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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

新仏迎え

2018-08-15 23:51:45 | 民俗学

 

 

 精霊迎えといった方がよその地域の人たちにはわかるだろうか。仏迎えでよく知られているのは、京都東山六波羅の通称「六道参り」、珍皇寺だろう。8月8日から10日までの間、京都市内だけではなく、京都以外からも先祖迎えに来るという。訪れる人々は高野槙の葉を買い求め、本堂前で水塔婆と言われる塔婆を買い、迎える先祖の名を記してもらって迎えるのだという。

 先ごろ触れた伊那市六道地蔵尊と珍皇寺が関係しているという直接的文献はないものの、『伊那市寺院誌』によると「わが国に於ける六道地蔵の発祥は古く文徳天皇の仁寿二年(852)小野篁が京都伏見の文善寺に六地蔵を安置したのがはじまりと言われ、後、御白河天皇の保元二年(1157)平清盛がこれを諸国に分置したが、その時一体をこの信濃国笠原庄に堂字を建てて安直したとも伝えられている」というから、親さを覚える。

 『長野県史民俗編』の東南中北の4巻の「仕事と行事」編の「迎え盆」の項目から、どこから新仏を迎えるかという例はあまり記載されていない。通常は「墓」が最も多いのだろうが、「仏迎えをする」、とか「ムカエボンで、ムカエビをたく」といった例にとどまり、具体的にどこへ迎えに行くかという事例はとても少ない。「墓」以外の霊を分布図に示したのが「新仏迎え」の図である。穂高にある満願寺へ行くという例が3例見られるのみなのだ。そもそも南信編に「六道地蔵尊」という単語すら登場しない。

 満願寺の精霊迎えについて「ふるさと安曇野 きのう きょう あした」9号(安曇野市豊科郷土博物館 平成25年7月13日)によると、「安曇野市内では家族を亡くしたその年の新盆は、宗旨などに関係なく、どの家も満願寺まで新仏様を迎えに行きました。新仏様が我が家に来るのに迷ったりしないように迎えに行く風習は日本各地で行われており、いっしょにいろいろなお精霊様も付いてくるのでそれも迎えるのだそうです。8月9日の朝早く家を出て満願寺へ迎えに行くのは、相当広い範囲で行なわれていたようで、何と明科からも出かけていたといいます。」とある。「明科」は旧明科町のことで、現在は穂高と同じ安曇野市の内になる。したがって、けして遠い地というわけではない。分布図に表したら満願寺だけ表れたということは、それだけ県内では特徴的新仏迎えの事例と言えるのだろう。さらに同誌には満願寺の住職から聞いた言葉が紹介されている。「つい20年、30年前までは、本当に多くの方が朝早くから歩いてこちらまでお迎えに来ていました。暑い時期ですので涼しいうちに戻りそれから朝飯をと、暗いうちから満願寺を目指したのです。特に明科の方々は前日満願寺で泊まられて、早朝に帰宅されることもありました。最近は、ずいぶんお迎えの人の数が減り自動車で迎えに来るなど、大きく様変わりしています。」と。六道地蔵尊同様に、満願寺においても仏迎えの人は減っているようだ。また、暑い時期だったので涼しいうちから、といって暗いうちからお参りしたと言っており、六道地蔵尊も同様の意図があって、暗いうちからお参りの人たちが訪れたということなのだろう。また、同じ安曇野市のうちでも、旧三郷村の一部の人々は、新仏を満願寺ではなく、旧三郷村温にある長尾山平福寺に迎えに行くという。

 参拝エリアという観点から言えば、満願寺より六道地蔵尊の方が広かったのかもしれない。説明書きには昔は塩尻市から飯田市あたりまでの人が訪れたと記されている。実際はそれほど広かったかどうか疑問だが、同僚が宮田のあたりでも迎えに行ったと言っていたから、広い範囲であったことに間違いはないだろう。

 『仏教行事歳時記 8月 万灯』(第一法規出版 1989年)において八木透氏は、京の六道参りについて、「水に関連の深いものが多いことに気づく」と記している。そして「水は次元境界を越える際にその移行を促す力をもっていたのではないかと考えている」という。ただし、六道地蔵尊の祀られている場所には、今でこそ周囲は水田地帯にとなっているが、これは三峰川総合開発によって戦後用水が供給されるようになったためであり、その昔は水のない、ヤマ、あるいは畑地帯であった。見るからに水とは無縁な地に、六道地蔵尊は祀られた。

 


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