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続々・伊那市諏訪形の御柱祭

2022-10-15 23:39:51 | 民俗学

続・伊那市諏訪形の御柱祭より

 ここの御柱祭には「騎馬行列」なるものが披露されている。下伊那地域の御柱にはこうした行列を見ることがなく、飯田のお練りの花形である「大名行列」が類似した芸能と言える。近在では辰野町平出神社の御柱に同様に「騎馬行列」が練られている。『辰野町誌』によると「御柱の前を警固して歩くのが古い姿であったが、今は御柱と共に練り進むことをしなくなった」という。そして「古い伝統」と書き添えているものの、「昔諏訪から御騎馬を頼み奉納していたが、明治四十一年の御柱のときから、上野・上平出の人たちによって行われてきている」というように、比較的新しいものと言える。

 いっぽう諏訪形の騎馬行列については『伊那市のまつり』(平成12年 伊那市教育委員会)によると、「「諏訪形村歳代録」に「慶応三年(1867)十一月御札降りがあって村中大祭となり、騎馬練りや手踊りが村内を廻り、宮田・下牧へも繰り出した。」との記事が見られる」といい、慶応3年に行われた「騎馬練り」がどのようなものであったのかはっきりしないが、平出のものより始まりは早かったのかもしれない。いずれにせよ、騎馬行列と言う内容からすれば江戸時代までさかのぼることはないのだろう。なお、前掲書によると、「慶応三年の騎馬練りには、道具として、先箱・大鳥毛・御鑓・大傘・立笠・弓・鉄砲・吹流しなどが用いられており「野溝利兵衛文書」、これが現在の行列で使用しているものと殆ど一致しているから、その頃から現在まで、同じ形態の騎馬行列が伝えられてきたと考えられる」と述べている。

 ところで諏訪形の慶応3年の記録からすると、御柱祭に合わせて行われたわけではない。また、その後も大正4年の御大典や昭和3年の御大典にも騎馬行列が行われたといい、昭和3年には沢渡や赤穂まで「騎馬練りに行った」という人の記憶に触れられている。ようは御柱祭とは別に、祝賀行事の芸能のひとつとして実施されているわけで、御柱祭と直接的に関係があったのかどうか、はっきりしたことは分からないようだ。そして昭和になってからは、御柱祭に合わせて実施されてきたという。

 なお、本年の騎馬行列についてはわたしは実見していないため、その詳細はここに記すことはできないが、御柱祭里曳きを前に、午前9時に神社に集合し、お祓いを受けた後、集落センターにおいて出陣式を行い、午前10時50分から練りが始められたという。御柱の曳行と同様に神社までのおよそ1キロメートルで練りが行われ、午後1時に終了している。行列には30名弱の人員を要すこともあり、戸数200戸ほどの諏訪形においては、御柱の曳行と同時に実施することは自ずと不可能と捉えられる。

続く

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