夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

過ぎたるは及ばざるを超える。

2016-02-16 | monologue
儒教を奴隷道徳と罵ったのはヘーゲルだったか。
マルクスの宗教はアヘンだという言葉は、これの延長拡大と言ってもいいだろう。
すべての宗教は初めは狂気をはらんでいて、家族も親友も断ち切れと命じ、人々に凶器を持たせる。
だが、ニーチェが喝破したようにやがて宗教は馴致され、支配者のためのイデオロギーと成り果てる。
こうした宗教史や思想史とやらの法則めいたものから言えば、中庸を説く孔子の教えは当初から宗教でもなんでもない。
それが証拠に世界各地にいるチャイニーズが好むのは関羽や道教系の淫祠邪教とまでは言わないけれど、まあマンモニズムに近いもので、大阪のえべっさんと同類だ。

したがって、中原の覇者たらんとした始皇帝が焚書坑儒で弾圧したのも過大評価と言うか、癇に障っただけなのかもしれない。
織田信長が戦った真の敵は狂気ばしって一向になびかない一向宗だったろう。
だから、豊臣秀吉が疎んじ、徳川幕府がキリシタン弾圧を加えたのは檀家制度に組み込めなかっただけではないのはもちろんだ。
浮かれて過熱した信者側と、それを利用したイベリア半島の政治家の走狗に過ぎなかった神父たちに責任があるわけで、だからこそ彼らはバチカンによって聖者の類に列せられていたりするわけだ。アーメン。

さて、ぼんくらの思想史家や凡百の政治学者をちょっと超える程度の見識しかぼくは有していないから話題を変えよう。
ぼくが同年代の友人で唯一ずっと尊敬している男は学生時代から一貫してベルリオーズの熱狂的なファンだ。
昨年だったと思うが、その彼と2人きりで飲んでいて、開成高校在学中に10段のスコアの曲を書いていたと聞いて、呆れるとともに自分の眼力を再確認した。
仕事はテキパキ、苦境にも動じないのはご苦労さんとしか思わないが、イタリアのハロルドを聴いた時は滅茶苦茶じゃないか、こんにゃろと思った。
今もベルリオーズのレクイエム、正確には"Grande Messe Des Morts, Op. 5"を聴いているけれど、これが"Lacrymosa"かよ、ふざけるなと感嘆するほかない。
天才の書く音楽はしばしば変で、特に若い頃のはそうなんじゃないかと思う。
ヴァーグナーがバイエルン国王を精神的に支配する前の作品、モーツアルトが18歳頃に書いたト短調とイ長調のシンフォニー以外の作品、バッハが旅立つ長兄に捧げた作品、どれも何を考えてるんだ?とぼくを惑わせる。
ベートーヴェンのストリングストリオや若くもないが、素人のまま終わったアイヴズも同じような匂いがする。
つまりやり過ぎで過剰なのだ。

やり過ぎはよくない。
マーラーやショスタコーヴィッチのようにほどほどの慎重さが必要だ。
ブラームスのようにうじうじしているのよりはいいのだけれど。
ここまで挙げた作曲家の1/10でも才能のある日本人は寡聞にして知らないから、芸大の作曲科は売れるJ-Popの量産の仕方でも教えた方がいいんじゃないか?
J-Popの最近の劣化ぶりは目じゃなかった、耳を覆いたくなる代物ばかりだから。
ぼくより反応速度が遅いリフ弾くなよ。
観客を逝かせられないならライヴはアイマスやラブライブで十分だとアキバを歩いてて思わないのか?

つまり中間管理職など、もうちょっとしたら安いAIに取って代わられるだろう。
マネージもできないくせいにドラッカーを読んでも無駄だ。
オペレーションは、
臨床において、
投資において、
何より戦闘において、
重要だ。
これができない人間は使えない。
そんな人間をoperationn staffだと自分を規定しているぼくは員数に勘定しない。
そうした無駄飯食いは論語でも読んでいればいい。
危険なのが嫌いなんだからさ。





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