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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

久しぶりに小土山へ

2015-05-29 23:16:54 | つぶやき

 

 再び小谷村を訪れた。すぐそこに残雪をいただいた山々が見えるというのに、里では真夏のような陽が注いで、アンバランスな雰囲気を醸し出している。小谷村にはかつて特徴的な石仏を求めたことがあった。鍾馗といわれる像が刻まれたもの。石仏において鍾馗を見る例はとても少ない。わたしもこれまで小谷村以外で例を拝見した記憶はない。その鍾馗が小谷村千国の小土山と言われるところに2基現存する。小土山を訪れたのは今から20年以上前のこと。記録には「今は無住の地」とあり、廃村というイメージを抱いていた。「今はどうなっているのだろう」と、小土山に入ってみたのだが、意外にもそこには家が数軒点在していた。それも無住ではなく、人影が周囲に見られたのだ。

 この小土山というところは、昭和46年7月16日午後2時15分に大規模な地滑りが発生した。ちょうど現在小土山の石仏群が立ち並ぶあたりからそれは発生し、「土砂は農協倉庫、民家一戸を押しつぶして姫川を横断、対岸の月岡へ押しつけ、姫川をせき止めた。(略)地辷の目撃者によると、はじめ、ゆるやかに崩落が起き、上の作業者が逃げ、中腹で作業中のブルドーザーの運転手が逃げ出し、その後、ブルドーザーが流され、沈むのが見えた。建物が、押しつぶされた時は小山全体が動くようで、姫川を横断した頃はあっという間」だったという(昭和46年7月30日発行の館報おたり第141号より)。実はこの大崩落は事前の兆候があった。昭和45年5月2日に最初の亀裂が発見されたため、長野県によって防災対策をしている最中だったという。過去には明治35年7月15日にも崩落が発生しており、地すべりの常襲地だったわけである。昭和46年の大崩落は、全壊2棟、半壊1棟、床上浸水10世帯、床下浸水2世帯という災害となり、小土山集落は全戸移転となったと過去の報道にはある。現在残る住宅を見る限り、それよりも古い物も見受けられ、一旦移住したものの、復旧後に再び住み着いた人々があったということなのだろう。

 小土山の集落内を通称「塩の道」と言われる千国街道が通っていた。その道沿いにこの鍾馗2基はいずれも立っている。ひとつは小土山石仏群の中に。もうひとつは、そこから100メートルほど南で街道を背にして立っている。とくに後者は碑高が2メートルを超える巨大な石に彫られている。いずも線彫りの鍾馗であり、小土山石仏群の説明板には、「無名の旅人の作」と記されている。碑の大小差はあるものの、どちらも同じ線彫りで作風も似ており、同一作者のものと思われる。この珍しい鍾馗像がどういう意図で建てられたものなのか。『小谷の石造文化財』には「邪神や悪疫がに入ってこないようにとの願いから建てられたものであるという」が、現在その信仰は残っていない。

 今日久しぶりに訪れてみたわけであるが、午後の日差しが強い時間帯は、すでに逆光状態で線彫り像は写真に納めてもはっきり映し出されなかった。てきれば午前中に再度訪れてみたいものである。ちなみに写真はかつて訪れた際に、石仏群の中にある1基を写したものである。


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