夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

オトナげない日本の私

2017-08-12 | monologue
 記事を休んでいる間に3件コメントをいただいた。奇特なことだと思うけれど、人に読まれる可能性のない文章を書くことがない自分とは根本的に違うというだけのことかもしれない。特におもしろいと思ったのが、この記事への次のようなコメントだった。

突然のコメントお許し下さい。
私はあなたのように知識を持ってはいないので、至極興味本意に目を通させて頂きました。
やはり、私のようなものでは理解できる内容ではありませんでしたが、記事を読んで、語り口調は上から目線ですが、あなたの事は嫌いではないなと思いました。
ただそれだけです。
この程度のことでコメントをするなとお思いになるかもしれませんが、あなたの事は嫌いではありません、話し方はむしろ好感がもてますね。
ただ、誠に賢い人は伝えたいことを伝えたい人にわかりやすく伝えることができる人間です。
けれど、どちらかというと、自分の意見に悦に浸る感じで、そういうことを望んでいるようではないようなので、ただの戯言だとでも思っておいてください。興味深かったです。失礼しました。



 慇懃無礼というのはこういうのを言うのだろう。おそらくこの人がつまずいたのは記事の中のこの個所じゃないかと憶測する。

あ、先に言っておくけど、この一連の記事にはちゃんと画像で証拠を挙げていくつもりだから、批判も反論も自由だけど、「おまえはそんなにえらいのか?」みたいな外在的な・くだらない非難はやめてね。「あなたよりはましですけど」としか言いようがないから。実際、石丸晶子のいい加減な本を批判した記事で、春日井とかいう人が寄こしたコメントがそんな感じだったから。


 たぶんプラトンとかアリストテレスで検索してヒットしたこの記事への反感と予防線にムカッときて、それで賢しらぶっているけれど、自己満足しているだけで本当には賢くないと遠回しに、いや直截に嫌味を言いたかったのだろう。それこそ外在的でくだらない。閑人というのは時間を持て余しているだけでなく、何か不足しているような気がする。しかし、ネットの書き込みを見るにつけそういう人は事欠かない。「あなたのために言っているのよ」おためごかしは自分のためと言った方がいいか。でも、そんなことで内在的で意義のある議論は可能だろうか。

 ぼくの文章がしばしばアグレッシブで人の感情を逆撫でするものなのは自覚しているし、オトナげないと思わないでもないが、それがどうした? 文章は要は内容であり、いかに読者の感情を揺さぶるかではないのか。「オトナになれよ。バカを相手にしてもつまらない」しかし、ヘーゲルやニーチェやマルクスは自分より程度の低い人間をムキになって罵倒していたではないか。だのに今の日本の学会や論文と言えば慇懃無礼な遠回しで空虚な内容ばかりで、海外の学会での容赦のない批判と真剣勝負の議論と比較にならない。どちらがオトナなんだろうか。


 

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