夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

北朝鮮において客観的な歴史は可能か?4.

2016-06-20 | review

 重村智計は書の末尾を「国際教養の時代――翻訳・通訳文化からの脱皮」と題して、次のようなことを書いています。




 古典を読め、リベラル・アーツで真の教養を身に着けろと言うのは1945年生まれの人らしいお説教ですが、フクヤマの「歴史の終わり」を現代の古典に挙げている時点で、お里が知れるといったところです。ということで、彼自身の教養の内実を見てみましょう。



 ヘーゲルの原典を読んでもさっぱりわからず、伝記を読んで「あー、世渡り上手のオポチュニストで曲学阿世の徒なんだー」と合点したそうです。ニーチェはヒトラーに利用されたけど、世渡り下手だからいいんだそうです。何より木田元を頼りにしていますね。ちょっとマジメに哲学関係の本を読んでいれば木田なんぞニーチェやヘーゲルの足元にも及ばないことくらいわかりそうなものなのに困ったものですね。お手軽なところで済ませたんでしょうか。

 たぶんこんな調子で、トゥキディデスやマキャベリやホッブスらの本を読んで、「おれ、古典読んでるから」とドヤ顔をしているのでしょう。幸せな人です。彼のおめでたさは次のような箇所に典型的に表れています。



 厳しい冷戦構造の中で、貧しい環境を乗り越え、夢を実現する固い決意を持ち続け、たゆまぬ努力を積み重ね、国家のため民族のため、骨身を惜しまず働いている、南北コリアにはそうしたすばらしい人がいっぱいいるんだよってなところですか。「おれも沖永良部島出身なのに刻苦勉励して毎日新聞の記者になり、今や南北コリアの第1人者さー。エリートの和田春樹なんぞ問題じゃねえぜ!」といった重村の魂の叫びが聞こえてきそうです。いや、ホント。

 でも、重村はこういうことを考えたことがないのでしょうか。人を生まれや育ちで判断してはいけないということを。いや、逆に逆境に育ったからこそ、えげつない汚職や国家・国民への背信行為をする政治家や役人がいたり、事実を捻じ曲げるのも論文の剽窃をするのもへっちゃらな学者がいたり、朝鮮総連やその他の圧力団体が公然と、あるいは陰湿に様々な圧力を物理的なものも含めて、行使してきたりもあったんじゃないかということを。おれたちは社会や世間からひどい目に遭わされ続けたんだから、これくらいやったっていいんだ、やって当然なんだと。こうした弱者の、あるいは民衆の嫉み妬みの恐ろしさをニーチェは容赦なく暴いたんですけどね。

 朝鮮半島の民族の歴史は、侵略されっぱなしで、強い中国に媚びへつらい、弱い庶民を搾取するばかりで、党派争いに明け暮れるような王朝ばかりだったと重村自身が指摘しています。そして、戦後も北は世襲王朝が続いているようなもので、南もほとんどの大統領は自分の身内、地元のことしか考えていなかったとも言っています。すばらしい人はどこの国でも、どの民族にもいるに決まってるんで、それがどうしたと言いたくなるような重村の脳天気ぶりをこれでもかと見せつけられても、とても彼のいう意味での教養のある人間には見えません。その国の政治を歴史的に見て行けばその国の民度がわかるとは思わないのでしょうか。いや、たぶん死んでも思わないでしょう。彼はソクラテスについて次のように書いているからです。



 冒頭に掲げたのは「ソクラテスの弁明」のホンの出だしの部分です(18A-D)。岩波書店の全集で言えば3-4ページ目です。ここだけでもちゃんと読めば、ペロポネソス戦争の敗戦との関連で、民主派と独裁的なテロリストらとの党派争いが生じ、それを背景として民主派のアニュトスが糸を引いてソクラテスが告発されたこと、しかしそれ以上に後者のポピュリズム的な軽薄だけれど、陰湿で恐ろしい連中がずっとソクラテスを陥れようとしていたこと、何よりそのすべてをソクラテスは十分承知しながら、アテナイの市民、とりわけ若い人たちとの対話をやめようとはしなかったことがわかるでしょう。一体重村はこの本のどこをどう読んで、よくわからないだの歴史の謎だのと世迷言を垂れ流しながら、ふらふら余計な本を読んでいるのでしょう。これでは古典に通じた教養人気取りの半可通以下の臭みが堪らないと言わざるを得ず、古典などさっぱり読まない若い人の足元に置いた方がいいように思うのですが、いかがでしょうか。










最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。