Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

六道堤の桜

2007-04-19 08:22:11 | 歴史から学ぶ




 仕事で伊那市六道の堤を訪れた。散り始めた桜ではあるが堤のまわりにある何本もの桜の木は、まだまだ賑やかな様相である。昼時を迎えて、堤の土手で弁当を広げたわけだが、その間もけっこう見物の人がやってくる。見れば地元のナンバーではなく、長野や県外のナンバーが多い。「奈良」なんていうナンバーを見て、「なんでここの桜を知っているのだろう」と不思議に思うくらいだ。すぐそこが高遠だというのに、県外の車がやってくるのだから驚きである。このあたりではそこそこ大きなため池で、その周囲をぐるっと桜の木が取り巻いているから、遠くからも目立つことは確かだ。加えて、高遠の桜並みに花はピンクがかっている。今年の高遠の桜を知っているものが見ると、高遠の桜より赤いのではないか、と思うほどだ。

 わたしも冒頭の写真で捉えているが、池の端の桜の場合は、桜の木が水面に逆さに映るからそんな写真を狙っている人も多い。昼時にやってきた人たちのほとんどは、本格的なアマチュアカメラマンていう感じだ。そんな人たちだからどんな環境の桜なのかは、十分承知で来ているのだろう。この日は風が強かったから水面に波ができてしまって、なかなか水面に写る桜はうまく撮れなかった。また、もう1枚の写真は、堤の土手から水田地帯を望んだものだ。このため池のある場所は、六道原と呼ばれていて、かつては原野であった場所である。水の便が悪かったため、水田にはなかなかなりえなかった地といえる。そのため、下段の水田地帯を耕作する人たちにとっては「草刈場」として利用されたのだ。このため池ができるとともに、水田が増加していったという。

 ため池へ導水している六道井は、旧高遠町の野笹で藤沢川の水を揚げていた。この六道井の造営が始まったのは、江戸時代の嘉永元年(1846)という。高遠藩の直営事業として行なわれた。六道原のことを古くは安陀師野(あだしの)と呼んだと言う。同じような呼び名では、京都のあだし野がよく知られているが、六道とあだし野ということで、京都のあだし野と同じように、火葬場があったのだろうか。前に「六道地蔵尊」で触れたように、この六道堤から西へ行ったところに六道の地蔵堂がある。新盆に霊迎え(精霊迎え)の人たちが集うことで知られる。

コメント    この記事についてブログを書く
« 自生ハナノキの個体数 | トップ | 馬籠宿を訪れて思うこと »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史から学ぶ」カテゴリの最新記事