鬼頭宏は「歴史人口学から見た日本」において、「少子高齢化は日本だけの現象ではない。どの国でも、豊かになるにつれて死亡率が改善される。それにしたがって出生率も低下していく。これが人口転換である」という人口学の常識を述べ、日本では1920年頃から1960年代にかけて人口転換が始まり、実現したと言います。
ところが、その後も日本を含む主要先進国において、さらに出生率が低下し、合計特殊出生率TFRが2.00を下回ることになった背景として、「地球規模の人口爆発と経済成長に伴う、資源枯渇と環境破壊への危機感があったとおもわれる」と言い、日本に「課せられた少子化対策とは、40年前の静止人口の実現にほかならない」と主張します。これには少なくとも2つの疑問があります。1つ目は2回のオイルショックなどをきっかけに1972年のローマクラブの成長の限界がもてはやされましたが、その後、化石燃料の利用可能量が大幅に増えたり、省エネ技術の進歩などによって、こういった現代版マルサス主義的な危機感はさほど広くも長くも共有されて来なかったことです。地球温暖化の問題は人口問題とコンテクストが異なりますし、国家間協力によって取り組むべき問題と理解され始めたのは今世紀になってからではないでしょうか。
2つ目は日本は静止人口を目標にすべきと彼は言っているようですが、それが人口置換水準でTFRを長期的に安定させるという意味だとすると、そんな政策が特にTFRに働きかける政策に対して警戒心の強い日本で、果たして可能なのでしょうか。何より冒頭に掲げたのは鬼頭自身が示している日本列島の超長期の変動ですが、これによれば人口は増えていくか、減っていくかのどちらか、つまり発散ばかりしていて収束したためしがないようにしか見えず、どの時代よりも個人の自由が重視される現代でコントロール可能とはとても思えません。
ところが、鬼頭はすぐ後に「時代を先取りした日本が、人口減少下でどのような豊かさを実現するかが注目されている」と最初に取り上げた山崎亮のようなことを述べて、読者を混乱させます。そこで超長期の人口変動を持ち出すわけですが、「人口減退は縄文時代後半(4300~3000年前)、平安~鎌倉時代(12~13世紀)、江戸時代(18~19世紀初期)に起きている」と言います。縦軸が指数目盛ということもあるのか、縄文時代と現在以外は人口減退とまで言えるのかなと思いますが。
ともかく彼は「縄文時代後半の人口減少は、もっぱら気候の寒冷化によって日本列島の生態系の生産力が低下したことが原因であったと考えられる」と言うのですが、彼の他の著述を参考にして整理すると、遺跡数等からの推計でB.C.2500年に26万人であったのがB.C.1000年には8万人に、つまり1500年で8/26≒0.3に減少したということのようです。しかし、これにも2つ疑問があります。遺跡の数や規模から例えば関東地方では人口が減少が大きかったという推測はとりあえず認めるとしても、その原因が寒くなって例えばどんぐりやいのししが採れなくなったからということに直ちになるのでしょうか。寒くなったらかえって魚介類が豊富になったりすることもあるんじゃないでしょうか。
2つ目は1500年かけて18万人減ったことの解釈として、日本列島に来る人より、去った人の方が多いといった人口学の基本要素の1つである移住が考慮されていない、すなわち封鎖人口的な枠組みで考えてませんかということです。
ちょっと例を挙げて考えることにして、本国から遠く離れた辺境の地に1万人規模の師団があったとします。ケースAでは毎年100人が戦死するか、けがや病気で後方転送されて、それを補充するために100人が来ます。脱走したり、勝手に入ってくる軍人はいません。つまり人口学的に言えばこの師団のmortality死亡率を1%、fertility出生率も1%、migration純移動率は0%と見ることができて、静止人口状態にあるわけです。ケースBは毎年105人減少しているのに本国の都合で100人しか補充がなかったのが1500年続くという場合で、マイナス5×1500=7500人、つまり0.25まで減るわけです。もちろん100人減少しているのに95人しか補充されなかった場合でも同じです。1万人規模の師団ですから5人のズレなど大したことではありませんが、それが1500年間も規則正しく5人ずつ減るのは変な想定でしょう。例えば戦闘で数百人~千人規模が一気に減少し、その補充が先延ばしで不十分だったといったことが100年に一度くらいの頻度で起きたというシナリオの方がリアリティがありそうです。もちろん本国からその辺りはもういいから順次兵力を割いて、より重要な拠点に移動せよという命令が何回か来たでもいいわけです。
すなわち、地震や津波や火山の噴火といった天災や疫病の蔓延、部族間あるいは部族内の戦闘や大量虐殺といった人災、それらすべてを契機とした移住の方が気候の寒冷化よりもストーリーとしてましな気がしますし、少なくともそれらを排除する根拠はおそらく鬼頭も、日本の旧石器時代の考古学者も持っていないでしょう。ぼくは2000年11月に明らかになった旧石器捏造事件と藤村新一の発見と称するものをそれまで無批判に受け入れ、かつ発覚後は口を拭って平然としている経緯から、日本の考古学者はまともな知性や品性を持ち合わせていないと考えています。少しググればその黒歴史ぶりは明らかです。
それに縄文時代だけでなく、ずっと時代を下っても文字史料なしで何がわかるというのでしょう。大和朝廷以来ずっと日本の中心であった奈良や大阪や京都は掘れば何か遺跡が出てくるようなところですから、工事関係者は黙ってブルドーザーで押しつぶしてきたことくらい子どもでも知っています。補陀落伝説のようなものはあちこちにあるんじゃないでしょうか。文字史料のあるB.C.2600年頃のギザのピラミッドにしても今なお謎だらけなのではないのですか。文字史料も巨大な遺跡も残っていない時代なら何を言っても安全でしょうね。
それよりも以前にちょっと触れたロビン・オズボンが古代ギリシャのポリスの人口を算出しようとして、その植民市であるピテクサイについて前8世紀の終わりまでに5000人から1万人と推計する記述の方が1500倍は信用できます。68ページから72ページまで要点だけ抜粋してみます。
考古学や歴史人口学とは本来こういうもので、梅毒スピロヘータが新世界発見前にヨーロッパにあったのかといった知的好奇心をそそられるのですが、鬼頭に話を戻しましょう。彼は2番目の平安・鎌倉期の人口減退のプロセスはよくわかっていないと言いながら、荘園・公領制の社会への移行に伴う生産基盤への投資の減少とか、農民の生産意欲の減退とか言ってみたり、地球規模の気候温暖化(中世温暖期)が西日本を中心に干害を頻発させたのではないかと言ってみたりしています。どんな史料に基づくものかはともかく、A.D.1200年前後に100年かけて684万人から595万人に減少したということのようですが、これをケースCとすると595/684≒0.87ですから、1年間に1万人のうち13人ずつ減ったという程度のペースですから、仮説や憶測はいくらでも可能でしょう。それに彼も言うように「人口統計が存在しない」のですから、平家の落人伝説と頃合いもいいから、山奥や離島に逃げ隠れしたでもいいでしょう。いやいや、実は明治維新後も1920年(大正9年)の第1回国勢調査までの日本の総人口については諸説あるんです。
3番目の江戸時代の説明は彼の専門分野のはずなのに漠然としています。「18世紀に入る頃には、エネルギーと食糧の輸入がほとんどない鎖国下で、資源制約による成長の限界を迎えたのである」って、鎖国前だってエネルギーや食糧の輸入なんてほとんどなかったんじゃないかと思うんですけどね。「1世紀以上にわたる人口減退はたんに地球規模の寒冷気候(小氷期)によるものではなかった」って、これもA.D.1800年前後に3128万人から3330万人に、つまり3128/3330≒0.94になったって話なのでケースDとして1年当たり1万人につき6人の減少が100年ですから、成長の限界だの地球規模の気候変動でなくたって、地震でも火山でも蝦夷地とか外国に密航したでも史料の誤差の問題でも、なんでもいいと思います。
ぼくがいちばん気に入らないのは人口を気温の関数と見る考えが鬼頭の文章にチラつくところです。たぶん指数関数的に伸びるfertilityを1次関数的にしか伸びない農業生産力が押さえこんでいるというマルサス的な見方が前提にあって、気温の上下が農業生産力に連動するといった考えを組み合わせたものじゃないかなって思います。でも、そうした農業生産を軸にした理論っていつの時代のどこのデータを使っているんでしょうか。マルサスの人口論の最初の方には彼にとっては野蛮人そのものの無文字社会の話がいっぱい出てきますが、縄文人にも似てるはずの彼らの生産と人口の関係って、どう理解されているんでしょうか。さらにそれはどれだけ日本列島で再検証されているんでしょうか。マルクス主義の方の受容史からの憶測で言っちゃうと、この国の学者は無理やり型にはめて理解したり、定義論争でもしてるんじゃないかって気がするんですけどね。
現代の状況を見ても日本列島にとっては気温や台風を含めた気候よりも地震や津波や火山の方が大きな影響を及ぼしてきたと考えるのが常識的でしょうし、地球の長い歴史でも生物の進化や絶滅は地殻変動や隕石などの衝突といった不連続な要因の方が大きいように思います。そう思われていないのは気候の変化よりも観察しにくくて、地層などに残りにくいから、つまり気象学ほど地学は観測技術も機材も進歩していないのであって、地震学者が地球の中のことをさもわかったように言うのははったりであり、態度として傲慢じゃないかってことです。事実をありのままに見る誠実さの欠如という点では、過去にも現在と同様の人口減少の時期があったかのように言う人口学者とさして変わらないでしょう。
鬼頭はKボールディングを引用して、「戦争、途上国の経済的離陸の困難、人口爆発、そしてエントロピーの増大」が世界が文明後社会に転換しなければならない落とし穴だと言い、「エネルギー資源の低下や社会の活力の枯渇、社会の無秩序化を想像すればよい」と解説してみせますが、ぼくはエントロピーをこんなところに持ち出す、彼らの科学的知識の乏しさと軽佻浮薄な態度にうんざりしました。
それに肝心の日本の人口減少なり静止人口については、新しい伝統文化をつくりなした時代だったと礼賛までしちゃうんですから困ったものです。「縄文時代の豊かな造形表現と精神性、平安時代の国風文化、江戸時代後半の伝統文化を生んだ時代」と時間的、空間的にズレたことを無邪気に言ったために、芸術についての常識も理解もないことをさらけ出してしまっています。とってつけたような「新しい文明の芽を、地方から育むことが求められているのである」という体制におもねったような演説は歴史に残らない、人口学的でもない歴史人口学者の文章の締めくくりにふさわしいでしょう。
ところが、その後も日本を含む主要先進国において、さらに出生率が低下し、合計特殊出生率TFRが2.00を下回ることになった背景として、「地球規模の人口爆発と経済成長に伴う、資源枯渇と環境破壊への危機感があったとおもわれる」と言い、日本に「課せられた少子化対策とは、40年前の静止人口の実現にほかならない」と主張します。これには少なくとも2つの疑問があります。1つ目は2回のオイルショックなどをきっかけに1972年のローマクラブの成長の限界がもてはやされましたが、その後、化石燃料の利用可能量が大幅に増えたり、省エネ技術の進歩などによって、こういった現代版マルサス主義的な危機感はさほど広くも長くも共有されて来なかったことです。地球温暖化の問題は人口問題とコンテクストが異なりますし、国家間協力によって取り組むべき問題と理解され始めたのは今世紀になってからではないでしょうか。
2つ目は日本は静止人口を目標にすべきと彼は言っているようですが、それが人口置換水準でTFRを長期的に安定させるという意味だとすると、そんな政策が特にTFRに働きかける政策に対して警戒心の強い日本で、果たして可能なのでしょうか。何より冒頭に掲げたのは鬼頭自身が示している日本列島の超長期の変動ですが、これによれば人口は増えていくか、減っていくかのどちらか、つまり発散ばかりしていて収束したためしがないようにしか見えず、どの時代よりも個人の自由が重視される現代でコントロール可能とはとても思えません。
ところが、鬼頭はすぐ後に「時代を先取りした日本が、人口減少下でどのような豊かさを実現するかが注目されている」と最初に取り上げた山崎亮のようなことを述べて、読者を混乱させます。そこで超長期の人口変動を持ち出すわけですが、「人口減退は縄文時代後半(4300~3000年前)、平安~鎌倉時代(12~13世紀)、江戸時代(18~19世紀初期)に起きている」と言います。縦軸が指数目盛ということもあるのか、縄文時代と現在以外は人口減退とまで言えるのかなと思いますが。
ともかく彼は「縄文時代後半の人口減少は、もっぱら気候の寒冷化によって日本列島の生態系の生産力が低下したことが原因であったと考えられる」と言うのですが、彼の他の著述を参考にして整理すると、遺跡数等からの推計でB.C.2500年に26万人であったのがB.C.1000年には8万人に、つまり1500年で8/26≒0.3に減少したということのようです。しかし、これにも2つ疑問があります。遺跡の数や規模から例えば関東地方では人口が減少が大きかったという推測はとりあえず認めるとしても、その原因が寒くなって例えばどんぐりやいのししが採れなくなったからということに直ちになるのでしょうか。寒くなったらかえって魚介類が豊富になったりすることもあるんじゃないでしょうか。
2つ目は1500年かけて18万人減ったことの解釈として、日本列島に来る人より、去った人の方が多いといった人口学の基本要素の1つである移住が考慮されていない、すなわち封鎖人口的な枠組みで考えてませんかということです。
ちょっと例を挙げて考えることにして、本国から遠く離れた辺境の地に1万人規模の師団があったとします。ケースAでは毎年100人が戦死するか、けがや病気で後方転送されて、それを補充するために100人が来ます。脱走したり、勝手に入ってくる軍人はいません。つまり人口学的に言えばこの師団のmortality死亡率を1%、fertility出生率も1%、migration純移動率は0%と見ることができて、静止人口状態にあるわけです。ケースBは毎年105人減少しているのに本国の都合で100人しか補充がなかったのが1500年続くという場合で、マイナス5×1500=7500人、つまり0.25まで減るわけです。もちろん100人減少しているのに95人しか補充されなかった場合でも同じです。1万人規模の師団ですから5人のズレなど大したことではありませんが、それが1500年間も規則正しく5人ずつ減るのは変な想定でしょう。例えば戦闘で数百人~千人規模が一気に減少し、その補充が先延ばしで不十分だったといったことが100年に一度くらいの頻度で起きたというシナリオの方がリアリティがありそうです。もちろん本国からその辺りはもういいから順次兵力を割いて、より重要な拠点に移動せよという命令が何回か来たでもいいわけです。
すなわち、地震や津波や火山の噴火といった天災や疫病の蔓延、部族間あるいは部族内の戦闘や大量虐殺といった人災、それらすべてを契機とした移住の方が気候の寒冷化よりもストーリーとしてましな気がしますし、少なくともそれらを排除する根拠はおそらく鬼頭も、日本の旧石器時代の考古学者も持っていないでしょう。ぼくは2000年11月に明らかになった旧石器捏造事件と藤村新一の発見と称するものをそれまで無批判に受け入れ、かつ発覚後は口を拭って平然としている経緯から、日本の考古学者はまともな知性や品性を持ち合わせていないと考えています。少しググればその黒歴史ぶりは明らかです。
それに縄文時代だけでなく、ずっと時代を下っても文字史料なしで何がわかるというのでしょう。大和朝廷以来ずっと日本の中心であった奈良や大阪や京都は掘れば何か遺跡が出てくるようなところですから、工事関係者は黙ってブルドーザーで押しつぶしてきたことくらい子どもでも知っています。補陀落伝説のようなものはあちこちにあるんじゃないでしょうか。文字史料のあるB.C.2600年頃のギザのピラミッドにしても今なお謎だらけなのではないのですか。文字史料も巨大な遺跡も残っていない時代なら何を言っても安全でしょうね。
それよりも以前にちょっと触れたロビン・オズボンが古代ギリシャのポリスの人口を算出しようとして、その植民市であるピテクサイについて前8世紀の終わりまでに5000人から1万人と推計する記述の方が1500倍は信用できます。68ページから72ページまで要点だけ抜粋してみます。
まず、ある土地に入植した者全員が同じ都市の出身ということはあり得るでしょうか。あるいは、入植者たちが最初にそこまでたどり着くのに、どれだけの船が必要だったのでしょう。どれだけの食料が必要だったのでしょう。…前750年から前700年までの50年間のものと推定されている墓が、493基発掘されています。もしも墓の稠密度が墓域全体で均等だと仮定すると、この墓域にある墓の総数は9,860から19,720ということになるでしょう。このうち27%が周産期の胎児・新生児で、39%がおよそ14歳以下の子供の墓です。この数値だけでもう、こんな共同体だったのではないか、というイメージがわいてきます。平均して5~10日に1人の割合で大人が死亡し、火葬に付される。赤ん坊は1週間に1、2度の頻度で死亡し、土葬を施される。子供や下層の大人は、週に2度ないし1日おきの割合で埋葬されていたことになります。…古代ギリシャ世界の死亡率を示す統計などありませんので、他の社会から借用し…ローマ時代、紀元後12年から259年の間にエジプトで実施された戸口調査が最良のデータを提供してくれています。…エジプト女性に関するデータは…米国プリンストン大学の提示したモデル生命表の中の「西方モデル、レベル2」に一番近いようです。…エジプトにおける女性の死亡率は1,000人当たり42人から49人であり…当時の社会には現在「欠乏疾患」と呼ばれる病気が蔓延していました。…膀胱結石…くる病…眼病…頭蓋骨が肥厚化する症状(ポロティック・ヒュペロストシス)…骨膜炎…先天性トレポネーマ症…先天性梅毒…
考古学や歴史人口学とは本来こういうもので、梅毒スピロヘータが新世界発見前にヨーロッパにあったのかといった知的好奇心をそそられるのですが、鬼頭に話を戻しましょう。彼は2番目の平安・鎌倉期の人口減退のプロセスはよくわかっていないと言いながら、荘園・公領制の社会への移行に伴う生産基盤への投資の減少とか、農民の生産意欲の減退とか言ってみたり、地球規模の気候温暖化(中世温暖期)が西日本を中心に干害を頻発させたのではないかと言ってみたりしています。どんな史料に基づくものかはともかく、A.D.1200年前後に100年かけて684万人から595万人に減少したということのようですが、これをケースCとすると595/684≒0.87ですから、1年間に1万人のうち13人ずつ減ったという程度のペースですから、仮説や憶測はいくらでも可能でしょう。それに彼も言うように「人口統計が存在しない」のですから、平家の落人伝説と頃合いもいいから、山奥や離島に逃げ隠れしたでもいいでしょう。いやいや、実は明治維新後も1920年(大正9年)の第1回国勢調査までの日本の総人口については諸説あるんです。
3番目の江戸時代の説明は彼の専門分野のはずなのに漠然としています。「18世紀に入る頃には、エネルギーと食糧の輸入がほとんどない鎖国下で、資源制約による成長の限界を迎えたのである」って、鎖国前だってエネルギーや食糧の輸入なんてほとんどなかったんじゃないかと思うんですけどね。「1世紀以上にわたる人口減退はたんに地球規模の寒冷気候(小氷期)によるものではなかった」って、これもA.D.1800年前後に3128万人から3330万人に、つまり3128/3330≒0.94になったって話なのでケースDとして1年当たり1万人につき6人の減少が100年ですから、成長の限界だの地球規模の気候変動でなくたって、地震でも火山でも蝦夷地とか外国に密航したでも史料の誤差の問題でも、なんでもいいと思います。
ぼくがいちばん気に入らないのは人口を気温の関数と見る考えが鬼頭の文章にチラつくところです。たぶん指数関数的に伸びるfertilityを1次関数的にしか伸びない農業生産力が押さえこんでいるというマルサス的な見方が前提にあって、気温の上下が農業生産力に連動するといった考えを組み合わせたものじゃないかなって思います。でも、そうした農業生産を軸にした理論っていつの時代のどこのデータを使っているんでしょうか。マルサスの人口論の最初の方には彼にとっては野蛮人そのものの無文字社会の話がいっぱい出てきますが、縄文人にも似てるはずの彼らの生産と人口の関係って、どう理解されているんでしょうか。さらにそれはどれだけ日本列島で再検証されているんでしょうか。マルクス主義の方の受容史からの憶測で言っちゃうと、この国の学者は無理やり型にはめて理解したり、定義論争でもしてるんじゃないかって気がするんですけどね。
現代の状況を見ても日本列島にとっては気温や台風を含めた気候よりも地震や津波や火山の方が大きな影響を及ぼしてきたと考えるのが常識的でしょうし、地球の長い歴史でも生物の進化や絶滅は地殻変動や隕石などの衝突といった不連続な要因の方が大きいように思います。そう思われていないのは気候の変化よりも観察しにくくて、地層などに残りにくいから、つまり気象学ほど地学は観測技術も機材も進歩していないのであって、地震学者が地球の中のことをさもわかったように言うのははったりであり、態度として傲慢じゃないかってことです。事実をありのままに見る誠実さの欠如という点では、過去にも現在と同様の人口減少の時期があったかのように言う人口学者とさして変わらないでしょう。
鬼頭はKボールディングを引用して、「戦争、途上国の経済的離陸の困難、人口爆発、そしてエントロピーの増大」が世界が文明後社会に転換しなければならない落とし穴だと言い、「エネルギー資源の低下や社会の活力の枯渇、社会の無秩序化を想像すればよい」と解説してみせますが、ぼくはエントロピーをこんなところに持ち出す、彼らの科学的知識の乏しさと軽佻浮薄な態度にうんざりしました。
それに肝心の日本の人口減少なり静止人口については、新しい伝統文化をつくりなした時代だったと礼賛までしちゃうんですから困ったものです。「縄文時代の豊かな造形表現と精神性、平安時代の国風文化、江戸時代後半の伝統文化を生んだ時代」と時間的、空間的にズレたことを無邪気に言ったために、芸術についての常識も理解もないことをさらけ出してしまっています。とってつけたような「新しい文明の芽を、地方から育むことが求められているのである」という体制におもねったような演説は歴史に残らない、人口学的でもない歴史人口学者の文章の締めくくりにふさわしいでしょう。