年末年始は空き巣が多発する時期です。
皆様くれぐれも御用心あれ。
ところで、こんな事を言う人間がいる。
うっかり鍵を掛け忘れて外出してしまった。
「でも鍵が掛かっていないと泥棒のほうが逆に『なにかある』と思って入らないんじゃないか?」
んな馬鹿な話はない。「馬鹿な家主だなあ」と笑うだけだ。
どうも、こういう類の話が好きな人たちがいる。困ったものだ。
三方ヶ原合戦という戦いが戦国時代にあった。
徳川家康が生涯で唯一、大敗北を喫した戦いだ。
相手は風林火山の武田信玄。
軍事力だけでなく、年齢や経験からすれば家康が負けても仕方のない戦いだった。相撲に例えれば千代の富士(武田信玄)対貴花田(徳川家康)みたいな物か。貴乃花になる前だ。←かえって解りにくい例えだぞwww
当時、家康は浜松城にいた。そこへ京へ上ろうという武田信玄の大軍勢が横切る。武田は特に浜松城を攻めた訳ではない。無視して通り過ぎるような形だった。しかし当時の家康は織田信長と同盟していた。浜松を通り過ぎれば次は信長の領地の尾張である。何もせずにみすみす通過を許したとあっては信長に面子が立たない。よって矜持を守るために劣勢にも関わらず出陣した。
合戦の場所は三方ヶ原(みかたがはら)という場所。案の定、家康は大敗する。合戦のさなかに恐怖で○ンコをもらしてしまったほどだったと歴史書に書いてある。
家康は命からがら浜松城に逃げ帰る。
本日、いいたいのはここからだ。
家康は浜松城に入ると、城門を開け放つ。篭城するならもちろん城門を閉じる。門を開けたままというのは「襲ってください」というようなものだ。
ところが武田信玄は浜松城を襲わずに通り過ぎる。
信長・家康にとって幸運だったのは信玄がほどなく病死して上洛を果たせなかったことだろう。
ところで家康のこの行動について、
「城門を開け放ったのは何かの策略があると信玄に思わせるため」といい、信玄が襲わなかったのは「策略を用心して」という説が多い。歴史関係の書籍にもそうした記述がよく見られる。「これぞまさしく空城の計」なんて書いてある(笑)。
冒頭の「鍵が掛かっていないと泥棒が逆に用心する」と同じ発想だ。
落ち着いて考えてみろ。
当初、信玄は浜松城を無視して通過しようとしていたのだ。それを家康のほうがちょっかいを出しただけだ。
信玄の目的は上洛だった。もしも家康殲滅が目的の出陣だったら迷わずに襲い掛かっていただろう。
サッカーでも何でもホームが有利、アウェイは不利。攻城戦はその最たるものだろう。守るほうは自分の城だ、何から何まで熟知している。攻めるほうは他人の城、勝手が解らない。
信玄が浜松城を攻めていれば徳川家康は滅ぼせたかもしれないが、自分もかなりの被害を受けるのは確実だった。重ねて言うが信玄の目的は上洛。これから織田領へ入って京都まで行くためには兵力の消耗は避けたいところだ。
家康なんかは後日叩ける、今は兵力の消耗を避けたい――信玄が浜松城を襲わなかった理由はこれに尽きるだろう。いっぽうの家康もそれを見越しているから門を開けてやってやろうというポーズを示した。襲ってこないことを知っていたのだ。
そういう意味では、この一件で信玄と家康は心理戦を繰り広げていた。しかしその心理戦は「なにか策略が隠されているのではないかと用心して……」なんてファンタジーな心理戦ではなく、両者とももっと合理的判断に基づいた心理戦であった。
結論。鍵を掛け忘れて外出しても泥棒は用心なんかしない。無用心な外出にはくれぐれもお気を付けあそばせ。
【追記】
なぜ信玄が浜松城を襲わないと言えるかというと、信玄も家康も、織田信長と今川義元の桶狭間合戦を知っているから。
駿府の大名・今川義元は2万5千の大軍勢を率いて上洛を始めた。彼は途中に立ち塞がる大名たちを次々と滅ぼしながら京都に達するというチョーカッコイイ戦略を立てる。まずは尾張の織田信長だ。
尾張に入ると義元は、軍勢から3~5千単位の別働隊をいくつか組織して、織田の丸目・鷲津といった支城を攻撃させる。このため義元の本隊は1万数千となる。もっとも信長が本城である清洲で集められる兵士は3千程度と義元は知っていたから、1万もいれば十分という計算だったのだろう。実際に信長の率いた兵士は3千程度だった。しかし陣形が崩れる桶狭間という地形を利用することで今川軍に勝利する。
信長贔屓の歴史家の中には、こうした経緯を知りながら「桶狭間で信長は十倍の敵を倒した」と吹聴する人間がいる。しかし実際には3~4倍であった。いかに地形を利用した巧妙な奇襲であっても十倍の兵力では勝てたかどうか疑問である。義元が兵力を別に裂いていたからこそ桶狭間での信長勝利が可能だった。
これと同じように、もしも武田信玄が浜松城攻撃に軍の一部を残して別行動をすれば今川義元と同じような危惧が生じる。桶狭間合戦をよく知る武田信玄がそのような愚行をする筈はないのである。
皆様くれぐれも御用心あれ。
ところで、こんな事を言う人間がいる。
うっかり鍵を掛け忘れて外出してしまった。
「でも鍵が掛かっていないと泥棒のほうが逆に『なにかある』と思って入らないんじゃないか?」
んな馬鹿な話はない。「馬鹿な家主だなあ」と笑うだけだ。
どうも、こういう類の話が好きな人たちがいる。困ったものだ。
三方ヶ原合戦という戦いが戦国時代にあった。
徳川家康が生涯で唯一、大敗北を喫した戦いだ。
相手は風林火山の武田信玄。
軍事力だけでなく、年齢や経験からすれば家康が負けても仕方のない戦いだった。相撲に例えれば千代の富士(武田信玄)対貴花田(徳川家康)みたいな物か。貴乃花になる前だ。←かえって解りにくい例えだぞwww
当時、家康は浜松城にいた。そこへ京へ上ろうという武田信玄の大軍勢が横切る。武田は特に浜松城を攻めた訳ではない。無視して通り過ぎるような形だった。しかし当時の家康は織田信長と同盟していた。浜松を通り過ぎれば次は信長の領地の尾張である。何もせずにみすみす通過を許したとあっては信長に面子が立たない。よって矜持を守るために劣勢にも関わらず出陣した。
合戦の場所は三方ヶ原(みかたがはら)という場所。案の定、家康は大敗する。合戦のさなかに恐怖で○ンコをもらしてしまったほどだったと歴史書に書いてある。
家康は命からがら浜松城に逃げ帰る。
本日、いいたいのはここからだ。
家康は浜松城に入ると、城門を開け放つ。篭城するならもちろん城門を閉じる。門を開けたままというのは「襲ってください」というようなものだ。
ところが武田信玄は浜松城を襲わずに通り過ぎる。
信長・家康にとって幸運だったのは信玄がほどなく病死して上洛を果たせなかったことだろう。
ところで家康のこの行動について、
「城門を開け放ったのは何かの策略があると信玄に思わせるため」といい、信玄が襲わなかったのは「策略を用心して」という説が多い。歴史関係の書籍にもそうした記述がよく見られる。「これぞまさしく空城の計」なんて書いてある(笑)。
冒頭の「鍵が掛かっていないと泥棒が逆に用心する」と同じ発想だ。
落ち着いて考えてみろ。
当初、信玄は浜松城を無視して通過しようとしていたのだ。それを家康のほうがちょっかいを出しただけだ。
信玄の目的は上洛だった。もしも家康殲滅が目的の出陣だったら迷わずに襲い掛かっていただろう。
サッカーでも何でもホームが有利、アウェイは不利。攻城戦はその最たるものだろう。守るほうは自分の城だ、何から何まで熟知している。攻めるほうは他人の城、勝手が解らない。
信玄が浜松城を攻めていれば徳川家康は滅ぼせたかもしれないが、自分もかなりの被害を受けるのは確実だった。重ねて言うが信玄の目的は上洛。これから織田領へ入って京都まで行くためには兵力の消耗は避けたいところだ。
家康なんかは後日叩ける、今は兵力の消耗を避けたい――信玄が浜松城を襲わなかった理由はこれに尽きるだろう。いっぽうの家康もそれを見越しているから門を開けてやってやろうというポーズを示した。襲ってこないことを知っていたのだ。
そういう意味では、この一件で信玄と家康は心理戦を繰り広げていた。しかしその心理戦は「なにか策略が隠されているのではないかと用心して……」なんてファンタジーな心理戦ではなく、両者とももっと合理的判断に基づいた心理戦であった。
結論。鍵を掛け忘れて外出しても泥棒は用心なんかしない。無用心な外出にはくれぐれもお気を付けあそばせ。
【追記】
なぜ信玄が浜松城を襲わないと言えるかというと、信玄も家康も、織田信長と今川義元の桶狭間合戦を知っているから。
駿府の大名・今川義元は2万5千の大軍勢を率いて上洛を始めた。彼は途中に立ち塞がる大名たちを次々と滅ぼしながら京都に達するというチョーカッコイイ戦略を立てる。まずは尾張の織田信長だ。
尾張に入ると義元は、軍勢から3~5千単位の別働隊をいくつか組織して、織田の丸目・鷲津といった支城を攻撃させる。このため義元の本隊は1万数千となる。もっとも信長が本城である清洲で集められる兵士は3千程度と義元は知っていたから、1万もいれば十分という計算だったのだろう。実際に信長の率いた兵士は3千程度だった。しかし陣形が崩れる桶狭間という地形を利用することで今川軍に勝利する。
信長贔屓の歴史家の中には、こうした経緯を知りながら「桶狭間で信長は十倍の敵を倒した」と吹聴する人間がいる。しかし実際には3~4倍であった。いかに地形を利用した巧妙な奇襲であっても十倍の兵力では勝てたかどうか疑問である。義元が兵力を別に裂いていたからこそ桶狭間での信長勝利が可能だった。
これと同じように、もしも武田信玄が浜松城攻撃に軍の一部を残して別行動をすれば今川義元と同じような危惧が生じる。桶狭間合戦をよく知る武田信玄がそのような愚行をする筈はないのである。
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