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依田窪の道祖神の石質について

2024-06-27 23:28:12 | 民俗学

 昨日「旧武石村の自然石道祖神 外編」を記した。以前より自然石道祖神の石質について興味深く捉えているが、何度もここで引用させていただいている小林大二氏の『依田窪の道祖神』においても、石質について触れられている。

 丸子町鹿教湯温泉入口附近、少し高台にある、高梨部落の石垣を見ると、ほとんどが緑色の磧石によって築かれている。これは、緑色凝灰岩・凝灰角礫岩といい、海底火山の噴出物によってできた岩石である。鹿教湯温泉より武石岳の湯まで分布し東北地方までの岩石の基にもなっている。第三紀中新世、およそ2,000-3,000万年ほど昔のもので、このころこの地域は海底であり、しかもはげしい火山活動がおこなわれていたという。その岩層から離れて武石川又は、内村川を流れ出し、緑色のあるいは暗緑色の磧石または、「かぶっつら石」となる。それを拾って来て(武石、北沢品充さん)依代とするのである。なるべくごつごつしたもの、ただし角は適当に円くなっているものが選ばれている。新町では溶岩も使われている。下流になる程安山岩も含めた、頭の円い石が利用される。丸子腰越には、円形のやきもち石(縁れん石)が他の石と共に紀られている。東内③には頭の円い礫岩がある。(135頁)

 ここに緑色凝灰岩が記されている。現在祀られている石を見て緑色凝灰岩とすぐに気がつく石は見当たらないが、実は伊那市エリアにある自然石道祖神には同じ凝灰岩と思われるものがよく見られる。これらは中央構造線より東側、いわゆる外帯より算出されたもので、三峰川ほ経て伊那市の里まで流れ出している。これらの石を拾ってきて祀ったという話は伊那市内で現在でも聞くことのできることで、地質と関係していることをここから学べると思う。したがって西内や武石周辺について、地質も含めて検討していくこととする。

 さて、小林氏はさらに次のように述べている。

 川岸から「かぶっつら石」を拾ってきて、神主か行者に勧請してもらうならば、てっとり早く、経済的な負担も少ないであろう。しかし宿場町の新町が他のムラと比較して経済的に劣っていたとは考へら
れない。依田窪の穀倉と云はれる依田が全体的に大門より劣っていたとは考へられない。この地方でムラをあげて楽しい、華かな道祖神祭りを操広げていたのは、新町、古町、依田、である。西内、東内には古くからの名刹、虚空蔵堂、霊泉寺、文珠堂がある。決して信仰心が他より劣っていたとは考へられない。結局これは庶民の道祖神に対する、信仰態度の問題だったのだろう。なるほど余里部落の場合も2~3軒で1ケの道祖神を持つことは決して大きな碑を建てるだけの経済的な余力はない。しかし「かぶっつら石」でよしとする、やはり信仰態度の問題なのだろう。(136頁)

 そもそも道祖神以外の祭祀対象は、現在では文字碑などのふつうの石碑でありながら、道祖神は「かぶっつら石」で良かったのはなぜなのか。ようは石碑を建立する以前からこうして自然石をもって道祖神とする流れが長く続けられてきたせいではないだろうか。造塔されその銘文が記されるようになったのは、依田窪では1700年直前から。ちょうどそのころから双体道祖神が建立されるようになる。

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