夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

ジャパン・レクイエム:Requiem Japonica(47)

2005-11-07 | tale

 梅雨入りしてまもなく、栄子は2度目の帰宅をした。前回と同じく2泊3日である。タクシーで着いて、アパートの玄関から部屋の布団まで、宇八が抱きかかえていったが、何か空箱のような軽さであった。輪子が気力をなくしてしまっていたため、部屋があまり片付いていないのも、もう気にしなかった。二人が結婚した頃の話をしたがり、コロッケが食べたいと言った。一緒になった、1955年頃は本当に貧しかった。銭湯に行くおカネもなく、春から夏はたらいに水を張って、流しの前でよく行水をした。栄子がやり繰りをして、初めて買った『電化製品』がラジオだった。楽しい歌やドラマで狭い部屋がいっぺんに明るくなった。それから、アイロン、扇風機、炊飯器と月賦もしながら、少しずつ買っていった。そのたびに部屋の中が見違えるように見え、豊かになったように感じた。テレビなんてお金持ちの買う物、それより子どもが先よ、よくそう言ったわね。

「あんまりいっぺんにしゃべらない方がいい」
 宇八はそう言い聞かせた。
「大丈夫よ。でも明日も明後日もここにいるものね……」
 次の朝、栄子は夫に言った。
「お父さん、身体の具合が悪いんじゃないの?」
 その透き通った静かな声に宇八はどきりとした。
「いや、疲れているかもしれんが、大丈夫だ」
「そう。無理しないで、早めにお医者さんに診てもらわないと」
 口の中で「そうだな」と答えて、外に出てタバコを取り出そうとする手が震える。「もう少しだ。おれの役割も」深い意味もなく、彼はそう呟いた。

 その日一日、栄子は楽しげだった。こんな軽口を叩いていた。
「あんたもレクイエムなんて辛気臭い音楽を作らないで、美空ひばりとか森進一が歌ってくれるような曲を作れば良かったのよ」
「そんな才能、おれにあるかよ。ああいうのがいちばんむずかしいんだぜ」
 宇八は楽しそうに応じた。また、こんなことも言っていた。
「あたしが死んだら、お棺にカモノハシのおもちゃを入れてね?」
「あれは、おもちゃじゃないと言ってるだろう」
「そうね、おもちゃならもっと売れたものね」
 3人とも明るく笑った。しかし、笑いすぎてはいけないのだ、このゲームは。ほら、ゲームに負けた輪子が外に出て行った。15分は戻らないだろう。……

 病院に戻る日は雨だった。もうこのアパートに帰ってくることはないと栄子が思っているのが、宇八にはよくわかっていた。狭くて貧相でも、住み慣れた我が家である。二人ともほぼ同時に、ここに来た日にも雨が降っていたことを思い出し、顔を見合わせ、少し笑った。相手がそのまま泣き出すかと思ったが、涙はこぼれなかった。
「2月の寒い日だったな」
「……もう9年も前よ」
 指を折りながら栄子は応じた。そんなふうにして、栄子は病院に帰って行った。帰って? 彼女の居るべき場所、日常はもうあの病院にあるのだった。彼女にとっても、家族にとっても、病院に居る方が平穏な時間が流れ、休息できるのだった。

 栄子がいなくなって、また元どおりのがらんとした部屋に戻った。夜になるとよけいにそう感じられた。夜中に目が覚めるなどということは宇八にはない。しかし、それが夢だとは感じられなかった。かと言ってその内容を考えると現実のことと考えることもできない。こういう状態に置かれるとそんなどっちつかずのこともあるのだろうと朝になって考えたのだった。だから、我々としてもこれから述べることについてそのように受けとっていただきたいと願う次第である。枕元に双子の片割れの紘一が座っていたのだった。ナツメ球の下であるから、彼ともはっきりしないし、その表情もわからない。宇八は紘一が来たこと自体は少し驚いたが、その理由はなんとなくわかった。

「いよお、どうだあっちは?」
「ふむ。まあまあだよ」
「思ったとおりってわけか」
「いや、そんなわけにはいかない。……わからないから、やってみたんだが」
「あん時はびっくりしたぜ」
「そうだろうな。迷惑かけたな」
「そうも思ってないくせに。あんな変なことを考えるんだから」
「変なことかな? 世間の奴らが言うならともかく、おまえもそう思うか?」
「思うね。思わないと同じことをやっちまうじゃないか」
「はは。双子だからな。気持ち悪く思ってた方が安全か」
「安全だな。……いや、おれだってすぐにはわからなかった。しかし、おまえが書き残したものを読んでたら急にわかった。わかって、なんてこと考えやがると思った。しかし、あれはインドの……名前を忘れたな、あいつの真似なんだろ?」
「ヒントの一つはそうだ。するっと身をかわすってところはな」
「身をかわせたのか。じゃあ、あそこに残ったのはなんだ?」
「元々、あの朝からおれはあそこにはいない。書き終えてからは人形みたいなもんだ」
「ふん。二重三重に目くらましをしてたってわけか。なぜそんなことをした?」
「だいたいはわかってるんだろ?」
「だいたいはな。だから聴きたいんだ」
「好奇心さ。ひょっとするとこの世界はそうなってるんじゃないかって思ったら、確かめたくなるじゃないか」
「それだけか?」
「それだけさ。おまえがそんなことを言うのはおかしいな」
「おかしくなるような状況だからな。おまえまで出てくるし」
「それはご愁傷様。しかし、おれは気晴らしをしてやろうと思って来たんだぞ」
「どんな趣向だ? 気晴らしなら大歓迎だ」
「おまえの好きなソクラテスさ。『パルメニデス』は読んだことあるな?」
「うん、しかしあれは異常にむずかしい。古今東西あんなむずかしいものはないだろう」

 ここで、薄暗い中で言葉を交わしている二人を少し離れて『パルメニデス』について簡単に紹介しよう。この作品は執筆当時より80年ほど過去の設定(つまりプラトンが生まれる前である)で、ごく若いソクラテスを登場させて、65歳くらいのパルメニデスとその弟子の40近いゼノンと対話させたものである。ゼノンはもちろん「アキレスと亀」や「飛ぶ矢は動かない」といった、運動と無限についてのパラドクスの発明者である。ソクラテスは、論理を突き詰めていくことで、「実のないたわ言の深みみたいなところに転落して破滅するのが落ちではないか」という不安を持っている。パルメニデス自身も「この年で論理の海原のこの広さ、この難所をもつところを、どのようにして泳ぎ切るべきか、身に覚えがあるだけに、大いに恐ろしく思っているのだ」と怖れを口にしながら、「どうせこれは本格的な仕事の形をしてはいるけれども、他方また遊びという面ももつものなのだから」というようにも言っている。では、彼らがそんなふうに言い表わしていた当のものはなんだったかと言えば、結論だけを取り出してみれば、「一がもしあるとしても、またあらぬとしても、一と一以外のものとは、自分自身に対する関係と相互の関係において、あらゆる仕方であらゆるものであるとともに、またあらぬのであり、そのように見えるとともに、そうは見えないことになる」というものである。これではさっぱりわからないと思うのがふつうであろうし、無理をしてわかったふりをしても禅問答のようなことになってしまうだろう。……しかし、もちろんどちらも間違いである。

「はは。あれほど論理的でわかりやすいものもないだろう? ゼノンのパラドクスと同じじゃないか」
「なんだ? あれを、あそこに書かれた言葉をすべて真に受けるってことか?」
「そうしかないだろ? わかったか?」
「わかる、と同時にわからん、と言うべきなんだろうな」

 その後、紘一は何かを言った。いや何かを示したといった方が正確だろう。言葉を使ったとは宇八には思えなかったから。しかし、それによってその夜だけであったとしても確かに気晴らしにはなった。この世界がもっと違った様相をしているのを垣間見た気がしたからだった。とは言え、現実というものはそうそう簡単に彼を解き放ってはくれなかったのだが。……おれたちは奇妙な、古ぼけた観念で結び付けられていると白々と夜が明ける中で思った。


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