夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

ジャパン・レクイエム:Requiem Japonica(51)

2005-11-21 | tale

 9月15日当日は、暑さは残るものの良い天気だった。アパートの近くの集会所を借りて、白いテーブルクロスを掛けた会議机の上に骨箱と写真を置いて祭壇ふうにし、ちょっとした酒とつまみを出した。宇八は特にあいさつするわけでもなく、ビールを片手に、「じゃ、始めましょうか」と言って、グラスをちょっと差し上げただけだった。教会でもなく、僧侶を呼ぶわけでもなく、儀式性というものを欠いているから、達子と光子が密かに言葉を交わしたように、「なんだかしまりのない集まり」だった。
 その場に集まったのは、正一、達子、光子、昭三、純子、そして宇八と輪子だった。欽二には連絡もしていなかった。純子以外は栄子と血のつながった兄妹しか出席しなかったのは、宇八のここのところの態度が影響していた。

 これらから宇八はどうするつもりなのだろうという話がひそひそと噂されていた。
「新しい、若い奥さんでももらうんじゃないの」
 その辺りがちょうどいい想像であるらしかった。そう考えれば栄子が死んで以来の薄情な態度も理解できるし、自分たちとしても縁を切っても後ろめたさがない。そうしたことで、輪子は異常にちやほやされた。やれ寂しいだろう、やれ困ったことはないか、学費は足りるかと口々に心配する。東京の月子のところに行くと聞くと、高校はちゃんと卒業するのか、あいつに任せて大丈夫かと昭三を詰問する始末。父親の昭三も純子もそんな話は聞いていなかったので、答えに窮していたのだが。

 一時間ほどしたところで宇八から、栄子と結婚以来、みなさんにはいろいろとお世話になった、特に入院してからは我々をよく助けていただいた、お礼申し上げたいと、聞きようによっては別れを前提にしたようなあいさつをもたもたとしゃべった。達子がこれからも水臭いことを言わずになんでも相談してくれと声を掛けたが、頭をひょいと下げるだけだった。参列者たちはなんとなく気がかりになりながらも、まあ、ああいう性格だからと納得することにして、帰って行った。

 その夜、輪子が改まった様子で父親の前に座った。納骨を済ませたら、すぐにでも東京へ行きたい。学校には退学届を出したいので、署名捺印をお願いしたいと言う。宇八は簡単に了承し、娘が書いた退学届の文章をちょっと見て「まあ、いいだろう」と言いながら、署名し(その時は手が震えるようだった)、「ハンコはおまえが押しとけ」と言った。輪子は退学届を持って少しぼんやりしていたが、もう一度父親の顔を見て、頭をぺこっと下げた。

 3日後、輪子は出て行くことになった。駅まで送って行った。大きな綿雲がゆっくりと動いている晴れた日だった。娘は体操服などを入れていた紺色のバッグ一つしか持っていなかった。お互いほとんどしゃべらないから、道は長く感じられた。暗いガードをくぐって商店街に出る。パチンコ屋からやかましく聞こえるマーチがかえって沈黙の重さを振り払ってくれる。駅に着くと輪子は彼に「あとで読んで」と言って、手紙を渡そうとする。彼がそれを取り損ねて落としてしまったのを娘に拾ってもらい、交換のようにして、彼は幾許かのカネを入れた封筒をおずおずというふうにして差し出した。
 娘は旅費と当座の生活費は既にもらっていたこともあり、意外そうな顔をして父親の顔と手元を見てためらっていたようだが、やがてそれを受け取り、「じゃあ」と父親とよく似たあいさつをして改札口に向かった。

 アパートに帰る途中、土手の下のコンクリートの縁に腰かけて、輪子の手紙を読んだ。

 お父さん。面と向かうと言いたいことも言えないで、お父さんに言い負かされてしまうし、わたしも冷静になれないと思うので、手紙にしました。幼稚な文章だと思うけど読んでください。
 わたしは、お父さんに好かれていないってずっと思っていました。わたしが何をしているのか、何に関心があるのか、何をしたいのか、そういうことにお父さんは全然関心がないんじゃないかって。わたしは子どもの時、お父さんが好きだったけど、今はもうわからない。お父さんから答えがないから、疲れちゃったんだと思う。ごめんなさい。
 でも、誤解しないでください。お父さんが嫌いになったから、東京へ行くんじゃない。お母さんがいないアパートにいるのが寂しくて、いやなんです。東京に行って何をやるのかってことも訊いてくれなかった。それはさみしかったけれど、少し助かったのかもしれないと思います。お父さんはいつもそういう人なんだよね。言ってることとか、やってることは変なことなんだけど、後で考えるとそうでもないのかなって思ってしまう。だから、何にも言えなくなってしまう。
 お父さんは、人間は機械じゃない、哺乳類だって、よく言ってたよね。それって、人間らしく生きろってことなんだろうか。立派なことだと思う。でも、わたしは哺乳類にとっていちばん大事なのは、子どもを育てるってことだと思う。わたしもいつか子どもを産んで、育てることになったらお父さんのことがもうちょっとわかるのかもしれないって思います。でも、今はお父さんと違った生き方をしなきゃって思ってるから。
 やっぱりうまく書けないや。うまく書けるようになったら、また手紙を書きます。バイバイ。

 宇八は読み終わると、「これだけ書ければ育ったってことさ」とつぶやいて、手紙をポケットに突っ込んで立ち上がった。土手の家が育てているけいとうが目に入る。もたもたした垢抜けない花だが、その固いセーターのような温かみは懐旧の念を起こさせるものだった。あの子が生まれる頃は、栄子は大変だったろうと思う。一緒になって10年近く子どもができず、もうあきらめかけていたところだったので喜んでいたのもつかの間、7年も前に別れた女が男の子を連れて、認知しろと怒鳴り込んできたのだから。自分としても身に覚えがないとは言わないが、はいそうですかという気にはとてもなれず、突っぱねた。栄子の腹を見たあの憎々しげな顔は忘れられない。男の子の顔は何も憶えていないが。栄子は自分がよせと言ったのに何がしかのカネを渡しのだろう。晴れ晴れとした顔で、もう済んだわと言っていたから。だからだろうか、あの時の話は二度としなかった。不満のあるとき、昔を懐かしむとき、言いたくなるようなことはいくらもあったろうに。……

アパートの部屋は、最初に妻が入院した時と同じようにガランとしていた。しかし、ここも引き払ってしまうつもりだった。ようやくここまで来た、もう少しだと思っていた。
 家財道具の処分とアパートの契約の解除に一週間近くかかってしまった。電気、水道、ガス、電話等々の契約の解除も慣れないために要領よくできず、日数を要してしまうのだった。だが、そのことでいらいらしたりはしなかった。要領が悪い自分は今さら変えようがないと別の自分が客観的に見下ろしていた。……

 大家に鍵を返して、契約の解除を済ませた。これからどうするといった詮索をしないのがありがたかった。これでもう独りになれたかな。ああ、一人残っていた。駅前の公衆電話で欽二の家に掛けた。不在だった。しばらく旅行に行くので、伝えておこうと思っただけでと欽二の妻に言った。短い旅行と思ったのか、それはご丁寧に、また帰られたらこちらにも寄ってくださいと言うのに、では失礼しますと応えて切った。20年来の友人との別れにしては、さすがに素っ気なさ過ぎるなと苦笑した。あいつは自分の犯した行為を誰にも言わずずっと引きずっていくつもりなのか? それはおまえに限ったことでもない、おれとおれの片割れの名前にも現れているようにおれたちの世代全部がしょい込む問題なんだと、半ば無意識にこめかみをつつきながら旧友に語りかけた。


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