Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

気にも留めなかった指先の違和感から解ったこと

2022-11-20 23:43:37 | つぶやき

 ふと気がつくと指先に違和感が。「なぜ痛いんだろう」そう思うものの、あらためて指先を注視して、その場所を確認することはなかった。ようはちょっとした違和感であって、気に留めるほどのものではなかった、と言えるだろうか。「そんな暇はない」と思うほどでもなかったが、ちょっとした違和感に過ぎなかった。

 風呂に入り、「ぼーっ」としていると、指先の違和感を思い出した。なぜなら傷口にしみた湯が、意識を回復させたといったところだろうか。あらためてその指先を眺めた。それまで意識もしていなかったが、①人差し指であること、②そこに切り傷のようにぱっくり割れた姿が約1センチほどあること、がわかった。「あれっ、けっこう傷がついている」、とその時初めて気がつく。出血するほどではなかったのだろうが、ちょっとした切り傷を知らぬ間につけていたのである。よくある紙で切ったような傷跡。そしてそれをいつつけたのか、まったく覚えがないのである。

 このところ考え事をしながら、別の考え事に陥ることもよくある。複数の想いに馳せるわけで、そんなときは「ぼーっ」としているときに似ている。何があろうと、そのどちらかをすっかり忘れてしまったりする。以前にも記したが、いろいろ考えていて「日記に記そう」と強い意志を持ったにもかかわらず、いざ書こうとすると「何だったっけ」と忘れてしまう。とりわけ複数のキーワードを頭の隅に書き記すと、すっかり忘れてしまうことも度々。したがって思ったときに「メモする」が必要なのだが、メモの苦手なわたしには、それすら実行できないことが度々。

 だからだろう、先日記した〝月曜の朝〟だ。腕時計のありかがすっかり記憶から飛んで、危うく「燃えるゴミ」袋で出してしまうところだった。「いつかみつかるだろう」などと妻と話していたが、ふと気がついて「まさか」の行動をとったらゴミ袋から「見つかった」というわけだ。その際、頭の中に「ゴミ袋がいっぱいになっていて、間もなく出さなくては」という意識もあって、おそらくこのゴミ袋を目にするのも「最後だろう」と思っての「まさか」への行動だった。いろいろ伏線があっての「発見」だったのだ。まだ運に見放されていない自分に安堵するとともに、指先の違和感を見つめながら、「もう多重発想をする年齢ではないんだ」と諭されたわけである。が、しかし、相変わらずそうでもなければ、宿題は「減っていかない」ことも事実。大失敗をしなければよいが…。


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