憂国の花束

右でも左でも無く、上でも下でも無く。

祖国日本よ! 誇り高くあれ。

国民に寄り添う、の次は多様性?

2022-03-06 17:46:37 | 秋篠宮
😇 『AERA』3月7日号の続きです。


私が見たり聞いたりした範囲ですが、秋篠宮家の悠仁さまへの教育方針は
「いろいろなものを見てバランスの良い判断のできる人になって欲しい。」だと思います。

😇 小田実『何でも見てやろう』(1979)がベストセラーになり「何でも見てやろう」という言葉が流行語となり、日本を世界をバックパック一つでウロウロする若者が多数現われた。
1986年鶴見良行『アジアの歩き方』
1988年。秋篠宮殿下は興味を持たれていた人類学者の鶴見良行に(ベ平連の立ち上げに関わり小田実を活動に誘った鶴見 俊輔 の従弟。自身もベ平連活動に参加している。)面会し傾倒されている。
実際に現地を歩いて触れたものを自らが新たな視座から体系化していくという鶴見氏の姿勢が秋篠宮殿下の志向に通じるものがあったのだろう。
同時に
「鶴見良行さんと私が知り合いだと聞いてびっくりされる人もいると聞きます。ただ良行さんは、付き合うときに御自身の思想とか自分の皇室に対する考えはひとまず置いて個人としての私と話しをしてくださいました。そして私と共通するアジアのことや仕事の進め方などを話されました。皇族と距離を置くということは全然感じられなかった。それこそ私の周囲の研究者にしても、皆同じ考えだと思います。」(江森敬治『秋篠宮さま』34頁)

😇 皇族ではなく、一人の人間として相手と関係を結びたい。これが秋篠宮殿下の求めて止まない願いのようですが、それは難しいことだと思われます。

さて、紀子妃殿下の頼もしく聡明なお友達は紀子さまを皇族妃という立場抜きで接してくださるかたなのでしょうか。
それとも互いの立場を尊重しての持ちつ持たれつのご交流なのでしょうか。

LEADERS Online

診断士の支援で経営危機を突破
セレンディピティ企業を目指す経営者

株式会社麻布タマヤ 代表取締役社長

志賀 律子さん


80年続く内装関係の問屋に生まれる。高校卒業後に渡米、カリフォルニア州立大学に学び、社会貢献などの意識を高めるが、父親が倒れたため、帰国して会社の経営を代行する。後に、父親は経営に復帰するが、そのまま日本にとどまり、海外大学の日本進出や英語の論文添削などの仕事を立ち上げる。その後、麻布タマヤの専務を経て社長に就任するが、それまでの負の遺産により、銀行からの融資がおりず、経営危機に。その際、公共の相談制度を活用し、診断士などのサポートを受けて融資を獲得。東京都の経営革新計画認定も受けて経営の充実を実現し、セレンディピティ企業を目指す経営者に話を聞いた。 

私はアメリカで教育を受けましたので、社会貢献などに対する興味が強く、その方面の勉強などをしていました。アメリカでの在学中に父が体調を崩し、会社の経営が難しくなったため、急遽帰国して経営を手伝うことになります。
<中略>
その後、父親は元気になり、経営サポートの必要はなくなりましたが、私はそのまま日本にとどまることにしました。当時、アメリカの大学が日本に分校を創るブームがあり、私はカリフォルニア州立大学の日本校設立準備室の室長として、設立にかかわりました。

内閣府が行っている「東南アジア青年の船」という事業にも参加しました。今年で42回目になりますが、アセアン加盟国と日本の政府間の共同事業で、各国を牽引する未来のリーダーたちと日本の若者のネットワークを培うことを目的としたものです。18〜30歳までの11ヵ国の青年が2ヵ月にわたり、ともにアジア各国を訪問します。また短期間ではありますが、知人の紹介で、外資系企業で秘書を務めたりもしました。
その後、英語で書かれた日本人の医学論文を添削するサービスを友人と始めました。ドクターの方々は、英語は上手なのですが、印刷して紹介される文章となると、チェックが必要と考えるようで、「ドクター英語」というサービスを3人で行いました。私はドクターと話して仕事を受ける役で、サンフランシスコタイムズの編集をしている友人が添削してくれる仕組みです。
<後略>
😇 医学論文専門のようですが、事業仲間にはもしかして法律論文専門サービスを行っているかたがいたりして?

麻布タマヤは内装を扱っている会社ですが、場所柄大使館、外国人ともお付き合いがあるようです。
紀子さまのご友人は、その経歴やお商売を通じてアメリカに知り合いが多そうですね。
と、いうことは・・・。

麻布タマヤは、昭和9年、東京市麻布区飯倉町に「志賀襖紙店」として創業。以来、この麻布の地を拠点とし、近隣にお住まいの方々や、外国人のお客様、各国大使館など、様々な方にご愛顧いただいて参りました。
また、長きに渡りお付き合いいただけるお客様が多く、その信頼関係が、麻布タマヤの礎となっております。80年の時間の中で培われた知識と経験を軸に、麻布タマヤは、日々新たな一歩を踏み出しています。

😇 如意の妄想。
サヨク朝日は女性宮家、女系天皇を実現するために愛子さまを使おうとしていたが愛子さまが使い物にならないばかりか、自民党保守派の愛子さまの婿養子旧宮家男系男子復籍案の前に分無しとみて、多様性、ジェンダー思想を積極的に表明している秋篠宮家を陣営に引き込もうとしている…?


上皇から悠仁殿下まで・・帝王教育

2022-03-06 01:00:27 | 悠仁殿下
ロシアのウクライナへの侵攻が続く中、女性週刊誌とAERA以外の週刊誌には皇室関係の記事は掲載されていない。

『女性セブン』が紀子さまが天皇誕生日に召されたドレスが雅子さまのドレスと同じ色だったことを「前代未聞の色被り」と囃している。女性皇族のドレスの色が同じだったことは過去にも何度もあったが、疑問視されたのは外国からの賓客のドレスと色被りした雅子さまのドレスくらいで、後は特に問題になった記憶がない。過去にも雅子さまと紀子さまのドレスの色が被ったことはある。
今回は”皇后になった”雅子さまと皇嗣妃のドレスの色が被ったから、囃されるのでしょうか。




😇 紀子さまはお顔の色も良くお元気そうです。
眼を奪われるのは素晴らしい「照り」の真珠を並べたネックレスとイヤリングです。10mmはありそうですが?皇嗣妃殿下に相応しいとウットリ。

😐 ドレスの色被りより、この紀子さまが批判されている部分が気に掛かる。
どれも批判される謂われのない事ばかりですが、このように書かれたら紀子さまが何ともイヤミな女性に聞こえるではありませんか。
令和に入ってから、宮中行事にお出ましの紀子さまをワザとのようにカットして報じるようになったことは紀子さまを応援している者なら誰でも知っていることです。

AERAdotが、AERA3月7日号の記事をネットで配信している。

😐 濃いグレーに黒字でよく見えないが、
上段: 孤独は新たな国民病 野田聖子担当相に聞く 若者達が最も独孤
               羽生結弦 北京に舞う 悠仁さまと帝王教育

😇 この記事で知ったこと。矢部万紀子さんの肩書きは「コラムニスト」であり、「ジャーナリスト」ではありませんでした。

秋篠宮家・悠仁さまと「帝王教育」 象徴天皇として信頼と拠り所を築く道
2022/03/01 08:00 矢部万紀子 AERAdot
<抜粋>
天皇家の教育について、『昭和天皇拝謁記』をもとに読み解く。 
 昨年末に発刊された『昭和天皇拝謁記』は、初代宮内庁長官である田島道治氏の精緻(せいち)な天皇との面会メモだ。1949年2月3日から始まる1巻で、皇太子(現在の上皇陛下)との最初の面会記録は同月28日。 

日本の将来は、皇太子様の如何に御成人にかゝるかの重大事なること、田島職責中の最大の一たること‥‥国民との接触上友人は最良の師にて、切磋琢磨御必要のこと等言上す> 

例えば田島氏は、皇太子の「洋行」について天皇と何度も話す。49年12月19日には、その早期実現を望む天皇に理由を尋ね、こう記す。 

<陛下は、講和が訂結された時に又退位等の論が出て(略)譲位とかいふことも考へらるゝので、その為には東宮ちやんが早く洋行するのがよいのではないかと思つたとの仰せ> 

昭和天皇は皇太子を「東宮ちゃん」と呼ぶ。その天皇が、独立回復となれば退位、東宮ちゃんが天皇になる可能性ありと思っていると知り滂沱(ぼうだ)の涙が流れたと、田島氏は記す。

😢 昭和天皇が上皇をいかに愛していたかが伝わるエピソードです。それなのに上皇は昭和天皇に何かと反抗的になって行く…。涙が出そう。

上皇への帝王教育は
「占領当時、天皇の『退位』も現実感がありました。だから皇太子には、天皇としての自覚を早く身に付けてもらう。それが教育の最大のテーマだったと思います」 (名古屋大学大学院の河西秀哉准教授 )

😐 では、今上の帝王教育はどのようなものだったのか。

現在の天皇への教育で力点が置かれたのは、過去の天皇の歴史を学ぶことだったそうで、中学生の頃から東大、学習院などの専門家を招き、歴代天皇の事績(じせき)を原文で読んだという。祖父が健在で父が皇太子。その状況下で長く過ごしたのが今の天皇だから、「象徴天皇とは何かという難問を前に、過去の天皇を学ぶことは、内実を埋めていく作業だったと思います」

😇 なるほど。今上の口から過去の天皇の事蹟がすらすらと出て来るのは、中学校の頃から過去の天皇の事蹟を叩き込まれたからなのですね。
しかし、毎度丸暗記したものを羅列しているだけのように聞こえる、という私の感想と同様な感想を矢部さんも持っていたらしく、

陛下の誠実さ、歴史への造詣はよくわかった。だが、素人的には「だから何だろう」と思わなくもない。その失礼なモヤモヤを河西さんは、「大枠よりも丁寧に説明しようとするのです」と表現してくれた。上皇も歴史を振り返る発言をしたが、「天皇は国民と苦楽を共にするという精神的な立場に立っていた」という解説とセットで、国民にも意味するところがわかった

😇 河西さんの説明は解りにくいですね。さすがに天皇陛下を腐すようなことは言えませんものね。代わりに私がズバリと言いましょう。
上皇は過去の天皇の事蹟を天皇の精神性に繋げる言葉を持っていたが、今上はそのような言葉を持っていない。教えられたままに記憶するだけで、そこから先へ思考することがない。とね。


令和4年2月23日62歳の誕生日の天皇陛下。
モノクロ写真のほうがより被写体の本質を伝えるということはありませんでしょうか。

😇 さて、上皇が持っていた精神的な言葉はどこから生じたのでしょう。

上皇への帝王教育といえば、小泉信三氏だ。慶應義塾塾長を経て、49年に東宮御教育常時参与に。『帝室論』(福沢諭吉著)、『ジョオジ五世伝』(ハロルド・ニコルソン著)などをテキストに幅広い知識=大枠を教えたが、現在の天皇には小泉氏にあたる人がいなかった。それが上皇と天皇の話す内容の違いとなっていると、河西さん。

と、河西さんは言うが、さて。ね。
今上が中学生のころから斯界の泰斗を招いて始められた歴史教育ですが、泰斗達は将来の天皇を教育することに張り切ったに違いありません。
おそらく田島氏のように、小泉信三氏のように当然「大枠」も語ったでしょう。しかし、今上は「大枠」を受け取ることができなかった。(もっとも上皇も小泉信三が思い描いたような天皇にはならなかったと推察していますが?)

2巻になると田島氏が皇太子を冷静に観察する記述が増える。例えば51年9月3日の記述だから、上皇さま17歳。軽井沢で2日、共に時間を過ごして感じたこととして、天皇にこう伝えたとある。<(皇太子は)御自分のきらいないやな事は少しもなさらない様に御見受け致しました> 

😁 田島さん、言うことを聞かない生意気な少年に手を焼いてますね。


😇 モノクロは被写体の本質をよく伝える。御二人ともきかん気魂を持っていらっしゃるように拝しますが?

天皇とは、孤独な存在だ。だから、誰かに話を聞いてほしい。そのためには信頼関係で、田島氏と昭和天皇との間にはそれが形成されていった。が、象徴天皇制が軌道に乗るにつれ、宮内庁は普通の官庁になっていった。縦割りで人事も頻繁(ひんぱん)、皇族がじっくり信頼関係をつくれる環境にない。「戦後皇室が抱えてきた問題です」と河西さん。

😇 天皇とは孤独な存在。なるほど、此処でこの記事がAERA3月7日号の特集「孤独」に繋がるのですね。
上皇も今上も、天皇の孤独の話し相手になってくれるのが結局「妻」だけで、信頼できるのも「妻」だけなのでは?
しかし、孤独なのは特に天皇だけでは無いと思いますよ。信頼できる「妻」がいるだけ、上皇も今上もお幸せと思います。

上皇と今上を見奉りて思うのですが、帝王教育すれば帝王になれるというのは、大いなる幻想なのかもね。


😇 ネットのAERAdotには無いが、『AERA3月7日号』には、紀子さまのご友人が一文を寄稿している。
聡明で温かみのあるお人柄が伝わる文章で、描かれている秋篠宮家もまたそのようです。秋篠宮殿下妃殿下にとって、これ以上の励ましの言葉は無いだろうと思います。