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繭型の道祖神を訪れて

2020-10-16 23:59:41 | 民俗学

鬼無里岩下の道祖神より

 鬼無里村の繭型の道祖神について幾例か現地で確認し、それぞれについて触れてきた。『鬼無里の石仏』(平成6年 鬼無里村教育委員会)によると、鬼無里村には道祖神が双体像7体、文字碑17体、丸石38箇所百数十体、石祠1基が数えられるという。『長野県道祖神碑一覧』(長野県民俗の会)のデータからその数を示した「鬼無里の道祖神」にも触れたことであるが、丸石の中でも繭型のものが多いのが特徴である。丸石も含め、自然石系のものには造立年が刻まれていないため、その存在がいつからあったのかははっきりしないが、同書では「相当古くからあったものと思われる」と記している。とすれば、「鬼無里岩下の道祖神」で触れた通り、古くからあった「道祖神」の認識が、この時代に急激に希薄化し、忘れ去られたら残念なこととなる。記録と現地が一致しているうちに、その存在を確かなものにする必要があるのではないだろうか。

 そうした中、前掲書でも触れていることだが、同じ場所に双体像や文字碑が複数建てられている例はほとんどない。にもかかわらず、自然石である道祖神は、1箇所にたくさん祀られている。「これは同じ信仰対象なのか」と疑問がわいてしまう。果たして丸石系とそうでない双体像や文字碑の建立意図は同じなのか、と。

 前掲書に丸石にかかわる信仰の記載が見られる。例えばそのありかを探した東京の祭祀である。

当地は神社前に石像一体あるのみ。一月十五日松焼きが道祖神祭りであり、二条、三条五条、四条と三カ所で行なわれる。麻がらとカヤで小屋を作り、その中にマユ型の石像をかざる。厄年の者はその年の数だけ銭を投げて厄除け祈願をする。昔は一文銭だったが今は十円玉。松焼きが終われば小屋も焼く。石像は元へ戻す。

というものだ。これによるとマユ型の「石像」と記しているが、像が刻まれたマユ型のものは見られない。したがってマユ型の石のことを言っているのだろう。あるいは繭型そのもを像として捉えているのかもしれない。ようは繭型の神像である。岩下の事例はまさにこの東京でいう小屋掛けである。その中に常に置かれたのが岩下の道祖神である。同書には、奥中田で1月15日に行われる道祖神を祀った写真が掲載されている。丸石のまわりに鳥居、木像、ロウソクを立てて飾っている。木像とはクルミの生木長さ20センチほどのものの皮を剥いて、男女の顔を描いたもののよう。奥中田は信濃町境の集落である。


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