夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

人口減少をこの国の有識者たちはどのように理解し、どのような反応を示しているのか?【仮説の論証】

2016-05-04 | review
松元雅和の「子育ての負担は誰が負うべきか」は子育て負担をめぐる公平性の議論について、Rジョージに倣って「子どもの存在は社会にとって一種の『公共財』として考えられる」と主張したものです。しかしながら、ちょっとウィキを見ただけでも公共財Public goodという経済学的用語の理解において、彼は理論的にも実際的にも、あまり真剣に考えていないか、そもそも勉強不足じゃないのかという疑問を持たざるを得ません。
あっさり言ってしまえば松元は「子どもを単なるPrivate goods私的財と考えて個人任せにするのではなく、社会全体でその負担を考えましょう」といった程度のことを提唱しているだけであって、衛星放送のようなClub goodsクラブ財や漁業資源のようなCommon-pool resourcesコモンプール資源との比較すら行っておらず、すなわちNon-rivalrous非競合性やNon-excludable非排除性の面から子どもという財を検討してしていないでしょう。
したがって、Jロールズを援用して「自分たちの公平な負担をこなさないのに、他の人びとが汗を流した協働の骨折り仕事から利得を得てはならない」とお説教を垂れたり、Sオルザレッティを引用して「子どもの存在は純粋な公共財ではない」といった言わずもがなでお茶を濁すことになってしまうのでしょう。出産と子育てを公共経済学の面から多世代間問題として捉えることは重要なアプローチであり、また経済倫理学上も極めて厄介な難問であるはずですが、子どものベーシックニーズの社会的共有や性的平等化や何より同時代における「再分配政策の一種としても理解できる」などとのんきなことを書いているようでは、松元は問題の所在すらわかっていないのではないかと疑われるわけです。
これで政治哲学の専門家だと自称されても苦笑するほかなく、現代の欧米の学者の議論も底の浅いもので、例えば分配的正義論などものの役に立たないのに、それをまるで明治時代のように最新西洋事情を紹介していっぱしの学者面をしているように思います。

ここで、ちょっと長くなりますが、多世代間の問題こそが人口減少を考える上で大事だとぼくは考えているので、サワリだけ論じておきましょう。この問題は一般的便益と社会的便益の調整よりむしろ冒頭に掲げたサミュエルソンの条件から示唆されるようにQuantity量の多時間における動的最適解の問題、すなわち産み始め、産み終わっていく女性の年齢別コーホートにおいて、ターゲットとなる出生数が動いていくということじゃないかと思います。
わかりやすく単純化したモデルを考えます。人口が減少しないように経済的な調整を行うという政策を採っている国があったとして、ある30歳の女性が既に2人子どもを既に産んでいたとしても、それは人口置換水準をわずかであっても下回るので、政策上の要請を達成したとは言えませんが、もう1人産めばなんだか国家だか社会に貢献しすぎて損をしている気分になって、何らかの見返りがほしくなるでしょう。
いや、子ども手当といったことで彼女に応えることこそが経済的な調整を行うという意味内容であるべきでしょう。これをある時点において年齢と子どもの数を変数として表というか行列を作って、さらに時系列で並べていけばムーヴィングタ-ゲットの問題もイメージしやすいと思います。
ある時点に閉じて考えると、子ども手当に必要な財源を例えば30歳で子どもをまだ産んでいない女性からサンクションとしてある一定金額を徴収し、40歳の同様に子どもを産んでいない女性からはもっと高額を徴収すべきということになります。これだけでも山のような批判が押し寄せるでしょうけど、そんな議論の問題より現実にこうした政策をいつ、どのような形で始めるのかを例えば日本について考えてみれば社会的合意など到底不可能だということになるように思います。
なぜなら、出生コーホート別の出生数は厚労省のサイトに掲載されていますが、これによれば例えば昭和22年(1947年)生まれで50歳時点での出生数=完結出生数は既に1.81人です。「おばあちゃんはたくさん子どもを産んだ」というのは戦前生まれから継続してかなりあやしくて、団塊世代の女性以降については全くの幻想なのです。ましてや30歳時点での人口置換水準を利用した経済的な調整は各世代において、全世代においてはもちろん、少数の女性への多数の女性からの所得再配分にならざるをえないでしょう。
「女性から取り立てる? バカを言うな! その世帯主、男から徴収するべきだろう?」と言いますか? でも、それ以前にこの辺りの世代の男の多くはとっくに稼得能力を失ってますよね。だいいち未婚のままの女性も多いし、単身女性は傾向的に貧しいですよね。
ここからは、さらに余談ですが、こういう問答はどうでしょうか。
「じゃあ、夫が現役の場合に限って、社会保険料に上乗せすることで割り切ればいいじゃないか? そうだ独身の男からこそ取るべきだ!」
「なるほど、それはナチスドイツの構想である独身税を想起させますが、その2500年前にプラトンが既に主張していたことと基本的には同じかなと思います」
「そうか、それはまずいな。ああ、じゃあ世の中には捨て子もいるし、親から虐待されている子もいる。そういう子を養子か何かで養えば費用負担しなくていいことにすればいいんじゃないか?」
「はいはい。ぼくは20年前に年金問題との関係で似たような議論をしたことがあります。ぼくは子どもがいない人を相手に『生まない選択をするのは個人の自由だけれど、ならば年金は支給しないのが筋だ』と言ったんです」
「ひどいやつだ。それで相手は怒らなかったのか?」
「いえ、相手の人は『産みたくても産めない夫婦もいるんだよ』とだけ言いました。ぼくはすかさず『うん、だから養子でも取ればいいじゃないですか。世の中には、いや世界中には孤児や不幸な子どもに事欠きませんよ』と言ったら、相手は降参しました。ぼくは今でもその人は考えは浅いけれど、論理は論理としてわかるのだなという評価をしています。これまたプラトンはもっと極端で、すべての子どもを親から引き離して国家が育てるべきだと言っているのですが」


話を戻しましょう。塩原良和は「『人口問題』と多文化共生」という耳当たりはいいけれど、日本人がいちばん苦手なことをキイワードにしておそるおそる移民の問題を扱おうとしています。ぼくはもう30年前に「出生率が下がっていくのは不可避だから移民しかないでしょ」と団塊の世代くらいの先輩に言ったら、「おまえは日本の社会や文化を破壊するとんでもないやつだ!」と激怒されて罵倒されました。その人の「いずれ出生率は回復するんだよ! 学者もそう言っているんだ! 勉強してから来い!」といった主張は、彼が当時周りから優秀で出世しそうだと見られていたので正当なものだとみなされて、ぼくはけちょんけちょんに批判されたわけですが、「出生率が回復するってほんまかいな。魔法でもあるんかい! それにこいつは在日の問題や中国残留日本人孤児のことをまくし立てたりして、クリスチャンのくせに隠れ差別主義者に違いないわ」と大阪弁で黙って反論していました。そういうある種のトラウマがあるので、出生率が下がるたびに「出世主義者も学者もざまあねえなー」と陰湿な喜びを感じていたことをここに懺悔します。アーメン。

つい先日、若い八戸出身の女性と飲んでいたんですが、今テレビで放映中の弘前を舞台にしたふらいんぐうぃっちの話になりました。
「あのアニメはいい感じだけど、一つウソがあるよね」
「なんですか?」
「年寄りがほとんど出て来ない。弘前でも八戸でも老人だらけでしょ」
「あはは。田舎はどこもそうですね。…あの、弘前とかの津軽と八戸は全然別なんです」
「ああ、でかい山で隔てられてるし」とちょっと福井の嶺北と嶺南を思い浮かべながら言うと、
「それもそうですけど、津軽藩と南部藩っていうのが。…東京で津軽の人に初対面で『八戸の人間とは口をききたくない』っていきなり言われました」と透き通るように白い顔を曇らせて言うのです。
「うわー。それはすごいなぁ。青森って人口100万くらい? 200万はいないでしょ。それでそんなことやってんだ」
「そうなんですよねー」といった会話をしたので、30年前の話と合せて、外国人移民の問題はいちばん苦手で忌み嫌っているとさえ言えるんじゃないかと思っているわけです。
塩原が多文化共生とかダイバーシティとかの上っ面だけ撫でて、「権利の規範と経済の論理の『バランス』をとった、『人口問題』への政策的対応としての移住民受け入れが実現する余地はある」とぬるい主張をしても、ヘイトスピーチや東京区部の北東方面辺りを中心とした様々な国籍、人種の人たちの集住といわゆる下町の人たちの混住の実際と意識への言及なしでは何もコメントすることはありません。人口減少という我が国にとって極めて深刻な、もう手遅れとしか思えない問題に対してさえ、この国の学者たちは自分の狭い対象領域、知的関心の中で無責任な餅を描いたり、箱庭を作って戯れてるくせにドヤ顔で思いつきを公にしていい気になっている好例って社会学者に多いなと思うだけです。

末原達郎については比較農業論と食糧人類学という専門分野を先に紹介しておきます。と言うのもGDPの1%くらいしかなく、しかも従事者は減って高齢化が進む一方の農業という産業分野を専門にしているのですから、農業への偏愛があるのではないかという偏見を持つのは自然じゃないかと思うのです。実際、最大の産業分野はサービス業でGDPの25%くらいですが、これを人口で言えば農業は青森で、サービス業は東京と神奈川と埼玉を足したくらいのシェアなわけです。埼玉の代わりに千葉を足してもいいんですが、あけすけに言ってしまえば青森がどうこうなっても日本全体にはまず影響はないけれど、南関東の大半がおかしくなれば日本全国おかしくなるだろうという統計以前の常識じゃないですかってことです。乱暴な言い方の方が農業をめぐる些末で感傷的な議論よりはわかりやすいと思って言っているんですが、農業で日本経済をどうこうっていうのは非科学に限りなく近く、その20倍はサービス業について論じてからにした方がマトモだろうということです。
で、末原は「食料から市場システムを問い直す」と銘打って、人口問題を自分の専門分野でどう扱っているのでしょうか。「戦後日本の人口問題は、『農村地域の過疎問題』として現れた。以来、ずっと農村地域は人口減少に直面している。皮肉なことに、現代日本の人口減少の先駆けだった」という30年前なら卓見かもしれないことを今さら述べています。そこから、マルサスの原理を引きながら発展途上国の人口問題について、「世界の全人口に平等に食料が分配されていないことによる」とか「市場で売買される限り、どのような利用のされ方をされようと、価格の高い方に流れてしまう欠点がある」といった中学生の作文みたいなことを言います。
「ヒトの生死や健康に関する問題には、市場以外の論理がありうると考えている」とか「TPPをはじめとする市場経済化のシステムが、全面的に導入された次には、市場経済化だけでは解決できない数々の問題点が、具体的に明らかになってくるだろう」といった記述の意味自体はあいまいですが、農業は市場経済に委ねることなく、特別に保護しなければならないのだと考えてもそう間違っていないでしょう。しかしながら、ヒトの生死や健康に関わる産業は他にいくらでもあって、医療や医薬品は言うまでもなく、交通や物流は地震や津波などの被災地において農業などよりもはるかにヒトの生死や健康にとって重要であり、電気や水道のようなインフラなしで農業生産が維持できるはずもありません。地産地消などノリで言ってるだけだと思っているぼくにとっては、末原は経済システムを知らずに昔ながらの主張をひたすら繰り返す農業者団体と五十歩百歩の農業オタクに過ぎず、人口問題なんか料理の先付けか、刺身のツマくらいの扱いしかしていないように見えます。

鬼頭宏が残っていますが、長くなりそうなのでまた次回にします。





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