夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

東ゆみこ「猫はなぜ絞首台に登ったか」

2005-09-21 | review

 題名がおもしろいのと口絵に画像で掲げたホガースの「残酷の四段階:その第1」やブリューゲルの「カーニヴァルと四旬節の争い」などがあったので読んでみました。新書版なのでさあっと読めますが、内容を簡単に紹介すると、18世紀のヨーロッパで多く見られた動物虐待や動物を被告にした裁判がなぜ行われたか、その原因を探っていくという謎解き仕立てです。その過程で、発情期の猫の鳴き声のせいで不眠に陥った下層労働者が一計を案じて猫の鳴きまねをして、雇い主から猫を始末するよう命じられるや奥方の愛猫を真っ先に殺すという階級対立的なエピソードやカーニヴァルの秩序破壊的な中で動物が多く殺されたといった興味深い事実が挙げられます。筆者の結論としては、多様な神格を持つ北欧神話のオージンが穀物神として死と再生(播種と収穫)を繰り返すことが猫を絞首台に吊るした民衆の意識に反映していたということのようです。

 その論証として、山口昌男だのエリアーデだのユングだのフレイザーだのの著作が挙げられますが、正直言って後半筆者が一生懸命そうした名前を挙げれば挙げるほど、つまり比較神話学なるものを展開すればするほど話は、退屈になってしまいます。この程度の議論がいまだに行われているというのは、学者とはけっこうな身分だなと思ってしまいました。マルクスの唯物史観でも、その根っこのヘーゲルの歴史哲学でもいいんですが、そういうひと通りの歴史解釈しか許さないイデオロギーへのアンチテーゼなどは私の学生時代のン十年前wから主流に近かったですから。いずれにしても上記の論者が多様な歴史解釈がありえるのだということを示そうとしたのだとすれば、彼ら自身が提出した歴史解釈自体が相対的なものであると当然自ら認めなければならないはずです。答えはいくらでもある、とすればどうやって優劣をつけるのか?

 科学的な方法として考えればより広い範囲で説明できる理論が優位に立ちます。ニュートン力学より相対性理論が、さらには統一場の理論がといったことで考えれば明らかです。しかし、歴史解釈においてもそうでしょうか? それは結局、階級闘争とか世界精神といったマルクスやヘーゲルの理論と同じ枠組みへ“後退”するだけでしょう。それを否定するのであればおそらく博物学的興味がもてるかどうか、要は歴史事実のおもしろさに目を向けることになるでしょう。事実、本書の前半がおもしろいのはそういった部分であり、その部分をつなぐ“部分解”だと思います。部分解という言い方は数学の分野からの借用ですが、マックス・ヴェーバーなどのように全部を説明しないけれど、ある一定領域において納得のいく説明を与える理論といったものを指しています。彼は“歴史の真実”を明らかにしたなどとは決して言いません。

 本書の場合は、北欧神話という枠組みで解釈していますが、当然それは人類の集合的無意識といったことが前提としてあるのでしょう。でも、それがおもしろくなければ事の本質として直接的な事実の裏づけのない、状況証拠(にまでもなっていない場合が多いですが)であるわけですから、私に言わせれば理論として失敗です。「おまえがおもしろくなくてもおもしろいと思う人がいるだろう」という指摘があるでしょうね。でも、北欧神話が我々にどんな関係があるんでしょうか? ヴァーグナーの楽劇(ヴォータンなどが出てくるのに楽劇への言及が一切ないのはちょっと驚きました)はおもしろい、それは我々の心性に通じるもの、共感するものがあるからです。

 ……私は本書を読む前に現代の我が国についての言及、例えば少年たちの行う猫殺しとかホームレスへの暴行といったものが最後に出てくるものだと当然期待していました。だって、そうでなければ歴史の事実の中に“引きこもり”している博物学者にすぎないですからね。


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