
旅から戻ると、宇八はその足で病院に行った。かねてから決めていた大学病院であった。無駄な時間や手間を掛けたくなかったからだった。しかし、自覚症状を何人も違った医師に説明し、脊髄に針を刺すような苦痛を伴うものを含め多くの検査に付き合わなくてはならなかった。その間は駅前のカプセルホテルに泊まっていた。5日ほどして入院が命ぜられ、決まったわけではないがと、しつこく念を押されながら診断名が初老の医師から告げられた。それも家族がいないのか何度も尋ねられた上でのことであった。彼は妻が8月に死んでから天涯孤独であると初診時から強調していた。手帳や輪子の手紙は旅の途中に捨てていた。
その病名は彼の予想通り、筋萎縮性側索硬化症(ALS)であった。照岡という彼の主治医になったその医師は、彼がその病名もその病気の経過もおおむね理解していることに驚きの色を隠せないでいた。その知識に驚いたのではなく、彼が少なくとも表面上、何の動揺も不安も抱いていないように見えたからである。必ずしもそうではないことは我々が見てきたとおりなのだが。……
では、ここで彼の理解していた程度にこの病気について紹介しよう。ALSは運動ニューロンが系統的な変性を来たす、すなわち運動を司る神経のシステム全体が機能しなくなる難病であり、根本的な原因も治療法も未解明である。手の筋力低下、嚥下障害、軽い言語障害などの初期症状から、症状は次第に進行し、全身の筋力が低下していく。手足が動かせなくなり、人によって早い遅いはあるが、やがて指一本動かせなくなり、全身で動かせるところと言えば目の動きだけになってしまうという病気である。ただそれにもかかわらず、視覚、聴覚、知能にはなんら異常はなく、意識は鮮明である。すなわち、この病気を発病すると、泥人形のような肉体という棺桶に生きながら葬られてしまうのである。
さらに、神経システムの崩壊は容赦なく進み、ものを飲み込むことも呼吸をすることも不可能になる。その際に、気管を切開して、経管栄養と人工呼吸に移行すれば延命は可能だが、これをせず、自ら死を選択する患者も少なくない。これは自らの将来に絶望(どうして絶望せずにいられようか)してだけではなく、家族の経済的、心理的負担を取り除こうという気持ちからである場合が多い。
さて、これといった治療法がないということは、病院としては稼げない患者だということである。薬や検査を行って病院は経営を成り立たせている。ただ寝ていて、手間だけ掛かる患者がいてもらっては迷惑なのである。退院を余儀なくされ、家族に多大の負担が掛かる自宅療養を強いられるというのがこの物語の当時の状況であった。……
宇八の場合、初期症状を自覚してから進行が早かった。たとえ覚悟があっても、感覚が切り取られていく恐怖と戦いながら、病院で過ごす毎日は苦痛であった。収入も身寄り、すなわち引取り先もない生活保護の患者として、8人部屋に入院した宇八を病院側が丁重に扱ってくれるはずがないと、彼が考えたのはひがみだとしよう。しかし、病院の生活は極めて即物的なもの(それはそうで情緒的であっては業務は滞ってしまう)であり、慈悲深く、余裕のある看護婦ばかりではないのである。ろれつの回らない患者が何を言っているのか、耳を傾ける暇もないことが多いのである。たとえわかっていたとしても、忙しかったり、面倒だったりすれば笑顔で無視することが許されよう。患者が水を飲みたいなら、日勤と夜勤の引継ぎ時間といった忙しい時間は避けてもらわなくては困る。小便や大便なら、しばらく我慢するか、できないならおむつをする他ないだろう。患者の方は、朝起きるとため息が出るほど白々と何もすることがない、いや何もできない一日が広がっている。看護婦の動静に気を配り、どの時間なら頼みやすいか耳を澄ます。できるだけ聞き取りやすい声が出るよう練習をする。……こうやって、人格の表面にやすりが掛けられ、『患者』が出来上がっていく。
ソクラテスさんよ。あんたは善い人には悪いことは起こらないと言ったよな。今のおれを見てどう思うかね。……わかっているさ、魂の問題だろ? そいつは正しい、真理だ。だから、おれもここに居る。しかし、少しは同情してくれてもいいんじゃないか? だから、あんたは嫌われるんだぜ。おれもどこまでやせ我慢できるか自信がないんだ。もうおれにかまってくれるのは、窓のところに来るカラスくらいさ。……