Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

“今ではお目にかかれないモノ”5

2015-06-09 23:19:21 | つぶやき

“今ではお目にかかれないモノ”4より

 地元、「いいだ」の冊子型パンフレット(A5版)である。ちなみに現在のパンフレットを見てみよう。キーワードは「花」「祭り」「自然」「文化」「産業」「名産」とくる。何より、ここに紹介するパンフレットは現在の飯田市エリアと異なる。昭和59年に編入合併された鼎町、平成5年に編入合併された上郷町、そして平成の大合併で編入された上村と南信濃村は圏外である。とくに鼎町や上郷町は入り組んでいたため、飯田市圏を解りにくくしていたことは事実だ。飯田大火で旧市街地の大半を消失したのは昭和22年のこと。小京都飯田と言われていただけに、消失による飯田の看板は失われたといっても良い。しかし、復興した丘の上のマチはその後も「小京都」と言われ続けた。いつごろからかそう称されることも少なくなり、現在のパンフレットにはその単語は登場していないようだ。もちろんここに紹介したパンフレットは、まだ鼎町が合併する以前のもの(発行年は記されていない)。したがって「小京都」という単語が冒頭から登場する。いっぽうどうだろう、現在のパンフレットの冒頭は「南信州飯田」から始まる。この「南信州」という称号は、わたしが盛んにパンフレットを収集した昭和50年代にはまだ一般的なものではなかった。そもそも地域名称としては、「飯伊」(はんい)というものがよく使われていた。現在でも使われているものではあるが、近年は行政も「南信州」を多用する(わたしは好まないが)。

 さて、以前「描かれた図から見えるもの⑥」において飯田の街の構図について記した。このパンフレットの21ページに示された図は、やはり飯田駅を上に配置してマチをそこから下に展開している構図である。現在のパンフレットで同じタイプのものが17ページに示されているが、かつて当たり前のように使われていた構図とは違って、北を上にしたもの。簡単に言うと駅中心ではないということになるのだろうか。

 28ページに「交通のご案内」というものがある。まだ国鉄時代であるが、東京からのアクセスについて「新宿から中央東線辰野で飯田線にのりかえる。急行こまがね号なら飯田または天竜峡まで直通。」とあり、所要5時間半と記されている。実は現在も飯田から新宿まで電車で行こうとすると、岡谷乗り換えで特急あずさを利用して5時間前後かかる。便によっては5時間半かかるケースもある。ようは電車で東京に行くのには、40年ほど前とさほど変わっていないというわけだ。岡谷-新宿間は短縮されただろうが、直通急行がなくなったおかげで、岡谷-飯田はむしろ時間を要しているのかもしれない。かつてのパンフレットには飯田高原(沢城湖)と摺古木山自然園が登場するが、今やどこにも触れられていない。時代を感じさせる。

 

 


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