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生坂村小立野入の庚申塔群

2018-01-22 23:02:35 | 歴史から学ぶ

庚申塔群

 

大正(再建)の庚申

 

開道記念碑

 

 「廃村へ分け入る」で触れた生坂村小立野入。すでに住んでいる人はいない。入口に近い道沿いに集会施設がある。これもまた近年利用した雰囲気はないが、これが庚申堂となっている。『生坂村誌歴史・民俗編』(平成9年 生坂村誌刊行会)に庚申講の実施状況調査の結果が掲載されている。それによると小立野入について戦前には7つの講があったといい、現在もひとつの講が実施しているとある。平成6年に調査されたものと言うから、今から25年近く前のこと。当時は小立野入にまだ家々があったということなのだろうか。それとも地区外から講のために戻ってきたのかは定かではない。この庚申堂について堂の外に建てられている看板に次のようにある。

元禄11年(1698)小立野入には小池峰に聖堂、清久保に観音堂、八重沢に阿弥陀堂、正徳元年(1711)泥沢に阿弥陀堂があった。明治時代には観音堂と阿弥陀堂のみとなり、42年に合併して庚申堂とし建立。昭和48年公民館として新築、観音堂の逗子(空殿)を残して仏像は乳房堂へ移す。

小立野入のすべての堂の最終形がこの庚申堂だったということになるだろうか。

 庚申堂の東側に道に面して12基の石碑が並んでいる。うち9基は庚申塔であり、これがもともとここに集められて祀られたかは知らないが、説明板にもあるように、これだけ多くの庚申塔が並んでいるということは珍しい。古いものから順に①元禄三庚午年(1690)、②享保三戌年(1718)、③享保十二丁未年(1727)、④寛延三庚申年(1750)、⑤宝暦二壬申年(1752)、⑥安永八亥年(1779)、⑦万延元年庚申年(1860)、⑧大正九庚申年(1920)、⑨昭和五五庚申年(1980)となる。最も古い①は石祠型である(写真奥から3基目)。また、大正9年ものは再建だそうだ。写真がそれであって、字体が変わっている。昭和55年のものを建てた際に対象の物も再建したといい、両者ともに字体が変わっている。

 最も奥に立っている碑は「開道記念碑」である。併記して「東筑農学校」とある。昭和19年12月に建てられたもので、当時生徒約40人が勤労奉仕で泥沢と鷲穴へ2週間分宿して泥沢下まで天神沢の道路拡張工事と農作業に奉仕したという。説明板には「生徒の刻んだ貴重な戦時中の開道碑」とある。生徒が刻んだからなのだろうか、確かに文字の彫りは稚拙さが見られる。


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