夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

未来社会

2007-01-06 | monologue
 未来社会と言うと明るいイメージの言葉みたいですが、小説や映画、マンガやアニメといった創作の分野では核戦争後の荒廃した世界とか個人の自由が全くないような管理社会といった暗いものが主流で、常識といっていいくらいです。なぜそうなんでしょうか? 歴史的に見ると16世紀に書かれたトマス・モアの「ユートピア」なんかを読むとわかりますが、理想の社会として描かれているのにそこは規律と秩序が支配し、一日の行動のすべてが決められた窮屈な社会です。贅沢どころか個人の財産も持つことはできません。軍隊やミツバチの世界のようなところと言えばわかりやすいでしょう。

 こういう「理想国家」の元はもっと古く紀元前4世紀のプラトンの晩年の大作「法律」(有名な「国家」よりはこちらを挙げる方が適切でしょう)に見ることができますが、おそらくは「人間というものは自由にしておくとロクなことはしない」というペシミスティックな人間観と「政治はそういう勝手なことをする個人を統制し、全体の利益を図るものだ」という全体主義的な政治観によるものでしょう。20世紀はこうした政治観が共産主義とナチズムという形で何千万人もの犠牲者を出した世紀とも言えるわけで、1949年のオーウェルの「1984年」などはスターリン政権下のソ連を念頭に反理想社会(ディストピア)を描いています。

 冷戦の終了と共産主義国家の退潮によってこういった反管理社会的な表現もだんだんと後景に退いて、テクノロジー、特にコンピュータの発達が産み出すヴァーチャルな世界を舞台にすることが多くなります。P.K.ディックの小説やそれを元にした1982年の「ブレードランナー」の世界を思い浮かべていただければいいでしょう。全体主義を可能にする道具だったコンピュータが主役になるわけで、政治観よりも人間観が中心になってきたと言ってもいいかもしれません。その人間観は簡単に言えば「人間はよくできたコンピュータにすぎない」ということじゃないかと思います。過激なことを言っているようですが、18世紀のラ・メトリの人間機械論の焼き直しとも言えますし、さらに遡れば17世紀のデカルトやホッブズの機械論的世界観を人間にも適用しただけのような気がします。

 それはそうとして、人間=コンピュータ論的な人間観とさっきのペシミスティックな人間観との関係ですが、「自分が自由だと思っていてもそれはコンピュータ=人間の幻想にすぎず、ハードかソフトをちょっと交換すれば心なんか容易に変わるものだ」ということから「人間は自由にしておくとロクなことをしないから人間の心自体を変えてしまおう」ともっと過激でペシミスティックな人間観が生まれるような気がします。……こうやって見て来ると冒頭で述べた創作の分野での未来社会のイメージが単に社会や技術の発展によるものではなく、思想の発展・変化の帰着するところでもあることがなんとなくわかっていただけるかもしれません。

 で、こういう息苦しいと言うか、気色悪いような人間観に対しては、「それでも人間は自由なんだ。何がなんでも自由なんだ」とか言って管理社会や巨大コンピュータに戦いを挑むというのが通俗的な作品の結末の付け方です。「あー、そういうの見たことある」って思うでしょ?……でも、そういうハリウッド映画のヒーローみたいなのがなぜ通俗的かと言えば、そんな戦いが不可能なのを隠蔽することになっているかもしれないからです。つまり天国なんかないと思いながら天国に行けるから信仰しなさいと説教する宗教家と同じようなことをしてるんじゃないかってことです。こういう作品や宗教をちょっと古い言葉でイデオロギー装置って言い、この手の批判の仕方をイデオロギー批判って言います。これはとても便利で、芸術とか宗教とか思想とかを社会的な役割だけでコテンパンにやっつけることができて、内容なんか理解する必要はないんですねw。マルクスがキリスト教が人々を貧しく抑圧された生活に縛りつける役割を果たしているといったことを指して「宗教はアヘンだ」って言ったようなのが好例です。今でも政治の世界での批判はほとんどがそうだと言っていいでしょう。

 ちょっと脇道に逸れちゃいました。人間=コンピュータ論の話ですけど、私は根が古くさいのでホンマカイナとしか思っていません。人間がコンピュータみたいになって来たって兆候は全然ないと思っています。いい悪いは別にして。それは例えばブログや掲示板といったネット社会を見ればわかるんで、お付き合いを続けようと思っている「知り合い」には礼儀正しくて、そうでない匿名の関係の「他人」や「よそ者」には冷淡で礼儀知らずというのはリアルの社会と全く同じです。例えばmixi疲れとかは一年中年賀状のやり取りをやってるようなものかなとか、掲示板は公園の落書きや図書館のCDが傷だらけなのと同じだなとかです。つまり相も変わらず「人間というものは自由にしておくとロクなことはしない」ってことです。こんな人間と貴重な情報もクズのデータもいっしょくたに溜め込んじゃったり、いっぺんになくしたり、勝手にネットに流したりするコンピュータとは全然違います。……反論はいっぱいあるでしょうけど、私はそういう人を見て「人間的だな」って笑うだけです。

 さて、いろいろ省いてしまった問題はあるんですが、それはまたの機会にってことで、結論を書きましょう。……そんなわけで、私はプラトン以来のペシミスティックな人間観と全体主義的な政治観は現在においても、たぶんずっと未来においても少なくとも批判としては有効だろうと思っています。決してイデオロギー批判じゃなく、内在的な意味で。こんなことを言うと自由主義も民主主義も信じてないとんでもないやつと思われるでしょう。それはそうかもしれませんが、自由主義とか民主主義は盲信するのがいちばん良くないと思っています。これらは最初に書いたような歴史的な経緯もあり、無前提に正しいように思われて、かつての神や仏のようにありがたい、聖なるものに崇められているようですが。でも、自由主義や民主主義って単に「最大多数の最大幸福」を実現するための手段だと思うんですよね。

 たぶん私自身が「自由にしておくとロクなことはしない」タイプだと自覚しているんで、「人間って本当はみんな正しいこと、良いことが好きなんだ」なんてオプティミスティックな人間観に立って、「みんながみんなのことを考えれば平和で良い社会ができる」と考える人とは相容れないんでしょう。そういう人はすごくおめでたいか、すごく危険かのどちらかと思ってしまいます。


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2 コメント

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何だか難しいですが (ぽけっと)
2007-01-08 18:12:38
子供向けの聖書物語なんかの「バベルの塔」あたりだったんじゃないかと思いますが「人々の心が悪くなり…」って始まったのがすごく印象に残っています。
今でも何かいやな感じに世間が動いてるなあ、て感じるときにその文章を思い出すのですが、人間って確かに放っておくとそちらに向かうんじゃないでしょうか。

だから思い切りおめでたいもので軌道修正しながら、ていうのが必要な気がします。だからといって民主主義などではちょっとおめでた過ぎて、宗教や芸術など一応深い根っこのあるものの方が適しているように思いますが。


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わかりにくいのは (夢のもつれ)
2007-01-09 14:56:10
かなりはしょって書いてるせいでしょうね。

ただ昔の人間が良かったかと言えば古代エジプトでもそう言われてたんじゃないかって思いますねww
昔よりくだらなさがよく見えるような仕組みができたのかなとは思いますが。
でも、バベルの塔なんていいですね。

宗教はありがたみと危険さが表裏一体ですね。
芸術は……その人の人間観によるんでしょう。
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