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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「伊那商事索道」-『伊那路』を読み返して53

2022-11-08 23:57:17 | 地域から学ぶ

「ほったる・やまぶし」-『伊那路』を読み返して52より

 「伊那谷の運輸機関が荷車よりトラックに代わろうとする頃、索道という一つの運輸方法が行われたことは中年以上の方々が知って居られるところである」とは、昭和39年『伊那路』10月号に掲載された大澤和夫氏の「伊那商事索道」の冒頭の文である。「中年」といえば〝「40歳前後」(広辞苑第7版など)、「40歳前後から50代後半」(大辞林第4版など)、「40代から50代にかけて」(日本国語大辞典精選版など)、「50代から60代前期」(新明解国語辞典第8版)などと説明は様々〟とWikipediaにはあり、明確ではないが、「65歳以上の者を「高年齢者」という」あたりから「40歳から64歳の25年間」をいうなどというものもヤフーの検索上に見られる。もちろんこれらは現在の捉え方であって、この文が書かれた昭和39年には、捉え方が違っていただろう。せいぜい40代あたりと捉えれば、昭和39年から58年も経た現在なら、当時の中年は100歳超えというところだろうか。もちろん100歳を超えても、今では元気な方がおられるだろうから、けしてここでいうかつての「索道」がもう記憶にないもの、とは断言できないが、こういう輸送手段があったということを語らう人は、もはやいないのだろう。

 少し前まではこの索道を利用した工事を時おり目にすることがあったが、そうした工事現場で索道を目にすることもほとんどなくなってきた。索道を張れる業者も少なくなったのだろうし、その手段をとらなくなったこともあるのだろう。よほど山の中に行かない限り目にすることはなく、珍しい光景になりつつある。とはいえここでいう索道は、そのような工事の索道の比ではない。長距離索道である。大澤氏は「私も下伊那では」と竜東索道(喬木村小川―上村程野)、久原索道(松川町上片桐―松川町部奈)、飯田索道(飯田市上飯田―西筑摩郡三留野)「のあったことを記憶している」と記している。山を越えて物資を運ぶ手段として存在していたもので、直線的に結ばれるから道の整備されていなかった時代には有効手段であったことに間違いない。とりわけ飯田索道は中央線の三留野駅から飯田町まで結んだもので、車の登場する以前には早い運送手段であったわけである。とりわれ久原索道もそうだが、山の中から駅へ連絡する手段として設けられた。同じようなものは上伊那にもあったようで、大鹿村や旧長谷村の林産物を運ぶために設けられた索道が伊那商事索道というものだったという。そこでは人を輸送することも計られたというが、その実際は「御教示を得たい」と大澤氏は記す。

 この大澤氏の触れた伊那商事索道をもう少し詳しく触れたものが、同じ10月号に掲載された木下義男氏の「中沢にあった索道」という報告である。図が示されており、赤穂駅(現駒ヶ根)から中沢を経て大鹿村の北川付近を通過して旧長谷村の奥浦まで通じていたという。しかし大澤氏の求めた人の輸送に関する事実は記されておらず、実現には至らなかったのだろうか。大正12年に設立された(後掲小林氏の報告には大正13年登記、同14年9月運行開始とある)伊那商事索道が、正確にいつまで運行されたかについては、両者の文には記されていない。木下氏が冒頭「遂に解散の止むなきに至った」と記していることから、戦後まであったのか、と思わせるが後に同じ『伊那路』平成28年4月号から5月号にかけて小林哲氏によって伊那索道のことが記されており、そこでは昭和10年に廃止とあるが、実際には昭和17~18年ころまで動いていたという証言が残されている。

 

「美篶見聞記」-『伊那路』を読み返して54


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