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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「美篶見聞記」-『伊那路』を読み返して54

2022-11-21 23:47:34 | 地域から学ぶ

「伊那商事索道」-『伊那路』を読み返して53より

 

 『伊那路』昭和39年12月号に赤羽篤氏が「美篶見聞記」を寄稿している。上伊那郷土研究会が実施した伊那市美篶地区の実地見学について触れたもので、美篶地区の特徴ある事象が報告されている。会員十数名とともに、伊那東部中学の生徒も加わったといい、20名ほどでの見学会だったという。このように十代の子どもたちも加わるというあたりに、かつての会の門戸の広さを感じる。今でこそこうした研究会は高齢化し、若い人たちが興味を示さない傾向があるなか、こうした限定的ではない活動が広く企画されることを望むところである。

 さて、美篶といえば、古田といわれる水田地帯が三峰川の流れる下段にあるが、かつては水害に見舞われたところで、その過去の歴史を望むには、段丘をひとつ上った中段から見下ろすのが最も理解しやすい。ということで赤羽氏の報告の冒頭も、「段丘のふち沿いに耕地整理記念碑に近い丘の上に立って、下の段、三峰川の氾濫原を見下ろし、三峰川の作った地形について」話を聞いたことを記している。三峰川には美和ダムが造られ、かつての水害常習地という雰囲気はなくなった。しかし、かつての水害の歴史を語る人は今もって多く、加えて伝承地も多い。いわゆる天伯社が点在するのも水害にかかわるもので、8月7日に今も行われている「さんよりこより」の行事は、まさに水神様の祭りである。そうした天伯社も高台から見れば一望できるわけである。とはいえ、昭和39年ころにはそうした中段から下段を広く望める場所があったのだろが。現在は段丘崖に雑木が生えてきて、よく望める場所はなかなか見つからない。

 高台で下段を望んだ後、一行は南割へ向かった。南割は国道に沿って7間割の町割が見られる集落。赤羽氏も笠原の北割に対する南割について「笠原と高遠とが何か関係深かった往時の名残りであると伝えられている由」と触れている。南割の集落は段丘をひとつ上がった中段にあるが、その北側にある段丘は2段目の段丘である。そこには天神山という小高い山があり、現在はこの段丘崖の奥を「二番井」という農業用用水路が隧道で流れている。天神様が祀られていることから天神山と称されるのだろうが、鎌倉初期には居城があったという。このあたりは角礫安山岩の山で噴火による噴出物だという。

 天神山の北側が笠原の馬場という集落で、以前ここの道祖神について触れたが、この中に寛文12年の庚申塔があることもその際に触れた。寛文12年といえば1672年と元禄以前の時代。このあたりではかなり古い庚申塔であり、この銘文を読み取るのに苦労して時間を要したことを報告で赤羽氏は触れている。

 笠原については前述したように高遠との関係が深いようで、吉祥寺や蟻塚城を経たのちに、高頭城主の命で開削された六道井筋や六道の堤を見学し、その際に創設された末広集落について触れている。末広は30間×300間の地割で区画されて住居と水田が展開しているよそにはない光景の地である。そのさらに西側に六道原を経て六道の杜が望める。解説をされたという向山先生は「お盆にあの世から帰る仏たちが六道地蔵までやってきて家へ帰れなくている。それで特に新盆の家ではここまで仏様を迎えにくる」のだという。ようは六道の原っぱは仏さまが彷徨っているということになるだろうか。美篶というところはよそにはない、いろいろな意味で独特な景観を保っている地域である、と赤羽氏の報告からあらためてうかがい知ることができる。

 

「枝義理」-『伊那路』を読み返して55


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