Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「遙北石造文化同好会」のこと 中編

2018-03-06 23:10:30 | つぶやき

「遙北石造文化同好会」のこと 前編より

 発会後徐々に会員は増加し、1年後には22名を数えたが、そもそも当初は会費を集めていなかった。したがって会員といっても明確な責務はなかったと言えるのだろう。投稿を促すものの結果的に中心的に活動する人は固定されていき、短い期間ではあったものの、同好会なる名ばかりの会であっても、その運営の難しさに葛藤している自分が、会報の記事の中にも登場する。盛んに会員へ訴えているのは、会員への反応である。会報上でさまざまな企画を展開しようとするが、思うような反応は見られないわけである。これが結果的に発会後1年半ほど経過した昭和53年5月に「石造美術」から「野の佛」と会報のタイトルを変更することになる(23号から)。ちなみに主だった会員から「会費を徴収するように」という意見があって、会費を集めだしたのは発会後半年余過ぎた頃のこと。ちょうどそのころ会名について会員に意見を求めている。「野の佛」と題して会報を発行したのもそれから2年弱のこと。昭和55年4月に発行された42号から現在の遙北石造文化同好会に名を改め、会報も「遙北」としてスタートしている。冒頭「会の改革に手をつけました」と述べ、度重なる催促にも会費をいただけなかった方を会員から除いている。そして同号に掲載された会員名簿には10名の会員が掲載されており、一時より会員は半減したわけである。そこに名を連ねている会員は、やはり同年の友人たち5名、県外会員5名であり、7名で発会した時の姿に戻ったというわけである。現在も長野県民俗の会というちゃんとした会の事務局を仰せつかっているわけであるが、小さい会ではあるものの、すでに10代の時代に会員と事務局という葛藤を経験していたわけである。

 発会から会の活動がほぼ中断する平成8年までずっと会員であったのは、発会時にも名を連ねられていた沼津市の原賀博行氏であった。発会時まだ高校生だったわたしたちと、それほど年齢差がなかったということが長いつきあいになったといえる。また発会時には会員ではなかったものの、最も会員が増加した発会1年後に会員になられた京都市の高木英夫氏も長く会員として積極的に参加された方のひとりであった。高木氏は高齢だったこともあり、会活動が中断するころ亡くなられたが、何度となく長野県内の石仏を訪れたし、また逆に京都市内の寺院を案内していただいた。初めて尾道を訪れた際にも同行していただいたし、原賀氏のお宅に一緒に訪れたこともあった。会うたびに繰り返し高木氏の口から発せられたのは、「一緒に国東半島に行きたい」という誘いであったが、高木氏存命中に達成することはできなかった。

 高木氏が会員になられた主目的は、写真の被写体としての石仏だったからだ。ようは例会へ参加することで長野県内の石仏を回れるという主旨だ。結果的に数え切れないほど県内を訪問され、またわたしは案内をした。祖父と孫なみに年の差はあったが、わたしにとって若い時代の親しい友人のひとりであったことに違いはない。

続く

 

 

 写真は高木氏の撮影した狛坂磨崖仏である。高木氏は常にライカを複数台持って写真を撮りに来られた。時には国産のカメラも利用することもあったが、わたしのレンジファインダーの交換レンズという憧れは、高木氏の影響である。もちろんわたしはライカを買うことはできなかったが…。

 スキャンしたこの写真は、実際の写真の表現はできない。高木氏はもちろん自ら現像をされていて、個人的に高木写真店という看板も出されていた。当時すでにモノクロ写真の時代は過去のものとなっていたが、地元で高木氏のような技を持った写真店はどこにもなかった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 割込み意識と初庚申 | トップ | すでに“島田娘”現る »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

つぶやき」カテゴリの最新記事