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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

死出ノ山

2020-09-18 23:13:08 | 民俗学

栗尾道を歩くより

 長野県民俗の会第222回例会では、栗尾道を歩いた後、豊科郷土博物館の企画展を見学した。その企画展の名称は「満願寺展Ⅰ 描かれた満願寺とその自然」というもの。「描かれた」とは絵図を指しており、展示の副題“「死出ノ山」とは何か”の「死出ノ山」をキーワードとして絵図を読み解こうとしたもの。その絵図は、明治12年に再興後15年、

①明治25年(1892)御開帳の際の版木『信濃国栗尾山図』
②明治34年(1901)刊行の『信濃宝鑑』7巻にある『長野県信濃国南安曇郡西穂高村字牧 真言宗新義派 栗尾山良興院之景』
③明治45年(1912)に満願寺が発行した境内図『長野県信濃国南安曇郡西穂高村字牧 新義真言宗 栗尾山満願寺之全景』

以上3枚である。それぞれの図は下記のとおり。とくに「死出ノ山」と記されている部分を拡大したものも示してみた。

①明治25年(1892)御開帳の際の版木『信濃国栗尾山図』

 

②明治34年(1901)刊行の『信濃宝鑑』7巻にある『長野県信濃国南安曇郡西穂高村字牧 真言宗新義派 栗尾山良興院之景』

 

③明治45年(1912)に満願寺が発行した境内図『長野県信濃国南安曇郡西穂高村字牧 新義真言宗 栗尾山満願寺之全景』

 

 解説された原館長によれば、①は「画面を斜めに中房道で区切って、左上を「満願寺、右下を「死出ノ山」、そし間に微妙橋の架かる「さいのかわら」を描いて」おり、②は右下の隅に「山ノ神」があり、すぐ隣の橋の架かった川を「三途川」と示しており、そこから始まる尾根の頭に「死出ノ山」と記されている。①では「三分割されていた画面が、「さいのかわら」そのままに、満願寺を大きく「死出ノ山」を縮小させて描いている」といい、③は「死出ノ山は、地山がむき出しでまばらに松が茂る山が描かれる。実際に小さく、裾に雲が描かれ参道と切り離され、満願寺と距離を置いて存在感小さく描かれる」という。原館長はこの変化をこう説明する。「明治時代再興後も、満願寺、さいのかわら、死出ノ山は、一体ではなく距離を置いた宗教空間であった。しかし、さいのかわらは徐々に満願寺に含まれていく。反対に、死出ノ山は満願寺から距離を置き、縮小され描写に力が入らなくなる。ついに人々から忘れ去られることになる」と。そして大正12年(1923)刊行の『南安曇郡誌』にホトケムカエが初めて記されるところから、「死出ノ山の記憶が薄れていく中で、記録にホトケムカエが登場する」という。この絵図3枚に登場する死出ノ山の空間認識の背景に、人々の死出ノ山への捉え方の変化が読み取れるというわけだ。①にしても③にしても、死出ノ山は禿山である。草木も生えない山、したがって死の山ということになるのだろうか。地つながりであった死出ノ山が③では雲上の別世界に描かれるようになる。確かに①とは大きな存在感の違いが見られる。ほぼ10年ピッチで描かれた絵図に、これほどの違いを見せる背景に何があったのか、以前にも絵解きについて触れたことがあったが、写真ではなく描かれた世界の楽しみでもある。

微妙橋


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