ヨハネ福音書第20章に次のようなエピソードが語られています。
磔刑で死んだイエスが弟子たちによって埋葬されてしばらくしてから、墓からふたにしていた石が取り除けられ、死体がなくなっていました。イエスの復活を信じていなかった弟子たちはそのまま自分たちのところに帰るのですが、マグダラのマリアは墓にたたずんで泣いていました。すると二人の御使いがイエスの死体があったところに座っていました。御使いは彼女に訊きます。
「なぜ泣いているのですか?」
「誰かが私の主を取って行きました。どこに置いたのかわからないんです」
そう答えて振り向くとイエスが立っていましたが、彼女にはわかりませんでした。イエスが訊きます。
「なぜ泣いているのですか。誰を探しているのですか?」
マリアはそこの庭師だと思って言いました。私の見ている聖書では墓のある園の管理人となっていますが、美術の歴史では庭師と理解されて鋤や鍬を持っていることが多いです。
「あなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたか教えてください。私が引き取ります」
イエスは彼女に「マリア」と呼びかけます。
マリアはヘブライ語で『先生』の意味の「ラボニ」と呼びかけて、駆け寄ろうとしますが、イエスはこう言います。
「私に触れてはいけません(Noli me tangere)。私はまだ父のもとに上っていないからです。私の兄弟たちのところに行って告げなさい。『私は、私の父でありまたあなたがたの父、私の神でありまたあなたがたの神のもとに上る』と」
マリアは弟子たちのところに行って、これらのことを告げました。……
この劇的な内容に基づいて多くの傑作が産まれました。サイトで見つけることのできた作品全部を新しいものから時代を遡りながら見ていきましょう。古いものからじゃあ新味がないですからねw。
まず最初はロシアの画家イワノフAlexander Andreyevich Ivanov(1806–58)の作品です。これは1834-36年に描かれたもので、ドラクロワが「民衆を率いる自由の女神」を描いたのが1830年ですからフランスではロマン主義の時代になっていて、こういう宗教的な題材や古典主義的な描き方はかなり時代遅れだったと言っていいでしょう。実際のところ彼が20年をかけて完成した大作「人びとの前に現れるキリスト」は当時、評価されなかったそうです。しかし、この作品を見るとイエスの気品に満ちた表情とギリシア彫刻のようなポーズ、マグダラのマリアの愛らしくかつ困惑した表情と右上に引っ張られた三角形の構図による動きの表現には確かな技術を感じさせます。
次は17世紀フランス古典主義絵画を代表するプッサンNicolas Poussin(1594-1665)の作品です。1653年と急に200年ほど遡りますが、宗教的な題材への需要が時代を下るにつれてなくなって来たからだと思います。この作品では人物が画面に押し込められるように描かれ、しかもイエスの手はマリアの手によって包み込まれて、拒絶というテーマであるにもかかわらずとても親密な空間が作られています。さらに、彼女はイエスの方からの光に照らされ、恍惚の表情を浮かべているように見えます。庭師としか見えないイエスよりもマリアが中心だと言っていいでしょう。……プッサンの「アルカディアの羊飼いたち」は例のダヴィンチ・コードで有名になったシオン修道会が守るイエスとマグダラのマリアが結婚し、子孫も残していたという秘密と関連があるそうですが、それを念頭に置くとイエスの拒絶が強いものでないのもうなずけるようなw。
3つめはスペインの画家・彫刻家・建築家のカーノAlonzo Cano(1601-67)の1640年の作品です。ヴェラスケスやムリリョらのスペイン・バロック美術の最盛期に活躍しました。「我に触れるな」って言いながらマリアの頭を押さえてるじゃんって突っ込みwたくなりますが、表情も険しくてとても荒々しい感じのイエスですね。マリアが掛けているマントのようなものがとても豪華なんで、世俗の栄華を退ける意味があるのかもしれません。イエスの体が強くひねられていること、処刑されたときの傷(聖痕)がわき腹と足の甲に見えること、何よりふつうはマリアの表情がポイントになるのにそれがほとんど伺えないことなどかなり特異な作品だと思います。イエスの姿勢や背景のイタリア・ルネサンス期の作品とよく似た田園風景には、後に出てくるティッチアーノやコレッジョの影響が感じられます。
次はヤン・ブリューゲル(子)Jan Brueghel(1601-1678)です。彼は巨匠ピーター・ブリューゲルの甥で、同じ名前の父親の元で修行しました。 この作品は1630年頃のものですが、まあフランドル地方の風俗画そのもので、花や果物や樹木をごちゃごちゃと器用に描いています。タイトルを知らないと農民の夫婦ゲンカだと思う人が多いでしょう。伯父さんのピーターだと聖書の場面をフランドルの風景の中で描いても「幼児虐殺」のようにのっぴきならない緊張感があるんですけどね。
5つめはイタリアの画家バロッチFederico Fiori Barocci(1528-1612)による1590年の作品です。まるでムリリョかワトーのように甘いムードが漂っていて、ドーム型のお墓の中にいるとは思えません。イエスは手で制しようとしているのではなく差し伸べているようですし、それを恥らうマリアといったところで、どう見てもラヴシーンです。バロッチは当時は高く評価されていたのに近年では見過ごされることが多いそうです。ヤン・ブリューゲルと同様、テーマを自由にアレンジしたとも言えるわけで、私はこういう絵は嫌いじゃないんですね。
ホルバイン(子)Hans Holbein(1497-1543)はドイツのアウグスブルクで生まれた北方ルネサンスを代表する画家です。彼も同じ名前の父親に学びました。後にエラスムスやトマス・モアと親交を持ち、イギリスに渡ってヘンリー8世の宮廷画家となりました。頭蓋骨のトロンプ・ルイユ(だまし絵)のある「大使たち」や極端に細長い棺おけの中にイエスを詰め込んだ「墓の中の死せるキリスト」など一癖も二癖もある画家です。この作品は1524年頃のもので、手前ではイエスがマリアから逃げ(制止しているようには見えません)、向こうでは女が男から逃げているという皮肉な感じの構図を取っています。しかしながら、彼の他の絵と同様に人物は冷たい表情を浮かべていて、ふざけているように見えません。また、イエスが両手を出して、マリアの右手を押しとどめようとしていて、プッサンと逆になっています。マリアが持っている壷には何が入っているのかわかりませんが、死体に塗る香油なのかもしれません。向こう側の男は鋤を持っているようにも見えるので、女から逃げていてもやがて追いかけるものだといったことわざのようなものを意味しているのかもしれません。
7つめはパルマなどで活躍したコレッジョAntonio Allegri da Correggio(1489-1534)です。この辺から「我に触れるな」による傑作が立て続けに現れます。1518-24年頃のこの作品はまず二人の腕の描くラインが見事に響き合うのが見て取れ、天上の神を指すイエスと大地を示すマリアがラファエロの「アテナイの学堂」(1509-10年)を想起させます。そこから見えてくるのは二人の胴体から脚にかけてのラインが後ろの木を含めて共鳴する大きな構成と指の繊細な表情です。マリアはせつない視線をイエスとその先の神に向けているように思えます。……聖書のエピソードをここまで美しくかつ厳しく描いたものは少ないと思えますし、これまで紹介した画家たちはこの作品の後ではずいぶん描きにくかっただろうと思います。
次はヴェネチア派の巨匠ティッチアーノTiziano Vecelli(1488-1567)です。1514年頃のこの作品では人物と風景が同じくらいの比重で描かれているように見えます。コレッジョと同じく構図は周到に考えられていて、それぞれがバラバラになることなく、見る者の視線はS字を描きながら遠方へ誘導されるようになっています。このためなのか、イエスもマリアも特別の表情を浮かべてはいません。これまで見た作品の多くもそうなんですが、作品構成のためにイエスは相当無理な姿勢をしています。モデルは大変だったでしょう。
これで半分くらいなので今日はここまでにします。
磔刑で死んだイエスが弟子たちによって埋葬されてしばらくしてから、墓からふたにしていた石が取り除けられ、死体がなくなっていました。イエスの復活を信じていなかった弟子たちはそのまま自分たちのところに帰るのですが、マグダラのマリアは墓にたたずんで泣いていました。すると二人の御使いがイエスの死体があったところに座っていました。御使いは彼女に訊きます。
「なぜ泣いているのですか?」
「誰かが私の主を取って行きました。どこに置いたのかわからないんです」
そう答えて振り向くとイエスが立っていましたが、彼女にはわかりませんでした。イエスが訊きます。
「なぜ泣いているのですか。誰を探しているのですか?」
マリアはそこの庭師だと思って言いました。私の見ている聖書では墓のある園の管理人となっていますが、美術の歴史では庭師と理解されて鋤や鍬を持っていることが多いです。
「あなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたか教えてください。私が引き取ります」
イエスは彼女に「マリア」と呼びかけます。
マリアはヘブライ語で『先生』の意味の「ラボニ」と呼びかけて、駆け寄ろうとしますが、イエスはこう言います。
「私に触れてはいけません(Noli me tangere)。私はまだ父のもとに上っていないからです。私の兄弟たちのところに行って告げなさい。『私は、私の父でありまたあなたがたの父、私の神でありまたあなたがたの神のもとに上る』と」
マリアは弟子たちのところに行って、これらのことを告げました。……
この劇的な内容に基づいて多くの傑作が産まれました。サイトで見つけることのできた作品全部を新しいものから時代を遡りながら見ていきましょう。古いものからじゃあ新味がないですからねw。
まず最初はロシアの画家イワノフAlexander Andreyevich Ivanov(1806–58)の作品です。これは1834-36年に描かれたもので、ドラクロワが「民衆を率いる自由の女神」を描いたのが1830年ですからフランスではロマン主義の時代になっていて、こういう宗教的な題材や古典主義的な描き方はかなり時代遅れだったと言っていいでしょう。実際のところ彼が20年をかけて完成した大作「人びとの前に現れるキリスト」は当時、評価されなかったそうです。しかし、この作品を見るとイエスの気品に満ちた表情とギリシア彫刻のようなポーズ、マグダラのマリアの愛らしくかつ困惑した表情と右上に引っ張られた三角形の構図による動きの表現には確かな技術を感じさせます。
次は17世紀フランス古典主義絵画を代表するプッサンNicolas Poussin(1594-1665)の作品です。1653年と急に200年ほど遡りますが、宗教的な題材への需要が時代を下るにつれてなくなって来たからだと思います。この作品では人物が画面に押し込められるように描かれ、しかもイエスの手はマリアの手によって包み込まれて、拒絶というテーマであるにもかかわらずとても親密な空間が作られています。さらに、彼女はイエスの方からの光に照らされ、恍惚の表情を浮かべているように見えます。庭師としか見えないイエスよりもマリアが中心だと言っていいでしょう。……プッサンの「アルカディアの羊飼いたち」は例のダヴィンチ・コードで有名になったシオン修道会が守るイエスとマグダラのマリアが結婚し、子孫も残していたという秘密と関連があるそうですが、それを念頭に置くとイエスの拒絶が強いものでないのもうなずけるようなw。
3つめはスペインの画家・彫刻家・建築家のカーノAlonzo Cano(1601-67)の1640年の作品です。ヴェラスケスやムリリョらのスペイン・バロック美術の最盛期に活躍しました。「我に触れるな」って言いながらマリアの頭を押さえてるじゃんって突っ込みwたくなりますが、表情も険しくてとても荒々しい感じのイエスですね。マリアが掛けているマントのようなものがとても豪華なんで、世俗の栄華を退ける意味があるのかもしれません。イエスの体が強くひねられていること、処刑されたときの傷(聖痕)がわき腹と足の甲に見えること、何よりふつうはマリアの表情がポイントになるのにそれがほとんど伺えないことなどかなり特異な作品だと思います。イエスの姿勢や背景のイタリア・ルネサンス期の作品とよく似た田園風景には、後に出てくるティッチアーノやコレッジョの影響が感じられます。
次はヤン・ブリューゲル(子)Jan Brueghel(1601-1678)です。彼は巨匠ピーター・ブリューゲルの甥で、同じ名前の父親の元で修行しました。 この作品は1630年頃のものですが、まあフランドル地方の風俗画そのもので、花や果物や樹木をごちゃごちゃと器用に描いています。タイトルを知らないと農民の夫婦ゲンカだと思う人が多いでしょう。伯父さんのピーターだと聖書の場面をフランドルの風景の中で描いても「幼児虐殺」のようにのっぴきならない緊張感があるんですけどね。
5つめはイタリアの画家バロッチFederico Fiori Barocci(1528-1612)による1590年の作品です。まるでムリリョかワトーのように甘いムードが漂っていて、ドーム型のお墓の中にいるとは思えません。イエスは手で制しようとしているのではなく差し伸べているようですし、それを恥らうマリアといったところで、どう見てもラヴシーンです。バロッチは当時は高く評価されていたのに近年では見過ごされることが多いそうです。ヤン・ブリューゲルと同様、テーマを自由にアレンジしたとも言えるわけで、私はこういう絵は嫌いじゃないんですね。
ホルバイン(子)Hans Holbein(1497-1543)はドイツのアウグスブルクで生まれた北方ルネサンスを代表する画家です。彼も同じ名前の父親に学びました。後にエラスムスやトマス・モアと親交を持ち、イギリスに渡ってヘンリー8世の宮廷画家となりました。頭蓋骨のトロンプ・ルイユ(だまし絵)のある「大使たち」や極端に細長い棺おけの中にイエスを詰め込んだ「墓の中の死せるキリスト」など一癖も二癖もある画家です。この作品は1524年頃のもので、手前ではイエスがマリアから逃げ(制止しているようには見えません)、向こうでは女が男から逃げているという皮肉な感じの構図を取っています。しかしながら、彼の他の絵と同様に人物は冷たい表情を浮かべていて、ふざけているように見えません。また、イエスが両手を出して、マリアの右手を押しとどめようとしていて、プッサンと逆になっています。マリアが持っている壷には何が入っているのかわかりませんが、死体に塗る香油なのかもしれません。向こう側の男は鋤を持っているようにも見えるので、女から逃げていてもやがて追いかけるものだといったことわざのようなものを意味しているのかもしれません。
7つめはパルマなどで活躍したコレッジョAntonio Allegri da Correggio(1489-1534)です。この辺から「我に触れるな」による傑作が立て続けに現れます。1518-24年頃のこの作品はまず二人の腕の描くラインが見事に響き合うのが見て取れ、天上の神を指すイエスと大地を示すマリアがラファエロの「アテナイの学堂」(1509-10年)を想起させます。そこから見えてくるのは二人の胴体から脚にかけてのラインが後ろの木を含めて共鳴する大きな構成と指の繊細な表情です。マリアはせつない視線をイエスとその先の神に向けているように思えます。……聖書のエピソードをここまで美しくかつ厳しく描いたものは少ないと思えますし、これまで紹介した画家たちはこの作品の後ではずいぶん描きにくかっただろうと思います。
次はヴェネチア派の巨匠ティッチアーノTiziano Vecelli(1488-1567)です。1514年頃のこの作品では人物と風景が同じくらいの比重で描かれているように見えます。コレッジョと同じく構図は周到に考えられていて、それぞれがバラバラになることなく、見る者の視線はS字を描きながら遠方へ誘導されるようになっています。このためなのか、イエスもマリアも特別の表情を浮かべてはいません。これまで見た作品の多くもそうなんですが、作品構成のためにイエスは相当無理な姿勢をしています。モデルは大変だったでしょう。
これで半分くらいなので今日はここまでにします。
バロッチはムード作りにいいでしょうね。しかも別れ話にも使えてお得ですw。
ブリューゲルは……そのとおりですね。ホルバインはそんな感じでパロッてみたいですね。
本当w後ろの人相当嫌そうですw
私もイワノフの作品がよいなあと思います。
イワノフくん2票入りました。。やっぱ時代が近い方が親しみがわきやすいのかな