Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

闇の世界が好きなわけではないが

2021-04-06 23:05:58 | つぶやき

750メートル先の明かり

 

 昨日は隧道ではなかったが、長さにして650メートルほどある暗渠へ、今日は管理口から約3キロある隧道に入った。歩き始めると、もう途中で世間に出る口がないという状況を解っていたにもかかわらず、歩き始めて気がついたのは、「帰ってこなかったら隧道内で何かあったと判断して欲しい」と会社に伝えてこなかったこと。かつて這って歩くような隧道に入る際には、こう会社には伝えて出た。ところが大きな隧道だと、そうした危険な隧道と異なり、安心感が働くのだろう「何かある」などとはちっとも頭に浮かばない。これは独りで現場に行っても、複数人で行っても、状況は変わらない。中に入ってしまえば、連絡手段はない。歩き始めて気がついているようでは、リスク管理がなっていない、ということなのたろうが、いつものことだからあえて管理口まで戻って連絡することはしなかった。何度同じようなことを経験しても、本当に危険なことに遭わない限り、教訓にならないという悪い癖といえる。

 さて、管理口から入って約3キロ、その先で世間に出られるわけではない。口はあるのだが、相応の準備(出口に梯子をかけなければ上がれない)をしないとそこから出るわけにはいかないから、また戻ることになる。さすがに3キロもある水路隧道というのは、世間にはそれほどない。とりわけ農業用ともなると県内では長い隧道といえる。管理口から3キロであって、実は途中に口を出す区間があるが、暗渠状になっていて、実際のところ連続しているに等しい。そう考えると、もともとは今回入った管理口も新たに造られたもので、それまではもっと長かった。途中に余水吐のようなものがあって開口があるにはあったが、それも隧道状になっている部分から開口されていたもので、連続性という観点からいけば、約7キロ近くある隧道である。駒ヶ根市吉瀬にある天竜川のダムから、中川村の渡場にある南向発電所までの導水路もほとんどが隧道で、ダムから中川村坂戸橋東にある開渠までの隧道延長が約7キロであり、ほぼ同じくらいの長さ。

 止水されているものの、隧道内に湧水があるため、水深がある。路上を歩くのとはちょっと違う。大きな隧道なので、風の通りはよく、酸欠になるようなことはない。とはいえ、真っ暗な中を歩いていると、距離票だけが頼り。これがなければ、いったい「あとどのくらい」という検討すらつかない。「あと1キロ」を過ぎてしばらく歩くと一点の明かりが見えた。「あれ」と思ったのは「距離票の間違いか」という印象。下流から歩いているから、距離票は100メートルごと小さくなっていく。「800m」を過ぎて見えてきた明かりに、「あと数百か」というイメージだ。どうみても500メートル以上もあるとは思えなかった。もちろん少し歩けば明かりは大きくなっていくわけだが、距離票はなかなか下がっていかない。暗闇の中の明かりは、「近いようで遠い」を実感する場面だ。

 ただ入るだけではないので、確認しながらの3キロ。往復6キロを歩き終われば、おおよそ2時間を経ている。無事管理口を上った。


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