Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

2月8日の行事を飯田市にみる

2018-10-30 23:19:53 | 民俗学

2月8日の行事より

旧飯田市域におけるコト八日(2月8日)行事

 

 本日記でも以前に触れたことがあるが、「伊那谷のコト八日行事」というネーミングには違和感がある。いわゆる国の選択無形民俗文化財に選択された際に、「伊那谷」?と思ったものだ。正確には「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」にあたるものを「選択無形民俗文化財」と称している。重要無形民俗文化財以外の無形の民俗文化財のうち、記録、保存、公開に対して経費の一部を公費による補助を受けることができるものとして、文化審議会の答申に基づき文化庁長官によって選択された文化財をいう。ようは記録作成、簡単に言えば調査費に対して補助があるというもの。正確に言えば文化財以前のものとなる。そうした背景が「伊那谷」という広範な名称になったのかは定かではないが、櫻井弘人氏は、第2回伊那民俗研究集会において、わたしの発表内でこのことについて触れたことに対して補足を行った。文化庁には「飯田の」と名称を付して欲しいと願ったものの、聞き入れられなかったという。確かに記録作成という面では飯田に固執することなく、広い範囲でコト八日を捉えることは必要だろうが、それにしても飯田市周辺で行われているコト八日行事と、「伊那谷」という捉えの中で対象になってくるコト八日行事は特徴という面では異なったものとなる。

 こうした中で実際記録作成された調査報告は、この地域の人々によって行われたのではなく、文化庁が直接委託した業者によって行われた。以前にも触れた通り、悉皆的に網羅した報告にはならなかった。もちろん文化庁の意図にしたら、それで良かったのかもしれないが、例えば同じような調査された「松本のコト八日行事」とはスタンスがだいぶ異なったと言える。

 さて、そんな「飯田の」コト八日行事を概観してみようと、遠山にあった上村と南信濃村が合併する以前の飯田市におけるコト八日行事を、これまで同様に地図にしてみたものが、冒頭に掲載した図である。水色の部分は川であり、上部真ん中から右下に引かれたものが天竜川、そこに合流する川が飯田松川である。見ての通り、天竜川東岸にコトノカミオクリをする地域が集中し、数珠をまわすというところが天竜川西岸に現れている。実際は数珠をまわすところは東岸にもあるわけだが、データ上は西岸に限られた。このデータは『飯田市誌』を編纂しようとした際に、民俗部会が行ったアンケートによるもので、編纂事業が中止されたことによって日の目をみなかったものだ。針供養については西岸を中心に東岸にも点在する。ボタモチを作ったというところも、全域に分布する。もちろん狭い範囲での地図化では、傾向が見えにくいことは事実であるが、コト八日行事については、コトノカミオクリがとりわけ地域性を見せていることがわかる。

続く


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