昭和61年9月14日は、長野県民俗の会第60回例会だった。飯山市旭の民宿での宿泊例会だったが、わたしは14日のみの参加だった。小林寛二氏の「台湾における山地の人々の生活」の発表の後、富倉に向かっている。わたしの記憶の中にある高砂族の話は、このとき聞いた話なのだと、あらためて当時の資料を開いて気がついた。
この日は富倉神社の祭日。灯篭の行列をつくり神社まで練るのだが、その行列の先頭を手甲きゃはんにワラジがけ、白はちまき白だすきを長くたらした扮装の男が、注連切りをしながら進んで行く。奥信濃一帯に多く分布する猿田彦が「とうろずれ」の先導役で注連切りをするのと同様のものである。ただその所作が、猿田彦にくらべ、振り降ろす刀のスピード感で迫力がある。
午後9時に公民館を出発した「とうろずれ」は、3箇所で注連切りをし神社に着く。まず「あくま」といわれる悪魔払い、次いで「居あい抜き」、女性2人によって行なわれる「なぎなた」、最後に獅子舞いが奉納される。「ひゃっと」は、刀を振り降ろす時の「ひゃっと、えっ」「えい、ひゃっと」という掛け声からきたものといわれ、その起源は定かではないがかなり昔から行なわれているという。もともと刀の打ち合いをする「ひゃっと」と「獅子舞い」は、関係なかったものというが、共に悪魔払いの意味もあって結び付いたものといわれている。獅子舞いが終わると境内では、「ままよ」といわれる盆踊りが始まり、飯山周辺に多く分布する「鳥踊り」も登場する。
富倉ヒャット(昭和61年9月14日撮影)
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