草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」前10

2020-01-23 07:05:59 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前10

㈡吉田屋のおかみさん⑤

 そのころ店では手代の弥助がだんなに手首をねじり上げられていた。
 おかみさんは売り上げ台帳と仕入れ台帳をつけ合わせ、そろばんをパチパチとはじいて見せた。

「どうも仕入れと売り上げの帳尻が合わないと思っていたら、そういうわけだったんだね」
 おかみさんは吉田屋に嫁に来る前は、名のある袋物屋の女中をしていた。大きな店で、女中といっても大半は行儀見習いのための奉公だった。おかみさんもそんな娘の一人で、小さな乾物屋の娘だった。親の方には名の売れたお店で奉公すれば娘にも箔が付き、良い縁談にもありつけるとの思いがあった。実際年季が開けてお暇をいただくころには、もう嫁入りの口が決まってしまう娘が多かった。

 ところが親の思いとは裏腹に、おかみさんは女中の仕事よりも、帳場での仕事に興味を覚えた。丁稚たちに混じりそろばんを習い始めると、すぐに誰にも引けを取らないくらいに上達して、男衆に混じって帳場の仕事をするまでになっていた。そのころ出入りの米屋だった吉田屋の先代が、おかみさんのそろばんの腕を見込んで、跡取り息子の嫁に迎えたのだった。

 そのおかみさんにして一年も手代の使い込みに気が付かなかったのは鼠のせいだった。この一年どうしたわけか、仕入れと売り上げの勘定が少しずつ合わなくなってきた。そのころから急に鼠が増え始めた。店のあっちっちに糞が散らばるようになって、鼠捕りを仕掛けたり、猫を飼ってみたりした。

 ところが鼠は減るどころか増える一方で、鼠捕りにはかかった例が無く、猫は不思議とすぐにいなくなってしまう。元来病弱な娘のお糸は、そのせいで病気にもなった。そんなこんなで、帳面の合わない分は鼠の食い分だと思っていた。

 タマがあらかた鼠は捕りつくしてしまったのだろう。この頃では糞も見かけなくなったし、夜中に天井裏を走りまわる足音も聞かなくたった。ところが相変わらず売り上げと、仕入れが合わない。それどこか売り上げと仕入れの帳尻がますます合わなくなって行く。

 このところおかみさんとだんなは商売そっちのけで、奉公人たちを見張っていた。そして今しがた手代の弥助が何食わぬ顔をして、売り上げをごまかして懐に入れようとしているのを、取りおさえたのだった。

「それでお前、猫はどうしていたんだい」
 弥助は鼠の仕業に見せるために糞を撒いたり、鼠捕りを壊したりしていた。猫は石と一緒に袋に詰めて、川に放りこんだと言う。

「なんてことをするんだい。タマも捨てようとしたのかい」
「へい、確かに石と一緒に袋につめて、大川に放り込んだのですがね。店に帰ってみるとタマがいるんですよ、しかもおおきな鼠を咥えて、こっちを睨みつけるじゃありませんか。なんかこう化けもんみたいで……。だんなさん、おかみさん悪いことは言いません。タマには魔物が取り付いております。あの図体のでかいの娘も一緒にこの店から追い出して……」
最後まで言い切らないうちに、弥助が吹っ飛んだ。

「丁稚から仕込んでいただいてやっと一人前してもらった恩を忘れて、おまけに言うにこと欠いてタマが魔物付だ。猫だって恩返しが出来るのにお前って奴は情けない。追い出されるのはお前のほうだ」

 主人夫婦と若い手代の話を後ろから黙って聞いていた番頭だったが、ついこらえ切れなくなり、怒りに体を震わせながら弥助に拳を振り上げたのだった。

「申し訳ありません。二度といたしません、どうかご勘弁ください。」
 弥助は地面頭をこすりつけて謝るのだったが、許されるわけはなかった。
「帳場に出ていたって、帳面とそろばんしか目に入らないおかみさん。裏で力仕事ばかりしていて店でお愛想の一つもいえないだんなと、居眠りばかりしている番頭、そろいもそろって間の抜けた連中でしたね。これじゃまったく、使いこんで下さいって言っているようなものですぜ」
 弥助ははだけた着物の襟を直すと毒づいた。

 「クソ、あの猫さえいなけりゃもっと上手く立ち回れたのに 。覚えておきやがれ。いつかと捕まえて、川にほうり込んでやるから」
 お上に訴えられないだけでもありがたく思えと言われ、店から放りだされた弥助は、捨てせりふを残して夕闇が迫る通りに消えていった。

「お前さん、大丈夫だろうかね。弥助の奴、まさか本当にタマをどうにかするつもりじゃないだろうね」 
「なにおかみさん、心配要りませんよ。タマが弥助なんかにどうにかされるはずがありません。それにしても弥助の奴、ずいぶんと手の込んだことをしたものだ。鼠がいなくなった時点でやめておけばよかったものを…」

 何処かの性悪女にでも引っかかったのだろうか。それとも賭け事の味を覚えて賭場に出入りをするようになったのだろう。小僧のころから仕込んだ使用人をこんな形で失ったことに、やり切れなさを感じる三人だった。

「お関、おなつに羊羹を切っておやり。またまたタマの大手柄だ」
 だんなは奥に向かってそう叫ぶと、珍しく帳場に座った。店では番頭が在庫と売り上げを付け合せ、おかみさんは赤ん坊に乳をやると、そのまま抱いてあやし始めた。

―羊羹だって。タマはどんな大鼠を捕ったのだろうね。それにしてもおかみさんが子どもをあやすなんて珍しい。何があったのだろうか。
 お関は首をかしげながらも、水屋の中から羊羹を取り出した。
―さてと、どの位の厚さに切ろうか。
 しばらく首をかしげて試案していた。
― 子守に羊羹なんてもったいない。透けて見えるくらい薄くっていいや。
 お関が羊羹に包丁入れようとしたときだった。物陰から急に黒い塊が飛び出して来て、お関の足もとにまとわりついた。

「ああたまげた、タマじゃないかい」
驚いたお関はずいぶんと羊羹を厚く切ってしまった。

草むしり作「わらじ猫」前11

2020-01-23 07:05:02 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前11

㈡吉田屋のおかみさん⑥

  相生橋の辰三親分が吉田屋を訪れたのは、昼を少し過ぎたころだった。
「邪魔するよ、番頭さんはいるかい」 
 親分は帳場の奥にいる番頭に声をかけた。別に十手をちらつかせて岡引き風を吹かしているわけでもないのだが、来られたほうはやはり穏やかではない。

「これは、これは、親分さん。いつもお世話になっております。おい誰か、親分さんお茶をお出ししておくれ」
 帳場机の上で帳面を付けていた番頭は慌てて土間に降りると、親分を店の中に招きいれた。店の前を十手持ちにうろつかれては商売に差し支えるからだ。

 突然の岡引きの訪問は、誰もが身に覚えが無くても慌ててしまう。まずは自分の身になにも思い当たることの無いのを確認すると、次には主人の顔や使用人たちの顔を思い浮かべてみるのだった。

「手前どもに、何か不都合がございましたでしょうか」
 恐る恐る訊ねてみたのは、すっかり忘れていた心配ごとを思い出したからだった。普段は忘れているのだが、時折なにかの拍子に思い出す。それは指先に出来た小さなささくれのようだった。ちくちくとした小さな痛みが、忘れたころにぶり返す。ぶり返すたびにザワザワと胸騒ぎがして憂鬱な気分になってくる。
思い過ごしであってほしい。番頭はしだいに落ち着きが無くなっていった。

「いやね、今日は猫にお礼を言いに来ただけだよ」
 親分は出された茶を旨そうに飲むと、手に持った包みを差し出した。
「商売もんで悪いけどな、女房に託かっちまってよ。ほんの気持ちだそうだ。うちの飴はすっきりとした上品な味だって評判良いんだよ。まあ原料には拘(こだわ)っているからな。米屋に言うのもあれだけど、上等のもち米使っているからな。その上にみかんや桃の絞り汁を入れて練ってあるんだ。ちょっと他にはない味だって、この頃じゃぁ若けぇ娘にたいそう人気があるんだよ」
 親分は飴の話になると饒舌になる。長々と自慢話をしながら番頭に包みを渡した。

「手前どもの猫と申しますと、タマでございましょうか」
 話が思いもよらず猫のことになったのでほっとしたものの、今度はタマが何かしたのではないかと心配になってきた。
「うん、見たことのねぇ猫がうちに三日通って来たんだよ。そしたらどうだい、あれだけいた鼠がただの一匹もいなくなっちまった」
「ああ、それならタマに違いありません。これ誰かタマを見かけなかったかい」
 番頭はさっきの心配はどこに行ったのやら、今度は自慢気に顔をほころばして店の奥に声を掛けた。

 辰三親分はお上から十手を預かる岡引きで、住まいが相生橋のたもとにあるので、相生橋の辰三親分と呼ばれている。曲がったことが大嫌いで、悪いことには目を瞑ったりは出来ない性質だ。だからちょっと融通の利かないところがあるが、この界隈では誰もが頼りにしている。

 そんな親分も家に帰れば飴屋の亭主になる。お上から十手を預かる、といっても給金が出るわけでもない。実際には雇い主である同心から雀の涙ほどの給金が出ているのだが、そんなものでは到底生活できっこない。だから岡引き仲間にはおかみさんの稼ぎで食っている者が多い。中には店先に顔を出しては、袖の下を要求する者も少なくない。けれど辰三親分はそんなことはしたことが無い。持ち前の正義感もさることながら、おかみさんの飴屋の稼ぎがいいからでもある。

 ところがそのおかみさんの飴屋で、この一月くらい前から鼠の悪さが目立って来た。飴の原料になる水飴は、麦もやしともち米とを煮詰めて作る。麦もやしとは麦の芽のことで、麦を水に浸した後、藁で包んで十日ほどおいて芽を伸ばしたものだ。出来上がったものは乾燥させて保存しておく。

 問題はその麦の芽を鼠に食い荒らされるのだった。出来上がった麦もやしが半分ほども食われて、おかみさんが途方にくれていた。するとどこからか猫が現れて瞬く間に鼠を咥えて出て行ったそうだ。その日から猫は何度も姿を現し、その度に鼠を咥えては出て行く。   

 三日たって気が付いてみると鼠の気配がしなくなり、麦もやしも食われなくなった。猫もそれ以来姿を見せなくなくなった。

 不思議なこともあるものだと、おかみさんは晩酌中の親分や、そのご相伴に与る下引きの三吉に話したそうだ。「毛並みがきれいで丸顔の、やけに人馴れした猫ですかい」と三吉に聞かれ。おかみさんは「そうだ」と答えた。「それなら吉田屋のタマに違ぇありません」と三吉は言った。

 そのとき親分はここ三日ほど胸の中に引っかかっていたものが、スーと降りたような気がした。
「そうかあれは吉田屋の弥助だったのか」

 親分は店の中に誰もいないことを確かめると、番頭としばらく話し込んでいた。

「そう言やぁ女房の奴が、あの猫は子どもを産んだんじゃないかって言っていたけど。そうなのかい」
親分は帰りしなに思い出したようにタマの話を始めた。

「さすが岡引きのご新造さんだけあって、よくお分かりになる。先だって子どもを産んだばかりでございますよ」
「別に岡引の女房じゃ無くっても、見りゃ分かるよ。乳が膨らんでいたんだから。出来たら子どもを一匹貰えないかって、女房が言うんだけどよぅ。もう貰い手がついちまったかい。あの猫の子なら引く手数多(あまた)だろうな」
「はい、おかげさまで二度ほど子どもを産みましたが、どれもすぐに貰われていきました。仔猫たちは皆タマに似て鼠をよく捕るそうでございます。ですから今度の仔猫も順番待ちで、親分さんで五人目になります」
「五人とはまた大した人気じゃねえかい。で、何匹生まれているんだい。仔猫は」
「それがで、ございます。実は何匹生んでいるのか、分からないのでございます」

 ふだんはあんなに人馴れしたタマであったが、子どもを産んだ後はちょっと違っている。産んだ子どもを取られると思うのだろうか。何処かに子どもを隠して、決して人前には連れてこない。

 たぶん最初に子どもを産んだ時に子どもたちが、タマの居ない隙に仔猫を抱いて遊んだのが悪かったのだろう。タマはその日のうちに仔猫たちを何処かに隠してしまった。どこに隠しているのかと、だんながそっと後をつけてみたが、途中で巻かれる始末だった。
 
 それからしばらくタマは仔猫たちを隠したまま、飯だけは食い戻って来ていた。ある日飯を食いに戻ってきたタマにお関が、なにやら嬉しそうに話しかけている。いつもは仏頂面のお関が珍しいと思っておかみさんが覗いてみると、タマが仔猫を連れて戻ってきていた。今度は子どもたちが抱いても別段気に留める様子もなかった。

 次の日やって来た棒手振りの太助の商売道具の桶の中に、タマは仔猫を入れて一声鳴いた。太助は分かったとばかりに仔猫をそのまま桶に入れて、柳家のハチのところに連れていった。

 ハチは仔猫を咥えて今度はおなつの両親の住む長屋の床下で、仔猫を育て始めた。もう乳が離れているので、おなつのおっかさんが汁掛け飯を食わしてやった。

「汁かけ飯しか食わないから、鼠を捕るのが上手ってわけだな」
「はい、タマの子どもも汁掛け飯しか食いませんが、どれも鼠捕りは上手でございます」
「今も子どもを隠している最中だから、何匹子どもを産んでいるのか分からないってことだな」
「さようでございます」
「五番目だな、女房には予約してきたって言っとくよ」
親分は仔猫の予約を取り付けて、吉田屋を後にした。

しかし辰三親分が吉田屋を尋ねたのは、そんなことが理由ではなかった。


草むしり作「わらじ猫」前12

2020-01-23 07:03:36 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前12

㈡吉田屋のおかみさん⑦

「タマをいつか捕まえて川に放り込んでやる」
 そう言い捨てて、弥助は通りの向こうに消えていった。番頭はあの時の弥助の狂ったような目が忘れられなかった。あれから三年が経ったが、弥吉の姿を見かけることは無かった。たぶんあれは思い過ごしだったのだろうと、番頭のほうも安心していた。

 辰三親分が、もの影から吉田屋の様子を伺っていた弥助を見かけたのは、三日ほど前だった。親分の長年培った岡引きの勘がピンと来たのだろうか、それとも見るからに何かをやらかしそうな目つきをしていたからだろうか。どうも気になる奴だとは思ってはみたものの、すぐには誰だか思い出せないでいた。そうこうしているうちにタマの鼠退治だ。

「あれは不思議な猫だね」親分はそう言いながら話を続けた。
 暇を出された奉公先に何の用があるのだろうか。念のため下引きの三吉に弥助のことをちょいと調べさせた。

 一旦奉公先をしくじると次からはけちが付くようだ。何度か奉公に出たものの、長くは続かずに、すぐにお払い箱になってしまう。挙句の果てに今では仕事もせずに、親や兄弟に無心をしては賭場通いらしい。


「今頃になって仕返しかい、タマはそんな間抜けじゃないがね」
 番頭に弥助の話を聞いたおかみさんは、そうは言ったもののなんだか気になってしょうがなかった。
「だんなの耳にも入れておかないとね。今日は早仕舞いにしょう。番頭さんはもうお帰り、ご苦労だったね」
 戸締りの終わった店の中で、番頭が帰り支度を整えていると、戸を叩く音がした。
「はいはい、ただいま」
 番頭が板戸に作り付けられた臆病窓を開けて、恐々(こわごわ)と外を覗いて見ると顔見知りの小唄の師匠がいた。稽古が長引いて、今頃米が切れているのに気がついて買いに来たのだ。

「お弟子さんが多くって、商売繁盛。けっこうじゃございませんか」
 こんな時分に来て申し訳ないと恐縮する師匠に、番頭は窓越しに米を渡し代金を受け取った。
「ああ、ちょっと驚きましたね。あんな話のすぐ後だったので」
 番頭はもう一度戸締りを確かめると、潜り戸から帰っていった。おかみさんは潜り戸にしん張り棒をして、奥に入っていった。

「おかみさん、坊ちゃんたらあんまりですよ」
 おかみさんが炊事場に行くと、お関が泣きついてきた。
「あたしはね、おかみさん。おなつが憎くって叱っている訳じゃないのですよ。それなのに坊ちゃんときたら、あたしに暇を出すなんて言うのですよ。あんまりじゃありませんか」

「おいら大きくなったら、おなつと所帯を持つんだ」と言っていた信二は、この春から手習いに習いに通うようになった。同じ年頃の遊び相手も出来て、昼間はほとんど家に居ることはない。だからと言っておなつのことがどうでもよくなった訳ではない。
 
  今も些細なことでお関がおなつのことを叱っているのを聞きつけて「おいらが大きくなって、吉田屋を継いだら、お関には暇を出す」と言い出したのだ。いつもなら笑って聞き流すお関だったが、今日はどうしたわけか信二の言うことを真に受けてしまった。

「信二、子どものくせに何を言うの」
 おかみさんは、お関とにらみ合っている信二に声をかけた。
 
   おなつは相変わらずの骨太の骨格に、しっかりと肉の付いた体つきであった。しかしこのところ背丈と一緒に手足も伸びて来たのだろう。少し滑稽にさえ見えていた体つきが、多少は娘らしく見えるようになっていた。今着ている縞柄の着物も、もう膝小僧が出そうなくらい短くなってきた。今度の薮入りに着せるお仕着せは、大人の寸法に仕立てなければと、おかみさんは思った。

 おなつはぐずり始めたお里を抱き抱えると、チョンチョンと足で調子をとりながら小声で子守歌を歌っている。歌いながら足の調子に合わせて、お里の背中をポンポンと軽く叩いてあやしている。歌いながら困ったように顔を伏せている。

「信二がそんなこと言うから、おなつが困っているじゃないかい」
  騒ぎを聞きつけたお糸が、見かねて信二に声を掛けた。お糸の方はもう十三になろうというのにいっこうに大きくならない。二年前にこしらえた着物が、上げを少し変えただけで、まだ着られる。それでも、病弱だった頃に比べると驚くほどか顔色が良くなり、なんでも食べるようになって、性格もずいぶんと明るくなった。

 おかみさんは赤ん坊だったお里が大きくなり乳が離れたので、おなつにそろばんを仕込もうとしたことがあった。ところがおなつは本はあれだけ上手に読むのに、そろばんのほうはからっきしだった。

 これはちょいと眼鏡違いだったとおかみさんはがっかりした。それでも女中の仕事には困らないくらいの金勘定は出来るので、それはそれで構わないと思った。ところがそれを横で見ていたお糸が、自分にもそろばんを教えてくと言い出した。 

 おかみさんはおかみさんで、体も丈夫になったとことだし踊りや裁縫、お作法とひと通りのお稽古事をさせようと思っていた矢先のことだった。ためしに番頭が教えてみると、めきめきとその腕を挙げた。
「さすがおかみさんの子どもだけはある」
 この頃では番頭の自慢の種である。
「これは見込みがある」と、おかみさんが帳面の見方を教えるようになった。今も丁稚たちと一緒にそろばんの稽古をしているところだった。

「お関すまないね。子どものいうことだからね、かんべんしてやっておくれ」
 信二にも困ったものだと思いながら、眠りかけたお里を抱きかかえた。ところがおかみさん抱かれたとたん、お里の目がパッチリと開いて、わっと泣き出した。慌ててあやすとますます鳴き声が激しくなり、反り返って泣き出す始末だ。
「やれやれ参ったね、おなつには誰も敵わないね」
 元のようにおなつに抱かれたお里は、嘘のように泣き止んでスヤスヤと眠り始めた。

 お里はおなつの背中で大きくなったようなものだ、この頃ではだいぶ手が離れるようになったが、それでも夜寝るときはおなつが居ないと寝られない。

   手代の弥助の一件以来おかみさんは、帳場のこまごましたそろばん勘定は番頭にまかせるようになった。おかげでその分子どもたちや使用人に目が行くようになった。

「吉田屋さんは丁稚まで小ざっぱりとした身なりをしている。おかみさんの気配りが行き届いているからだろう」と、最近では評判になっている。正直なところおかみさんは、帳場でそろばんをはじいているほうが性に合っているのだが。それでも使用人や子どもの世話は、人任せにはしないでおこうと思っている。ところが肝心の子どもたちが、おなつでないと承知しないのだった。

「さあさあ、今夜はだんなも寄り合いで留守のことだし、早仕舞いとしようじゃないか。お関あんたも、おなつをつれて湯屋に行といで。今夜はゆっくりお湯に浸かるといいよ」
「じゃ申し訳ありませんがそうさせていただきます」
 湯屋と聞いてお関の機嫌が良くなった。いつもは仕舞い湯に慌てて駆け込んでいるので、「今夜はゆっくり湯船に浸かれる」と思ったのだろうか。

「ああ、行といで。それからあんたたちも、今日はこれくらいにしてもうおやすみ」
 おかみさんはお糸と一緒にそろばんの稽古をしている、丁稚たちにも声を掛けた。 お糸はちょっと不満そうな顔をしていたが、丁稚たちは嬉しそうに片付けを始めた。その横で信二はまだ拳をにぎり閉めたまま、お関を睨みつけている。

「信二もいいかげんにして、もうお休み。まったく手習いから帰るとすぐに遊びに行ってしまうから、もう眠くなっちまって。しょうがないね。少しは手習いのおさらいでもすりゃぁいいものを。お関に謝りなさいよ、これ信二」
 信二はそれでもまだそのままの格好で、動こうとはしない。

「おっかさん、信二ったら寝ているよ」
 信二の顔を覗き込んだお糸が、呆れたように言った。
「おやまぁ、生意気なこと言ってもまだ子どもよ。お関、勘弁してやっておくれ」
「いえ、あたしも大人気無いことを申しまして。あらまあ、坊ちゃんたら怒りながら眠っちゃっていますよ」

 お関が信二を抱えて寝床に運ぼうとすると、信二は眠りながらも固くにぎった拳を振り回した。
「しょうがないね、おなつ頼むよ」
おなつはぐっすりと眠ったお里をおかみさんに渡すと、お関に抱かれている信二を受け止めた。とたんに信二はおとなしくなった。

「坊ちゃん本気ですよ、おかみさん」
 信二を抱えて寝床に運ぶおなつの後姿を見ながら、お関は小声でおかみさんに言った。
「冗談じゃないよ。おなつは子どもに好かれるだけだよ」
そうは言ったものの、ちょっと気になるおかみさんだった。

「おい、今日はやけに早仕舞いだな」
お関とおなつが湯屋に行こうとしていると、だんなが帰ってきた。
「おや、お前さんこそ早いじゃありませんか」

「今夜は遅くなる」と言って、米問屋の寄り合いに出かけただんなが、意外に早く帰ってきたので、おかみさんは驚いてたようだ。
「ああ、もう歳だね。急に酔いが回っちゃって」
 かなり酔ったのだろう、だんなは台所の上がり口に腰を下ろした。飲みすぎたのだろう、首から顔の辺りが真っ赤で、吐く息も酒臭い。両手を後ろについて上を向いて、フウフウと息をしている。

「だんなさん」
 おなつの差し出した冷や水を、ゴクゴクと旨そうに飲み干した。
「ああ旨かった、気が利くねぇおなつは」
 だんなはそう言うと、そのまま横になって眠り始めた。
「ちょいとお前さん、駄目じゃないかい、そんなところで寝ちゃ」
 おかみさんはだんなを寝床に連れて行こうとするのだが、六尺の大男を一人では抱えきれずにいた。
「おかみさん、行きますよ」
 おなつは押しつぶされそうになっているおかみさんに声を掛けると、酔いつぶれてしまっただんなの肩に手を回してひょいと抱えあげた。

「おや、おなつかい。腰が決まっているね。それに比べて店の者たち駄目だネ。腕の力だけで米俵を持ち上げよとするから、フラフラしちまうんだ。お前みたいに腰で抱える奴は居やしない。おなつ、お前は明日から米蔵でわたしと一緒に俵運びをしようじゃないか。わたしが一人前の人足に育ててやる。嬉しいねぇやっとわたしの跡継ぎが見つかったよ…」

「お前さん、しっかりしてくださいよ。何が後継ぎですか。ほらほら、もうしかたないね」
 三人がかりで、やっと寝床に運んだころには、もう仕舞い湯の時刻になっていた。
「すまないね、早仕舞いのはずだったのに」
おかみさんは、慌てて湯屋に向う二人の背中越しに声を掛けた。

「おやタマじゃないかい。おなつは今しがた風呂に行ったところだよ。そうかいお待ち、おまんまが欲しいのかい」
 ふと気がつくとタマがいた。このところ生まれた仔猫に付ききりで、めったに姿を見せなかったのだが。もう仔猫たちを連れて戻ってくる日も近いのだろう。おかみさんは残りものの冷や飯に味噌汁を掛けて、タマに出してやった。

―おなつも気が利くようになったね。
 そう思ったのは、タマに餌をやろうと水屋の中を探したときだった。底まで綺麗に洗われた釜や鍋はすでに伏せられて、その横のザルの中には研ぎ終わった米が入っており、上には濡れふきんが掛けられていた。

 おなつのことだからタマの飯の分くらいは取ってあるはずと、水屋を開けてみると、きっちりタマの分の飯と汁が入っていた。

 お関も今ではおなつを頼りにするようになっていた。奉公に来た当初は何も出来ずに突っ立ってばかりいて、いつもお関に叱られていたのに。この頃では気働きが出来るようになっていた。これもお関が厳しく仕込んだおかげだろう。今はまだお関が怖くて仕方ないようだが、いつかお関に感謝するときが来るだろう。  

 タマは仔猫のところに行ったのだろう。おかみさんに向かって一声静かに鳴くと、すぐに姿が見えなくなってしまった。空っぽになったタマの餌皿を見ながら、おかみさんは番頭から託った飴をおなつに渡しそこなったことを思い出した。

─さてどうしたものか。
 明日になったら渡してやろう思いながら、考えこむおかみさんであった。

草むしり作「わらじ猫」前13

2020-01-23 07:03:03 | 草むしり作「わらじ猫」
 草むしり作「わらじ猫」前13 

㈡吉田屋のおかみさん⑧

 昨日の大雨が嘘のように晴れ渡った朝だった。青く澄みきった空にいわし雲がたなびいてる。

「じゃあお前さん、すまないけれど行ってまいりますよ」
「ああ行っておいで、大奥様によろしく言っておくれ」
 声をかけたおかみさんに、番頭と二人で帳面を見ながら話し込んでいただんなは、顔を上げてにっこりと笑った。
   
 待ちきれないようすで、子どもたちはすでに表に出ている。お糸は仕立ておろしの晴れ着を着ている。桃色の地に赤い小花の模様の振袖は、色白で小柄なお糸によく似合っていた。少し済まして立っている姿は、どこの娘さんかと見間違えるくらいに大人びて見えた。

   信二はそんな所に行くよりも、仲間と遊んでいたいようだ。新しい着物を汚さないようにとお関に言われたものだから、機嫌が悪くなった。その上懐に忍ばせていた独楽を取り上げられてしまった。先方で何か粗相でもしでかしたら大変と、おかみさんが取り上げたのだった。ただでさえ行きたくないのに、おとなしくしろだの、着物を汚すなどと言われるものだから、ますます機嫌が悪くなった。

「だいたい今年は、どうしておいらたちまで行かなきゃならないんだい。去年はいくら連れて行ってくれって頼んでも、連れて行ってくれなかったくせに」
 信二は炊事場の板張りの上にあお向けに寝転んだきり、起き上がろうとしない。

「大久保屋の大奥様が、『坊ちゃんや、お里お嬢さんの顔も見たいから連れておいで』っておっしゃったそうですよ」
 お関は蒸しあがった赤飯を重箱に詰めていた。胡麻塩を軽く振って庭の南天の葉をあしらうと、重箱の赤飯が一段と色鮮やかになった。

「坊ちゃん、ほらお口開けて」
 意固地になって天井を睨みつけている信二の口に、お関は一握りの赤飯を入れてやった。
「それに今年はね………」
 信二の機嫌が直ったのは、赤飯を食べたからだろうか。それともお関が何か言ったせいなのだろうか。

「もうひと口」信二はお関に赤飯をねだると、イソイソと表に出ていった。
 信二はこの頃では素直に「はい」といった例(ためし)がなく、おかみさんはおろか、だんなまでもが手を焼いている。あの大男のだんなが拳を振り上げて怒っても、一旦曲げたへそはなかなか元には戻らない。

「おかみさん行ってらっしゃいませ。おなつしっかりお供をするのだよ」
 お関はお里の手を握り着物の裾を気にしているおなつに声をかけた。この日のためにおかみさんが急ごしらえで用意した格子柄の着物は、おなつによく似合っていた。

   タマは相変わらず子どもを何処かに隠したきりで、ふらりと戻ってきては汁掛け飯をもらっては,また何処かに行ってしまう。弥助のことは取り越し苦労だったのだろうか。しかしもう一つの心配事のほうが、おかみさんは気に掛かっていた。
 
   日本橋の大久保屋はおかみさんが十五の歳から、嫁に行った十九の春まで奉公していた。小さな袋物屋だった大久保屋が日本橋に店を構えるようなったのは、今の大奥様の代になってからだった。
  
  それまでは とおり一辺倒の端切れで作った袋を、ただ店先に並べているだけの商いだった。それを大奥様の代になってから、袋に使用する布を大久保屋独自の織り方に統一して、染めにも工夫を凝らした。

 当初同じ柄ばかりの袋ものなんて、すぐに飽きられると思われていた。しかし上品で飽きの来ない柄と、使い込むほどに手になじんでくる布の感触が、若い娘や年配の女たちの間で広まった。それが洒落者の男たちにまで愛用されるようになるまでには、たいして時間がかからなかった。今では袋とそろいの小物や帯などにも、手を広げている。

 看板商品の袋物は春と秋には新しい型の物を出し、江戸の町の風物詩と謳われるほどになっていた。大久保屋の商品を何気なく使いこなすのが、江戸の女や伊達男たちの信条になっていた。
 
 おかみさんが大久保屋に奉公に上がった頃には、大奥様は商売のことは娘夫婦に任せて、大旦那様と一緒に隠居していた。しかし、隠居といってのんびりと余生を送るような生活ではなかった。大奥様は店の仕事で手一杯の娘夫婦に代わって、店の奥のことを取りしきっていた。

 大久保屋の大奥様に仕込んでいたただければ、いい縁談の口が来る。と、年ごろの娘を持つ親たちは、こぞって大久保屋に娘を奉公させたがった。おかみさんの親もその中の一人で、親戚のつてを頼ってやっと奉公に上がれたくらいだった。
 
 ただそんな娘たちの中でおかみさんだけはちょっと違っていた。「お店の小僧さんと一緒に、そろばんを仕込んでもらいたい」とおかみさんが大奥様に頼みこんだのは奉公してすぐのことだった。大奥様がそんなおかみさんの頼みを聞き入れたのは、自分自身もまた男に引けを取らない商売をしてきたからだろうか。今のおかみさんがあるのも、大奥様のおかげだった。

 毎年秋の彼岸のさめから五日後におかみさんは、大久保屋に子どもたちを連れてご挨拶に伺う。その日は大奥様の誕生日のちょうどひと月前にあたる。人を引きつける物を作る人は、自身も人を引き付けるのだろうか。一月後の誕生日には大店のご主人や、駆け出しの役者。学問所の学者先生や辰巳芸者の音吉姐さんまで、大奥様を慕って次々に客が訪れる。大久保屋ではその日は一日中、来客で大賑わいになる。
 
 「ゆっくり話もしたいし、子どもの顔も見たいから」と大奥様が毎年ひと月前のその日を、おかみさんのために空けておいてくれるのだった。毎年その日には手土産に新米を持って伺う。実家はすでに兄夫婦の代になって足が遠のいた分、大奥様の所に行くのがなによりの楽しみになっている。

「米は丁稚に運ばせておいたから、気をつけて行っておいで。帰りは籠で帰っておいで」
 見送りに出ただんなは、おかみさんに声を掛けた。
「鯛は太助さんに頼んでありますから。あちらに様にお届けする手はずになっております」
お関は風呂敷に包んだお赤飯の入った重箱をおかみさんに渡した。
「じゃあ、いってまいります」
 おかみさんは風呂敷包みを抱えると、お糸と並んで歩き始めた。その後をおなつがお里の手を引いて、信二と並んで歩き始めたときだった。店の中からタマが飛び出してきた。

「おや、タマもついて行くのかい。だったら安心だ。タマ、子供たちをたのんだよ」
―しかし、不思議な猫だ。
 こどもたちの後を追い立てるようについてくるタマを見ながら、おかみさんそう思っ
た。

   子ども連れで一刻は掛かってしまう道のりだが、意外に早くついたのはタマのおかげだった。タマは隠したままの子どもが気になるのだろう、やたらと歩くのをせかせる。   
  
 いつもなら表通りの賑わい気を取られて、なかなか歩みの進まない子どもたちだったが、今日は違っていた。ちょっとでも立ち止まろうものなら、タマが足に噛みついてくるのだ。お里などはちゃんと歩いているのにタマに噛みつかれてしまい、早々におなつに負ぶわれてしまった。

「痛いじゃないかタマ、そんなに強く噛んだら血が出るだろう」
 最初に団子屋の前で噛みつかれ、次に飴屋、その次はうなぎ屋の前と、立ち止まる度に噛みつかれたのは信二だった。タマのほうも最初は遠慮がちに軽く噛んでいたのだが、立ち止まるたびに噛みつき方が強くなってくる。

   タマが本気で信二に噛みついたのは、相撲絵がずらりと並んだ浮世絵屋の前だった。おかみさんにいくら急かされても、頑として前に進もうとしなかったので、タマが怒ってしまったのだ。

「信二、タマは隠している子どもが気になるから早く帰りたいのだよ」
「だったら子どもの所に居たらいいのに、なんでついてきたの」
「きっとおなつのことが心配なのよ」
「おっかさん、おなつのことがどうして心配なの」
 二人の会話を聞いていたお糸が口を挟んできた。
「それはお前、初めて大久保屋さんに行くからだよ…」
「どうして、大久保さんに行くのがそんなに心配なの」
「それはいろいろあるだろうよ。タマに聞いてみないとね…」
「あっ、今度はおなつが噛みつかれている」
 
 おなつは芝居小屋のたて看板に見とれていたら、タマに噛みつかれてしまったようだ。照れ笑いをしながら、おかみさんたちの後を追いかけてきた。
「ほらごらん、おなつが道草食うから、タマが心配してついて来たのよ」
 タマに追い立てながら歩く街並みを、秋の涼しい風が吹き抜けて行った。 





草むしり作「わらじ猫」前14

2020-01-23 07:01:59 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前14

㈡吉田屋のおかみさん⑧

「おや随分と早かったね。何だいハアハア言って、走ってきたのかい」
 大久保屋の勝手口に入ってすぐの横には、柿の木が植わっていた。随分と大きな柿の木で実をたわわに実らせている。柿の木の根元の部分の植え込みの中を、ごそごそと手でかき回わしていた大奥様は、手を止めておかみさんに声を掛けた。

「はい、猫に追い立てられまして大急ぎでやってまいりました」
「猫がどうかしたってかね」
大奥様は植え込みの中をまたかき混ぜはじめた。

「大奥様、茗荷はまだございますか」
「ああもう終わりだね、寂しいことだよ。お前さんとこから立派な鯛が届いただろう。今持ってきた魚屋さんにさばいてもらっているところだよ。半身は塩焼きに、もう片方は潮汁にしてもらおうと思ってね。しょうがない、吸い口はゆずの皮にでもしてもらおうかね」

 それでもまだ茗荷の植え込みの中を、大奥様はかき回していた。その横で女中が一人、大奥様と一緒に植え込みを覗きこんでいる。
「あぶない、大奥様」

 おかみさんが井戸端で魚をさばいている魚屋の太助に、声を掛けようとしたときだった。背後から耳を劈(つんざ)くような声がした。慌てて振り向くと、大奥様を女中が庇うように覆いかぶさっている。後ろからタマが飛び出して来た。そこはさっきまで大奥様がかき混ぜていた植え込みだった。総毛立ったタマは、口に何か長いものを咥えている。

「きゃー、蛇じゃないかい。タマ」
 思わずおかみさんも大声で叫んでしまった。すでに蛇の頭はタマに食いちぎられていた。

「おおっと、こいつはマムシですよ。おかみさん」
 騒ぎを聞きつけて飛んできた太助が、タマが食いちぎった蛇の頭を見て言った。
「マムシだって。大奥様、大丈夫でございますか」
 慌てておかみさんは大奥様のところに走り寄った。
「ああ、わたしならなんともないよ。それよりお仲、お前喋れるのかい」
 大奥様はそっちの方がもっと驚いたようだ。

「………………」
 言われて気が付いたのだろ、女中も何か喋ろうとしたが、言葉が出てこなかった。
「そんなにあせることはありませんよ、お仲ちゃん。それよりもお医者様をお呼びしたほうがよろしいのではませんか。大奥様」
「驚いて尻餅ついただけだから、医者なんか呼ばなくていいよ。それより誰かちょっと手を貸しとくれ」
「おなつ」
 おかみさんはおなつに目配せをした。おなつは背負っていたお里をおかみさんに渡すと、奥様を助け起こし、そのまま背負って歩きだした。

「おやまあ、力のつよい子だね」
「これはおなつと申しまして、九つの時より吉田屋に子守奉公に来ております。さっきの猫も、元々はおなつが拾って育てた猫でございます」
「あれが吉田屋のタマかい」
 大奥様はおなつに背負われたまま振り返って猫を探したが、もうどこにもタマは見当たらなかった。

「タマならとっくに帰っていきましたよ。子どもが気になるのでしょうね」
 マムシの死骸をおっかなびっくりで見ていた太助が答えた。
「おや魚屋さん。ついでにあんたそのマムシ皮をはいで、軒下にでも吊るしておくれ。岡田屋の大だんながだいぶ弱っているって話だから、あぶって食べさせたら少しは元気になるんじゃぁないかね」
 「勘弁してくださいまし大奥様、あっしは海の物ならウツボだろが何だろうが平気なのですがね。陸(おか)の物、特に蛇だけは苦手なのでございますよ」
「蛇だと思うから怖いのさ、鰻だと思ってごらん平気だろう」
 
 および腰の太助に大奥様はマムシの始末を押し付けると、おなつに背負われたまま家の中に入っていった。それに続いておかみさんや子どもたちもいなくなった。騒ぎを聞つけて飛んできたお店のものたちも、マムシの始末を押し付けられては大変と、さっさと引っ込んでしまった。

 一人になった太助は棒の先でマムシを突きながら、どうしたものかと考えあぐねていた。

「なんだい兄さん、江戸子だろう。だらしないねぇ」
 声を掛けてきたのは女中にしてはちょっと婀娜(あだ)っぽい感じがする女だった。
「貸してごらん」
 女はマムシの首を押さえると、指でくるりと皮を剥いた。太助の包丁で腹を割くと、竹の棒の先を二つ割り、赤裸のマムシを挟んで太助に渡した。
「済まないね、姐さん。ここの女中さんかい」
「ああ、先月口入れやの口利きでね。入ったばっかりだけどね」
 後ずさりしながら棒切れに挟まったマムシを受け取る太助に、女は答えた。
「いやだねぇ、山育ちだってことがばれちまったじゃないかい」
 女が急に科(しな)を作って立ち去ったのは、お仲が二人の様子を見ていたからだろうか。
「お仲ちゃん、このことは内緒だよ。深川の生まれだってことになっているけどね、あたしゃ本当は秩父の出なのよ」
 女はお仲に手を合わせると、炊事場に消えていった。

「別に秩父だって構わねぇのに、まったく女って言うのは、変なところで見栄はりたがるものだ。それにしても人の大事な商売道具でマムシなんか裂きやがって、おお駄目だ、気持ち悪くってしょうがね。女中さんお仲さんかい。すまないけど、ここで包丁を研がしてもらうよ。ついでにあんたの所の包丁も研いであげるから、持っておいで」
 太助は井戸端で包丁を研ぎ始めた

―柿の木の下の茗荷の植え込みの下には、マムシが潜んでいるって聞いたことがあるけど、ここは天下の日本橋だよ。日本橋にマムシが出るなんて、聞いたことないよな。
 包丁を研いでいる太助のところに、お仲が数本の包丁とお茶を持ってやってきた。

「こいつは済まないね、お茶まで入れてもらって。それにしても、今までマムシなんか出たことあるのかい」
 お仲はちょっと考えこんで首を横に振った。その顔がなんだか今にも泣き出しそうで、太助はマムシのことよりもお仲のことのほうが気になってしまった。