夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

人口減少をこの国の有識者たちはどのように理解し、どのような反応を示しているのか?【仮説の提示】

2016-05-01 | review

世界思想社が発行している小冊子がたまたま送られてきたので読んでみたら、なるほど人口減少という既に始まっている問題を各分野のいわゆる有識者たちはこういうふうに理解し、反応しているのだということが改めてわかったような気がしました。もちろんもっといろんな考えの人がいるのかもしれませんが、典型的なパターンがよく出ていておもしろいなと思った次第です。

巻頭の鬼頭宏は日本を代表する歴史人口学者なので後回しにして、山崎亮から見ていきますが、彼の主張は「豊かな『縮充』社会へ」というタイトルのとおりで、「現在の政府は人口減少を喜ばない。経済界もまた人口減少を喜ぶどころか憂いている」、しかしながら、「この国の国土に降った雨の量だけで日本人が暮らしていくには、人口4000万人くらいが適正だという説がある」のだから、「2200年頃に理想の人口規模へと到達する予定」であり、「うまい減らし方を発明することができれば、我々の生活を量的拡大から質的向上へと転換させることができるはずだ」というものです。
こうした『人口減少恐るに足りず』といった主張は以前にも触れたことがありますが、共通しているのは非科学的で、非論理的なことです。山崎の主張に即して言えばなぜ降水量で適正な人口規模が決まるのでしょう? 農産物のことを言っているのだとしたら、大量に食糧や食品を輸入していることはどう考えるのでしょう? 地球温暖化によって今後日本付近の降水量は変わると思わないのでしょうか? 挙げていけばキリがありません。そもそも別に今の日本の政府や産業界でなくても自国の人口が減り、しかもその構成が著しく高齢者に偏ることを喜ぶような政府や国民はまずこの地上にはないでしょう。
自分たちで地域社会を運営してきた江戸時代の結や講や連や座といった、網野史学っぽい概念を持ち出し、これを復活させるべきだ、その先駆者となるべきだと言うのが彼の提言のようなものですが、たぶん山崎は敗北主義者であり、退嬰的な発想の持ち主だと思います。非貨幣的な繋がりを重視するのは悪いことではありませんが、そうしたものだけで社会や経済が持続可能だと考えるのはサンシモンやフーリエといったマルクスらによって『空想的社会主義』と罵られた人たちよりもずっとおめでたい夢想家であり、現実逃避をしているだけでしょう。彼は町おこしのデザインやイベント企画をやっている人らしいですが、納得するものがあります。

中条省平はフランス文学からサブカルに進出してきた人らしいですけど、「反=人間主義としての人口問題」と題して述べる内容はよしながふみのマンガ『大奥』に全面的に依拠したもので、「煎じつめれば人口問題とは生殖問題にほかならぬ」という理解から、「なるほど、私たちは牛乳瓶に閉じ込められたハエだったのだ」というニヒリスティックな認識に至り、「人間から主体性や目的を剥ぎとり、純粋な機能としてのみ観察する人口問題とは、フーコー的な反=人間主義の徹底した実践の場なのかもしれない」と慨嘆したものです。
科学というのは元来そういうものですし、人間の主体性や目的を対象とする時もそれをブラックボックスや関数としてINとOUTを観察していくはずです。つまり意味自体をあえて論じないのが科学でしょう。もし意味自体を正面から論じたいのであればそうした作業と解析の後にすべきですし、更に様々な思考の熟練が必要です。
もっとわかりやすい例で言えば医療現場では、中条のようなむずかしいことを考えているつもりの大学教授でも、公園で無為に毎日を過ごすホームレスでも、同様の病状を訴えて来れば同様の検査をし、心身両面の異常を発見し、それに応じた薬や医療技術を用いて治そうとします。生命体が普遍的に持つ自然治癒力に大幅に依拠しているだけで、クルマの修理と手順は大して変わりません。
ふつうの精神科クリニックであれば患者が「私の主体性が発揮されていないのです」とか「人生の目的がわからなくなりました」とか「人口問題が反人間的なのが許せないのです」といったことを訴えて来院する人には、30分くらい話を聴いてるフリでもして、「お薬出しておきますね」と抗うつ剤の処方箋を書いて終わりじゃないですか。つまり中条は人口学とマンガの関連がちょっとわかってしまって、それに驚いたり、怒りを感じたりして、でも結局心の整理がつかずに泣き言を並べているだけなんだろうと思います。

山田昌弘は「階層下降移動と少子化」と題して、非正規雇用の増大を示し、中流生活が形成・維持できなくなるのを階層移動とし、「世代内下降移動」と「世代間下降移動」という言葉を使います。前者はふつうに貧乏になることで、後者は中流家庭の子どもが貧乏人になることだと言えばいいのに何を勿体ぶっているんでしょう。貧乏が嫌で家にずっといるのがパラサイトシングルで、中流以上の生活を求めて婚活しているのだという、誰でもわかっている話を自慢たらたら書いています。だから、かえって少子化の原因を見誤ってしまうのでしょう。
「日本で、将来少子化が止まるのには、2つのシナリオが考えられる。階級社会化が少子化の主因であるならば、階級社会化、つまり下降移動リスクの『増大』が止まると少子化は止まる」などと主張なのか、仮説なのか、単なる憶測なのか、ともかくさっぱりわからないことを言います。だいいち彼は階層と階級を終始一貫して無差別に使用するという、社会学者として失格と言うか、マジメに勉強して来なかったか記憶を失ったのだろうとしか思えない言葉遣いをしています。
2つのシナリオというのは、北欧やベネルクスのように社会政策を充実させて階層拡大を止め、出生率の回復を図る社会民主主義のケースと、アメリカのように階級社会を完成させるケースを言っているのですが、各国の世代間の階層流動性といった社会の実体や家族政策や高齢者や移民への社会保障といった社会政策の実情を知らない極めて粗雑な見方としか思えません。
そもそも日本で世代間の不平等、搾取があるから少子化が進展しているのか、その逆なのか、それを社会政策は防止しているのか、助長しているのかという問題設定すら、社会学者であるはずの山田は行っていません。つまりもっと社会保障を充実させるべきだという無内容な、時代遅れの言説をもごもご言っている小児のような左翼思想の持ち主だと言えるでしょう。

竹内幹の「少子高齢化時代の選挙運動」を読めば山田の誤りは明らかになるでしょう。「少子化の原因はさまざまだが、『社会が子育て支援を怠った』の一語につきる』とし、「社会保障制度の整備や、消費者文化の興隆によって、子どもを持つことの相対的価値は下がっていった。子どもを持たなくなったのは、そうした背景での(諦めざるを得なかった場合を含め)合理的な当然の選択であったといえる」と指摘し、「望ましい人数の子どもが生まれてくるために潤沢な財政支援をするしかない」と主張します。
さらに、高齢者に偏った社会保障とその費用負担を若者世代に押しつける政治を変えなければならないが、高齢者が多数では選挙で支持が得られないから、選挙制度自体を根本的に変える必要があると言います。地理的区分けではなく、20-30代の「青年区」、40-50代の「中年区」、60代以上の「老年区」に分け、世代ごとに代表を選ぶ「世代別選挙区」と言い、井堀利宏や土居文朗が提案しているそうですが、竹内はこれをさらに進め、各世代選挙区にその世代の平均余命に応じて議席を配分する「余命別選挙制度」を提案します。例えば25歳の人の意見は65歳の人の2.7倍の重みと責任があるとみなすわけです。




提案自体はまっとうなもので、そうなればいいと思いますが、そうなりえないからこうなってしまったのだと思います。最高裁に何度も違憲だと言われながら、年寄りの多い地方の1票は若者の多い都会の2倍まで価値があって当然だという前提で選挙制度を国会で恥ずかしげもなく延々と議論し続け、家族政策どころか、20年以上も保育所の待機児童対策一つ解消できないでいる、その非合理性と利己主義と、判断の先送りとお題目だけで済ませるオブスキュランティズムそのものの国会議員たちを選んできたのは主権者たる国民です。
竹内の言うような問題提起をこの国の政治家の誰一人として行ったこなかったのです。威勢のいい思いきったことを言う政治家は今世紀になってからでも何人かいますが、小さな政府といった手ずれのした姑息的政策の持ち合わせしかなかったように思えます。すなわち、自分が通り過ぎた若年世代から搾取し、社会や国家なんか知ったこっちゃない、自分だけぬくぬくと生き延びたいというのが国民の総意だと理解して何か矛盾があるでしょうか?

竹内は人口ピラミッドを平均余命でウエイト付けした図を描いて、「30年前に日本社会が元気だった頃と同じような人口ピラミッドとなる」と人口学的には意味不明な主張をしています。



絵に描いた餅を眺めて悦にいっている姿は、実験経済学とか行動経済学の専門家である竹内にふさわしいものです。どうやって餅である余命別選挙制度を実現させるのか、その際に社会や経済にどれだけのリスクやコストが生じるのか、そんなことを彼は考えようとしないでしょう。それに万が一彼の案が実現した場合であっても「社会の未来を担う若者世代に希望を与える選挙制度」となる可能性は決して高くないでしょう。すなわち、餅は社会や経済の根本である信頼関係を破壊する毒が盛られた餅だろうと思うのです。

学者が政治を始めとした現実にコミットすることに慎重であるべきだという、それ自体としては真っ当な考えは、日本では学者が自分の狭い対象領域、知的関心の中で無責任な餅を描いたり、箱庭を作って戯れることの言い訳としてしか機能していないというのがぼくの仮説です。人口減少という我が国にとって極めて深刻な問題に対してさえ、ひきこもりたちはドヤ顔で思いつきに過ぎないことをつぶやいて事足れりというありさまなのです。次回以降、他の人たちについてこれを論証していきましょう。







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