Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

長野県民俗地図作成に向けて(行政枠)

2022-10-28 23:04:25 | 民俗学

QGISによる「長野県民俗地図」より

 今回民俗地図にしようとしているデータは『長野県史民俗編』編纂で集められたもの。この長野県史民俗編の第1回配本は「第四巻(一)北信地方 日々の生活」であり、昭和59年3月15日が発行日である。そこに挟まれていた「長野県史」第29信には「民俗編の刊行開始にあたって」という読者への通信文がある。「予告より大変おくれてご迷惑をかけましたが、」と本書が配本に至るまでの経過が記されている。昭和48年に編纂に着手してから11年目の配本であって、本データが昭和50年代前半の調査であることがうかがえる。その後第1巻の配本と同じ「日々の生活」の最後の刊行は、平成元年3月の中信地方だった。ようはこの刊行間隔も5年を経ている(東信、南信が間に刊行されている)。したがって最初の北信地方と最後の中信地方では、内容に若干の相違が見受けられる。

 編纂に着手したのが昭和48年ということだが、どの時点で調査地が選定されたのか調査地の中に旧鼎町名古熊が含まれている。鼎町は昭和の合併でできあがった飯田市にほぼ囲まれていた町(ほんの一部これもまた後に編入合併された上郷町と接していた)で、昭和59年に合併して飯田市になった町。わたしが入社後初めて下伊那に赴任したのは合併した年だったので、赴任直後はまだ鼎町は存在していた。さらにその9年後である平成5年に上郷町が飯田市に合併している。昭和の大合併後ぽつぽつ合併される町村があったが、1980年以降平成の大合併にいたるまでに県内で合併された町村はこの2町のみ。ということで繰り返すが鼎町の場合は、最低でも一自治体に1調査地点という選定意識があったのだろう、「名古熊」が選定されている。同様に捉えると、現在松本市にある本郷村か合併されたのは、昭和49年、さらにその前年に現上田市の川西村が合併している。本郷村では「洞」が選定されているが、川西村に調査地点はない。どの時点の行政界が意識されたのか、想像するに留めるが、上郷町は遥か後の合併であったから、もちろん調査地として「南条」が選定されている。

図1

 

図2

 

 ということで、刊行時は既に合併されていた鼎町は「飯田市鼎町」と表現され、まだ合併されていなかった上郷町は「下伊那郡上郷町」と表現された。当たり前のことではあるが、地図作成に当たって行政界を入れた図を用意している。もちろん現在の行政界は基本線なのだろうが、繰り返すが『長野県史』を編纂されていた当時は昭和であり、おそらくその際の行政界は鼎町は下伊那郡に存在していたといえる。とすると、この地図に行政界を示すとしたら、国土地理院で公開しているものとすれば、鼎町合併以前のものが良いのか、以降のものが良いのか迷うわけである。ちなみに公開されているものでは、昭和55年のものには鼎町が表示されている。図1はその昭和55年のもの。パソコン画面で全体表すると「鼎町」の名称は表示されていないが行政界としては飯田市の中に鼎町の行政が表されている。もちろん上郷町も表示されている。これに対して図2は現在のもの。合併が比較的進まなかった長野県ではあるものの、やはり平成の合併前後ではその数がだいぶ違っている。

 

図3

 

 さて、行政界についてここでは触れたわけであるが、図3は調査地点を表したもの。ただし、やはりパソコンの画面に全体表示される大きさで表すと、全ての調査地点の位置は表示されているが名称は表示されていないところがあるのは了解いただきたい。

 

長野県民俗地図作成に向けて(標高1000メートル)

続・長野県民俗地図作成に向けて(行政枠・河川)

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****