Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

描かれた図から見えるもの⑥

2015-03-31 23:59:11 | ひとから学ぶ

描かれた図から見えるもの⑤より

 ここまで天竜川左岸にある自治体、あるいは旧自治体について見てきた。「描かれた図から見えるもの③」において、「天竜川左岸にあたる大鹿村と喬木村、そして右岸の高森町において明らかに北を上に示さない案内図が掲載されていた」と述べた。ここで取り上げた右岸側の高森町について見てみよう。現在の高森町観光パンフレット「たかもりそぞろ歩き」(10ページ立て)を開くと、末尾の見開きページにA3版横の案内図が添付されている。北を右上に配置した構図は、対岸の豊丘村の案内図を180゜回転したもの。ようは中央アルプスを上に配置し、天竜川を下に配している。したがって天竜川は右から左へ流れる構図である。天竜川の右岸のみにある高森町らしいもので、北側の松川町や南側の飯田市のように天竜川の両岸に地積を有す地域とは対照的である。天竜川を挟んだ地域が相対していることに注目したいわけで、こうしたはっきりと対照的な空間をもつ地域は伊那谷にはほかに例がない。相対した地域の人々にとってみれば、自らの地域をイメージした際に、まったく逆の方位が育まれているということになる。この高森町の構図はわたしの中にも当たり前のように育まれているもの。なぜならわたしもまた天竜川右岸に生まれ育ったからである。加えて天竜川左岸には山が接近していて、空間的広がりが西へ向かっていたことも、自ずと西向きに地域を捉えることになった。けして高森町の人々とは環境が同一ではないわけで、そういう意味では高森町の人々の天竜川左岸への捉え方はどうだったのか、いずれ聞いてみたいところである。

 さて、高森町の上に中央アルプスを配置する構図についても少し古いパンフレットも探ってみる。「ココロ、緑に染まれ。信州伊那路高森町」という20年以上前のパンフレットを開いてみる。ここに示されたイラストマップ(上図)には、町内の温泉施設である湯ヶ洞・御大の館が示されていない。いかに古い時代のパンフレットかは、それで十分に察知できる。もちろん中央アルプス側を上に、下に天竜川という配置は変わらない。いかにこの構図が今も昔も変わらず「ふつう」なのかよく理解できるだろう。

 「変わらない」というところも注目したいところだ。わたしは飯田市内の丘の上にある高校に学んだ。今や街の中には高校がひとつもない飯田である。この街を当たり前のように歩き、日常にしていたひとりとしてこの街をイメージすると、高森町同様に右上が北になる。ようは飯田の街の象徴的な風越山(いまは「かざこしやま」という人が多いが、わたしの中では「ふうえつざん」である)を上に置き、天竜川はその構図には登場しない。ようは天竜川が飯田の街の構図になりえないというところも、いずれ図を示して記したいとは思うが、とりあえず下記に示す図にも天竜川は描かれていない(風越山も表示されていない)。この図は“伊那路の旅「飯田」”という32ページA5版の観光用冊子に掲載されているもの。飯田市商工観光課が発行したもので、図を見ても解るが街の左手、松川の左岸に「鼎町役場」と表示されている。昭和59年に飯田市に編入合併された町が、まだ合併されていない時代のものである。まさにこの図は北を右上にした構図のもので、かつて飯田の街「丘の上」を表すとこんなイメージだったのである。ところが今飯田市の観光パンフレットを広げると、こうした構図で描いたものはあまり見ない。一般的な北を上にした構図で表されるのである。今の人々にはそれが当たり前なのか、それとも変わらず風越山が上なのか、これも確認してみたい点である。

続く


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