Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

馬籠宿を訪れて思うこと

2007-04-20 17:23:45 | 歴史から学ぶ


 「木曽の谷から見る駒ケ岳」で触れたように先週末に木曽谷を北から南へ縦走した。目的地は馬籠宿である。現在の南木曽町にある妻籠と、旧山口村にある馬籠はどちらも中山道の宿場町で、両者の間には峠がある。長野県側からこの両者を訪れるには、当然この峠道を通って連絡するが、今回は馬籠を目指していたこともあって、国道19号を南下し、旧山口村の役場がある側から馬籠へ入った。あまり今まで意識したことはなかったし、長野県民でもこの山口村を通る人は少ないだろうから、位置的なイメージはほとんどの長野県民はわかっていないだろう。あらためて馬籠へ向うことを意識したことから、その立地がわかったしだいで、県下くまなく走っているわたしにも認識不足の地であった。国道19号を南下すると、役場のある集落に至るよりも早く、旧坂下町の街並みが、木曽川の対岸に見えてくる。対岸に見えている地域は、もともと長野県ではなく、岐阜県だったわけで、山口村そのものが、どちらかというと南へ向いて展開しているムラである印象を持った。役場のある集落から尾根を越えて馬籠に入ったわけだが、この地に足を踏み入れたのは初めてであった。恵那山がそびえ、その麓に展開する中津川の集落が日差しに映えている。まさに「ここは木曽谷といえるのだろうか」と錯覚を覚える。

 さて、妻籠へ向って峠に向う傾斜した地に、約600m余りの「坂に開けた宿場」が整備されている。着いたのが、すでに午後5時過ぎということで、整備された石畳の道を歩く人も少なかった。土産屋はもちろん食べ物屋さんも閉じている店が多く、そんな店を少しのぞこうと思っていた妻には残念だったようだ。そこへゆくと、宿場を見ようと思って選択した息子やわたしにとっては、人通りがなくてなかなかの風情であった。写真でもおわかりのように、約600メートルの坂を登り、峠への車道から引き返してくるころには、すでに人影はなかった。まったく人影のない馬籠宿を撮るのも、なかなかできるものではないと思い撮影した。

 かなり整備された宿場であるが、石畳もまわりに建つ家々も古いものではなく、ごく新しいものである。そこに中仙道があったということは確かなようであるが、古き時代の姿はどこにもない。にもかかわらず統一した整備をする、そして知名度があるという事実は、大観光地と成り得ることを知る。明治25年(1882)に木曽川沿いに国道が開設され、さらに明治45年(1912)に国鉄中央線が全線開通したことにより、それまでの中仙道沿いは全く人通りが絶えてしまったという。とくに馬籠や妻籠のようにそれらの路線から奥まったところにある地域は、かなり寂れてしまったのだろう。戦後脚光を浴び始めると、地域外よりの資本が入って乱開発が進み、昭和45年ころから俗化が進んだようだ。その後保存行動が活発化して現在のような整備が行なわれてきたわけだ。明治28年(1895)と大正4年(1915)に大火があって、古い町並はすべてを消失したというから、古き時代はそこにはない。わたしに言わせると、古き時代を現代の観光趣向に合わせて見事に復興させた家並みという印象だ。実はまったくの現代の整備地域とは知らなかった。かつてこの坂道が石畳だったのかどうなのか、資料館などを散策してみればわかるのだろうが、多くの観光客はそんな風には捉えないだろう。

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