Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

生き物とともに暮らす

2022-08-06 21:09:18 | 民俗学

 長野県民俗の会第231回例会は、二つの発表を中心に、豊科郷土博物館(安曇野市)で行われた。

 一つ目のテーマは長野県環境保全研究所の浦山佳恵さんによる〝「信州の生き物文化レッドデータブック」作成の提案〟というもの。例えば特徴的なものとして、県内にはザザ虫漁とか、ハチ追い、あるいは田ゴイといった生き物とかかわる民俗文化が育まれてきた。そうした生き物にかかわる民俗も、おそらく人々が自然と共生しなくなった(しなくなった、というよりそうした生活様式から工業製品様式に変化したためとも言える)ため、衰退の一途を辿っていることは、誰でも実感しているところなのだろう。とはいうものの、現実的には生き物と関わりながら、あるいはそうした暮らしを求める人たちもいて、けして完全消滅しているわけでもない、過去の習俗を、いわゆる自然系のレッドデータブックのように、絶滅危惧度を示して人々に紹介したいというのが浦山氏の提案である。前々から聞いていたことだが、同研究所に人文系の研究員は一人だという。ほかの方々は全くの自然系、あるいは環境系の研究者。おそらくそうした人々にとってみれば人文系の存在は違和感があるのかもしれない。そしてその中で自らの実績を残していくために、あるいは自ら存在意義を見出すために悩まれていたことだろう。故に考えられた自然系に対抗するような人文系レッドデータという発想なのかもしれない。

 かつてわたしも同じような意図で業務上で発言したことがあった。大型事業を行う際に、自然環境調査を行い、生物の保護を目的とした報告書を作成することに対しての違和感から発した人文系の報告書は「なぜ作らないのか」という指摘だった。同じようなことは埋蔵文化財にも言えるのだろう。埋蔵文化財に対する対応は、とりわけ神経質に協議が行われ、例えば事業の中に埋蔵文化財調査費が計上される。むしろ自然環境より、さらに手厚く保護される埋蔵文化財である。であるならば、事業化によって変化を遂げるであろう人々の暮らしを調査し「残す」調査がなぜ行われないのか、と問いたくなるわけである。もちろん皆無というわけではない。そうした調査も実施されている例はあるだろうが、埋蔵文化財や自然環境に対する事例とは比較にならない、というか皆無と言っても差し支えない。もちろん「それほど大きな変化はない」という捉え方もあるだろうし、重要性という視点もある。裏を返せば今回の発表後に議論となった「残さなくてはならない、残さなくても良い(変容するもの)」といったところに繋がる。不要なものをあえて調査しなくても良い、という意見があれば、その重要度は低下する。希少意見か、それとも大多数の意見か、という天秤にかけられるのかもしれない。

 さて、浦山氏は「盆花採り」を例にして提案の主旨を説明された。かつて草地で行われた「盆花採り」あるいは「盆花迎え」がほぼ消滅に近い状況にあることから、それをレッドデータブック化し保存することを目的にしたいという。しかし、ここに民俗は「変容するもの」という捉え方を用いると、必ずしも保存し継承する「必要があるのか」という議論に至る。過去の習俗は「良かった」から、「残そう」という視点が民俗ではない。このあたり誤って捉えられている部分で、むしろ「消滅した方が良い」習俗も現実的には存在した。必ずしも「昔が良かった」わけではない。盆花の例で捉えてみれば、確かに草地に盆花を求める姿はなくなったかもしれないが、今もって昔から言われている盆花を盆棚に飾る人はいるし、もし花が購入品となってアルストロメリアやトルコギキョウが飾られたとしても、「盆花」という意識は形を変えて現存する。近ごろ仕事であちこち現場を訪れては気がつくのは、個々の家の庭にキキョウの花が大切にされて花を咲かせている光景だ。聞き取りしていないので正確なことは言えないが、そうした背景には、盆花としてのキキョウの存在が必ずあるはず。でなければキキョウがこれほど大切にされているのは何故か、ということになる。我が家でもいつも苦労して刈り払いをする高畦畔の裾にミソハギが咲いていて、畔草を刈る際には必ず残すようにしている。同じことはオミナエシにも、ヤマユリといったものにも言える。環境変化に伴って過去と全く同じ姿はなくなっても、少し変容した形で残存している盆花の存在を重視しない手はない。確かに元来の姿を望む声もあるだろうが、だからといって嘆く必要はない、そう捉えるのが民俗の視線だと思うのだが、いっぽうで「そんな当たり前な変容ありき」では特徴が無く「地域の活性化に利用できない」という声が聞こえることも確かだ。いずれにしても、生き物にかかわる民俗(暮らし)を捉えて紹介することの意義には、誰もが理解を示すところなのだろう。全くの自然系と人々の捉え方とは異なる生き物と関わる人間の暮らしを表舞台にあげる、その主旨には同感できるわけである。


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