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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

栗尾道を歩く

2020-09-12 23:50:03 | 民俗学

 2年前、「新仏迎え」において、新仏の盆迎えについて触れた。「ふるさと安曇野 きのう きょう あした」9号(安曇野市豊科郷土博物館 平成25年7月13日)について紹介したが、そこに「栗尾道」について触れている。

 江戸時代、満願寺への参詣は、一般の人々の間でも盛んに行われました。栗尾道と呼ばれるその参詣道は、豊科の新田を起点とするルートが有名です。このほかにも穂高と北穂高狐島区からの2本のルートが存在していたようですが、すでにどこを通っていたのか、わからなくなってしまいました。

 元禄2年(1689)には、新田村の庄屋・藤森与兵衛が栗尾道沿いに道標を立てました。現在も何ヶ所か残っており、新田村から満願寺までのルートがおおよそどのあたりを通っていたのか、知ることができます。

 満願寺の近くまで来ると、「観音大士」と大きな字で彫られた丁石もあります。天保3年(1832)に建てられたものです。このほかにも満願寺への道標がいくつかみられ、当時の人々の信仰の篤さをうかがい知ることができます。

 長野県民俗の会第222回例会は、この栗尾道を歩いて満願寺に参るという企画だった。新型コロナウイルスの影響で、令和2年度の例会はこれまで自粛されてきた。ようは今年に入ってはじめての例会である。この例会を逃すと、令和2年の例会参加がまったくなかったことになると思い、農作業が気にはなったが、参加することにした。満願寺は、冒頭記したように、仏迎えでよく知られた寺である。宗派に無関係に、新仏の際にはここを訪れたと言われる。しかし、「新仏迎え」でも触れたように、「つい20年、30年前までは、本当に多くの方が朝早くから歩いてこちらまでお迎えに来ていました。暑い時期ですので涼しいうちに戻りそれから朝飯をと、暗いうちから満願寺を目指したのです。特に明科の方々は前日満願寺で泊まられて、早朝に帰宅されることもありました。最近は、ずいぶんお迎えの人の数が減り自動車で迎えに来るなど、大きく様変わりしています」という住職の言葉のとおり、かつての仏迎えの光景は、今は無いようである。例会の中で豊科郷土博物館の原明芳館長が述べられたが、実は明治45年の「栗尾山満願寺之全景」という絵図に「満願寺年中行事」が一覧化されているものの、仏迎えらしき記述がないのである。原館長は、ここから仏迎えはそれほど古いものではないのではないか、と述べられているが、現在の8月9日の仏迎えの日は施餓鬼会として行われており、その施餓鬼会は一覧の中に記載されている。したがって、仏迎えが記載されていないからといって、当時それが行われていなかった、とも言えないのではないだろうか。そもそも満願寺の仏迎えは、寺主催のものだったのかどうか、そのあたりに疑問がわく。いずれにせよ、伊那市美篶六道の森で行われる仏迎えが、おそらくここでも行われていたことに思いを寄せ、満願寺への道を歩いてみた。

栗尾道(右側)、左はハランドウの参道へ

 

栗尾道から振り返る

 

3本の栗尾道が合わさるところに立つ道標

 

微妙橋へ

 

死出ノ山


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