯爵津軽義孝
       母 久子(父 子爵毛利元雄)

高円宮久子  父 鳥取滋治郎 (鳥取家は素封家だが爵位はない)
        二三子(父 友田二郎 長女)
              盛子 (父 子爵曾我 祐邦  二女)
                    晃子 (父 男爵松園尚嘉 二女
                        養父 公爵鷹司 煕通 )
*久子さまの実家鳥取家は地方の素封家だが爵位はない。
*久子さまの母の実家友田家は地方の素封家だが爵位はない。
*曽我家は柳河藩士。軍功等により明治17年爵位制定と時を同じくして子爵を拝受。明治の新出来華族。注目すべきは大正天皇の教育主任だったことだろう。なんとはなしに九条、鷹司の思惑が?
*友田二郎 外務省外交官 宮内庁式部官
*久子さまの実家を鳥取家を「外交官」と認識しているひともいるが、鳥取滋治郎の肩書は東邦物産の専務、フランス三井物産の社長、東海観光会長である。母方の祖父友田二郎と混同したのか、滋治郎の妻、二三子(久子 母)が、フランス語婦人会(ALF)で事務局長、会長、特別顧問を歴任したのでそのように言っているのか。
はたまた、「久子さまの出自は九条家」と同様に母の実家友田家を久子さまの実家と見做しているのか。 


松園尚嘉                       
1840-1903 明治時代の華族。
天保(てんぽう)11年4月8日生まれ。九条尚忠(ひさただ)の次男。英照皇太后の弟。嘉永(かえい)4年出家し,興福寺事務職,薬師寺別当などをつとめる。慶応4年僧籍をはなれ,春日(かすが)神社神職などをへて京都御所殿掌となった。男爵。明治36年6月30日死去。64歳。京都出身。 
 
久子さまが九条家のご出身とか、貞明皇后の御血筋、明治天皇の縁戚、とか言われるのはこのような事情からですが…。

母の母の母が松園尚嘉 の二女。九条尚忠の次男が還俗して立てた松園の娘晃子(てるこ)が曾我 祐邦 に嫁ぐのに鷹司 煕通の養女になっているところをみると、松園の家格は低かったのでしょう。
九条尚忠の次男松園尚嘉の娘が曽我家へ嫁ぎ、曽我家の娘が友田家へ嫁ぎ、そして久子さまが生まれた。
これでも久子さまの出自は九条家と言えるのかどうか。
一般的には言わない。

松園尚嘉の姉は孝明天皇の妃でしたが、明治天皇の生母ではない。久子さまと明治天皇を結びつけるには遠すぎる。

貞明皇后は松園尚嘉の兄で九条尚忠の長男道孝の四女。遠いなあ。
「貞明さまは、母の母の母の父の兄の子供なんですよ。」
「まあ、それはそれは。お母さまのお母さまのお母さまと言えば曾祖母さまですね。曾祖母さまからはずっとご養子をとられてきたのですか?」
「いえ、曾祖母は他家に嫁ぎまして祖母を生み、祖母も他家に嫁ぎまして母を生み、母も他家に嫁いで私を生みましたの。」
「・・・(なんだかよくわからないけれど、自慢していることだけは確かね。)」

久子さまは出自に頼らなくても、実力だけで十分にやっていけるかただし、久子さまを応援するひとは、その実力にほれ込んでいるひとも多い。

三笠宮百合子さまも高円宮久子さまも、出自は母方によって貴しです。
久子さまと九条家を結びつけて語る人々の中には、女系天皇派も紛れ込んでいるのか、とふと思う。