大川周明 『大東亜秩序建設』 大東亜秩序の歴史的根拠
六 満洲事変の世界史的意義
昭和6年9月18日夜半、奉天独立守備隊第3中隊の将兵若千が、奉天を距る程遠からぬ柳条溝階近の鉄道巡察中に、只ならぬ爆音を聞いて即刻現場に急行し、線路破壊の事実を認めると同時に満洲兵の射撃を受けた。よって之に応戦しながら一方急を本隊に告げて共の応援を求め、一挙に北大営の攻撃を開始し、翌19日朝には早くも北大営から満洲軍を駆逐し、次で奉天城を占領した。
而して此日の午後には、急を聞いて払暁旅順を出発せる本圧関東軍司令官が、幕僚を従へて奉天に到着し、軍司今部を拳天に移して全軍の指揮統督に任じ、且満洲に於ける張学良政権を絶対的に否認し、徹底して之を懲する旨を中外に立明して、共の断乎たる決意を明かにした。謂はゆる満洲事変の幕は、実に是くの如くにして切って落された。
〔参照〕 張学良
満洲に於ける止まるを知らぬ排日運動が、遂には非常なる事態を招ぐに至るべきこをは、満洲事変勃発以前に於て既に日本の心ある人々の深き憂であった。吾等は事変の前年から、日本の各地に講演会を開き、満洲の実情を国民に報告し、その覚悟を促すに努めた。之を聴ける国民は、異常なる昻奮を以て満洲の前途を憂へ、政府の対策が甚だしく柔弱緩慢なることを憤激した。
管子に 『民衆は個々に就て見れば愚昧であるが、相集まる時はなるものがある』 と道破して居る。洵に此の言葉の如く、国民が相集まって魂が相結ぶ時、偉大なる思想と判断とが何処からとなく生れて来る。日本の場合にては、昔乍らの荘厳なる日本精神が、平素は意識の奥に潜んで眠って居ても、事に接し物に応じて躍如として現れ、田夫野人をも能くかずら霊なるものたらしめるのである。
日本国民は 『世界の模範的良民』『例外に善良なる市民』 として英米の賞を博し来れる日本政府の外交が、消極軟弱に過ぎたることに不満いて居た。もとより国民は具体的なる対外政策を抱いて居たのでない。彼等に向って 『然らば何処が歉弱であるか』 と質問したならば、恐らく説明に窮したであらう。且また暴虎馮河の勇は決して国家の大をなす所以でなく、複雑多端なる世界政局に於て、国際間の紛糾は江戸ッ児の喧嘩の如く簡単に処理せらるべくもない。
然らば国民が外交の軟弱を怒って対外硬を唱へるのは、無用の悲慣慷慨であるか。断じて左様でない。国民は外交上の仔細の経緯を知らないけれど、政府が何者を犠牲にしても一日の安きを偸まんとするに非ざるかと憂慮する。然りを然りと言ひ、否なを否なといふべき場合に、空しく辞令と議論とを弄んで、大事を誤り大機を逸し去りはせぬかと心配するのである。それ故に国民が外交の軟弱を憤るのは、吾等に最後の決心と覚悟があるそと叫ぶに等しい。
此事は取りも直さず日本民族の発展的精神の現れである。国民の対外硬は、その旺盛なる戦闘的精神、剛健なる向上登高のたる生命力の発現に外ならない。久しく眠れる日本国民の此力が、実に満洲事変によって俄然として躍動し初めた。
それ故に予てより政府の対満政策に不満なりし国民は、柳条溝爆破に対して取りたる関東軍の行動に、魂の奥底から共鳴して熱狂的なる支持を之に与へた。 全国に漲る此の澎湃たる国民的支持ありしために、満洲事変は其の進むべき方向に正しく進み、遂に満洲帝国の建設を見るに至ったのである。
当時の日本政府は、武力を満洲に用ひることを極度に嫌ひ且恐れて居た。そはベルサイユ条約及びワシントン諸条約を以て国際正義の体現と声明して居た政府として、当然至極のことである。米国から一言でも『日本の野心』などと言はれると、甚だしき不面目に感じて居た政府は、武力による満洲問題の解決が、世界の主人公たる英米両国、わけても米国の怒りを招がんことを最も恐れた。
蓋し満洲事変に於ける神速果敢なる関東軍の行動は、英米の最も意外とせるところである。そは模範的良民としてあるまじき振舞である。日本政府は必ず満洲に於ける軍事的行動を制止するであらう。
英米は正直に此通り考へて居た。当時のアメリカの国務長官ステイムソンは其の日記に下の如く書いて居る。日く 『日本の外務大臣は、日本の国家主義の烙を消し止め、日本をして9箇国条約及びケロッグ条約に思実ならしめるであらう』 と。 彼は堅く此事を信じたるが故に、支那が折柄開催中なりし国際聯盟に満洲事変を提訴し、聯盟事務総長ドラムモンドよりアメリカに対して、米国は満洲事変に対するケロッグ条約の適用について如何なる意向を有するかと打診し来れる時にも、彼は 『日本の国民的感情を刺激して、日本国民に軍部を支持せしめ、且幣原外相を苦境に陥れる如き行動は、之を避けることが賢明である』 と答へてゐる。
〔参照〕 ケロッグ条約(不戦条約)
併し乍ら如何にステイムソンが日本外務省を信頼しようとも、久しく抑へられて来た日本の国民的感情は、既に上る潮の如くに昻まり、国家主義の炎々たる焔は、最早外務大臣の手によって消し止むべくもなかった。かくて事態は益々英米の欲せざる方向に進み、彼等に取りては 『不快なるニース』 のみが次々に伝へられて往った。同時に国際盟に対しては、支那からの提訴が次から次へと積み重ねられ、遂に日本を弾劾する聯盟規約の動員を見るに至ったが、結局昭和6年12月9日の聯盟総会に於て、現地に赴いて事情を調査し 『国際関係に影響を及ほす'日本と支那との平和、及び平和の根拠たる此等両国の親善関係をげる総ての事柄について国際聯盟に報告する』 ため、5名の委員より成る聯盟委員会を満洲に派遣することとなった。
幾くもなく此の委員会はリットン指導の下に東洋に向って出発した。一行が先ず東京に来りて最初の談合を試みたのは、昭和7年2月27日のことであるが、満洲に於ける事態は英米の一切の策動及び国際聯盟の一切の掣肘とは無頓着に、其の進むべき方向に進んだ。
かくて3月1日には早くも満洲国の建設を見、次で此年9月15日に至り日本は之を承認した。当初満洲国は立憲共和政体を採り、元首を執政と称へたが、昭和9年に至りて之を帝制に改め、此年3月1日、旧執政が満洲国の新皇帝として、厳粛なる即位式を新京に挙げさせられた。
一方国際聯盟は、昭和7年3月1日に建設された満洲国に対し、3月12日夙くも其の不承認を決議し、同年11月末、リットン報告に基づいて満洲を支那に還附せよとの宜告を下した。
この宜告を繞って長い討論が行はれたが、翌昭和8年2月14日の聯盟総会は、支那を含む42箇国の投票により、リットン報告及び共の提案を無条件で採択したので、日本は3月27日、正式に国際聯盟を説退するに至った。
此の任務を果たして帰朝せる松岡代表が、宛も凱旋将軍の如き熱狂を以て迎へられたことは、日本国民が何を欲し、何を望んで居たかを最も明白且有力に物語るものである。
〔参照〕 リットン調査団
さて日本が満洲事変を経て満洲建国の大業に当面するに及んで、国民の魂に潜める強烈なる愛国心が、俄然として目を覚ました。これまで一世を風靡し来れる民主主義、次で跋扈し初めたる共産主義は、漸く其影を国民の間に潜め之に代って国家主義的傾向が空前に圧盛となった。
而して此の大業の遂行過程に於て、英米の激しき圧迫と戦へることによって、従来はその好意に頼って日本の安全を図らんとして来た英米が、実は断じて両立すべからざる東亜の敵であることが、次第に明かに認識されて来た。
かくして日本は、アングロ・サキソン世界制覇の機関、即ち世界旧秩序維持の根城たる国際聯盟からの脱退を敢行し、一挙英米依存を超克して自主的精神を其の外交の上に発揮するを得た。
日木は国内に於けるアングロ・サキソン勢力を、少くも原則として蹂躙し去れるのみならず、国際的にアングロ・サキソン勢力に挑戦し、ヴェルサイユ体制に対して最初の且甚大なる打撃を加へたのである。
第一次世界戦以後の世界秩序の一角は、かくして先づ満洲事変によって打破られた。而して旧世界秩序維持の機関たる国際聯盟は、実に此時より無力となり初めたことは、やがて起れるエチオピア事件の場合に明療に曝露された。
イタリーのエチオピア攻略に際し、イギリスは之を圧道するために、聯盟52箇国をしてイタリーに対する経済封鎖を行はしめ、イタリー品の輸人を禁止し、一切の対伊金融関係を断絶し、重要物資の対伊輸出を禁止せしめた上に70万噸と称する大海軍を地中海に進めて之を臧嚇したが、遂に何等得るところなくして終った。イタリーに是くの如き勇気を鼓火したのは、満洲事変に於ける日本の前例なりしことは言ふ迄もない。
加ふるにヴェルサイユ条約による極度のドイツ圧道は、却って此の強靱有為なる民族の奮起を促し、遂にヒトラー政権の出現を招ぎ、ドイツは飛躍的に復興するに至った。従って素と弱小ドイツを礎として築かれたる欧羅巴平和の殿堂は、強力ドイツの出現によって当然覆さるべき運命となった。かくてヴルサイユ体制に対する東西の挑戦者、日独伊3国が相結ぶことに何の不思議もない。
昭和11年9月のこと、関東軍司令官は満建国過程に於ける協和会の使命について、極めて重大なる布告を発し同時に関東車参謀長は此の布告について公式に下の如き説明を与へた―― 『協和会の祈念するところは、第一段に於て王道満洲国の完成であり、次に来るものは東亜各地の被圧迫・被征服民族を解放して、逐次王道楽土を建設することである』 と。
支那事変及び大東亜戦争後に声高く唱へ初められた東亜新秩序又は大東亜共栄圏の理念が、夙く既に此時に具体的に表明されて居ることは、吾等の銘記せねばならぬところである。
大川周明
『大東亜秩序建設』 大東亜秩序の歴史的根拠
五 ベルサイユ体制の対日重圧
既に述べたる如く、日露戦争は欧羅巴世界制覇の歩みに最初の一撃を加へ、且そのために亜細亜の覚感を促せることによって、やがて来るべき世界新の序幕なりしに拘らず、日本自身は遺憾ながら共の世界史的意義を悟らず、寧ろ界史の根本動向と背馳する方向に国歩を進めた。
日本のロシアに対する勝利に感激しに頼に心を傾け初めたる亜細亞の諸民族に対して、日本は之を愛護し指導し鼓舞する代りに、却って共の世界政策に於て歩調を欧米に合せることにのみ苦心した。
世界戦に於ける聯合国側の勝利は、日本の参戦に負ふところ最も大なりしに拘らず、一旦戦争終るや日木を第2のドイツと唱へて一切の抑圧を敢えてしたのであるが、日本はに其の忘恩不信に対して反撃を加へざりしのみならず、却って益々英米の甘心を買はんと努めた。
現に大正13年初頭、加藤高明伯を首班として成立せる謂はゆる護憲三派内闍の外務大臣は、就任当日のステートメントに於て、実に下の如く声明した― 『自分の外交方針は、ヴェルサイユ条約及びワシントン条約に体現せられて居る国際正義の支持徹底に在る』 と。此の声明は端的に英米の世界制覇を以て国際正義と認めたるものである。
イギリスの外交官が、日本に対して与へ得る限りの最大の打撃を加へたと公言して憚らざるワシントン諸条約を以て、国際正義を体現せるものとし、飽迄も之を支持徹底させるといふのである。かかる声明が英米を欣ばせたことは言ふ迄もない。さればこそウイラートは、前述の著書の中に 『ワシントン会議以後の数年間、日本は実に模範的に善良なる世界の市民であった』 とほめそやして居る。
独りウイラートのみならず、米国のステイムソンも 『ワシントン会議より満洲事変に至る10年間、日本政府は国際団体に於て例外に善良なる市民としての記録を有する』 と言って居る。かくて英米は日本を思ふが侭に左右し得たのだ。
日本の是くの如き態度は、必然支那の軽侮・反抗を招いた。而して日本は支那の抗日・侮日に対し、常に謂はゆる親善政策を以て臨んだのであるが、如何に日本が親善を標榜しても、支那の敵意は益々つのるばかりであった。此の排日運動の背後に、英米の煽動ありしことは言ふまでもない。
加ふるにワシントン会議の翌年即ち大正12年に関東大地震あり、日本の国力は半減し去れるかの如く伝へられたので、日本に対する世界の軽侮は一層だしきを加へた。
日木の国際的地位が、馬進まずして四面唯だ楚歌を聞く時に当り、国内の形勢ま秋風落莫であった。大震直後に成立せる山本内閣は、何程かの期待を国民から懸けられたが、空前の不祥事のために総辞職し、其後政友会より分離せる政友本党が、憲政会と合同して民政党を組織してより、政民両党の露骨無慚なる政権争奪戦が行はれ、天下を挙げて其の党争場裡と化し去った。
内閣更送の度毎に、地方長官は言ふに及ばず、判任官や傭人の末に至るまで其の影響を蒙らざるはなく、巡査や小学教師までも苟くも自党に従順ならざる者は悉く馘首の憂目にあはせた。
而して是くの如き政権の争奪が、空々しくも憲政の常道と呼ばれてた。憲政の常道とは、アングロ・サキソン流の議会政治を意味する。かくて当時の日本の政治的理想は、英米の個人主義・民主主義・資本主義を根牴とする政治機構であった。
加ふるに一方にはモスクワに本部を有する第三インタナショナルの宜伝が、内憂外息による国民の不平不満に乗じて、頓に激烈を加へ来り、ロシアを祖国と讃へ、その指令を仰ぐマルクス宗のバテレン共が、日本共産党を組織して国体の根本的変革を目的とする言語道断の運動を始めるに至った。是くの如くにして、祖国をロシアに求め、魂を英米に売れる日本人が、都にも鄙にも充満せんとしつつあった。
英米から世界の模範的市民とほめられて居た10年間、日本の真実のは暗雲に蔽はれ、明治維新の二大編領は、天皇機関説の横行及び現状維持のための平和主義の跋慝によって蹂躙され、大陸発展の如きは侵略主義者・軍国主義者の危険なる欲望と考へられるに至った。
かくて東西の経路を説く者は『国際正義』に弓ひく者として斥けられ、亜細亜の復興を志す者は白日夢を迫ふ者として嘲られた。
日本は仮令大陸に対して積極的政策に出でずとも、少くも既に東亜に於て獲得せる地位だけは、必ず之を守らねばならぬ。然るに英米の圧迫、支那の反抗、国内に於ける自由主義・民主主義の横行は、内外呼応して遂に満洲に於ける日本の地位をさへも覆さんとするに至った。
それ満洲に於ける日本の地位は、世界維新の序幕たりし日露戦争の結果によるものである。日本は満洲に特殊なる地歩を占めることによって、満洲・朝鮮・支那を含む東亜全体の秩序と安寧とを維持する重大なる任務を負ひ、見事に之を果たして来た。試みに日本が此の重任を負うてより25年間の満洲の歴史を見よ。そは実に世界に於て比類なき発展の記録である。
日露戦争直後の満洲の人口は一千万に過ぎなかったが、25年を経たる昭和5年には2700万を算へた。貿易の如きは此間に35倍といふ驚くべき増加を示した。見る影もなかりし寒村が、一切の文化的施設を有する都市となった。旅順は桜の名所となり、乃木将軍が山川草木転荒凉と脉じたる金州城外は林檎の名産地となった。此の25五箇年の日本の満洲経営は、日本が昻然として世界に誇り得る偉大なる事業である。
〔参照〕 満州
然るに翻って国内を顧れば、英米の思想的宣伝に乗り、抽象的なる民族平等主義、感傷的なる平和主義に魅せられたる日本の有識階級の間には、満洲に於ける排日運動が年と共に激化するに及んで、進んで其の原因を窮めて之に善処せんとせず、却って之を支那に与へて其の道理なき怒りを和げんとする者さへも生じ、満鉄の国際管理が公然として唱道されるに至った。
総じて是くの如き思想の最も大なる源泉となれるものは、世界大戦を頂点とせる日本資本主義の行詰りであり、此の行詩りに当面せる日本の指導階級は、日本はアングロ・サキソンの優越を承認しその下風に甘んずることを以て日本国家の安全を保つ所以であると考へたのである。
それ故に日本は、決して支那を忘れて大陸政策に消極的となったのではない。事の是非善悪を問はず実力を以て支那と争ふこと、而して勢力を大陸に伸張することによって、英米の激怒に触れんことを恐れたのである。
支那は此事を熟知して居たので、満洲に於ける排日は年と共に加はった。昭和初年に至りては、国策提唱・経済断交・日本帝国主義打倒等のスローガンの下に、暴慢無礼を極むる各種の不法行為が行はれ、在満邦人の事業に対する圧迫は猛烈となり、日本の利権駆逐を目標とする運動が加遠度的に強化されて来た。而して此の傾向は、昭和3年の夏、張霖作爆死して張学良が満洲の新主人となるに及んで一層激化した。
張学良は日本の勧告を無視して満洲に青天自日族を高揚し、三民主義を遵奉して国民政府に服従するを宣言した。同時に排日運動は極度に悪性となり、日本商品にする不当課税、運搬担否、不法没収、売買、借家借地の禁止、朝鮮人にする不法の迫害など、一切の方面に互りて徹底的且組織的なる排日を敢行し、在満邦人をして悉く窒息せしめずば止まざらんとした。
加ふるに張学良は、日本国内に於ける政民両覚の激しき政権争奪が日本の国論統一を不可能ならしめるものと判断し、且皇軍の本質を解せざるが故に、日本の陸軍は久しく実戦の経験を有せず、従って連年の戦争によって鍛錬せられたる支那車の敵に非ずとさへ慢心するに至った。而して勢の窮まるところ、遂に柳条溝に於ける支那兵の満鉄線路爆破となったのである。
大川周明 『大東亜秩序建設』
大東亜秩序の歴史的根拠
四 アングロ・サキソン世界制覇機関としての国際聯盟
もとより欧羅巴には多くの偉大なる思想家あり、勇健なる精神主義者がある。フランスの一哲人は、世界戦の将に終らんとするころ、既に下の如き言葉を以て切実痛烈に欧羅巴を警めて居る。
――『欧羅巴を腐敗せしめたる根は、実に欧羅巴が世界の独裁者たるべき神聖なる使命ありと考へたことにある。世界は長く欧羅巴の独裁に苦しんだ。而して万国の主がを暫く之を許したのは、欧羅巴をして若干の福利を世界に弘布させるためであった。然るに欧巴の所有せる至上の宝即ち科学は、今や万国みな之を所有するに至った。故に若し今後欧羅巴を挙げて亡び去ることありとしても、人類は之によって何等根本的に失ふところがない。是れ実に欧羅巴の時代が将に去らんとする所以である。
『欧羅巴は新に生れて新しき生命を獲得するために、深く自ら反省して、四方に分放せる自己の力を集約せねばならぬ。面して今こそ実に共時である。他を縛り自らを縛れる絆を解くべき時である。而も欧羅巴は遂に断行を肯んじない。それ故に其の支配の力は分散し、却って己れ自身に向って加へられんとして居る。見よ、曾ては他国に加へたる剣戟が、いまは却って己れに加へられんとして居る。見よ、他国のために作れる鉄鎖が、いまは却って己れの上に落ちて其頸を縛らんとして居る。
『孰れの交戦国も、真個の戦争目的を言明しない。而もいま欧羅巴を 頽廃せしめつつある戦ひは、全地を挙けて己が領有たらしめんとするための必死の決闘である。この決闘は敵と味方とを等しく死に至らしめずば止まない。そは彼等の死滅によって人類を蘇らしめるためである。
『此の大戦は洵に彼等が声明する如く解放のための戦ひである。唯だ解放の意味が、彼等の解するところと異なるだけである。いまの解放は、往年の亜米利加に於ける黒人の解放の如きものに非ず、実に一切有色民族の解放である。
『植民帝国、これ実に欧羅巳にとりて致死の罪悪である。この罪悪のために欧羅巴はいま地獄の火に投げられて居る。それ故に此の苛責を脱せんとするならば、その隷属の民を解放せねばならぬ。いま欧羅巴が投げ入れられたる煉獄は、會て彼等が他国を投げ入れたる其の同じ煉獄である。此の地獄の火、いま彼等の五体を焦く。』
併し乍ら欧羅巴は、此等の予言者の声に耳傾け、深刻なる反省によって正しき道を踏まんとしなかった。大正10年6月28日、ヴェルサイユ営殿鏡の間に於ける対独和条約の調印を以てパリ平和会議は終了し、第一次世界戦争は一応終局したけれど、それは 啻に旧き問題に解決を与へざりしのみならず、一層紛糾せる幾多の新しき間題を惹起した。
世界戦は『戦争を止めるための戦争』と呼号せられたるに拘らず、世界戦を惹起せる根本の諸原因は毫末も除き去られなかった。平和会議が尚ほパリに於て進行しつつありし間に、イギリスのハルデーン卿はプリストル大学の卒業式に臨み、戦後イギリスを負荷すべき青年に向って、世界戦の最大の教訓は『イギリスが次の戦争に備へねばならぬといふことだ』と演説して居る。
それ故に此の平和は、2度の行軍の間に暫く諸国民を休息せしむべき一停歩に過ぎなかった。
さて、欧巴大戦以後の疾序を維持するために組織されたのが、取りも直さず国際職盟である。国際聯盟は、一つは旧く、一つは新しき、二つの相異なる思想感情の所産であった。
第一は戦争の悲に対する世界的反感であり、是くの如き憎悪を再びせぬために、何等かの方法が講ぜられねばならぬといふ要求が、諸国の民衆の間に強烈に擡頭した。
第二は勝利者の利己的動機であり、強大なる代価を払って獲得せるものを永久に確保するために、何等かの組織を立てねばならぬといふ欲求が、戦勝国指導者の精神を支配した。国際聯盟は此等の2つの要求に応へるために企てられたものであるが、両者の矛盾は幾くもなくして明かになった。
勝利に満足せる国家は、現状維持が平和維持のための最善の途であると主張した。聯盟規約は満足せる国家によって起草し解釈された。かくして国際聯盟は圧制者のシンヂケート、帝国主義諸国家のトラストたるに至った。
一層具体的に言へば、国際聯盟は、大正8年ドイツが聯合国に降伏せる時の其侭の状態、聯合国の中軸たりし英仏両国が、ドイツ降伏当時に領有して居た国土及び資源を、永久不変の状態に置かんとする機関たるに至った。そは取りも直さずアングロ・サキンン世界制覇の現状を、永久に釘付けするための機関たることを意味する。
さてアングロ・サキソン世界制覇に対して『不届至極なる挑戦』を試みたるものは、いま一敗地に塗れたるドイツに外ならぬ故に、国際聯盟は人間の考へ得る一切の方法を以てドイツの復興を不可能ならしめんとした。所謂ルサイユ体制は、弱体無力のドイツの礎の上に、欧羅巴平和の殿堂を築かんとせるものである。
之と同時に国際聯盟は、世界戦争に於て失ふところ最も少なく、得るところ最も多しと考へられたる日木を抑圧することを以て、第二の重大なる目的とした。世界戦中に日木の商品が飛躍的に世界市場に進出したこと、東亜に於ける日木の地位が頓に拡大強化されたことは、アングロ・サキソン世界制覇に対する危険なる脅成であった。
さればこそ英米は、休戦喇叭の尚末だ鳴り止まぬうちに、夙くも日本を第二のドイツと呼び、其の抑圧に必死となった。西に於てはドイツ、東に於ては日本、英米の最も憎み且恐れたものは此の両国に外ならなかった。
英米がドイツを憎むのは、彼等の覇権を覆さんとせる当面の敵なりし以上、決して道理がないとは言はぬ。唯だ日本を憎んで之と抑圧せんとするに至っては、沙汰の限りと言はねばならぬ。日本は啻に青島を攻略して東洋に於けるドイツの根拠を覆せるのみならず、其の精鋭なる海軍を以て東洋・南洋の全海面を警護し、更に地中海より南米沖にまで出動して、聯合国側に甚大なる貢献をなして居る。
然るに其の詳細に就ては、従来殆ど世に知られていない。予もまた竹越三又翁の『日本の自画像』を読みて初めて之を知り得た。即ち之を左に引用して、如何に日本が忠実に聯合国側のために尽したかを示し、同時に聯合国側の勝に貢献すること是くの如く大なりし日本に対して、戦争終結と共に直ちに抑圧の態度に出でたる英米が、如何に理不尽なるかを示すこととする。
『1914年、英国の求により伊次・筑薩の両巡洋を印度方面に出し、英国の艦隊と協同作戦して独逸のエムデン号を駆逐し、また濠洲・ニュージーランドから英本国を応援すべく遠征する軍隊を保護して、西部戦線に送った。また巡洋艦・金剛、巡洋艦・出雲を南米沖に出動せしめて、独逸のスペー壗隊を追撃せしめた。
1915~16年、巡洋艦利根・対馬の2艦を派して、濠洲とアラビアのアデンの間を警護し、更に巡洋艦新高・明石の2艦及び松・杉・柏・物の4隻より成る第11駆逐隊を派出して、マラッカ海峡とスールー海とを警備せしめた。
1917年、巡洋艦・明石、第10・第11駆逐隊8艘を地中海に出動せしめたが、此地方はドイツの潜航艇の得意の壇上であるので、聯合国側の小国は最も深く日本の軍に信頼し、その影を望んで意を安んずるという状態であった。
此間に駆逐艦・榊はドイツの潜航艇の襲撃を受けて艦の前部は沈没し、艦長以下多数の将士が戦死した。別に軍艦筑紫・平戸の2艦をして、濠洲・ニュージーランドの警備に当らしめた。更に巡洋鑑利根・出震の2艦をしてセレベス海・南支那海に出動し、ドイツ商船の脱出を警戒せしめ、巡洋艦須磨・矢矧・吾妻・日進・春日の5艘及び第2駆逐隊4艘をシンガポール・セレベス海に出動せしめた。
1918年、春日・八震・須磨・淀の4軍艦及び第6駆遂隊4艘を出してシンガポール方面を警戒せしめ、矢矧・筑摩の2艦を濠洲に遊行せしめて之が警備に当らしめ、別に巡洋艦対馬を喜望蜂に出動せしめて警備に当り、また巡洋鑑出雲と第10駆逐隊4艘を地中海に派遣した。之より先巡洋艦明石は第10・第11駆逐隊と共に、地中海に活動しつつあったが、此増勢によって地中海には、日本の巡洋艦2艘、駆逐12艘が活躍するに至ったのである。
此時イギリスから、更に日本の主力艦及び軍人の借用を申込んで来たが、之に応ずることが出来ぬので、便法を講じ、左の如く英国の船船を利用して、之に日本風の名称を附し、日本の軍艦旗を掲揚し、日本の将兵が乗り込み馳駆するに至った。
第一、イギリスのトローラア2艘を仮装巡洋艦とし、東京・西京と仮称して、地中海に出動せしむ。第二、イギリスの駆遂艦2艘に、日本の将兵が乗り込み日本軍艦旗を掲揚して、栴檀・橄檍と仮称して、同じく地中海に出動せしめた。之によって我軍艦が、如何にドイツを恐怖せしめ、如何に聯合国側に信頼せられたるかを見るべし。
別に1916年と17年に、イギリス政府の請求に応じて、イギリス政府の金塊5600万ポンドを、左の如く軍艦を以て、ウラジオストックからカナダ迄輸送した。第1回、常磐・千歳。 第2回、日進・春日。 第3回、薩摩・日進・出雲・磐手。 第4回、常盤・八雲。右はイギリスがロシアに売った兵器の代償で、イングランド銀行がロシア政府から受取ったものである。
亦フランス政府の請求により、駆逐艦12艘を日本で急造し、日本の将兵を以て、之をポートサイド迄廻航して、フランス海軍に引渡した。』 (同書第50~53頁)
〔参照〕第一世界大戦下の日本
然らば英米は日本に対して何を為したか。彼等は先づワシントン会議に於て、東亜に於ける日本の地位を、彼等の希望する如く限局することに成功した。英国外務省情報部長たりしサー・アーサー・ウイラートは其著『世界に於ける英帝国』に於て、実に下の如く公言して居る
――『世界戦の清算は、日本の場合に於ては2度行はれた。即ちパリ講和会議とワシントン会議とに於てである。ワシントン会議は、英米全権の指導の下に而も英米外交関係史上末だ曾て見ざるほどの緊密・完全・効果的なる共同動作によって、英米及び英米の理想にかなふ如く極東を処理した。日英同盟も葬られた。
英国は最早ドイツ海軍の脅威を受けなくなったので、此の同盟を葬り去って米国の甘心を買ふを得た。巧妙なる談判によって徐ろに加へられたる英米の重圧の下に、日本は支那に於ける自国の地位の解消を諦めた。
山東に於ける日本の特殊権益は放棄させられた。而して其上に主力艦に対する5・5・3比率の海軍力制限を受けた。精神的にも物質的にも、ワシントン条約は、2個の友邦が1個の第三国に与へ得る限りの最大の打撃を日本に与へたるものである』 と。
まさしくこの言葉の通りである。而も英米は是を以てしても且満足せず、ロンドン会議によって一層深刻なる打撃を日本に加へた。 想ふに英米は之によって愈々ベルサイユ体制を強化し得たものと欣んだであらう。而も比の体制は幾くもなくして痛烈なる反撃を受けるに至った。その反撃とは取りも直さず満洲事変であり茲に世界旧秩序の崩壊過程が始まるに至った。
大川周明
『大東亜秩序建設』 大東亜秩序の歴史的根拠
三 日清日露両役の世界史的意義
支那の愛国者は 『支那は19個国の半植民地たる状態に在る、民地は唯だ一人の主人に事へれば足る、吾等の主人は19人だ』 と悲慣する。而も是くの如き状態を招ぐに至りし支那自身の資任に就ては、毫も深刻に反省せざるのみならず、今ほ前車の覆轍をまんとして居る。
先づ日清戦争を回顧せよ。此の戦争は何故に戦はれたか。そは表面に於ては日支両国の戦争であるが、その本質に於ては欧羅巴の東亜侵略に対する日本の第一次反撃であり、日本は欧羅巴侵略主義の手先たりし支那に対して、武力的抗議を救行したのである。長く鎖国状態に在りし朝詳が、明治初年より其国を開いた。やがて京城に於ける欧米列国の外交代表は、亜細亜の他の国々に於て為せると同じく、朝鮮に於ても独占的利権の獲得及び政治的勢力の扶植を目指して、凡ゆる陰謀を逞しくした。
彼等は其の常套手段を用びて、朝鮮の内政紊乱と人民の反抗とを使嗾した。京城の外国公使館は、かくして陰謀の策源地となり、政治犯人の避難処となった。併し乍ら朝鮮半島を欧米の一国に委ねることは、日本に取りて匕首を心臟に擬せられるに等しき脅威である。それ故に日本は、朝鮮に地歩を築かんとする欧米の凡ゆる策動に反対した。
此時に当りて日支両国は、欧米の東亜侵略に対し、相結んで共同戦線を張るか、然らずんば互ひに敵国となるか、二者其一を択ぶべき関係に置かれて居た。而して支那の腐敗せる政治家は、愚かにも後者を択んだ。一身あるを知りて国家あるを知らず、如何に況んや東亜の興廃の如きは其の念頭にも置かざりし彼等は、朝鮮を護るために非ず、実に朝鮮を売るために、朝鮮に対する宗主権を主張した。
而して朝鮮政府に詢ることなくして、北鮮の沿海地帯をロシアの海軍根拠地として割譲し、朝鮮海峡の要衝巨文島のイギリス占領を承認するに至った。日清戦争は是くの如くにして誘発された。そは支那を傀儡とせる欧羅巴の朝鮮侵略に対し、国家の安危を脅される日本人の反撃に外ならなかった。
日清戦争が欧羅巴の東亜侵略に対する日本の反撃なりとすれば、戦後の三国干渉は来るべきものが来ただけである。而も東洋平和の名に於て露独仏三国を日本に干渉せしめながら、日本より奪回せる遼東半島を直ちにロシアに与へることを密約せる李鴻章及び常蔭桓が、それぞれ50万金ループル及び25万金ループルの賄賂を受取ったことが、無慚にもウィッテの 『回想録』 に暴露されて居る。
ロシアが黄金を以て支那政治家を買収したのは、恐らく此時が初めてではなかったらう。愛琿条約によって黒竜江以北の広大なる地域を獲得した時も、また北京条約によって島蘇里江東・黒竜江南、印ちウラジプストックを含む今日の沿海州を獲得した時も、支那政治家に多額の贈賄が行なはれたことであらう。独り口シアのみならす、共他の列強もまた同一手段を用ひなかったと誰が保証し得るか。
イギリスと緬甸国境条約を、フランスと南方境界条約を結ぶ時も、恐らく同様の醜き取引があったであらう。清朝末期の政治家が、欧羅巴列強の贈賄を受けて、自国の領土並に権利を彼等に売り、彼等の勢力を東亜の天地に誘致して顧みざりしことは、如何なる弁護をも許さぬ政治的罪悪である。
日清戦争及び三国千渉は、清末政治家の亜細亜の運命に関する無自覚と不純極まる動機によって誘発されたものである。かくて三国千渉は、日本に対してより支那自身にとりて一層大なるであった。そは日本にとりては暫時の退却であったが、支那にとりては欧羅巴列強のために領土分割の楔を打込まれたるに等しかった。
日清戦争を通して支那の無力と腐敗とを確実に知り得た列強は、いまや此国に対して如何なる遠慮の必要も認めなくなった。当時年少の陸軍大尉、後に西蔵遠征によって世界に其名を知られたる英国軍人ヤングハズバンドは、支那は土地広く物多く、而も最も人の住むに適する温帯に位して居る、是くの如き地域を一民族の占有に委ねて置くことは神意に背く Against Good’s will とさへ公言した。アングロ・サキソン人が太陽没せざる領土をし擁し幾億の蒼生を奴隷とするを是認し、支那人が其の故国に住むことを怒るとすれば、ヤングハズバンドの神は不思議至極の神である。
但し列強のうち最も露骨に其の野心を遂行せんとしたのはロシアであった。ロシアは啻に満洲に占拠して支那本部の侵略を意図せるのみならず、朝鮮半島を奪取して吾国を脅城せんとした。それ故に日本は敢然起ってロシアと戦ひ、見事に其の野望を挫いた。若し日露戦争に於ける日本の勝利なかりせば、満洲と朝鮮とは確実にロシアの領土となり、支那本部もまた列強の爼上に料理され尽し、恐らく北京にロシアの極東総督府が置かれることになったのであらう。
かくして日露戦争は、欧羅巴の東亜優略に対する日本の第二次反撃であると同時に、直接ロシアと戦ひて之を破れることによって、亜細亜諸国の覚醒を促す警鐘となった。奉天の会戦は、古へのサラミスの戦、又はトゥール・ポアティエの戦に比ぶべき深刻なる世界的意義を有することが、年と共に明瞭になった。誠に日露戦争に於ける日本の勝利によって、世界史の新しき頁が書き初められたのである。
日本のロシアに対する勝利は、400年来侵略の歩みをけて、未だ曾て敗衂の辱しめを異人種より受けざりし欧羅巴に対する最初の而して手酷き打撃であった。彼等の長き間の勝利の歩みは、此時に於て最初の蹉跌を見た。此事は白人圧迫の下に在る諸国に希望と勇気とを作興し、列強横暴の下に苦しむ諸民族に理想と活力とを鼓吹した。日本の名は、冬枯れの木々に春立ち帰りて動き来る生命の液の如く、総じて虐げられたる民の魂に、絶えて久しき希望の血を漲らしめた。
亜細亜人の亜細亜といふ合言葉が、いつとはなしに東洋諸民族の間に唱へられ初めた。印度の家々の神壇に、彼等の宗教改革者ギィユーカーナンダの肖像と相並んで、明治天皇の御真影がられた。印度不安は此頃より漸く英国政府の憂慮の種となり、印度駐屯の英国軍隊は、日曜の礼拝も小銃には弾丸を込め、剣は鞘を払ったまま行はれるやうになった。
ペルシアの新聞は、テーランに日木公使館の設置、日本将校の招聘、日波貿易の促進を高調し 『「強きこと日本の如く、独立を全うすること日本の如き国家となるために、ペルシアは日本と結ばねばならぬ。日波同盟は欠くべからざる必要になった』 と力説した。
エジプトに於ける国民主義の機関紙アル・モヤドは、日本が回教国たらんことを切望し 『回教日本の出現と共に、回教徒の全政策は根本的に一変するであらう』 と論じた。エジプトの独立運動、トルコ及びベルシアの革命運動、印度の独立運動、及び安南の民族運動など、一として日露戦争による亜細亜覚醒の現れならざるはない。
当時に於ける彼等の感情を、最も切実に表白せるものは、エジプトの国民主義者ヤヒヤ・スイッディクが其著 『回暦第14世紀に於ける回教諸国の覚醒』を結べる下の文章である
―― 『堅く信ぜよ、希望せよ、希望せよ、希望せよ。吾等は明かに一歩を踏み出した。吾等をして茲に出でしめたるは、実に欧羅巴の横暴其ものに外ならぬ。而して吾等の進歩を促し、必然吾等の復興を促すものも、また実に欧羅巴との不断の接触である。そは簡単明療に世界史の循環である。神意は一切の障碍を打破して、必ず其の実現を見ずば止まぬ。欧羅巴の亜細亜に対する監督は、日に日に名目のみとなり、亜細亜の諸々の鉄門は、彼等に対して鎖ざされつつある。吾等は世界史の未だ曾て知らざる革命の出現を、明白確実に吾等の前に洞見する。げに新しき世は近づいた』 と。
日露戦争は、東洋諸国の覚醒を促したと同時に、西洋諸国に対しても深刻なる実物教訓与へた。例へば此の戦争に於てコサック軍に従軍して日本の捕膚となれる一イギリス人は、其の 『従軍記』 の中に下の如く述べて居る ―― 『會てはロシア兵のために獣畜の如く待遇きれ虐使された満洲の支那人は、奉天会戦後豚の如く無蓋車に積まれて、矮小なる日本兵に監視され乍ら、陸続として南方に送られる多数のロシア兵を目撃し、或は停車場附近の露天の垣根の中に密集して収容されて居るロシア捕虜を実見して、これまで彼等が受けてきた人種的差別待遇の道理なきことを知った』 と。
また同じくこの戦争に従崋し、最初に日本に上陸せるロンア捕虜を見るために雲集せる日本人の態度を目撃せる一フランス記者は、其著『太平洋の争覇』の中に、躍動する筆致を以て、彼及び総ての白色人に与へたる当時の光景の深刻なる印象を、下の如く記して居る
―― 『そは矮小なる日本人が甚だ厭悪せるロシア人否欧羅巴人である。此等の巨大なる素晴らしき者どもが、是くの如く辱しめられて居る光景を見ることは、日本人に取りて何たる勝利、何たる復仇であらう。此の瞥見されたる悲劇の場面、喜悦の中の悲痛、此の思ひのままに戦勝気分に湧立てる黄色人種の前を、隊伍を組んで進み行く此等の辱しめられたる白色人種の捕虜、此の光景は日本によって打破られたるものはロシアでないこと、他国民による一国民の敗北に止まらぬことを示して居る。
そは新しき、非常なる、驚くべき或事である。そは一つの世界に対する他の世界の勝利である。そは亜細亜が屈辱を忍べる数世紀を抹殺せる復仇である。そは東洋の覚醒しつつある希望である。そは多年に亙りて他の人種に無造作に勝誇りし呪はれたる西洋人種に対する最初の打撃である。
其処に居た日木人群衆は此等の総てを感じて居た。而して居合せた少数の亜細亜人も、また此の戦勝気分を味はった。白人の受けたる屈辱は、厳粛にして恐怖すべきものであった。
予は此等の捕虜がロシア人なることを完全に忘れ去った。而して予は、其処に居合せた他の欧羅巴人が、反ロシア的ではありながら同一の屈辱を感じたことを附言したい。彼等もまた此等の捕虜が、彼等と同一人種に属することを感ぜざるを得なかった。神戸に向ふ列事の中で、一の本的連帯感が、吾等を駆りて同一室内に寄り集まらせた』 と。
かくして彼は、非白人のためには暁の鐘であり、白人のためには入相の鑪なりし日露戦争に、既に諸行無常の響きを聞き、欧羅巴世界制覇の漸く影薄からんとするを看取して、下の如き警告を同書の中で与へて居る
―― 『現代欧羅巴は、日露戦争の教訓を学ぶ用意なく、また之を理解もしない。其日暮らしの政策に満足し、綜合的識見即ち精神主義を無視し、目前の利益に安心し、遠大の計画を樹て得ないのが、現代欧羅巴の本質よりくる当然の結果である。
今日の欧羅巴に於て、何処に協同の原理を求め、何に協力の基礎を置くことが出来るか。余りに多くの異なれる利害関係、余りに多くの相容れざる野心、余りに根強き嫉妬憎悪、余りに跋扈する魂なき人間、此等のものが相結んで欧羅巴精神の真個の声を葬る。
日本の実力は、その聯隊と軍艦とに存せず、実に欧羅巴の不和に存する。然り、欧羅巴諸国に眼前の利害を超越せる一個の理想なきこと、共同の感情に其胸を躍らしめ得ざることに存する。まことの黄禍は実に潜んで吾等の衷に在る』 ――
日露戦争以後の欧羅巴は、まさしくルネ・ピノンが憂へたる方向をとりて進み、遂に其後十年ならずして欧羅巴大戦の勃発を見るに至った。欧羅巴大戦は、古のギリシアに於けるペロポネソス戦争に比ぶべき欧飆巴の内乱であった。
而してペロポネソス戦争がギリシア文明の自殺、その没落の前提なりし如く、欧羅巴大戦は実に欧羅巴覇権没落の前提となった。此の悲修なる戦争によって、欧羅巴は其の長所と共に其の欠点をも遺憾なく暴露した。かくて其の世界的覇権に対する昔日の自信が漸く動揺し初め、欧羅巴の前途を悲観する幾多の著書が、相次いで公けにされるに至った。
試みにその二、三を挙ぐればストッダードの 『有色人の昻潮』 、ミェレの 『白人の黄昏』 、グレゴリの 『有色人の脅威』 、ドマンジョンの 『欧羅巴の衰頽』 、ライスの 『亜細亜の挑戦』 、ラパートの 『黄禍論』 、シュペングラーの 『西洋の没落』 等がある。
大川周明
『大東亜秩序建設』
序
過去一年間の間、予は諸処に於ける十数回の講演に於て、専ら大東亜秩序建設の根拠を明かにするに努めて来た。いま其等の講演にて吐露せるところの精神を、主として力を注げる目標に従って二篇の文章に、一を 『大東亜秩序の歴史的根拠』 と名づけ、他を 『大東亜圏の内容及び範囲』 と題した。
前者に於て予は東亜新秩序の理念が、決して支那事変以後に発案せられたる軍事的標語に非ず、夙く既に明治維新前夜に於て、幾多の先覚者によって堅確に把握せられ、維新このかた3代を通じて常に日本大陸政策の基調となり、遂に大東亜戦争によって共の実現を見るに至りし径路を辿った。
而して後者に於ては、所謂大東亜圏とは如何なる地域を意味するか、その地域に於て如何なる民族と文化とが興亡起伏せるか、日本は大東亜圏と如何なる関係に立つかに就て、予の考へ且信ずるところを述べた。予は前後両篇に於て、大東亜新秩序の建設といふことが、決して単なるスローガンに非ず、日本及び東亜の民族にとりて、最も真摯なる生活の問題と切実なる課題とを含むものなることを明かにせんとした。
第三の 『欧巴・亜細亜・日本』 は、大正の末年、空虚なる国際主義や巾幗的平和論が一世を風靡せる時に当り、第一には戦争の世界史的意義を提示し、
第二には言葉の真個の意味に於ける世界史とは、東西両洋の対立・抗争・統一の歴史に外ならぬことを示さんとし、
第三には世界史を経緯し来れる如上両者の文化的特色を彷彿せしめんとし、
第四には全亜細亜主義に向って論理的根拠を与へんとし、
最後に第五には来るべき世界新秩序実現のために戦争の遂に避け難き運命なることを明かにし、日米戦争の必至を述べたるものである。
20年以前の旧著であるが、前両篇の論旨を補充するものなるが故に、更めて之を輯録した。
昭和18年6月
大川周明
大東亜秩序の歴史的根拠
一 明治維新前夜に孕まれたる大東亜理念
若し予が日本近代史を書くことありとすれば、予は佐藤真淵の思想の叙述から筆執り初めるであらう。そは此の偉大なる学者の魂の中に、新しき日本が既に最も具体的なる姿をとりて孕まれて居たからである。幕末日本の堕落・沈瀞を、恐らく佐藤信淵ほど切実深測に看取して居た者はない。
政治家の無能、町人の放肆、農民の困苦、一としての心を痛ましめざるはなかった。彼はまた当時の何人よりも善く西洋諸国の富強を熱知して居た。さればこそ彼は謙遜にして勤勉なる弟子として、西欧文明の摂取のために蘭学に刻苦すること前後8年の長きに及んだ。
故に彼は世界の事情に関して殆ど誤りなき知識を有し、西洋諸国の武器の精鋭、その戦の強大を知り、世界地図の上に於て日本が有るか無きかの一小列島にすぎぬことを知って居た。
而して西洋緒国が恐るべき野心を抱いて東亜に殺到しつつあることをも知って居た。彼は日本の内憂外患が、人力を以て打開し難く思はれるほどの危局に当面せるを見て、並居る門人の前で 『嗚哀しいかな哀しいかな』 と長嘆することさへあった。
而も彼は表面一切の腐敗・●(文字不鮮明で不明)爛の背後に潛む荘厳なる日本精神を把握した。而して此の精神によって学び、信じ、且行った。彼は今を距る100年以前、夙く既に日本の根本動向を洞察し、其の進路を的確に指示して居る。命脈絶えなんとする幕末封建の空気を呼吸し乍ら、彼の精神には全く新しき日本が孕まれて居た。
佐藤信淵は、先づ日本を以て 『世界の根本』 となし、若し日本が能く 『其の根本を経緯』 するならば、世界を以て悉く吾が郡県たらしめ得べしと信じた。彼は此の 『世界を一新する大業』 を遂行するために、最も徹底せる日本国内の政治的革新と、万国統一の順序とを説いた。
彼は 『皇国より他邦を開くには、必ず先づ支那国を併呑するより肇むることなり。・・・・・支那の強大を以て猶ほ皇国に敵すること能はず、況や其他の夷狄をや。
・・・・・支那既に版図に入るの上は、其他西蔵・暹羅・印度亜の国、・・・・・慚々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐して巨撲を隸せざることを得ん哉』 とし、且支那を経略するためには 『満洲より取り易きはなし』 とした。同時に彼は欧羅巴列強、わけても 『暗厄利西』 の北上に備へるため、フィリピン群島を手初めとし 『南海数千里の地』 を悉く吾が版図とし、かくて 『支那・安南・占城・柬坡塞よりして印度地方及び印度海中の諸を漸々に経略』 せねばならぬとした。
而して彼は、此の雄渾無比なる世界政策の実現のために、理想国家の組織制度を巨細に立案し、わけても其の経済的方面に於て、最も強力なる国家統制の下に立つ厚生経済政策を樹てた。
欧羅巴に於てさへ、近世ユートピア社会主義思想の未だ生れ出でなかった時に、是くの如き徹底せる経済体制を創案せることは、彼の魂が如何に自由であり、彼の頭が如何に独創的なりしかを示すものである。
当時の東洋に於ては、支那にも印度にも、斯かる荘厳なる規模に於て国家と世界とを考へた者は、唯だの一人も居なかった。
佐藤信淵が支那の 『併呑』 を主張したことは、恐らく支那人の耳に快く響かないであらう。而も信淵の大陸政策又は領土拡張論は、近代欧米資本主義国家の無理想なる植民地征服主義く全く其の本質異にして居る。彼の至心に志せるところは 『世界万国の蒼生を救済すべき産霊の教』を以て、天下の民草の苦しみを救ふことに外ならなかった。
故に其の併呑とは、支那を日本と同様なる政治体制の下に置き、『昊天の神意を奉り、食物衣類豊かにし民を安んずるの法』によって、万世人君の模範たる 『堯舜の道』を実現するといふ意味であった。彼は永眠の前年に 『存華挫狄論』 の一書を著して居る。此書は共の題名が既に物語る如く支那を存してを狄を挫くべきことを高調せるものにして、狄とは取りも直さずイギリスを指せるものである。
彼は英国がモーガル帝国を亡ばして印度を略取してより、更に優略の歩武を東亜に進め来り、遂に阿片戦争の勃発を見るに至ったが、若し清国にして此の戦に懲り、大いに武備を整へて失地を回復すればよし、然らずして今後益々衰徴するならば、禍は必ず吾国に及ぶであらうと洞察し、支那を保全強化して英国を挫き、日支提携して西洋諸国の東亜侵略を抑へねばならぬと力説したのである。彼の謂はゆる併呑が、決して優略征服の意味でないことは、之によって観るも明療であらう。
信淵の是くの如き思想は、儒学・蘭学の素養に加ふるに国学の研究から生れたものであり、甚だ多くを平田篤胤の学問に負へることは、主著 『経済要録』 の序言に於て彼自ら語るところによって明白である ―― 『予既に隠者となりて、郷人平田第胤等が唱ふる所の皇国古道の学に従事し、深く天神地祗の遺説を精究するに、本正しく末明かにして天地の万物を化育するの理、渙然として解釈することを得て、以て家学就するに至れり。』
国学は言ふまでもなく日本独創の哲学であり、近代日本の国民的統一の最も重要なる基礎理念の一つである。而して此の理念が、既に明治維新の前夜に於て、夙くも国内の政治的革新と相並んで、東亜統一の理想を国民の心に抱かしめたことは、吾等の最も記憶せねばならぬ事実である。東亜新秩序又は大東亜共栄の理念は、決して今日事新しく発案されたものでない。そは近代日本が国民的統一のために起ち上れる其時から、綿々不断に追求し来れるものに外ならない。
さればこそ明治維新の志士は、尊王攘夷の標語の下に、日本の革新と亜細亜の統一とを、併せて同時に理想とした。吉田松陰は久坂玄瑞に与へたる書簡の中に 『蝦夷を墾き、琉球を収め、朝鮮を取り、満洲を拉し、支那を抑へ、印度に臨み、以て進取の勢を張るべし』 と書送った。
真木和泉は大原三位に上りし献策及び西郷南洲に送りし書簡の中に、日本は朝鮮・琉球を版図に収め、満・清国を外藩とし、以て欧米の侵略に当らねばならぬと述べて居る。平野二郎は島津久光に上りし 『尊攘英断録』 にて、同様の意見を烈々火の如き文章を以て高調して居る。
徳川幕府内部に於いても、有為の士が抱懐せる対外政策は、東亜の統一を積極的理想とせる点に於て、討幕志士と異なるところ無かった。後に謂はゆる日本の大陸政策となりて現れ、遂に今日の大東亜共栄圏の建設にまで具体化された理念は、実に明治維新の前夜に於て、夙くも当時の先覚者によって把握されて居たのである。
国民の魂に深く且強く根を下ろして居た比の理念があればこそ、日本の大陸政策は、内外幾多の難局に当面したに拘らず、之を全体より観れば歩々積極的に解決し得て、遂に今日に到ったのである。
二 明治維新以後に於ける大東亜理念の追求
明治維新は、いふまでもなく尊皇攘夷を二大綱領とした。攘夷論はもと開港論に反対して起れるものである。然るに徳川幕府の大政奉還によって、尊皇の大義は一応実現されたけれど、開港は啻に其侭に続きたるのみならず、天皇が外人に藹見を賜はるようになったので、昨の攘夷は一朝の夢と消え去ったかの如く見えた。
現に明治新政府に向かって、鼓を鳴らして其非を責めた者もある。併し乍ら、攘夷と開港とが相容れざる如く見えるのは、つひに表面皮相のことであり、鎖国は唯た攘夷の消極的半面に過きない。攘夷の真個の意義は『万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置かんことを欲す』と宜へる明治元年の大詔に於て、最も適切に言ひ尽されている。
而して此の精神は、既に述べたる如く、佐藤信淵以来維新先覚の魂に明白に孕まれて居た。かくて攘夷の積極的半面即ち国成宣布の理想は、大陸政策の名の下に着々実現されて往った。
日本は先づ琉球の所属問題を解決して之を確実なる領土となし、琉球をして沖繩県を置いた。幾多の紆余曲折の後に韓国との間に特殊の親善関係を結んだ。日清戦争の勝利によって台湾を版図とした。日露戦争によって明治初年に失へる棒太の南半を回復し、且南満の諸権益をロシアより接収した。次で日韓合邦によって鶏林八道の蒼生を皇民とした。而して最後に満洲事変によって、満州国の建設を見るに至った。
日本の是くの如き発展は、決して単なる領土的野心の追求でない。吾等の最も銘記せねばならぬ一事は、それが常に東亜新株序確立のための準備として行はれて来たといふことである。近代日本の先覚者は、繰返し述べたる如く、単に日本国内の政治的革新を以て足れりとせず、近隣諸国の改革をも実現し、相結んで復興亜細亜を建設するに非ずば、明治維新の理想は徹底すべくものもないと確信して居た。それ故に維新精神の誠実なる継承者は、実に燃ゆる熱情を以て隣邦の事を自国のことの如く考えてきた。
頭山翁は 『南洲先生が生きて居られたならば、日支の提携なんぞは問題ちゃない。実にアジアの基礎はびくともしないものになって居たに相違ないと思ふと、一にも二にも欧米依存で暮して居た昔が情けない』 と長嘆して居る。
其の大西郷は常に下の如く言って居た ―― 『日本は支那と一緒に仕事をせねばならぬ。それには日本人が日本の着物を着て支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間は、どしどし支那に帰化してしまはねばならぬ。そして其等の人々によって、支那を立派に道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれぬ』
その大西郷が征韓論に敗れて薩南に帰臥せるころ、年少海軍士官會根俊虎は、フランスの安南に対する野心を看取して、同志を糾合して興亜会を起し、一身を此国のために抛たんとした。明治18年、朝鮮の秕政を一挙に革めて、鶏林八道の民を塗炭の苦しみから救ふために、爆弾を抱いて海を渡らんとせる一団の同志のうらには、妙齢19歳の一女性さへも加はって居た。
明治19年、同志30余名と共に支那にて活動を始めた荒尾精が、共の本拠たる漢口楽善堂の2階に掲けたる綱領は、下の如きものであった ―― 『吾党の目的は、東洋永遠の平和を確立し、世界人類を救済するに在り。その第一着手として支那改造を期す』 而して辛苦十年、台湾の逆旅にペストに冒され、貴くして短き38年の生涯を終へんとした時、昏々悪熱の間にが遺せる最後の叫びは、実に『鳴呼東洋が、東洋が』といふ悲壮なる言葉であった。
それ故に変法自強の運動が支那に起った時も、また滅満興漢の革命運動が起った時も、日本は満腔の同情を以て之を援けた。其の援助は、支那の復興を切望する以外、また他意なかった。而して支那の復興を切望せるは 『偕に手を携へて東洋保全の事に従ふ』 ためであった。
明治29年、密かに横浜に亡命し来れる無名の孫文を、如何に日本は温かに庇蠖したか。中山といふ彼の号さへも、当時横浜より彼を東京の旅館に案内し来れる平山が、途上中出侯爵邸前を過ぎたるより思ひつきて、仮に宿帳に書きたるに由来せるものである。今日の国民覚が共の組織の基礎を築いたのは東京に於てであり、孫文が支那革命の指導権を提るに至ったのは、実に日本の先覚者の無私なる援助によるものである。
而も其の援助は、決して単なる主観的同情たるに止まらず、幾多の志士が自ら支那に渡りて或は屍を戦場に曝し、或は支那革命のために生を捧げて一切の艱難を厭わなかった。彼等の心には支那と日本との隔ての垣がなかった。支那と日本とを併せたる広大なる地城が、彼等の活動すべき舞台、同感の空気を呼し得べき場処であった。
彼等に取りては、日本の国民的統一と支那の復興、及び両者の結合による東亜新秩序の実現は、一体不離の課題であった。亜細亜の辿るべき此の運命を、亜細亜の孰れの国よりも先んじて自覚し、そのために拮据経営し、且そのために最も多くの犠牲を払って来たからこそ、大東亜共栄の指導権が日木に与へられるのである。
いま吾等は、亜細亜の桂冠詩人にして印度の忠僕たりしラピンドラナート・タゴールが、既に20年以前にマンチスター・ガーディアン紙の特別通信員に向って、惲るところなく日本は当然亜細亜の指導者となるであらうと公言して、下の如く告けたことを想起する ―― 『日本が亜細亜を糾合し、且之を指導するを以て国家の使命と考へることに何の不思議もない。欧羅巴諸国は其間に幾多の相違あるに物らず、その根本的観念並に理解に於て正に一国である。彼等の欧羅巴以外の国民に対する態度は、之を一大陸といはんよりは寧ろ一国といふを至当とする。
例へば仮に蒙古人にして欧羅巴大陸の片土を犯すとせよ。然らば全欧は挙って之が撃退に協戮するであらう。日本は立することができぬ。日本一国を以て合せる欧巴列強と角遂するは、偶々共の減亡を招く所以である。さればとて日本は真個の味方を欧願巴に求めることは難い。然りとすれば日本が其の味方を亜細亜に求めることは当然である。日本が自由なる暹羅、自由なる支那、而して恐らく自由を得ずば止むまじき印度と提携するに何の不思議があるか。
提携して起てる亜細亜は、仮に西亜のセム民族の協力を除外しても、まことに力ある聯合である。固より是くの如きは遠き将来のことであらう。その実現には幾多の困難が横はるであらう。言語の相違、交通の困難も障碍とならう。さりながら暹願より日本に至るまで、其処には親近なる血縁がある。印度より日本に至るまで、其処に共通なる宗教あり哲学がある』 と。
最も激しき支那の抗日要人も、恐らく其心の奥底に於て、タゴールの言葉に含まれたる真実を肯定するであらう。
大川周明
英国東亜侵略史
第六日
中央亜細亜のパミール高原は、古より世界の屋根と呼ばれて居ります。此の高原から斜めに西南に走る山脈はスライマン山脈と呼ばれ、印度とアフガニスタンの国境を走つて印度洋に尽きて居ります。また此の高原から北に走るものは天山山脈と呼ばれ、ズンガリア盆地に於て一旦杜絶した後、再びアルタイ山脈となつて東北に延び、更にヤブノロイ山脈・スタノボイ山脈となつて一層東北に向ひ、遂に亜細亜大陸の東北端イースト・ケープとなつてべーリング海峡に突出して居ります。
即ち南はインダス河口から北はベーリング海峡に至るまで、亜細亜大陸は西南より東北に走る蜿蜒万里の山脈によって、まさしく両断されて居るのであります。この山脈は世界の屋根の長い長い棟であります。而してこの屋根によって旧世界は東洋と西洋との二つに分たれて居ります。即ちこの屋根の棟の東南斜面が東洋であり西南斜面が取りも直さず西洋であります。ペルシア・小亜細亜・アラビアの諸国は、亜細亜のうちに含まれては居りますが、之を地理学の上から見ても、また世界史の上から見ても、明かに西洋に属するものであり、真実の意味の東洋は疑ひもなくパミール高原以東の地であります。
此の東洋の世界はヒマラヤ山脈に起り、昆嵜山脈となり、東へ東へと進んで支那海に至つて尽きる東西万里の山脈によって、更に南北に両分されて居ります。南方即ちヒマラヤ山脈の南斜面は印度であり、ヒマラヤの北、天山アルタイ両山脈の東が取りも直さず支那であります。而してインドと総称されるヒマラヤ山脈の南斜面は、更に東西両部に分たれ、西なるはヒンドスタン・インド人の国、即ち狭い意味の印度であり、東部はビルマ・タイ・安南等を含む所謂印度支那で、其の名の如く地理的にも、東洋の偉大なる二つの部分、印度及び支那の中間に位する国土であります。
印度と支那とは、東洋の二つの偉大なる中心であります。両者の面積は殆んど相同じく、人口はまた各々数億を激へ、ヒマラヤ山脈によって南北相隔てられ、一方には蒙古人種、他方にはアリアン人種が住み、一方は温帯、他方は熱帯、相距ることも遠く、相異なること大でありますが、東洋は実に此の二つのものの結合によって一つの全体をなして居るのであります。而して我が日本は此等の東洋の二つの中心から、実に幾多の貴きものを学び、善きものを習ひ、之を自身の精神の裡に統一し、之を生活の上に実現しつつ今日に及んだのであります。
西洋人が渡来するまで、日本人に取って世界とは実に支那と印度、即ち唐と天竺とを中心とする東洋を意味し、此の両国に我が日本を加へて三国と称へて来たのであります。三国一の花嫁とは世界第一の花嫁のこと、三国一の富士山とは支那にも印度にもない世界一の立派な山のことだったのであります。三国妖婦伝といふ物語では、九尾の狐が、支那・印度・日本三国の宮廷を哺しまはつて居ります。それ故に支那と印度とは、我々にとりては、少くとも我々の祖先にとりては、決して他国ではなかつたのであります。日本は此等の国から数々のものを学んだので、啻に他国ではないのみならず、実に大切な国、有難い国であつたのであります。然るに今や釈尊が生れ、孔孟が生れた其の大切な国が、イギリスの属国となり、その半植民地と成り果てて居るのであります。
我等が印度から学んだ最も貴いものは宗教であります。即ち印度思想・印度文明の精華と申すべき仏教の信仰であります。我々の祖先が如何に誠実に此の教を学び、比の教の生れた印度に憧憬して居たかを示すため、幾多の例を挙げることが出来ますが、最も私の心を打つた一っだけを申上けます。
それは鎌倉初期の高徳、京都栂尾の明恵上人のことであります。此の上人は印度に渡って仏蹟を巡礼したいといふ抑へ難い願ひから、其の巡礼の筋道を事細かに調べ上げ、支那の都の長安から印度の王舎城までは8330里、日に8里づつ歩けば千日、日に5里づつ歩けば、正月元旦に長安を出発して5年目の6月10日の午刻に王舎城に辿り着く、天竺は仏の生国なり、恋慕の思抑へ難きにより、遊意をなして之を計る、あはれあはれ参らばやと書いて居ります。
不幸病のために印度巡礼の願は遂げられなかつたが、印度から渡つて来た竹を見るに、日本の竹と異なる所がない。さすれば釈尊当時の竹林園の竹もまたかやうな竹であらうと、一むらの竹を学問所の前に植ゑつけ、之を竹林竹と名けて、あけくれ眺めて居たのであります。まことに激しい思慕のこころと申さねばなりませぬ。若し此の明恵上人が、今日蘇って印度の現状を見、印度がイギリスの鉄鎖に縛られ、其の民は牛馬の如く虐げられて居るのを見たならば、血涙を流して悲しみ、火の如く激しく憤ることであらうと存じます。
我々は印度の仏教から、信仰だけを学んだのではありません。仏教は同時に五明即ち五つの学問を我々に教へて居ります。第一は因明で、論理の講究、第二は内明で、教典の研究、第三は声明で、言語音律の研究、第四は医方明で医術の研究、第五は工巧明で、工芸美術の研究であります。而も教典の研究のうちには、仏典以外の儒教の経典をも含み、寺は寺小屋と呼ばれて国民教育の機関となり、その教科書には儒教の経典が用ゐられて居たのでありますから仏教は日本に取りて一個の宗教であつたのみならず、同時に文化の綜合体であつたのであります。
即ち印度文化全体が釈尊又は仏教を通じて我国に伝へられ、その仏教の真理は、いろいろなる理論によってに非ず、生活体験によって日本人の魂に浸み込んだのであります。従って仏教徒たると否とを問はず、我々日本人は甚だ多くを釈尊の印度に負うて居るのであります。それ故、真実の日本人である限り、多かれ少かれ明恵上人が抱くであらう所の悲しみと噴りとを感ぜねばならぬ筈であります。
それでありますから、我々日本人が英国の印度統治に対して加へる弾劾は、一昨日紹介したアメリカのブライヤンが加へる如き、単なる人道主義に拠る道徳的非難たるに止まらず、同時に我心と我身とに加へられたる辱しめを感じての義憤であります。
現代印度革命思想の生みの親アラビンダ・ゴーシユは 『圧制者あり、我母の胸に坐す。我母を此の圧制者より救ふまで、我は断じて息まず』 と誓って居りますが、我存は此の悲壮なる覚悟を、我々自身の覚悟の如く身に泌みて感ずるものであります。
私は此の度の対米英戦争に於ける日本の勝利が、必ず印度独立の機縁となり、導火線となつて、古へ釈尊より受けたる教に対する最も善き贈物として、自由を印度に与へ得るに至らんことを切望するものであります。
日本と印度との間のかくの如き関係は、支那との場合に於ても同然であります。 我々は支那文明の精華と申すべき孔孟の教を支那から学んだのであります。我々は、総ての生活の基礎を倫理に置かねばならぬこと、即ち人格の上に置かねばならぬという高貴なる糟神を、極めて明晰なる理論を以て儒教から学んだのであります。
のみならず、江戸時代300年の間、学聞と申せば支那の学問でありましたので、政治・道徳・文学、あらゆる方面に於て善かれ悪かれ支那文化は国民生活の隅々に浸透し、印度が然る如く支那もまた我身我心の一部となったのであります。
其の上支那は印度と異なり、一衣帯水の間柄でありますから、多くの支那人が日本に来て、彼等の血が日本人の血に混つて居ります。中国の大大名であつた大内氏も、薩摩の島津家も、遠く其の祖先をただせば、朝鮮を経て日本に渡つて来た支那人だと言はれ、一徹短気で名高い赤穂義士の武林唯七は孟子の子孫だとも申されて居ります。
純然たる日本文学と考へられて居る紫式部の源氏物語でさへ、其の思想も、その文学としての結構も、明かに漢学漢文から脱化したものであります。大宝令は御承知の如く支那の法律制度を模範としたものであります。我等の洗祖は日本の歴史を学ぶと同じ程度の親しみを以て支那の歴史を学び、日本の英雄豪傑を崇拝ずると同じ程度の熱心を以て支那の英雄豪傑を崇拝したのであります。
諸葛孔明の出師表は、どれほど日本人に忠義の心を鼓吹したか知れず、岳飛の誠忠がどれほど士気を鼓舞したか測り知れぬほどであります。日本人中の最も偉大なる日本人西郷隆盛が、如何に伯夷叔斉の高潔なる心事に傾倒して居たかは、彼自身の文章によって知ることが出来ます。
わけても支那文学が甚だしく日本人に喜ばれ、漢詩を作ることは、教養ある人士に欠くべからざる条件の一つとさへなつたので、支那の詩歌文学に現れて来る山や川は自分の故郷の地名の如く日本人の耳に響いたのであります。黄河も楊子江も、赤壁も寒山寺も、乃至西湖も洞庭湖も皆な我灯の耳に久しく聞き馴れて居りますので、例へば 『楊子江頭楊柳の春、楊花は愁殺す江を渡るの人』 といふ詩を吟ずれば我々は支那の詩人が、長江に寄せた綿々の哀愁を、自ら楊子江畔に立って感ずる如く感じます。
また 『洞庭西に望めば楚江分る、水尽きて南天雲を見ず』 と歌へば、洞庭湖は決して他国の湖とは思へないのであります。 かやうな次第で日本と支那との間には、心の境がなくなつて居たのであります。日本人と支那人とは『我々』といふ一人称を用ふべき兄弟であります。
此の支那が、国民の身と心を触ばみ尽す阿片吸飲のあさましい風習を止めるために、阿片輸入を禁止するのは当然至極のことでありましたが、それが承知罷りならぬといつて武力を用ゐたのが実にイギリスであります。 イギリスは、一切の道徳を無視し、毒薬を売込んで金儲をしようといふ一群の商人の貪欲なる希望を満足させるために、その軍隊を用ゐたのでありますから、英国軍隊を貫く精神は、ホーキンス、ドレーク等の昔ながらの海賊精神であります。
今も昔も変りなき此の海賊精神を以てイギリスは支那に臨み、必要あれば武力を以て、然らざる時は買収と外交的術策と威嚇とを以て、遂に支那を其の半植民地とし、支那民族を最も都合よき搾取の対象としたのであります。イギリスの対支政策は形こそ変れ、大砲の筒先を向けて、恐るべき阿片を突きつけ、飲まねば打つぞと言った其の精神の種々の現れであります。
日本が支那の領土保全を不動の国是として来たのは、其の奥深き根抵を、日本人の真心に有して居ります。支那の文明は黄河と楊子江の流域に起り、その丈明は我が日本の生命と生活とのうちに、今尚溌剌として生きて居るのであります。それ故に何はともあれ、黄河、楊子江の流域が他国の手に奪はれるに忍びない、飽くまでも之を漢民族の手に保存させて置きたいというのが、自つと湧き上がる日本民族の赤誠であります。
支那は、此の赤誠より送れる日本の政府のために、イギリスの、又はロシアの奴隷となり果てずに済んだとは申せ、年久しく欧米の資本主義並に帝国主義角逐の舞台となって来たので、年一年と自国の貴重なる丈化を犠牲にする危険に曝されて参ったのであります。
曾ては東亜の国々をあれほど豊かにした支那文化は、巧みに支那の統一を破る術を心得て居る欧羅巴帝国主義的諸国、就中イギリスの侵入と共に、内的にも外的にも弱められて、つひに偉大なる過去の、単なる影と成り下らんとして居ります。のみならず、イギリスの巧妙なる搾取と相並んで、今やボルシェギズムの暗い力が新たに舞台に現れ、衰へたる支那を其の勢力の下に置き初めたので、支那の文化は破壊崩潰に対して、益存無抵抗に曝されるに至ったのであります。
日本は自国の文化と、支那に於て脅されつつある東洋文化を救ふために、あらゆる努力を続けて戦ひ来れるに拘らず、支郡は起って我等と共に東洋を護り、亜細亜を滅ぼす勢力と戦はんとはせず、却つて刃を我等に向げ来つたのであります。而して、東洋の敵たる英米と罫を握り、今荷ほ東洋を救ひつつある日本と戦ひ続けんとするのであります。
もとより南京政府は既に樹立せられ、汗精衛氏以下の諸君は、興亜の戦に於て我等と異体同心になつて居りますが、支那国民の多数は其の心の底に於て爾ほ蒋政権を指導者と仰ぎ、日本の真意を覚らんともせず、却つて日本に反抗しつつあることは、悲痛無限に存じます。さりながら明治維新を顧みましても、各藩に勤皇佐幕の対立抗争あり、勤皇諸藩の間に反目嫉視あり、最後に薩長相結んで幕府を倒すに至るまで、如何に多くの高貴なる鮮血が流されたかを思へば、是れ亦止むなき次第であります。
日本の掲げる東亜新秩序とは、決して単なるスローガンではありませぬ。それは東亜の総ての民族に取りて、此の上なく真剣なる生活の問題と、切実なる課題とを表現せるものであります。此の問題又は課題は、実に東洋最高の文化財に関するものであります。それ故に我等の大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、経済的利益のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦いであります。此の東洋交化財は、既に申上げた通り、わが日本民族の魂に、またわが日本国家の中に統一されて、其の最高の価値と意義とを発揮して居るのであります。
我々日本人の魂は、直ちに是れ三国魂であります。日本精神とは、やまとこころによつて支那糟神と印度精神とを綜合せる東洋魂であります。従つて東亜新秩序の真箇の基礎たるべき魂は、既に慣然として存在し且つ活躍しつつあるのであります。
足かけ5年、我々は此の魂を基礎とせる.秩序を、先づ支那に於て実現するために、此の実現を妨げるものと善戦健闘して来ました。然るに今や世界史の進転は、東洋の敵たる英米と日本との明らさまなる戦争となり、従つて此の新秩序の範囲を、印度にまで拡大し得る形勢となつたことは、我々の欣喜に堪へざる所であります。
大東亜即ち日本・支那・印度の三国は、既に日本の心に於て一体となって居ります。我々の心裡に潜むこの三国魂を、具体化し客観化して一個の秩序たらしめるための戦が、即ち大東亜戦であります。支那民族はやがて其の非を覚るであらう。印度民族はやがて解放されるであらう。正しき支那と蘇れる印度とが、日本と相結んで東洋の新秩序を実現するまで、如何に大なる困難があらうとも、我等ば戦ひぬかねばなりませぬ。いと貴きものは、いと高き価を払はずば決して得られないのであります。
想へば1941といふ数は、日本に取りて因縁不可思議の数でありまず。元寇の難は皇紀1941年であり、英米の挑戦は西紀1941年であります。私は日本の覚悟と努力とによつて、英米の運命また蒙古のそれの如くなるべきことを信じて、此の不束なる講演を終ることと致します。
〔終わり〕
大東亜戦争開戦の詔勅
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米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書 (昭和16年12月8日)
大川周明 「米英東亜侵略史」 (第六日) 日本、国際聯盟脱退、大東亜戦争勃発
大川周明
「英国東亜侵略史」
第五日
今日は英国の支那進出について申上げます。支那の数々の物産のうち、夙くから西洋で珍重されたのは、絹布及び茶であります。此の高価なる品物は、印度航路のまだ開かれぬ前から、陸路中央亜細亜を経て欧羅巴に供給されて居たのであります。そして最初に海路によって此の有利なる貿易を独占したのはポルトガルでありましたが、第17世紀の初め、チャールス一世の時に至り、英国商人の一団が、支那貿易に参加すべく、国王から特許状を与へられ、艦長ウェツデルが此の目的のために一小艦隊を率ゐて支那に向ひ、1635年マカオに到着しました。
即ち我国では3代将軍徳川家光の時に当ります。ポルトガルは此の新しき競争者の出現を憤り、一切の迫害を加へて其のマカオに拠ることを妨げたので、ウェツデルは此の地を去つて広東に進まうとしました。然るに艦隊が広東河口の虎門砲台に差しかかると、突然支那兵が砲撃を加へたので、ウェツデルは直ちに之に応戦し、遂に砲台を占領してイギリス国旗を掲げました。
その結果、支那はイギリスに通商を許し、交易の場処を広東城外に定めました。爾来、英国と支那との貿易は専ら広東を通じて行はれ、やがてイギリス人は支那貿易に於て他の欧羅巴諸国を凌ぎ、少くとも他国商人の取扱ふ荷物でも、船は主としてイギリス船で運ばれ、ロンドンが支那商品の欧羅巴市場となりました。
さて初めに述べたやうに、イギリス人が広東から積出す主要商品は、主として絹布と茶でありましたが、之に対して莫大の現銀を払はなければならなかつたのであります。支那は当時自給自足の国でありましたから、殆んど欧羅巴貨物を必要とせず、唯だ銀だけがほしかつたのであります。しかしながら、多量の銀を輸出することは、イギリスに取って甚だ苦痛であつたので、之に代るべき商品を求め、一石で二鳥を獲んと苦心しました。そして現銀に代るべき商品を英国商人は阿片に於て発見したのであります。
18世紀の中頃まで、阿片は多くペルシアで栽培され、それが支那に輸入されて一部の階級に愛用され、次第に弘まつて行く情勢にあつたのであります。そこでイギリス商人はインドで阿片栽培を奨励し、やがて印度阿片が支那に輸入され初めましたが、其の額は年々増加して行ぎました。それだけ支那の阿片吸飲者が激増したわけであります、此の事は支那に取つて二重の深刻なる打撃でありました。
第一には阿片中毒によつて国民の心身が劣悪になります。第二には従来とは反対に現銀が国外に流出しだします。それは銅銭に対する銀の騰貴を招き、租税収入は減少し、一般に経済的・財政的危機を誘発する惧があつたのであります。
それ故に支那は既に1796年に阿片の輸入を禁じ、1815年には国民に阿片吸飲を禁じて居りますが、此の年イギリス商人の輸入した阿片は3千箱でありました。1822年には両広総督院元が厳量に阿片販売を禁じましたが、度々の輸入禁止に拘らず、此の年の輸入額は一万箱に達して居ました。
爾来、支那は毎年阿片禁止令を発し、その輸入及び吸飲を厳禁せんとしましたが、輸入も吸飲も年々増える一方で、結局どうすることもできなかつたのは、支那の官吏が賄賂を取つて、見て見ぬふりをするからであります。 そこで後には、どうせ防ぎ切れないからといふので、重税を課して輸入を黙許することにしたので、海岸到る処で密輸入が行はれ、之を取締る大官までが、いつの間にやら阿片吸飲者となつてしまつた始末でありました。
支那政府は阿片政策に就いていろいろ頭を悩まし、之に対する政治家の意見も区々でありましたが、遂に阿片貿易に徹底せる弾圧を加へるに決し、必要の場合には武力をも用ゐる覚悟を極め、この目的のために1839年、林則徐を欽差大臣に任じて広東に派遣することになりました。
林則徐は勇気もあり、精力もある愛国者でありました。彼は外国商人の所有する阿片は、禁制品だから支那官憲に引渡せと要求して、約2万箱の阿片を押収して之を焼いてしまひましたが、偶〃此の時に支那人がイギリス水夫のために殺された事件がありました。
林則徐は犯人の引渡を要求したけれど、イギリス側が之に応じなかつたので、遂に最後通牒を発し、若し時間内に犯人を引渡さなければ、広東市外商埠地内の英人区域を攻撃すべしと威嚇したので、商埠地居留の外国人は皆なマカオに引上げました。
然るにイギリスは、欣んで林則徐の挑戦に応じたのであります。戦争は先づ広州附近で、支那軍艦に対するイギリス側からの砲撃を以て始められましたが、イギリスは印度を根拠地とし、支那より遥に優越せる戦争技術を用ゐ、易々と支那軍を破ったのであります。
その陸海軍は、舟山列島・香港を略取し、次で寧波・上海・呉淞・鎮江等を占領しました。いまや英国艦隊は揚子江に侵入し、大運河による北支と中支との連絡を遮断し、将に南京を衝く勢を示したので、支那は1842年8月29日、南京でイギリスとの講和条約に調印せねばならなくなったのであります。
此の南京条約は、今日まで支那を拘束する不平等条約の長き歴史の最初のものでありますが、此の条約と翌1847年の補足条約とによって、丁度100年目に昨日我軍が奪回した香港を開き、且つ此等の諸港に於ては、外国に対する是までの一切の制限を撤廃し、関税率と港湾税率とを定め、支那に於ける外人の治外法権の基礎を置いたのであります。
阿片戦争はマルクスの言葉を籍りて言へば 『それを誘発した密輸入者どもの貧欲に適はしき残忍を以てイギリス人が行へるもの』 であります。この戦争は深刻無限の影響を支那に与へて居ります。
まずイギリスと戦って惨めな敗北をしたために満洲朝廷の威信が地に落ちてしまひ、其の後決して再び回復されなかつたのであります。5つの港が貿易の自由のために開かれて以来、数千の外国船が支那に殺到し来り、支那国内には瞬く間に英米の廉価なる器械製品が氾濫するやうになり、手工を基礎とする支那産業は機械と戦争の前には倒れ去る外仕方がなかつたのであります。
いまや驚くべき多量の不生産的なる阿片が消費され、阿片貿易によって貴金属が流出したのに加へて、国内生産に及ぼせる外国競争の破壊的影響が加はって来たのであります。旧い支那が維持され、保存されるための第一要件は、完全に国を鎖ざして置くことでありましたが、今や其の鎖国が、イギリスの武力によって苦もなく打破られたのであります。
恰も密封された枢の中に、注意深く納められて来たミイラが、一朝新鮮なる外気に触れると、立ち所にボロボロとなるやうに、阿片戦争は支那の財政・産業・道徳並に政治機構の上に重大なる作用を及ぼし、必然的に支那国家の解体を促したのであります。
此の時以来急速に土地は腐敗した官吏や豪商の手に落ちて往った。灌漑や堤防が投げやりにされたので、旱魃や洪水の度毎に農民は貧困に陥った。匪賊の横行跋扈が年と共に甚だしくなった。騒動は各地に勃発した。その最も大規模なるものは、いふまでもなく1850年から64年に亙る長髪賊の乱であります。そして欧米列強、わけてもイギリスは、此の動乱を好機として、一層強大なる根拠を支那に於て築き上げたのであります。
やがてアロー号事件を導火として、第2次英支戦争が行はれました。アロー号というのは香港政庁に登録されて居た支那船で、アイルランド人を船長とし、勝手に英国国旗を掲げて航海して居りましたが、水夫14名は皆な支那人で、実は英国国旗の蔭に隠れて阿片の密輸入を事として居た数々の船の一であつたのであります。
1856年、此の船が広東下流の黄埔に碇泊して居た時に、船長の留守中に支那兵が乗込み、禁制品の阿片を発見したので、英国国旗を引下ろし、乗組員12名を罪人として支那軍艦に引致しました。此の些々たることを口実とし、また先年フランス宣教師が広西の田舎で殺されたので、支那に難題を吹かけて居たフランスと聯合し、1857年暮、英仏聯合軍が広東を攻めて之を陥れ、総督葉明環を囚へて之をカルカッタに送りましたが、一年の後に之を幽死させて居ります。
そこで英国司令官は一書を北京に送り、支那全権は、香港に来て和を講ぜよと申入れたが、支那は無論之に応じなかったので、然らば直接北京政府と談判すると称へて、戦を北方に移し、英仏聯合軍は白河河口の太沽砲台を陥れ、河を遡って天津に入つたので、支那は止むなく両国と和議を結んだのが所謂天津条約であります。
この条約によってイギリス其の他の列強は、北京に公使を駐在させること、既に開かれた5港以外に更に5港を開くこと、イギリス船舶のために揚子江を開放することなどを取極めました。
此の条約は北京で批准交換せらるべきものであったが、支那側は上海で之を行はうとしたので、イギリスは例によつて武力を以て強行しようとし、1859年英国艦隊は天津に進航するに決しましたが、此の度は太沽砲台から砲撃を受けて一旦退却した後、更に英仏相結んで再び支那に宣戦し、海陸合して2万5千より成る英仏聯合軍が、またもや支那を破つて、此の度は北京に進撃し、清国皇帝は熱河に蒙塵するに至りました。
此の戦争に於てイギリス陸軍の主力は、実に1万の印度兵でありました。印度人は英人のために其の国を奪はれた上、同じ亜細亜の国々を征服する手先に使はれて今日に及んで居ります。
かくて支那は、1860年10月、英仏両国と北京条約を結び、天津条約を確認し、天津を開港場とし、多額の償金を払ひました。香港の対岸九竜を奪ひ取つたのも此の条約によつてであります。1859年、此の戦争が尚ほ酣であつた時、イギリスの新聞、デーリテレグラフは実に次のやうな社説を掲げて居ります。
『大英帝国は支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、清帝を其の宮廷より放逐し、将来起り得る攻撃に対して実質的保障を得ねばならぬ。わが国家的象徴に侮辱を加へんとする支那官吏を鞭にて打て。総ての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ、人殺しの如き人相して、奇怪な服装をなせる是等多数の悪党の姿は、笑ふに堪へざるものである。支那に向っては、イギリスが彼等より優秀であり、彼等の支配者たるべきものたることを知らしめねばならぬ』 誠に驚くべき征服欲であり、また驚くべき下品な言葉使でもあります。
次いでイギリスは、更に陸路によって支那への進出を試みました。既にビルマを征服せるイギリスは、1876年ビルマと支那とを遮る嶮峻なる山脈を突破して、雲南省との通商路を開かんとし、ブラウン大佐を隊長として、ビルマのパモから雲南省毘明に至るべき遠征隊を派遣することにしました。
同時に英国領事館附書記生マーガリが、上海から漢口に出で、湖南・雲南を経てバモに出で、此処で準備を整へ待って居たブラウン大佐に会し、その通訳兼案内者になつて雲南に向つて引返しましたが、途上ブラウン大佐に別れて出発し、雲南の一駅で何者かのために殺され、またブラウン大佐も支那兵のために囲まれ、目的を遂げずにビルマに引返しました。
此の路が、今度の支那事変に至って開通した所謂ビルマ・ルートであります。イギリスは、此のマーガリ事件を口実として支那を威嚇し、此の年所謂蜀芝罘条約を結びましたが、イギリスは此の条約によって、支那又は印度から自由に西蔵に入国し得るやうになり、爾来、着々西蔵に勢力を扶植し、そのために幾度か支那と衝突しましたが、その都度支那は譲歩するだけでありました。
そしてイギリスは西蔵を勢力範囲とすることによって、一面ロシアの印度侵略に備へ、他面之を足場として雲南、四川への進出を執拗に続けたのであります。
若し新興日本が支那保全を以て其の不動の国是とし、且つ此の国是を実行する力を具へて居なかつたならば、既に阿弗利加大陸の分割を終へ、満腹の帝国主義的野心を抱いて東亜に殺到し来れる欧米列強は、必ず支那分割を遂行しイギリスは当然獅子の分前を得たことと存じます。
現に支那・印度・西蔵に活躍せる名高きイギリス軍人ヤングハズバンドは、支那の如く土地は広大、物産は豊富、而も其の全地域が人間の住むに適する温帯圏内に横はる国土を、一個の民族が独占して居るのは、神の御心に背く- Against god’s Will だと公言しているのであります。
日本の強大なる武力は、幸にして支那を列強の狙の上にのせなかったのでありますが、それでもイギリスの政治的・経済的進出を拒むに由なく、支那の最も大切なる動脈揚子江に於て、わけてもイギリスの勢力は断然他を凌いで強大となつたのであります。
従つて日本が長江に経済的進出を始めるに及んで、其の最も手強き妨害者はイギリスであつたのです。其の数々を列挙することは時間が許しませんが、唯一つイギリスの悪辣なる妨害とは如何なるものであつたかを示す実例を挙げます。
それは日英同盟が結ばれた翌年即ち1902年に、日本郵船会社で、曾て30年間楊子江に航路を張つて居た英人マクベーンの事業を数百万円で買収し、其の船に社旗を掲げて楊子江航路を開始すると、稀代の珍事が起つたのであります。
即ち上海・漢口を初め揚子江岸諸港の英国人居留地会が、郵船会社の船には一切今までマクベーン船舶の繋留せる水面に立寄るを許さずといふ決議をしたことであります。これは地所は売つたが空中権は売らないから家を建ててはならぬといふに等しい無理難題であります。日本は極力抗議をしたけれど、英人は頑として聴き入れず、郵船会社は百計尽きてフランス人に交渉し、不便ではあつたがフランス居留地の水面に繋船し、遠く倉庫から迂回して荷物を揚卸しすることになつたのであります。之が後の日清汽船会社の前身であります。
日本はイギリス人の同様の意地悪き妨害と幾度か戦ひながら、とにもかくにも長江流城に今日までの地位を築き上げたのであります。日本の長江発展史は、取りも直さずイギリスとの経済闘争史であります。
〔続く〕大川周明 「英国東亜侵略史」 第六日
大川周明
英国東亜侵略史
第四日
英国の印度征服史上に、クライヴと相並んで其の名を謳はれるウォレン・ヘスティングスは、もと東印度会社の一書記で、1771年39歳でベンガル知事となり、1785年には印度総督となって、昨日申上げた二重統治時代に、最も辣腕を揮った人物でありますが、彼が如何に残酷なる手段によつて印度を虐げたかに就いて、二三の例を紹介したいと存じます。
私はイギリスを憎む印度人やドイツ人の書物によってではなく、イギリス自身の歴史家の著書に拠って申上げるのでありますから、何等の誇張もないといふことを承知して頂きます。その歴史家とは既に引用したマコーレーであります。
マコーレーは仮令偉大なる歴史家でないとしても、少くとも偉大なる歴史大学者であり、其の上1834年に印度最高会議の法律顧問となり、4年間印度で勤務して、ヘスティングスの行動を現地で見聞した人であります。
さて此の二重統治時代に於て、イギリス本国は印度総督に如何なる命令を与へて居たかと申しますと、『統治は正義と温情を旨とせよ。但し金を送れ、もつと送れ、もっともっともっと送れ』 ということであつたのです。従ってヘスティングスも絶えず同様の命令に接したのであります。これは実際に於ては全く矛盾した註文で、マコーレーが言へる如く 『汝は同時に印度人の父となり、また腐敗に導く誘惑者となれ、汝は正義であると同時に非道であれ』 といふのと同じ事であります。
ヘスティングスも印度人の慈父になりたかつたかも知れませぬが、ロンドンから金だ金だと激しく催促して来るので、之にも応じなければなりませぬ。此のロンドンからの催促を満足させるために彼が取った方法の一つは、ウードの一藩王スジャー・ウッダゥラに向ひ 『イギリスの軍隊を貸すから隣接ロヒラ人の国ロヒカンドを占領せよ、其の代償として40万磅を提供せよ』 とそそのかし、遂にスジャー・ウヅダウラをして、何等の理由もないのにロヒカンドに攻入らせたことであります。
此の事に就てマコーレーは下の如く書いて居ります― 『ロヒラ戦争の目的は、他国人に対して毛頭侮辱を加へた事のない善良な人々から、其の善き政治を奪ひ、其の意志に背いて厭ふべき虐政を押付けるといふことであった。・・・・・・ロヒラ人は平和を望んで哀訴嘆願し、巨額の金を積んで只管戦争を避けようとしたが、総ては無効であった。彼等には徹底的抗戦の外に如何なる方法もなかつた。血睲い戦争がかくして起った。印度に於て最も善良で最も立派であつた国民は、貧欲・無知・残虐無類なる暴君の手に委ねられ、スジャー・ウッダウラの貧欲をそそったあれほど豊かなこの国は、今や惨めな国の中でも最も貧乏な地方と成下つた』
このロヒラ戦争は本国でも 囂々たる非難の的となり、政府はヘスティングスに向って顧問会議を開くやう命令しました。然るに顧問会議の議員は過半彼の敵であったのに加へて、当時印度人が非常に尊敬して居た名高きバラモン僧ナンダクマールが 『ヘスティングスは宮職を売り、且つ罪人から収賄して之を無罪放免した』 といふ告訴状を此の顧問会議に提出したのであります。
ヘスティングスは形勢の不利なるを見て、まずナンダクマールが、6年前に他人の筆蹟を偽造したといふ廉で之を告訴し、カルカッタ最高法院の裁判長でヘスティングスの親友なるイムビーが、之に死刑の宣告を下したのであります。
マコーレーは此の時の死刑の実状を下の如く伝へて居ります。
『翌日未明に、絞首台の周囲に無数の人々が集まつって来た。総てが苦悩と恐怖の表情を浮べて居た。彼等は最後の瞬間まで、如何にイギリス人でも此の偉大なる婆羅門僧を殺すのでなからう、殺しはしまいと信じたかつたのである。遂に悲壮な行列が群衆の中に進んで来た。ナンダクマールは輿の中に端坐し、擾されぬ心の平静を示す眼差しであたりを見廻した。それは近親の者への告別である。近親者の泪と、思ひ惑へるやうに見える其の振舞は、流石の欧羅巴人の顔色を蒼ざめさせた。
此の告別は囚人の水の如き冷静と対比して、強い印象を与へた。会議の友人たちに宜しくと言残して、彼はしっかりした足取で刑台に上り、絞首台に向つて合図した。揺れたる彼の身体を見た無数の人々は一斉に大きな叫喚を上げた。人々は比の惨ましき有様を見て、泣き叫び乍らフーグリ河指して走り行き、其の河水に浴して穢れを潔めようとした』 実に憐れな話であります。
いま一つの例は、ヘスティングスが之また金を絞り取るためにウード国の一女王に加へた暴虐であります。彼は英国兵の一隊を派遣して王宮の門を占領し、女王を捉へて一室に幽閉したが、それでも財宝を提供することを肯んじなかつたので、女王に忠実であり女王が最も親愛して居た2人の老人を捕へ、之を櫨の内に投げ込み、死なんばかりに飢ゑさせた上、弱り切つた両人をルクノーに護送して拷問にかけたのであります。かうして女王の心を痛ましめようといふのであります。数でまたマコーレーの言葉を引用致します。
『ルクノーで野蛮なる行為が行はれて居る一方、女王は益々厳重に禁錮された。食物の差入はほんの一口か二口にすぎないから、2人の腰元は飢ゑて死んだ。あらゆる脅迫を行ひ尽し、もはや如何なる手段も種切れとなった後、漸く総督は彼女から120万磅を絞り上げた。ルクノーの2老人も初めて釈放された』
而もかくの如き行為は、決してヘスティングスのみのことでなく、彼の後を承いで総督となったダルハウジも同様であったのであります。ダルハウジに就ては同じくイギリスの名高き歴史家シーレーが如何に『横暴を極めた方法』で侵略を行つたか、『到底是認し難き数々の行為を敢てしたか」を物語って居ります。
印度とイギリスとは波濤万里を隔てて居ります。印度の民衆は爾く多数であります。従ってイギリスの印度征服は不可能とも考へられます。実際若しイギリスが武力だけで印度を征服しようとしたならば、恐らく不可能であつたらうと思はれます。
併し乍らイギリスば、決して武力にのみ頼つてインドを征服したのでありません。辛辣なる権謀術策を用ゐて、印鹿を其の単純なる人民から奪ひ取つたものであります。イギリスは、印度教徒と回教徒とを反目させ藩王と藩王とを敵対させ、ジャツト人とラージプト人を戦はしめ、其のジャツト人・ラージプト人とマラーター人とを戦はしめ、ブンデラ人とロヒラ人とを争はしめたのであります。
英人はあらゆる苦肉の策を以て彼等を離間することに成功し、彼等が無益の争闘に疲れ果てるに及んで、専ら漁夫の利を占めて来たのであります。イギリスは又条約を藩王と結んでは勝手に之を破棄し、故らに藩王を酒と女に溺れさせ、苛斂誅求を行はねば財政が立ち行かぬやうに仕向けて、人民と反目させました、さうして一歩一歩英国勢力を印度に確立して行つたのであります。
その一々を詳しく説明する余裕はありませぬが、度々引用したマコーレーの 『クライヴ論』 及び 『ヘスティングス論』 、ジェームス・ミルの 『英領印度史』 、トレンの 『亜細亜に於ける我が帝国』 、ベルの 『パンジャブ併合史』 などを御覧になれば、私の言葉が決して誇張でないことを御認めになることと存じます。而していま挙げた書物は、悉く英国人自身の著書であります。
さてモーガル帝国廃頽以後の印度諸藩王の政治は固より善政でありませんでしたが、それでも尚東印度会社の統治より優って居たことは、ジェームス・ミルの 『英領印度史』 が正直に之を認めて居ります。
この英人の虐政に対する抑へ難き忿懣が、1857年の印度兵叛乱でありますが、此の叛乱中、並に叛乱鎮定後に於けるイギリス人の残忍酷薄は、世間の人が多く知らない処で、而も彼等の印度に対する態度を最も赤裸々に暴露せるものでありますから、二三の例を之もイギリス人の薯書のうちから紹介して置きます。
第一はケー・A・マレソンの『印度叛乱史』第二巻の一節であります。
『戒厳令は布かれた。5月及び6月の立法会議によって制定された恐怖すべき条例が盛んに適用された。文官武官が等しく血睲き巡回裁判を開き、或は巡回裁判なしに土民の老幼男女を屠つた。既にして血に渇ける慾は更に強くなつた。啻に叛乱に荷担せるもののみならず、老人・女子・小児なども血祭に上げられた。此の事は印度総督が本国に送れる書類の中の、英国議会の記録に収められて居る。
彼等は絞刑には処せられず、村々に於て焼殺され、又は銃殺された。英人は臆面もなく此等の残忍を誇つて、或は一人の生者を余さずと言ひ、或は黒ん坊どもを片端から殴り飛ばすのは実に面白い遊戯だと言ひ、或は実に面白かつたと言ひ又は書いて居る。権威ある学者の承認せる一著書には3箇月の間、8輌の車が、十字街又は市揚で殺された屍骸を運び去るため、朝から晩まで往来したとあり、また斯くして6千の生霊が屠られたとある』
『我軍の将校は既に各種の罪人を捕へ、恰も獣を屠るが如く之を絞刑に処して居た。絞首台は列をなして建てられ老者・壮者は言語に絶する残酷なる方法を以て絞首された。或る時の如きは、児童等が無邪気に叛兵の用ゐし旗を押立て、太鼓を打ちながら遊んで居るのを捕へて、悉く之に死刑の宣告を与へた。裁判官の一人なりし将校は、之を見て長官の許に赴き、流涕して此等の罪なき児童に加へられたる極刑を軽減せられんことを嘆願したが、遂に聴かれなかつた』
次はベルの 『印度叛乱』 第一巻の中の一節であります。
『予は面白い旅をした。我等は一門の大砲をのせた汽船に乗り込み、左右両岸に発砲しつつ航行した。叛乱のあつた処に着くと、船から上陸して盛んに小銃を発射した。予の2連銃は忽ち数人の黒ん坊を殺した。予は実に復仇に渇して居た。我等は右に左に小銑を発射した。天に向つて発射せる銃火は、微風に揺られて叛逆者の上に復仇の日が来たことを示した。
毎日我等は騒動の起つた村々を破壊し焼打ちするために出て歩いた。予は政府並に英人に抵抗する一切の土民を裁判する委員の主席に推された。日々我等は8人乃至10人を屠つた。生殺の権は我等の掌中に在つた。そして自分は此の権利を行ふに些かの容赦もなかったことを断言する。死刊を宣言された犯人は、頸に縄を巻いて、大木の下に置かれた馬車の上に立たされ、馬車が動けば犯人は吊り下がって息絶えるのである』
印度はかくの如くにして英国のものとなったのであります。然らば印度の統治が東印度会社の手を離れ、二重統治時代を去って、全く英国政府の手に移つた後に、印度は果して幸福であつたか。断じて否であります。先づイギリスは、数々の法律条例によつて、印度在来の農業制度を根底から破壊し去りました。
そのために印度会社の経済的障壁であつた村落共同体は亡び去り、農村はイギリス資本の支配の諸条件に都合よいやうに改革されましたので、印度農村は目も当てられぬ悲墜な状態に陥りました。
ハーバート・コムプトンは 『予は誓つて言ふ、大英帝国に於て、インド農民以上に悲惨なるものはない。彼は一切を絞り取られて唯だ骨のみを残して居る』 と言って居ります。
彼等の多くは、腹一杯物を食つた経験なくして死ぬのであります。常に精根を使ひ尽して居るので病に罹れば直ぐ斃れます。衣服は殆んど纒はず、子供に至つては全く裸であります。家には明りがなく、日暮れて月なき夜には、彼等は悄然として闇黒の裡に踞つて居るのであります。1928年と言へば今から10年前です。
此の年にベンガル州の衛生長官は下のやうに報告して居ります。 『ベンガル農村の大部分は、●(文字不明)でも一月とは生きて行かれさうもない物を常食として居る。
彼等の生活は、不当なる食物のために非常に悪化して居るので、悪疫の伝播を防ぐよしもない。昨年はコレラで12万人、マラリヤで25万人、肺結核で35万人、腸チフスで10万人死んだ』 と。 印度の手工業も、また壊滅しました。第18世紀末9世紀初めにかけて、イギリスは産業革命の時代でありますが、此の革命は印度で搾取した黄金の力で一層早められたのであります。
昔から世界最大の棉製品生産国であつた印度に、イギリス製の棉糸棉布が氾濫するやうになつて、極めて多数の印度人は路頭に迷つてしまひました。
アメリカの国務長官であつたブライヤンは、音に聞えた雄弁家として、我国にも普く知られた政治家であります。
此の人が曾てロンドンで発行される 『印度』 という週刊新聞に、『印度に於ける英国の統治』 と題する一文を発表したことがあります。
ブライヤンは此の論文の冒頭に 『正義とは何ぞ、此の疑問は予の印度旅行中、不断に予の耳に響いて居た。予が未だ法律学生たりしころ、予はウォレン・ヘスティングスの審問に於けるシェリダンの演説を読んだ。其の後16年にしてアメリカがマニラを取り、盛んに植民政策が論議されるやうになると、予は印度に於ける英国の統治を知らんとして端なくもシェリダンの弾劾演説を想ひ出した。予は是を読めば読むほど英国の不正なるを思つた。
然るにアメリカ人の多数は、年来英国の植民政策を賞賛しているので、予は我国にとりて極めて重大なる問題を、真剣に研究する機会を与へられるだらうと思って、大なる期待を以て印度視察の途に上つた。予は高級下級の英国官吏、印度教・回教・波斯教の教養ある人士と会談し、貧者・富者、都会の人、農村の人を視察し、統計・報告・演説筆記などアメリカで手に入れられぬ文書を集めて調査した。そして印度に於ける英国統治は、予の想像したるよりも遥に悪く、遥に苛酷に、遥に不正なるを知つた』 と申して居ります。
次いで彼は印度視察中に知り得たる数々の不正を指摘したる後、下の言を以て其の文を結んでおります。 『何人も植民政策を弁護するために印度を引証する勿れ。助けなき人民の上に無責任なる権力を揮ふに当りて、智慧と正義とを以てすることの如何に人間として不可能事なるかを、イギリス人はガンジス河・インダス河の流域に於て立証して居る。
英人は或る利益を印度に与へたが、之に対して無法なる代価を強奪した。生きたる者に平和を齎すと称へながら、幾千万の生霊を死者の平和に誘つた。争闘に苦しむ民衆に秩序を与へると称へながら、合法的掠奪によつて国土を極度の貧困に陥れた。掠奪といふは過言かも知れない。但し如何に言葉を飾るとも、現在の不当なる政治を浄めることは出来ない』
是が実にイギリスの印度統治であります。
〔続く〕大川周明 「英国東亜侵略史」 第五日
大川周明
「英国東亜侵略史」
第三日
イギリス人が純然たる金儲けのために初めて印度に渡つて来たころは、印度ではモーガル帝国の盛んな時でありました。此の帝国はモーガル即ち蒙古人の帝国と呼ばれて居りますけれど、其の建国者バーバルは英雄タメルランの血を引いたトルコ人であります。
もとは中央亜細亜の小国の君主にすぎなかつたのでありますが、先づアフガニスタンを征服し次で印度に攻め入り、1526年には北印度全部を統一してモーガル帝国の礎を置いたのであります。
彼は限りなき興味と教訓とに満ちたる自叙伝を書残して居りますが、実に驚くべき天才で、欧羅巴の歴史家でさへも 『古今東西の歴史に於て、バーバル皇帝よりも聰明で、魅力に冨み、また好愛すべき君主は殆んどない』 と言つて居ります。
其の孫のアクバル大帝は、殆んどイギリスのエリザベス女王と時を同じうし、50年の長きに亙りて印度に君臨し、之に国家的統一と組織とを与へて居ります。
アクバル大帝以前のトルコ人又は蒙古人の印度支配は、要するに一種の軍事的占領にすぎなかつたのでありますが、アクバルは之を強大なる帝国として其の子ジャハーンギールに伝ヘ ジャハーンギールに次いでアウラングゼブが帝位を継いだのであります。
ジャハーンギールの即位は1605年で、アウラングゼブが死んだのは1707年でありますから、私が昨日述べたイギリス東印度会社の前半期の活動は、取りも直さず此の2人の皇帝がモーガル帝国に君臨して居た時代であります。
イギリスの東洋進出は、その初めに於ては征服のために非ず、占領のために非ず、専ら貿易のためであつたことは、屡々繰返した通りでありますが、東印度会社が印度と商売を始めたころは、丁度モーガル帝國の盛時に当り、少くとも北印度は政治的に統一され、平和の間に商売を営むのに好都合の時代でありましたので、東印度会社は印度で戦争をしようなどとは夢にも想つて居なかつたのであります。
然る忙アウラングゼブ皇帝の治世後半から帝国の礎とみに揺ぎ、是まで従順であつた諸藩王国が次第にデーリ政府の統制に服さなくなつたのであります。
ギンセント・スミスは、アウラングゼブの人となりを説明して斯う書いて居ります。-「彼は高遭なる知力の人であり、其の文章が示す如く燦然たる文筆の人であり、巧妙なる外交家であり、恐怖を知らぬ勇士であり、公平仁慈なる裁判官であり、練達なる行政家であり、其の日常生活に於ては最も厳粛敬慶なる修道士であつたが、それにも拘らず其の政治は遂に失敗であつた』 そして其の失敗の最大原因は回教徒としての彼の信仰が、余りに熱烈であつたからであります。
彼以前のモーガル君主は、宗教に対して極めて寛大でありましたが、アウラングゼブは其の寛容政策を一榔して、回教を弘めるために、従つて異教徒を亡ぼすために、一切の非難、一切の抵抗、一切の政治的不利益を無視して全力を注ぎ、そのためにモーガル帝国の最も勇敢なる護衛であつたラージプト人を離反させ、南印度に於けるマラーター人の魂に民族的憎悪の炎を燃え立たせたので、帝国の秩序は俄に紊れ初め、民は塗炭の苦を嘗めるやうになつたのであります。
此の混沌はアウラングゼブの死後、急速に激成されて行きました。そこで印度会社は今までのやうに平和の間に商売が出来なくなり、貿易を支持するために兵力を用ゐるに決し、1686年に最初の印度遠征軍派遣を見ましたが、此の時はアウラングゼブ皇帝時代のこととて、遠征軍は散々な目に遭ひ、1690年、モーガル皇帝に17万磅の償金を出し、其の上 『将来かくの如き恥づべき行為を繰返さぬ』 といふ約束の下に再び通商を許されたのであります。
此のイギリスの印度遠征軍は12門乃至17門の大砲を具へた軍艦10隻、歩兵600から成れる小規模のものでありましたが、その目的だけは恐ろしく大規模であつたのであります。即ち印度の海岸では、土民の船艦を捕獲してモーガル帝国に宣戦する、東海岸では海上に於ける一切のモーガル船舶を拿捕し、ベンガル湾の北東隅にあるチッタゴンを占領し、ガンジス河を湖つてベンガル国の首府ダッカに至り、藩王との間に武力を以て強制して条約を結ぶといふのであります。
之はイギリスと印度とが如何に遠距離であるか、印度の勢力は如何ほどのものであるかに就いて全く無智であつたから立てられた笑ふべき計画であります。当事のモーガル帝国は、衰へたりとは言へ尚ほ10万の大軍を擁し、ペンガル藩王でさへも直ちに4万の兵を動員し得たのでありますから、600や1000人のイギリス兵では、歯の立ちやうがなかつたのであります。
唯だ此の時印度に於けるイギリスの没落を救つたのは、その有力なる海上権で、英国軍艦が西海岸の一切の船舶を捕獲した上、艦隊を紅海及びペルシア湾に出動させて、印度とメッカの間を往復する回教徒の巡礼船を捕獲させたので、モーガル皇帝も漸く和意を生じたのであります。
是より先き、フランスもまた諸国に遅れて印度に進出して居ります。種πの失敗を重ねた後、フランスでも印度会社と呼ぶ大きい団体が、ルヰ14世の保護の下に1664年に形成され、1674年に印度東海岸のポンディシェリ1688年にはカルカッタ附近のチャンデルナガールに根拠地を築き、其の他東及び西海岸の諸処に商館を置いて活動を始めました。
そして印度の政治的混沌に乗じ、互に反目せる諸藩王を争はせて漁夫の利を占めながら、次第に勢力を扶植して行つたので、勢ひイギリスとの衝突を免れぬこととなりました。かかる間に欧羅巴では、スペイン王位相続を導因として英仏両国が相戦ふことになつたので、1744年以来、戦争は惹いて印度にも及び、鼓に印度は明白に英仏両国民の植民的覇権争奪の舞台となり、此の世紀の初めより次第に政治的性質を帯びて来たイギリス東印度会社は、今や著しく其の色彩を濃くするに至つたのであります。
印度に於ける英仏両国の角逐は多年に亙り、互に勝敢あつたのでありますが、初めの間は勇敢大胆なるフランスの指揮者デュプレークス及びラ・ブールドネ等の武断政策が、着々効を奏して、イギリスの地位は次第に不利となり、1753年にはイギリス東印度会.社より本国政府に干渉を請うて、其の結果一時休戦を見るに至りました。
而して1756年には、イギリス勢力の衰へに乗じ、予ねて英人の無遠慮なる進出を憎んで居たベンガル藩王スラージャ・ウッダウラがカルカッタを襲撃し、146人のイギリス人を小さい部屋に閉ぢ籠めて、遂に悉く之を窒息させた所謂ブラック・ホールの悲劇があり、イギリスの形勢日に非ならんとしたのであります。
かくの如き時に当り、形勢を一変してイギリスの地位を回復したのは、実にクライヴの機略と勇気とであります。イギリスはスラージャ・ウッダウラの襲撃に対抗するため、ワトソン提督に2400の兵を与へ、マドラスからベンガルに艦隊を派遣したのでありましたが、此の遠征隊の中に当年32歳の陸軍中佐ロバート・クライヴが加はつて居たのであります。
東印度会社の重役達は、艦隊派遣はもともとペンガル藩王の庸懲が目的でなく、会社が営業を始められる状態に復帰すればそれで満足なのでありますから、藩王から和平を申入れると、直ぐさま之に応じて停戦状態に入つたのであります。
然るに藩正は故意に交渉を長びかせ、其の関にいろいろな権謀術策を用ゐて宥利に問題を解決しようとしましたので、クライヴの方でも敗けず劣らず陰謀をめぐらしました。彼は其の放つた間諜によつて、藩王の周囲には、機会あらば自ら取つて代らんとする謀叛を企んで居る者があり、その中で最も有力なのは藩王の総軍司令官ミル・ジャファールであることを知り、一方藩王と和平交渉を続けながら、他方のミル・ジャファールを籠絡して、彼を助けてベンガル藩王とする計画を進めて往きました。
そして準備が出来ると、藩王に向つて英国の勘忍袋の緒は最早切れたから、諸種の懸案を即刻解決したいと申込んだのであります。藩王はクライヴの言葉の意味を直覚し、彼の挑戦に応ずるため急ぎ軍隊を集結し、歩兵五万、騎兵1400、大砲50門を具へた上、フランスからの援軍を得て、イギリスとの一戦を覚悟しました。此の時クライヴの兵は僅に2400でありましたが、彼はミル・ジャファールと打合せ、適当な時機に藩王に叛いて部下と共にイギリス軍に投降させる手筈を整へ、安心して行軍を開始したのであります。
いまや両軍はプラッシーの野に対陣し、戦火を開くばかりになりましたが、ミル・ジャファールは約束に背いて定められた時刻に行動を起さなかつたのであります。
そこでイギリスは2400の寡兵で6万5千の大敵と雌雄を決せねばならぬこととなつたので、イギリス側の軍事会議は甚だしく絶望的な空気に包まれ、皆な激しくクライヴを非難して、如何なることがあつても此の無謀なる会戦は避けねばならぬと主張したのであります。
クライヴは職存として彼等の喧々鴛々たる議論を聞いて居ましたが、やがてすくつと立上がり、 『一時間後に何を為すかを言うてやる』 と言つたまま、大木の下に往つて横臥して居ました。而して正 一時間の後に『戦争だー、明日即ち1757年7月22日、我等は印度軍に向つて進撃する』 と命令したのであります。
そして灼けつく熱さの中を行軍して、印度軍を距る一哩の森の中に其の日は野営を張り、翌日黎明から激しい会戦を始めたのでありますが、必死の英軍の前にベンガル軍は次第に旗色悪くなり、遂に応戦の手を弛めて退却に移り出した時、初めてミル・ジャファールが動き出し、鼓に勝敗は忽ち決し、藩王は都を棄てて亡命したのであります。
クライヴはミル・ジャファールの臆病な行為などは素知らぬ顔をして彼をベンガル藩王の位に即かせ、立どころに銀貨で八十万磅の賠償金を英国側に支払はせた上、自分自身も30万磅に相当する金銀宝玉を此の新しきベンガル王からせしめて引上げたのであります。
すると前藩王の一族の一人が、ミル・ジャファール征伐の軍を起してデーリから進撃して来たので、クライヴは軍を回して敵軍を走らせミル・ジャファールの危険を救つた報酬として30万磅の年金を終身彼に与へる約束をさせました。
然るに此の時、イギリスと角逐して居たオランダがカルカッタ占領を企てて、軍艦7隻に1万5千の大兵をのせフーグリ河口に押寄せたのであります。ミル・ジャファールはクライヴが煙くもあるし30万磅の金も支払ひたくないので、密にオランダ人を煽動して、ベンガルに於けるイギリス人の根拠を覆へさうとしたのでありますが、此の時もクライヴは機先を制してオランダ艦隊を襲撃し、遂に之を降したのであります。
比の時の戦に、一弾来つてクライヴの帽子を貫きましたが、クライヴは帽子を脱いで弾痕を見ながら冷然として 『この帽子はまだ役に立つ』 と言ひ、再び之を頭にのせ、剣を抜いて敵艦隊の中に小舟を乗込ませたことは有名な話でありまず。
戦終つてクライヴはミル・ジャファールに会ひましたが、オランダとのことなどは口にも出さず、丁寧に外交辞令を取交はして引上げたのであります。それはミル・ジャファールが最早完全に英国の手中に落ちたのでありますから、弁明を求めることも之を叱責する必要も無くなつたからであります。実にクライヴの外交術策と武力行動とが一挙にして印度の東北一帯をイギリスの勢力範囲とし、会社の中心をマドラスからカルカッタに移させることになつたのであります。
而して1765年には、当時の一中佐クライヴがベンガル総督兼司令官として印度に来り、在職1年半の間にベンガル、オリッサ、ピハール3国、実にフランスよりも大きい地域を事実上イギリスの領土としたのであります。然るに会社の印度統治は、土民に対して甚だしく苛酷無理解であつたので、到る処土民の反抗を激成し、諸処に叛乱の勃発を見るに至りましたが、イギリスは其の都度之を鎮庄して領土を拡めて行きました。
但し連年の戦争のために莫大なる戦費を必要としたので、たとへ貿易で儲けたと言へ、会社の財政は次第に困難に陥り、其の上会社の印度政策が議会に於て激しく非難の的となつたので、ウィリャム・ピットの内閣に於て、東印度会社を全然本国政府の監督下に置く所謂ピットの印度法が制定され、印度事務の最高管理は会社の手を離れ、最初貿易を目的として始められた仕事が、今や貿易と関係なき人々の管理に帰し、会社は全く政治的性質を帯びるに至りました。これは1784年のことであります。
かく政府と会社とが相並んで印度に臨んだ時代を 『二重統治』 の時代と申しますが、イギリスが印度に対する積極的侵略を断行したのは此の時代のことで、1798年ウヱルズリが印度総督になつた時から始まり、次でヘスティングスが之を遂行し、最後にダルハウジ総督によつて狂熱的に行はれたのであります。
1857年、此の年は井伊掃部頭が大老となつた年でありますが、此の年6月23日、ロンドンではプラッシー会戦100年記念祭が行はれ、人々が荐りにクライヴの勲功を讃へて居た其の時に、イギリスの圧迫に堪へ兼ねた印度土人軍隊が、起つて叛乱を起しました。此の未曽有の凶報が数日後ロンドンに達した時の朝野の驚きは大変であつたのです。
叛乱は殆んどガンジス河の全流域に波及し、英国のインド支配は覆へされるかに見えましたが、東印度会社から年金を受けて居た印度の王侯貴族が之に加はらず、其の他の上層階級もまた立上がらなかつたので、半年の後に徹底的に鎮圧されてしまひました。
但し此の動乱は二重統治の不備を遺憾なく暴露したので、翌1858年の 『印度統治法』 により、印度統治の大権は全くイギリス国王の手に移り、1873年東印度会社は解散し、次で1876年イギリス女王ヴィクトリアが印度皇帝の位に即き、茲に印度帝国の建設を終つたのであります。
〔続く〕大川周明 「英国東亜侵略史」 第四日
大川周明
英国東亜侵略史
第二日
イギリス帝国主義の権化ともいふべきカーゾン卿は、其の著 『ぺルシァ問題』 の中で、若し英国が一朝印度を失ふならば、断じて世界帝国の地位を保つことが出来ないと明言して居ります。また、ホーマー・リーといふ極めて特色あるアメリカの一軍人は 『アングロ・サクソンの世』 と題する著書の中で、 『イギリスが印度を喪ふといふことは、英国の領土内に、アングロ・サクソンのあらゆる血と火と鉄とを以てするも、到底破れたる両端を接ぎ合はせることの出来ぬ一大破綻の発生を意味する』 と申して居ります。
また、今一人のスナサレフといふ人は、 『印度』 といふ著書の中で 『「若し此の不幸蒙昧なる印度のために、自由の勝利を告げる鐘が鳴るならば、その次の瞬間に、歴史の時計は海の女王の死を世界に告げることであらう。そしてイギリスは、僅に本店をロンドンに有する一個の世界銀行となつてしまふであらう』 と申して居ります。
まことにこれらの人々の申す通りで、若しイギリスが印度を失へば、明日から第3等国となるのであります。印度が英国に取つてそれほど大切な意義を有するのは、単に無限の天産物と無数の人口を擁して居るからではありません。
印度は実にイギリス資本の此の上もない投資の場所であり、志あるイギリス青年の立身出世の舞台であり、英国商品の無二の市揚であり、莫大なる商業の中心であり、重要なる海上の聯絡点であり、軍隊の駐屯処であり、最も必要なる海軍根拠地であります。
イギリス人の中には、曽てはシェークスピアを失ふよりりは寧ろ印度を失はんと申した人もありましたが、左様な時代は最早過ぎ去り、今日のイギリスは、百人のシェークスピアを失つても決して印度は失つてならぬと苦心して居るのであります。
第19世紀前半以来、英国外交の根本政策は印度保有の一事に存し、イギリスは第一に如何にしてイギリスより印度に到る海路又は陸路、可能ならば海陸両路の支配権を確保すべきか、第二に如何にして印度自身を防衛すべきかといふことに、其の全心全力を注いで来たのであります。
併しながら、イギリスは決して、当初から印度の重要性を明かに認識して、印度征服を企てたのではありません。イギリス人が初めて印度を目指して来たのは、簡単明瞭に金儲けのためであったのであります。印
度航路を初めて開いたのは、ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマでありますから、莫大に利益ある東洋貿易は、殆んど百年の間、ポルトガルの独占であつたのであります。
ポルトガルは第一に、当時欧羅巴の精神的君主たりしローマ法王から、東洋に対する政治的・経済的・宗教的の絶対優越権を与へられて居たのみならず、若し他国が此の独占権を脅す揚合は、武力を以て之を倒すだけの海軍を有つて居たのであります。
然るに、イギリスは、エリザベス女王の時代には、最早カトリック教を棄てて新教に帰依して居たので、ローマ法王に遠慮する必要がなくなつた上に、海軍も次第に強大となつて、1588年には、スペイン無敵艦隊を撃滅するまでに至つたのであります。
此のイギリス海軍の基礎を築き上げたのは、ジョン・ホーキンスやフランシス・ドレークの如き、大胆勇敢なる海賊即ちヒーロー・バッカニーアであります。
イギリスの海賊は第15世紀頃から音に聞こえて居りましたが、第16世紀になりますと益々盛んになつたのみならず、掠奪の相手はスペインやポルトガルの船でありましたから、海賊的行為は愛国的行為となり、イギリスの船長は数門の火砲を備へた船に乗つて、東洋貨物を満載したポルトガル船や、金銀を満載してアメリカから帰るスペイン船を掠奪することを公然の商売として居たのであります。
世の中に是程儲かる商売はなかつたのであります。例へば只今申上げたホーキンスはプリマスの舟乗りの枠でありましたが、スペイン領アメリカへの第一航海によつて、一躍プリマス第一の富豪となり、第2回航海から帰つて実にイギリス第一の富豪となつたと言はれて居ります。
フランシス・ドレークの如きも、1577年にイギリスを出帆し、行く先厚で強盗を働きながら、世界を一周して1580年にイギリスに帰り着いたのでありますが、其の途々掠奪して来た貨物の価は実に約2億フランに達したと言はれて居ります。エリザベス女王も、ドレークから少からぬ分前を貰って大いに喜んで居ります。
この話がスペインに伝はると、スペイン王は非常に憤慨してロンドン駐在スペイン公使をして厳重なる抗議を提出させました。するとエリザベス女王は、スペイン公使をドレークの船の甲板に連れて行つて、厳然としてドレークに向ひ、スペイン人は汝を海賊だと申すぞと叱りつけ、それから甲板の上に彼を跪かせ、悠然とナイトの爵位を賜はる時の接吻を彼に与へて、 『いざ起て、サー・フランシスよ』 と申したことは、名高い話であります。即ち女王は海賊である平民フランシスを、サー・フランシスに取立てたのであります。
かやうな次第でイギリス人はスベイン勢力の没落以前から、ポルトガルの独占を犯して東洋貿易に参加しようと苦心して来たのでありますが、1588年にスペイン無敵艦隊が、ホーキンス、ドレーク等の海賊を中心とせるイギリス艦隊のために撃滅されたので、印度航路上の最大の障害物がなくなつたのみならず、
東洋発展に於て一歩イギリスに先んじたオランダが、スペイン、ポルトガルに代つて東洋貿易の新しき独占者たらんとする形勢があるので、一群のロンドン商人が結束して、1599年の12月31日、資本金僅に68万磅を以て、東印度会社を組織し、
エリザベス女王から1『喜望峰よりマゼラン海峡に至る国々島々と、向ふ15年間自由に且つ独占的に通商貿易を営むことを得』 といふ特許状を与へられ、
翌1600年――此の年は日本では天下分目の関ケ原合戦が戦はれた年です――此の年から直ちに活動を開始したのであります。
この小さい会社が、後にイギリスのために 『王冠に輝く燦たる宝玉』 と讃へられる印度を征服し去らうとは、当時は何人も考へなかつたことであります。
さてイギリス東印度会社は、同じく東洋貿易を目的として1602年に創立されたオランダ東印度会社と相並んでまつ東洋に残存して居たポルトガル勢力と戦はなければならなかつたのでありますが、一時あれほど多くの英雄を輩出せしめ、あれほど盛大を極めたポルトガルも一旦下り坂になると国力俄に衰へ、到底新興両商業国即ちイギリス、オランダの敵でなく、十年ならずして勝敗の数は早くも決してしまつたのであります。
而してポルトガル勢力敗退後は、必然新興両国自身の間に激しき競争が行はれました。当時一番有利であつた東洋貨物は丁子・ニクヅクなどの香料でありましたが、その主なる産地は香料群島即ち南洋諸島であります。それ故に両国とも、印度本土を第2にしてまづマレー群島に鏑を削り、此の貴豊なる香料産地を独占せんとしました。
然るにオランダ東印度会社は、其の資本はイギリスの会社の倍額であり、而も国家の強力なる後援があつたので、此の角逐に於て苦もなくイギリスを圧倒し南洋諸島の主人公となつたのでありますが、此の事が他日却つてイギリスの幸ひにならうとは、当時何人も夢想せぬ所であつたらうと思ひます。
イギリスは先づ印度の西海岸に於て、有力なるポルトガル艦隊を撃破して、1612年にスラートに商館を置き、印度本土に於ける最初の根拠地を置きました。
1620年にはペルシア国王と相結んで、ポルトガルの東洋に於ける最も重要なる根拠地、ペルシア湾頭のオルムスをペルシアのためにポルトガルから奪回し、その報償としてオルムスに域塞を築くこと許され、また此の同じ年に、コロマンデル海岸のマドラスを土人君主から買収し、茲にも城塞を築いて、印度東海岸に最初の根拠地を置きました。
其の後1668年に、イギリス国王チャールス二世から、1年僅に10磅の地代で、東印度会社は、ボムベイを借受けたのであります。ボムベイは此の時より約80年以前にポルトガル人が開いた印度第一の良港であります。
1661年ポルトガル王女がチャールス2世の妃となつた時、ポルトガル国王が王女の化粧料として之をイギリス国王に贈つたもので、ポルトガル王は当時のゴア総督が 『英人がボムベイに腰を据ゑる其の日に、ポルトガルは印度を失ふであらう』 と切諫したのも聴かず、遂に之をイギリス王に進上したのであります。然るに国王は、色々な事情から其の推持に困り、之を会社に貸下げたのであります。
爾来ボムベイは次第に栄え、1687年以後はスラートに代つて印度西海岸に於ける英国貿易の中心となり、以て今日に及んで居ります。また1690年には、ベンガルのフーグリ河畔に、今日のカルカッタとなるべき基礎も置かれ、其の他にも印度の東西両海岸に幾多の貿易拠点が置かれました。
1660年より1690年に至る30年間は、東印度会社の黄金時代で、毎年の平均配当率は2割5分に達して居ります。
マコーレーは其の流麗なる筆を揮つて、当時の事情を斯う書いて居ります―― 『会社はチャールス二世の大部分の間、此の印度館で莫大の富を得た。商業史は、かくの如き巨万の冨が堂々と流れ込んだ例を他に見出さず、ロンドン市民は、驚きと貧欲と嫉妬に充ちた憎悪に興奮して居た。富と豪奢とは急激に増加した。
東洋産の香料・織物・宝石などに対する嗜好が日増に強烈になつた。モンク将軍がスコットランド兵をロンドンに送つた頃は、茶は支那の非常なる珍品として持囃され、極めて少量を唇で甜めて珍重されたものであるが、8年後には之が規則的に輸入され、間もなく大蔵省が好ましき課税の対象の一としたほど多量に消費され始めた。
王政復古以前、イギリスの船舶は、未だ一隻もテームス河畔からガンジス河のデルタを訪れたことは無かつた。然るに王政復古に続く僅々23年間に、此の富裕にして人口多き印度からの輸入年額は、8千磅から3万磅に増大した。
かくの如く急激に膨脹せる貿易を、一手に独占して居た其の頃の東印度会社の利益は、殆んど真実と思はれないほど莫大であつた。
この印度貿易による莫大なる利益が、若し多数の株主の間に分配されて居たならば、何の不平も起らなかつたかも知れない。然るに実際は、株券の値段が上ると同時に、株主の数は漸次減少して行つた。会社の富が最高度に達した時、その経営は極めて少数の富豪の手に握られた』
かやうに東印度会社は最も有利なる東洋貿易を独占し、而も其の無限の利益は極めて少数なる大株主の壟断するところとなつたのでありますから、イギリスの輿論は次第に沸騰し、会社の特権を取消せといふ声が当然高まつて来ました。
東印度会社は、此の攻撃に対して、莫大なる黄金を以て戦つて居ります。之もマコーレーの言葉を薙りて申せば『宮廷に於て会社のためになりさうな者、又は害になりさうな総ての者、即ち大臣、女官、僧侶の果に至るまで、カシュミア・ショール、絹織物、薔薇香水、ダイヤモンド、金貨の袋が贈られた。此の思ひ切つた贈賄は、間もなく豊かな利益をのせて帰つて来た』
豊かな利益といふのは、国王を初め、政府の高官や会社攻撃者に莫大の賄賂を贈つたお蔭で、輿論の激しき反対に拘らず、ステユァート家の王様たち、即ちチャールス2世・ジニームス2世から特許状を更新して貰ひ、独占期限を延ばすことを得たといふ意味であります。
此の賄賂の好きなチャールス2世とジェームス2世は兄弟でありましたが、其の頃のイギリス人は 『兄チャールスは物を理解しようと思へば理解することが出来る。但し弟ジェームスの方は理解することが出来ても理解するを欲しない」 と取沙汰して居たのでありますが、そのジェームス2世が遂に民心を失ひ、1688年の所謂名誉革命によつてステェアート家が没落することになつたので、東印度会社は茲に有力なる味方を失ひ、イギリスの議会と直接対峙せねばならなくなつたのであります。
是に於て東印度会社の反対者はホヰッグ党と提携して会社を倒すに決し、先づ議会をして東印度会社に加へられる数々の非難に就いて調査会を開かせることに致しましたが、調査の結果、会社は新しい特許状を得るために、政府や攻撃者に80万磅の賄賂を贈つたこと、1688年から1694年に至る6年間に107万磅の大金が不当に費消されて居ることが暴露され、1695年には多数の重役が獄に投ぜられて居ります。
かかる次第で会社に対する非難は段々と高まり、1697年には印度絹の輸入によつて大打撃を蒙つたロンドン絹織業者が、先登に立つて会社攻撃を初め、市民は彼等の宣伝に激して市中諸処に集合し、東印度会社の建物を襲撃し、その貨物を掠奪せんと騒ぐまでにかりました。
会社は日々激しくなる攻撃に対する策戦として、当時政府がフランスとの戦争のために財政困難に陥って居たのに乗じ、印度貿易独占権確保を条件とし、4分利で70万磅の国債に応ずることを提議しました。
すると会計の反対者はホヰッグ党と相結び、3分利にて200万磅の国債に応じ、之によつて印度の貿易独占権を奪はうと努め、結局1698年に議会は此等の人々に新しき印度会社の設立を許可したのであります。
そこで印度貿易のために2つの会社が出来て、激しい競争を始めたので、英国王室及び議会は、かかる状態を放置して居ては、結局競争国の乗ずる所となることを悟り、1702年遂に両会社に合同を命ずるに至りました。
尤も合同後にも内部に新旧両派の対立が続きましたが、1798年にゴルドフィン伯爵の調停によつて、初めて両派の十分なる和解を見、名実共に一個の会社として活動することになつたのであります。
東印度会社の印度に於ける真箇の活躍は、実に此の時から始まるのであります。
〔続く〕大川周明 「英国東亜侵略史」 第三日
大川周明
英国東亜侵略史
第一日
地中海が商業交通の中心であり、欧羅巴の商権がイタリーの町々とハンザ同盟の手に握られて居た頃のイギリスは欧羅巴の片隅に位する弱小なる国家にすぎなかつたのであります。然るにアメリカ大陸の発見及び印度航路の発見が大西洋を以て第2の地中海たらしめるに及んで、運命はイギリスに向つて微笑し始めたのであります。
イギリスは此の重大なる歴史の転回期に於て、一面には群島内部に於ける国家的統一を成就し、他面には是までのフランス侵略政策を棄てて其の国是を海洋並びに海外に対する発展に向け始めたのであります。而して之と共にイギリスの地理的特徴が、俄然として其の意義を発揮し来り、世界制覇のための最も有利なる条件となつたのであります。
まづイギリスは海によつて囲まれた島国でありますが故に、外国との直接の軋礫を免れ、欧羅巴大陸諸国の如く、重大なる犠牲を国境戦争に払ふ必要がなかつたので、かくして節約された国力を、存分に海上の活躍に用ゐることが出来ました。
而して其の位置は、一面に於て欧羅巴といふ選ばれたる大陸に面して居り、エルベ河よりセーヌ河に到る大陸の大きい河灯は、総てイギリスに向つて注いで居ります。
而して他面に於ても同じく選ばれたる海大西洋に面し、その著しく発達せる海岸線は、此の国のために無数の港湾を提供して居ります。かくしてバスコ・ダ・ガマ及びコロムブス以前に於ては、僅に欧羅巴の片隅の一歩哨に過ぎなかつた此の国が、今や欧羅巴大陸の運命を海洋の上に展開する自然の開拓者となつたのであります。
かくの如くイギリスの地理的特徴が、まつ列国に先んじて世界的舞台に活動する機会をイギリスに与へたのでありますが、経験主義・個人主義・功利主義を以て其の本質とするイギリスの国民性も、また此の発展に好箇の条件となつたのであります。
ルーテルの宗教改革は、ローマ教会の束縛から個人を解放したものでありますが、イギリスの徹底せる個人主義的国民性は、此の宗教改革が生んだ個人解放の成就のための最も都合よき下地となつて居ります。 此の国民性のためにイギリスは、其の他の欧羅巴諸国が尚ほ未だ教会と僧侶との束縛に対して悪戦苦闘して居る間に、国民として逸早く中世的権威を破壊し、諸国に先んじて自由に其の力を世間的活動に用ゐたのであります。
のみならず飽までも事実と経験とを重んずる国民性でありますから、エマソンが申して居る通り、常に想像のために戦はずして実際の利益のために戦ひ、その精力を実際的活動に向つて集注させたのであります。其の上イギリスの気候風土がイギリス人の体力を健全強壮ならしめ、堅忍不抜の意志を鍛錬し、善戦健闘の精神を養成して居ります。
また彼等に取つて甚だ好都合であつた事は、ピューリタンの教義が、彼等の世間的勤勉や金儲けに対して、宗教的・道徳的基礎を与へてくれたことであります。単にイギリスと言はず、総て北方に国を建てる民は、険悪なる風土と戦つて自己の生存を維持し発展させねばなりませぬ。そのためには栄養に富む食物、温暖なる着物、堅牢なる家庭が必要であります。従つて営々牧々として利を営むことが、一個の美徳と考へられるやうになるのであります。
ピューリタンも其の通りで、此の宗教は其の名の如く一面にはイギリス人に克己制欲の生活を要求すると同時に、他面には勤勉と営利の精神を鼓吹したのであります。それ故にイギリス人は、道徳的義務を遂行する心持で金儲けに身を委ねることが出来ました。
キリストは、神と黄金とに兼ね仕へることが出来ないと申しましたが、イギリス人は安んじて神と黄金とに兼ね仕へることが出来たのであります。かやうにしてイギリスは、国を挙げて営利に没頭し、その経済的勢力を海外に扶植して行つたのであります。
而して其の勢力圏の驚くべき拡大に伴ひ、民族としての自尊心と自信も次第に昂まり、限りなき膨脹的本能と、之に相応する発展的性質を養ひ上げて、つひに古代ローマ帝国以来、未だ曽て見ざる支配民族となつたのであります。
今日のイギリス人は、口を開けばイギリスの世界的覇権が平和の間に確立されたかの如く主張しますが、それは偽りであります。世界制覇の志を抱いたのは、決してイギリスのみのことでなく、他の欧羅巴諸国も同然でありましたから、イギリスは之と死活の戦を戦ひ通して其の目的を遂げたのであります。
唯だ此処に注意すべきことは、世界制覇のための戦が、海洋の上で又は海外に於て戦はれたよりも、寧ろ多く欧羅巴大陸に於て行はれたこと、及びイギリスのために戦つたのが、英国自身の軍隊よりは、寧ろ戦費をイギリスに仰いだ同盟国の軍隊であつたといふことであります。
而してイギリスが常に其の敵として戦つたのは、海上並びに海外に於ける最も強く最も恐るべき競争国であり、力弱い競争者に対しては原則として親善なる態度を取り、攻撃の全力を最も強大なる敵国の上に加へて来たのであります。
而も一旦之を撃破して最早危険ならざる程度に打ちのめした後は、努めて之と親善なる関係を回復し、来るべき機会に更に新しき競争国と戦ふ場合に、却つて之を自国の同盟者たらしめるやうにしたのであります。
近代英国が第一に選んだ相手はスペインでありましたが、1588年、これは我国では羽柴秀吉が太政大臣となつて豊臣と云ふ苗字を名乗り始めた年であります――此の年にイギリスは英国海峡に於ける3日の奮戦によつて、見事敵の無敵艦隊を粉砕し、徹底してスベイン制海権を覆し、100年に亙るイベリア国民の優越を没落せしめて、鼓にイギリス海上発展の第一の基礎を築いたのであります。
次にイギリスは第2の敵手としてオランダを選びました。其の戦はオリバー・クロムウェルの雄渾なる精神と鉄石の意志から送つた1651年の航海条例によつて最も無遠慮にオランダに対して挑まれ、1652年から1674年の間に行はれた3度の戦争によつて、是まで 『海洋の幸福なる所有者』 と謳われオランダは、其の優越なる制海権を苦もなくイギリスに奪はれてしまったのであります。
オランダを雌伏させたイギリスは、第3の敵手としてフランスを選びました。イギリスは、1688年から1815年に至る126年のうち、実に64年間は戦争を以て終始して居ります。地球上のいつれの国民も、是ほど頻頻と戦争に参加したものはありませぬ。
此の間の数々の戦争は、その本質に於ては悉く欧羅巴大陸並びに植民地に於けるイギリスとフランスとの争覇戦であります。而して此の100年を超えたる長き英仏争覇戦は、ナポレオンの最後の敗戦によつて、遂にイギリスの勝利を以て終りを告げたのであります。
かやうな次第でありますから第19世紀の英国史は、もはや前世紀の歴史とは面目を異にし、欧羅巴列強との争覇戦は終りを告げ、海上に於ては世界無敵の覇者となり、植民的発展に於ては非常なる成功を収めたので、其の後ロシアが中央亜細亜からアフガニスタンに追つて印度を脅すまでは、世界政策に於て殆んど無人の野を闊歩する有様であつたのであります。
即ち此の間にイギリスは、先づ印度全部を事実上の領土として居ります。1826年から1886年に至る間にビルマを併合して居ります。印度航路を確実に守るために、1839年には紅海の入口のアデンを、1857年には同じくペリム島を占領して居ります。
1842年には阿片戦争によつて香港を支那から奪ひ、東亜侵略の根城を作つて居ります。地中海では1878年キプロス島をトルコから奪ひ、太平洋上では濠洲全部及びニュージ―ランドを英国国旗の下に置きました。阿弗利加では次第に領土を南部及び西部に拡めました。
そして1875年には、実に咄嗟の間に僅に4000万円を以てエジプトからスエズ運河の株券を買収して居ります。此の運河はフランス人レセップスの不屈不擁の努力によつて出来たもので、イギリスは実に悪辣極まる方法を以て其の仕事を妨害したのでありますが、一旦竣工すると其の実権を自国の手に収めたのであります。
そして1882年には、エジプトに起れるアラビ・パシャの民族運動による国内不安を口実としてアレキサンドリア港を砲撃し、之を端緒に積極的にエジプト侵略を始め、容易に其の目的を遂げました.。而して最後に南阿弗利加のプール人の両共和国を征服し、茲にイギリス世界帝国の最後の建設を終つたのであります。
それ故に第19世紀の英国史は、もはや覇権獲得の歴史ではなく、その強化、その確保、その維持の歴史であります。従つて1914年の世界大戦に至るまで、イギリスは一たびも決定的戦争を行う必要がなかつたのであります。
併しながらイギリスの伝統的政策そのものは、第19世紀に於ても何等の変更を見る筈はありません。従前と同じく荀くも新興国家が嶄然頭角を現はさんとする場合は、イギリスは直ちに容赦なき一撃を之に加へ、又は強硬に之を脅迫して、その野心を放棄せしめずば止まなかったのであります。
クリミア戦争及び日露戦争後のロシア、或はファショダ事件以後のフランス、皆な此の政策の俎上にのせられたのであります。而して近代ドイツの勃興が、欧羅巴の勢力均衡を覆し、やがてはイギリス世界幕府の顚覆者たらんとする惧あるに及んで、イギリスは第4の敵手としてドイツを選び、まづ所謂包囲政策によつて之を孤立に陥れ、次で英独争覇戦としての第一次世界大戦となつたのでありますが、此の戦争に於ても、イギリスは一旦は勝利を得たのであります。
ドイツに打勝てるイギリスは、国際聯盟によつて戦後の世界を釘付にし、之によつて自己の欲する世界秩序を維持しようと努めました。わけてもボールドヰン内閣の外相イーデンは、国際聯盟を強化して謂はゆる『集団保障』 の体制を築き上げるために最も熱心に努力したので、此の政策はイーデン外交と呼ばれて居ります。
然るに満洲事変によつて日本が先づ聯盟から脱退しました。次でエチオピア問題が起つた時に、イギリスは国際聯盟規約を利用して経済的圧迫をイタリーに加へ、大なる期待を以て集団保障の効力を実地に験して見たのでありますが、御承知の如く惨憺たる失敗に終つたのであります。
時ボールドヰン内閣の蔵相であつたチャムバレンは此の実情を見て、1936年の或る会合に於て 『国際聯盟至上主義は、エチオピア問題の経験によつて最早維持されなくなつた。重大なる国際聞の問題を聯盟に託することは、考へ直さねばならぬ』 といふ意見を発表して居ります。
それでボールドヰンの後を受けて自分が内閣の首班になりますと、聯盟至上主義のイーデン外相を犠牲にし、集団保障制の代りに謂はゆる協和政策を樹立することによつて、イギリスの安定を図らうとしたのであります。
協和政策とは、欧羅巴の四大国、即ち英・仏・独・伊の和解によつて、欧羅巴の平和を維持せんとしたものであります。此の目的のためにチャムバレンは、あれほど反目して居たムッソリーニに親しく手紙を送り、過去は一切水に流して、地中海に於ける2大国として協調したいといふ希望を述べ、またロンドンデリー侯爵・ロシャン侯爵などをドイツに派遣して、ヒトラーやゲーリングと懇談きせて居ります。
それでイギリスは、ヒトラーがオーストリアを併合した時でも、また、チエッコ問題の時でも、ドイツに向つて武力を用ゐることを避け、世界に固唾を呑ませたミュンヘン会議も、結局イギリスの譲歩によって協定が出来たのみならず、協定調印と同時にヒトラーとチャムバレンの両人が署名して次の如き共同声明をして居ります。
即ち 『英独両国が再び相互に相戦ふ意志のないことは、先に両国間に成立したる海軍協約、及び今茲に調印を了へたミュンヘン議定書で明白である。我々両入は、英国民もドイツ国民も、両者間の問題は総て相談によって解決すべく、これが両国民共通の意志であることを声明する』 といふのであります。
然るにチャムバレンの協和政策は、ヒトラーが一晩の間にチエッコの残部を併呑し去るという放れ業を敢てしたので、脆くも失敗に帰しました。此の時以来チャムバレンは、英独両国は断じて両立出来ぬといふ信念を堅め、茲に対独決戦の覚悟を決めたのであります。そのために唱へられたのが謂はゆる平和戦線であります。平和戦線といふのは武力的に極めて強力なる一個の結合を作り、此の強大なる武力結成の前に、侵略国家をして其の野心の実現を断念させようとする仕組であります。
かやうにしてイギリスは先づ自国軍備の強化に全力を注ぎ、イギリスを中心としてドイツよりも遙かに強力なる武力群を結成してドイツに臨み、可能ならば戦はずし之を屈し、止むなくば今度こそ一戦を交へる覚悟で進んで来たのであります。
一昨年のこと、北洋漁業がイギリスとの間に、鮭罐詰3000万ケースの売買契約が出来たといふので、農林省では之も貿易振興政策の結果だと吹聴して居たことを記憶して居りますが、是は取りも直さず英独戦争を覚悟しての食糧貯蔵に外ならなかつたのであります。事情斯くの如くなるが故に、両国の戦争は避く可かららざる運命であつたと申さねばなりませぬ。
今日の英人は好んで平和を口にし、自ら平和の愛好者と称へて居ります。併しながら少くとも過去の英人は、ミルトンが 『汝等偉大にして好戦なる国民よー」 と呼べる如く、天国に於て奴隷たるよりは、地獄に於て主人たらんと豪語し来れる好戦敢為の民であり、且つ其の世界制覇は、執拗無比の戦闘的精神によつて成就され、現に必死の力を揮つて之を守らうとして居るのであります。
而もイギリスが、ドイツと共に日本を敵とするに至つたことは、其の運命の尽きる日が到来したことであります。イギリスの運命尽くることは、世界が解放されること、殊に亜細亜が解放されることであります。以上私はイギリス世界制覇の径路を述べ終り明朝より其の東亜侵略の跡を辿らうと存じます。
〔続く〕
大川周明 「英国東亜侵略史」 第二日
大川周明
大川周明 「米英東亜侵略史」 (第六日)
日本、国際聯盟脱退、大東亜戦争勃発
第六日
ロンドン会議は、
日本現代史に対して深刻無限の意義を有して居ります。第一次世界戦このかた、日本の上下を支配して来た思想は、英米を選手とせる自由主義・資本主義と、ロシアを選手とせる唯物主義・共産主義であります。深く思を国史に潜め、感激の泉を荘厳なる国体に汲み、真箇に日本的に考へ、日本的に行はんとする人々は、たとへあつたしても其の数は少く、其の力は弱かつたのであります。
然るにロンドン会議は、啻に此等少数の人々のみならず、多数の国民の魂に強烈なる日本的自覚を喚び起す機縁となつたのであります。而してロンドン会議の責任者浜口首相は、遂に国民義憤の犠牲となつたのであります。
日本はワシントン会議以来、アメリカとの政治的決闘に於て、常に敗け続けて来たのであります。いまやロンドン会議に勝誇れるアメリカを見て、此の上敗けては遂に息の根が止められるぞといふ大なる憂が国民の魂の底から湧上つて来たのであります。それは我等の先輩が黒船の脅威によつて幕府も忘れ各自の藩も忘れて尊皇擁夷のために奪ひ起つたと同じことで、米国国務長官スティムソンは、100年以前にベルリが日本に対して勤めた同じ役割を勤めたのであります。
ロンドン会議に至るまで、
日本はアメリカの東洋進出に対して常に譲歩して来たのであります。そのアメリカの政府が余り傍若無人であつたために、アメリカの政治家のうちにさへ、日本の憤激をかって戦争を誘発せぬかと心配した人が少くなかつたほどであります。
例へば加州に於ける排日問題の時でも、大統領ルーズヴェルトは、日本人は斯くの如き侮辱を甘受ずる国民でないと信じて居たので、フィリピン陸軍司令官ウッドに対し、何時日本軍の攻撃を受けても戦ひ得るやう準備せよといふ命令を発し、而も万一日米戦争になればフィリピンは日本のものとなるであらうと甚だ憂欝であつたのであります。
そして心配に堪へ兼ね、フィリピン派遣といふ名目で陸軍長官タフトを東京に寄越したのでありますが、タフトが来て見ると、国民こそ激しく噴慨して居りましたが、政府は毛頭左様なことを考へて居りませぬ。そこでタフトは東京から 『日本政府は戦争回避のために最も苦心を払ひつつあり』 と打電して、ルーズベルトの愁眉を開かせて居ります。
其の後十数年を経て、移民問題が再び日本国民を憤激させた時も、
余りに日本の体面を傷つけては戦争になるかも知れぬと心配した米国政治家が少くなく、当時の駐日米国大使モリスの如きも其の一人であります。但し此の時も日本政府は、干戈に訴へても国家の面目を保たうなどとは夢にも考へていなかつたのであります。
最後に1934年埴原大使をして、無法に日本人排斥法を通すならば 『重大なる結果』 を生ずるだらうと抗議させましたが、却つて上院議員ロッジのために 『日本はアメリカを脅迫するつもりか』 と開き直られ、もともと覚悟を決めての抗議でなかつたのでありますから、結局如何なる結果をも生ぜずに済みました。
然るにロンドンン会議以後、
事情は全く一変したのであります。政府は依然として英米に気兼ねしながら、国際的歩みを徐々に進めんとしたに拘らず、国民は日本国家の根本動向を目指して潤歩し始めたのであります。政府はロンドン会議に於て低く頭を下げたに拘らず、国民は昂く頭を擡げて、アメリカ並びに全世界の前に、堂々と進軍を始めたのであります。此の日本の進軍は、実に満洲事変に於て其の第一歩を踏み出したのであります。
1928年、父張作霧の後を継いで満洲の支配者となれる張学良は、南京政府及び多年に亙るアメリカの好意を背景として、東北地帯に於ける政治的・経済的勢力の奪回を開始したので、満洲に於ける日本の権益に対する支那側の攻撃は年と共に激化し、排日の空気は全満に溢らんとするに至りました。もと満洲に於ける日本の権益は、ボーッマス条約に基くものであります。
若し当時日本が起つてロシアの野心を挫かなかつたならば、満洲・朝鮮は必ずロシァの領土となつたであらうし、支那本部もやがて欧米列強の狙の上で料理されてしまつたことと存じます。日露戦争に於ける日本の勝利は、啻にロシアの東洋侵略の歩みを阻止したのみならず、白人世界征服の歩みに、最初の打撃を加へた点に於て、深甚なる世界史的意義を有して居ります。
此の時以来日本は、朝鮮・満洲・支那を含む東亜全般の治安と保全とに対する重大なる責任を荷ひ、且つ其の重任を見事に果たして来たのであります。其の間に如何にアメリカが日本の意図を理解せず、日本の理想を認識せず、間断なく乱暴狼藉を働きかけて来たかは、三日に亙つて述べた通りであります。
此のアメリカの後援を頼み、
南京政府の排日政策に呼応せる満洲政権は、遂に暴力を以て日本に挑戦し来つたのであります。それは取りも直さず1931年9月18日の柳条溝事件であります。而して時の政府が断じて之を欲せざりしに拘らず、日本全国に澎湃として溢り初めた国民の燃ゆる精神が、遂に満洲事変をして其の行くべきところに行き着かしめ、大日本と異体同心なる満洲国の荘厳なる建設を見るに至つたのであります。
我等は満洲事変が、
斯くの如き事変の発生を最も憎み且つ恐れて居た幣原氏が、日本の外交を指導しつつありし時代に起つたことを考へて、歴史の皮肉を想はざるを得ぬものであります。併し乍ら満洲事変は、決して日本に取りて不利なる時期に起つたのではありませぬ。運命は明かに日本に向って微笑して居たのであります。
即ち此の事変の起つた1931年の夏の末には、
世界を挙げて大不景気の影響を深刻に感ぜざりしは無く、わけてもイギリスとアメリカは、欧羅巴及び本国に於て、経済的混乱に陥って居たのであります。 即ち此の年は信用機関の没落、イギリスの金本位制離脱、フーヴー大統領のモラトリウムなど、欧米の政府及び国民をして、途方に暮れしめた重大問題の頻発した年であります。
さればこそスティムソンは、共の著 『極東の危機』 の中で 『若し誰かが、外国の干渉を受けずに済むと考へて、満洲事変を計画したとすれば、無上の好機会を掴んだものと言はねばならぬ』 と申して居ります。満洲事変はそれほど国際的に好都合の時に起つたので、日本のためには甚だ幸運であつたと存じます。
但しアメリカは勿論手を換いて見て居るわけはありませぬ。国務長官スティムソンは事変勃発の四日後、即ち9月22日に駐米大使を経て謂はゆる『熱烈なる覚書』を日本政府に交付して居ります。その中で彼は 『過ぐる4日間満州に於て展開せられつつある事態には、夥しき数の国々の道徳、法律及び政治が関係して居る』 と、威丈高になつて居ります。
其の後に至り満洲事変に対して執つた国際聯盟の行動は、
一としてスティムゾンと相談しなかつたものがなく、また其の指図に由らぬものがなかったのであります。当初スティムソンは、幣原外相に大なる期待をかけて居ました。国際聯盟、四国条約、九国条約、不戦条約、総じて此等の世界現状維持のための約束に欣然参加し来れる日本の外務省は、此度とてもアメリカの意図を無視した行動を取るまいと考へて居たのであります。
これは決して私の想像でなく、スティムソン自身が同年9月23日、即ち 『熱烈なる覚書』 を日本に叩き付けた翌日の日記に 『予の問題は、アメリカの眼が光つて居るぞといふことを日本に知らせること、及び正しい立場に在る幣原を助けて彼の手によつて事件の処理を行はしめ、之を如何なる国家主義煽動者の手にも委ねてはならぬといふことである』 と書いて居ります。
スティムソンは、之も彼自身の言葉によれば、
日本の外務大臣が日本に燃え上つた国家主義の炎々たる焔を消し止め、過去及び現在の征服を中止して、日本をして九国条約及び不戦条約に再び忠実ならしむるべきことを希望し、且つ其の可能を信じて居たのであります。而して幣原外相も恐らく此の希望に添ひたかつたに相違ありま廿んが、事変の発展はスティムソンの希望を完全に打砕き、彼は矢継ぎ早に 『不愉快なるニュース』 のみを受取らねばならなかつたのであります。
而して此の年の12月に民政党内閣が倒れ、翌1932年1月、日本軍が錦州を占領ずるに及んで、スティムソンは遂に 『談合によつて満洲問題を解決せんとした予等の企図は失敗に終つた』 と告白して居ります。而して今度は 『満洲の平和撹乱者に対して、全世界の道徳的不同意を正式に発表する手段を取り、若し可能ならば日本の改心を要求する圧力となるべき制裁を加へる』 と決心したのであります。
彼は此の目的のために国際聯盟を利用したのであります。国際聯盟は、スティムソンの属する共和党とは反対の政党、即ち民主党の大統領ヰルソンを生みの親とし、而も共和党のための勘当を受けた子供であります。然るに今や共和党の国務長官が、自ら勘当した子供を日本制裁のために働かせようとして、一切の鞭撻と激励とを与へたのであります。
彼は1932年春、カリフォルニアとハワイとの間に於て、全米国艦隊の大演習を行はしめ、演習終了後も之を太平洋に止めて日本を威嚇しました。而して一方絶えずロンドンとジュネーブに圧力を加へ、此の年3月12日には、聯盟総会をして2月18日に独立を宣言せる満洲国に対し、不承認の決議をなさしめました。
而して此の年11月末には、
国際聯盟は謂はゆるリットン報告に基いて、日本に対して満洲を支那に返還せよといふ宣告を下したのであります。其の後此の宜告を続つて長い劇的な討論が行はれましたが、遂に我が松岡代表が 『欧羅巴やアメリカの或る人々は、いま日本を十字架にかけんとして居る。而も日本人の心臓は、恫喝や不当なる抑制の前には鉄石である』 と叫んで、日本の決意を世界万国の前に声明したのは、英米に対する宜戦詔勅の換発せる12月8日と、日も月も同じ10年前の12月8日であります。
而して翌1933年2月14日、
リットン報告書が遂に聯盟総会によつて採択せらるるに及んで、松岡代表は即刻会場を退出し日本は立どころに国際聯盟を脱退したのであります、国際聯盟は言ふまでもなく世界旧秩序維持の機関であります。それ故に我々は、復興亜細亜を本願とすべき日本が、世界の現状即ちアングロ・サクソンの世界制覇を永久ならしめんとする斯くの如き機構に加はることに、当初より大なる憤りを感じて居たのであります。然るにスティムソンの必死の反日政策が、日本をして国際聯盟より脱退せしめる直接の機縁となつたことは、是れ亦歴史の皮肉と申さねばなりませぬ。
さてスティムソンは、
1932年12月下旬、次期大統領に選ばれたフランクリン・ルーズヴェルトから、外交政策に就いて相談したいからといふ招待を受け、紐育ハイド・パークのルーズヴェルト邸で、長時間の会談を行ひましたが其の後数日を経てルーズヴェルトは、米国の対外政策に於て両者の意見は完全に一致したことを発表して居ります。従つて現大統領の東亜政策又は対日政策が、スティムソンのそれと同一なるぺきことは、既に此の時より明白であつたのであります。
スティムソン政策の拠つて立つところは飽までも九国条約を尊重し、之に違反する行動は総て不法なる侵略主義と認め、徹底して之を弾劾するといふのであります。従つて此の政策を完全に継承せるルーズヴェルトは、今回の支那事変に際しても、当初より日本の行動を不法と断定し、支那の抗戦能力強化を一貫不動の方針として有らゆる援助を蒋介石に与へて来たのであります。
此の事はルーズヴェルトが、
1937年10月5日、シカゴに於て試みたる最も煽動的な演説の中に、極めて露骨に言明されて居ります。―― 『条約を蹂躙し、人類の本能を無視し、今日の如き国際的無政府状態を現出せしめ、我等をして孤立や中立を以てしては之より脱出し得ざるに至らしめし者に反対するためにアメリカはあらゆる努力をなさねばならぬ』、 而してまさしく此の言明の通り、日米通商条約を廃棄し、軍需資材の対日輸出を禁止し、資金凍結令を発布して、一歩一歩日本の対支作戦継続を不可能ならしめんとすると同時に、蒋政権の抗戦能力を強化するためには、一切の可能なる精神的並びに物質的援助を吝まなかつたのであります。
日本は若しアメリカが東亜に於ける新秩序を認めさへすれば東亜に於けるアメリカの権益を出来るだけ尊重し、且つアメリカの謂はゆる門戸開放主義も、此の新秩序と両立し得る範囲内に於ては十分に之を許容する意図を有つて居たのであります。
然るにアメリカは、東亜新秩序建設を目的とする我国の軍事行動を以て、飽までも九国条約・不戦条約に違反する侵略行為となし、頑として其の見解を改めざるのみならず、東亜新秩序はやがて世界新秩序を意味するが故に、斯くの如き秩序-アングロ・サクソン世界制覇を覆するに至るべき秩序の実現を、その根抵に於て拒否するのであります。
而も斯くの如きは決して現大統領の新しき政策に非ず、実にアメリカ伝統の政策であります。即ちシュウォードによつて首唱せられ、マハンによつて理論的根拠を与へられ、大ルーズヴェルトによつて実行に移された米国東亜侵略の必然の進行であります。此の伝統政策あるが故に、日米両国の衝突は遂に避く可らざるものであり今や来る可き日が遂に来たのであります。
弘安4年蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せた時、
日本国民は北条時宗の号令の下、立どころに之を撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威せる時、東条内閣は断乎膺懲を決意し、緒戦に於て海戦史振古未曾有の勝利を得ました。敵、北より来れば北条、東より来れば東条、天意か偶然か目出度きまはり合はせと存じます。
熟々考へ来れば、ロンドン会議以後の日本は、
目に見えぬ何者かに導かれて往くべきところにぐんぐん引張られて往くのであります。此の偉大なる力、部分部分を見れば小さい利害の衝突、醜い権力の争奪、些々たる意地の張合ひによつて目も当てられぬ紛糾を繰返して居る日本を、全体として見れば、何時の間にやら国家の根本動向に向つて進ませて行く此の偉大なる力は、私の魂に深き敬慶の念を喚ぴ起します。私は此の偉大なる力を畏れ敬ひまするが故に、聖戦必勝を信じて疑はぬものであります。
米英に対する開戦の詔勅
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大川周明 米英東亜侵略史」(第五日)
ルーズベルトの海軍大拡張政策と日本孤立化政策
第五日
東亜に於ては遮二無二日本の地位を覆へさんと焦り、国内に於ては没義道なる日本人排斥を強行したアメリカは、更に強大なる海軍の建造に着手したのであります。米国に於ける大海軍論の偉大なる先駆者は『歴史に於ける海上権の影響』 といふ名高い本を書いたマハン海軍大佐であり之を実行に移したのがセオドル・ルーズヴェルトであります。
ルーズヴェルトは1898年3月、即ち彼が海軍長官たりし頃、既に此の書を読んだ感激をマハン大佐に書き送って 『貴下の著書は、予の心中に漠然として存在して居た思想に、明確なる姿を与へてくれた。予は崇高なる目的のために貴著を研究した』 と述べて居ります。而して後年彼が大統領となつた時には 『世界第一等の海軍建設を議会に要乗することは、大統領たる予の荘厳なる責任である』 と豪語して居ります。
彼は強大なる海軍なくしては、アメリカは啻に支那の門戸開放主義を有効に維持し得ざるのみならず、モンロー主義さへも守り得ないと力説し、敵海軍主力の撃滅を第一目的とする大戦艦隊建造の必要を強調したのであります。今日のアメリカ海軍政策は、実にルーズヴェルトの精神を継承し、之を実行しつつあるものであります。従つて彼の誕生日10月27日が 『海軍日』 として記念されて居るのは、決して偶然でないのであります。
かやうにしてアメリカ海軍は、ルーズヴェルトの指導の下に強大なる基礎を置かれたのでありますが、1914年8月14日に至り、パナマ運河の開通を見たのであります。此の運河の開通によって、以前は大西洋岸ハムプトン・ローズ軍港、勝り加州のメーア軍港に到るために、南米大陸を迂回して実に1万3千浬の航海を必要としたが、今や5千浬の距離に短縮され、従つて米国海軍は、其の全力を挙げて大西・太平両洋の執れに於ても作戦し得ることとなり恰も其の艦隊を倍加したと同一の効果を見るに至りました。
加ふるに1916年には、ダニエル海軍計画又はヰルソン海軍法として知られる偉大なる海軍拡張計画が着々実行せられ、次で1919年には太平洋艦隊の編制を見るに至つたので、太平洋に於けるアメリカの勢力は、俄然として大を加へたのであります。
さて名高きダニエル海軍計画は、戦艦10隻、巡洋艦6隻を基幹とし、120隻に近き駆逐艦及び潜水艦を建造せんとするもめで、翌1917年より直ちに其の実現に着手しました。此の計画は痛くイギリスを刺戟しましたが、一層の圧力を以て我国を脅威したことは申すまでもありませぬ。わけても此の計画が米国議会に提出された時、責任ある朝野の政治家が、議会の内外に於て試みた該案支持の説明は、異口同音に東亜問題に於ける日米の衝突を力説したので、我国は此の挑戦に対して必然備ふるところ無きを得なかつたのであります。
そのためにダニヱル海軍計画が米国議会を通過した1917年、日本は謂はゆる八四艦隊計画を樹て、翌年には更に八六艦隊計画、その翌々年には八八艦隊計画を樹てざるを得なかつたのであります。此の間の消息は、イギリスの海軍通バイウォーターが其の著 『海軍と国家』 の中に述べて居る通りであります。
『日本は一年以上に亙って、海上の覇権を握らんとする断乎たる目的を以て行はれたる米国海軍の大規模の拡張を、不安の念を高めつつ眺めて居た。日本の利害は太平洋に限られて居るが、米国が其の力を集注し来れるは、実に其の太平洋に外ならなかつた。1919年8月、米国海軍の最強艦隊が新たに編制せられたる太平洋艦隊としてパナマ運河を通つて来た。 同時に太平洋艦隊根拠地の計画が発表された。フィリビン、グアム、サモアに於て、大規模の海軍施設が計画された。 ハワイの真珠港は、太平洋上のジブラルタルたらしめられんとした。
而して日本は、米国のかくの如き海軍行動を以て、自国を目的とせるものと感ぜざるを得なかつた。かくて1920年、日本は名高き八八艦隊計画を立てて之に対抗した』
さてかやうにして惹起された猛烈なる製艦競争に於て、我国の造船工業は、実に其の全力を挙げて奮闘したのであります。而して之を船台・船渠・港湾の設備の上から見て、並に造船技術上から見て、我国は優にアメリカを凌駕して居り、金力だけはアメリカに劣るけれど、其の他の点では明白に我国が勝利の地歩を占めて居ました。アメリカは此の競争の容易ならぬ性質を漸く判然と看取し得たのであります。
加ふるにアメリカの海軍計画は、ひとり日本のみならず同時にイギリスの海電拡張をも促さずば止まなかつたのであります。アメリカ如何に富めりとは言へ、日英両国を相手に取つての競争は無謀と申さねばなりませぬ。其の上世界大戦によるアメリカの好景気も、いつまで続く筈のものではありませぬ。一朝経済的不況に陥つた時、莫大な経費を海軍に奪はれることは大なる苦痛となります。
かくてアメリカは、自ら招ける苦境から脱出すべく、茲に軍備制限を議する国際会議を召集し、之によつて日英両国の海軍を掣肘すると同時に、東亜に於ける日本の勢力を失墜させ、以て東洋進出の路を平坦ならしめることを考へたのであります。1921、22年のワシントン会議は斯くして開かれ、アメリカは此の会議によつて見事に一石二鳥をせしめたのであります。
ワシントン会議は、ロンドン・タイムス主筆スティードが道破した通り、其の本質に於てまさしく 『日米両国の政治的決闘』 であつたのであります。而して此の決闘に於てアメリカは、先づ第一に其の最も好まぎりし日英同盟を破棄させて、日本を国際的に孤立させることに成功しました。第二に日本海軍の主力艦を自国並に英国のそれに対し、6割に制限させることに成功しました。
わが全権は、英米海軍主力艦に対する7割のそれを以て、日本国防の最小限度なりとし、極力米国案に反対したに拘らず、英米両国の共同作戦によって、遂に太平洋西部の防備制限を交換条件として、国防の『最小限度』 以下の比率を承諾したのみならず、加藤全権は下の如き驚くべき声明までもしたのであります。
『日本は過去に於て之れ無かりし如く将来に於ても、其の力に於て合衆国若くは英国と其の程度を同じうする一般的海軍設備を保有することを要求するの意思を有せず』 此の声明は頗る英米人の喝采を博したさうであります。
日本を孤立せしめ、其の海軍を劣勢ならしめたアメリカは、更に四国条約の締結によつて、西太平洋に於ける自国領土の安全を図りました。この条約はもともと日英米三国の間に結ばるべく、その成立と同時に日英同盟を太平洋の藻屑とする魂胆でありましたが、フランスの面目を立てるために之を誘ひ入れて四国条約としたものであります。オランダの如きは西太平洋に於てフランスよりも遥に重大なる利害関係を有して居るに拘らず之を加入させぬところを見ても、此の条約の不真面目さを窺ひ知ることが出来ます。
条約の要約の要旨は其の第一条に尽されて居ります。
『締約国は、太平洋方面に於ける其の島嶼たる属地及び領地に関する各自の権利を、互に尊重すべきことを約す。若し締約国の何れかの間に、太平洋問題に起因し且つ前記の権利に関する争議を生じ、外交手段によつて満足なる解決を得ること能はず、且つ其の間に現存する円満なる協調に影響を及ぼす虞ある場合には、右締約国は他の締約国の共同会商を求め、当該事件全部を考量調整のため、其の議に附すべし』
而して此の条約の第4条に於て
『1911年7月13日、ロンドンに於て締結せられたる大ブリテン国及び日本国間の条約は、之と同時に終了するものとす』 と明記して日英同盟に最後の引導を渡して居ります。
日本はワシントン会議に於て、山東問題に関してはヴェルサイユ条約によつて得たる権利をさへも犠牲にして、殆んど無条件に之を支那に還附しました。石井・ランシング協定の廃棄にも同意しました。而して支那に関する9国条約が、米・白・英・仏・伊・日・蘭・葡・支の9国間に実にアメリカが欲する通りの内容を以て成立しました。
此の条約は
『支那の全領土に亙り一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するために努力する』 こと、
また 『友好国の臣民又は人民の権利を減殺すべき特殊権利、又は特権を獲得するために支那の情勢を利用せざる』 ことを定め、
更に、締約国にして『本条約の規定の適用問題に関係し、且っ右適用に関し討議をなすことを適当なりと認むる事態発生したる時は、何時にても右目的のため、関係締約国開に十分且つ隔意なき交渉をなすべきこと』 を取極めたものであり、
アメリカは此の条約によつて、少くも形式的には、我国の支那殊に満蒙に於ける特殊権益を剥奪し去つたのであります。
かくてワシントン会議は、
太平洋に於ける日本の力を劣勢ならしめることに於て、並に東亜に於ける日本の行動を掣肘拘束することに於て、アメリカをして其の対東洋外交史上未曾有の戒功を収めさせたのであります。
米国が東洋に向って試みた幾度かの猪突的進出は、その都度失敗に終りましたが、ワシントン会議に於てぽ、曾て欲して得ざりしことを、一応は成し遂げたのであります。当時アメリカ人が上下を挙げて喜んだのも当然であります。
而もアメリカは之を以ても満足しなかつたのであります。
アメリカはワシントン会議によつて日本の戦闘艦を制限し得たのでありますが、それだけでは未だ枕を高くして、眠ることが出来ない。アメリカと日木の如く、極めて遠編な距離を隔てて相対している間柄では、大きい巡洋艦が時として戦闘艦以上の効力を発揮することがあります。かくてアメリカが主動者となつて、今度は主力艦以外の軍艦制限の目的を以て召集されたのが、ジュネーヴ会議及びロンドン会議であります。
而して此の2つの会議に於ても、
日本はワシントン会議に於けると同じく、アメリカの前に屈服したのであります。但しアメリカに屈服したのは日本だけではありませぬ。実にイギリスまでアメリカの前に頭を下げ、アメリカよりも劣勢なる海軍を以て甘んずることになつたのであります。
これは世界史に於ける非常の出来事と申さねばなりませぬ。大ブリテンは海岸を支配すと高粛●(この文字不明)して、世界第一の海軍を国家の神聖なる誇りとして来たイギリスが、今や其の王座をアメリカに譲つたのであります。
茲で我等は心静かにアメリカの国際的行動を観察して見たいと存じます。
自ら国際聯盟を首唱し乍ら、其の成るに及んで之に加はることをしない。不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具に用ゐないといふことを列強に約束させて置きながら、東洋に対する攻撃的作戦を目的とする世界第一の海軍を保有せんとする。
大西洋に於ては英米海軍の10対10比率が、何等平和を破ることないと称しながら、太平洋に於ては日米海軍の7対10比率さへ尚ほ且つ平和を脅威すると力説する。ラテン・アメリカに対しては門戸閉鎖主義を固執しながら、東亜に対しては門戸開放主義を強要する。例へば往年邦人漁業者が、メキシコのマグダレナ湾頭に土地を租借しようとした時、之を以て米国のモンロー主義に反するものとせる決議案が、アメリカ上院を通過して居ります。
然るに東亜に於ては、日本の占め来れる地位は、
米国がメキシコ又はニカラグァに於て占むる勢力の10分の1にも及ばざるに拘らず、門戸開放主義の名に於て之をしも否定し去らんとするのであります。総じて、是れ無反省にして而も飽くなき利己主義より来る矛盾撞着の行動であります。
アメリカの乱暴狼藉是くの如くなるに拘らず、
世界の如何なる一国もアメリカに向つて堂々と共の無理無法を糾弾せんとする者がなかつたのであります。我国の如きもロンドン会議に於て、啻に補助艦比率の10対10を主張して何の憚る所なかりしのみならず、ワシントン会議以後の情勢変化、及び不戦条約の精神を楯として、主力艦6対10の比率変更をさへ要求し得たに拘らず、当初から7対10の比率を以て甘んじ、而も其の主張さヘアメリカのために拒否されて、一層の劣勢を以て甘んじたのであります。
総て此等の会議は、
簡単に軍縮会議と呼ばれて居りますが、決して単純なる海軍会議ではありませぬ。30年に亙る執拗極まりなきアメリカの東亜政策全体を顧みることによつて、此等の会議の真実の意味を、初めて正しく理解し得るのであります。
我等は意気揚々としてロンドン会議を引上げたアメリカ代表スティムソンが此の年5月13日、上院外交委員会に於て下の如き説明を試み、口を極めて日本代表及び日本政府を賞揚したことを今日と錐も忘れることが出来ませぬ。
『我等合衆国代表の眼目とせる所は、我が海軍が日本海軍を凌駕すべき製艦計画を完成するまで8年間、日本をして現勢力のままに在らしめる事であつた。6吋砲巡洋艦に関しては、我等は我が保有量を7万5千噸に拡張するまで、日本は現状を維持すべきことを要求した。
我国は、此の条約によりて6吋砲巡洋艦を倍加し得ることになつたに拘らず、日本は現在保有する9万8千噸より僅に2千噸を拡張し得るに過ぎない。日本は本国に於て海軍拡張論者の猛烈なる運動あり、海軍当局は国民の支持後援を得て居た。それ故に予は、日本代表はロンドン会議に於て非常に困難なる仕事を成し遂げたと断言する。
我等は、日本が勇敢にも其の敵手が自国を凌駕するまで其の手を縛る如き条約を承認せる事に対し、その代表及び政府に最大の敬意を払ひつつ、会議から引上げて来た。我等は故意に潜水艦を日本と同等にした。之は潜水艦の総噸数を縮小すれば、それだけ我国を有利に導くからである。而して日本は1万6千噸の縮小に同意した。』
ロンドン会義に於ける日本代表及び日本政府は、
アメリカ代表から 『敵が自分よりも優勢なる艦隊を建造するまで自分の手を縛られるやうな条約に調印した」 と言つて、其の 『勇敢』 を賞めそやされたのであります。
その日本代表は、ロンドンから帰ると、日本国民に向って会議の成功を語り、首相は議会に於て、国防の安全を保証して居たのであります。痛憤に堪えなかつた私は、我等の機関誌であつた月刊 『日本』 の此の年の5月号に 『ロンドン会議の意議』 と題する一文を発表し、其の末尾を下の如く結んで居ります。
『ロンドン会議は、
若しそれが単独に海軍協定のためのものであるならば多少の譲歩は之を忍び難しとせぬ。唯だそれ四半世紀に亙る米国東洋政策遂行の歴史を観る時、而してその歴史の行程として此の会議を観る時、既にワシントンに於て譲り、いままたロンドンに於て譲るならば、やがて一層大なる譲歩を強要せらるべきこと、火を睹るよりも瞭らかである。
繰返して述べたる如く、米国の志すところは、如何なる手段を以てしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越せる地歩を東亜に確立するに在る。
そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、
然る後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである。日本にして若し適当なる時期に於て、是くの如き野心の遂げられるべくもなきことを米国に反省せしむるに非ずば、米国の我国に対する傍若無人は、年と共に激甚を加へ来り、つひに我国をして米国の属国となり果てるか、然らずば国運を賭して之と戦はねばならぬ破目に陥らしむるであらう。ロンドン会議は日本の覚悟を知らしむる絶好の機会なりしに拘わらず、つひに之を逸し去つた。』
〔続く〕
大川周明「米英東亜侵略史」(第六日)
日本、国際聯盟脱退、大東亜戦争勃発
大川周明 --ウィキペディア
大川周明 「米英東亜侵略史」 (第四日)
米国の錦愛鉄道敷設権獲得と在米日本人排斥の動き
大川周明 「米英東亜侵略史」(第三日) ハリマンの満鉄買収政策を巡る日米の確執 の続き
第四日
今日も引続きアメリカの横車について申上げます。
昨日申上げた通り、アメリカは日支両国の間に満鉄に並行する鉄道を布かぬといふ約束あることを知つて居たに拘らず、またボーリング商会と合作して企てた法庫門鉄道計画が失敗したのに懲りず、1909年またもや極秘の間に支那政府と交渉を進め、渤海湾頭の錦州から斉々喰爾を経て、黒竜江省愛琿に至る非常に長距離の鉄道敷設権を得たのであります。
此の錦愛鉄道は、
此前の法庫門鉄道よりも満鉄にとつて一層致命的なる並行線であります。此の平行線の敷設権を支那から得たのは、1909年10月のことでありますが、11月に至りて国務長官ノックスは、先づ英国外相グレーに向つて、二つの驚くべき提案を行つたのであります。
第一は英米一体となつて満洲の全鉄道を完全に中立化させること、
第二は鉄道中立化が不可能の場合には、英米提携して錦愛鉄道計画を支持し、満洲の完全なる中立化のために、関係諸国を友好的に誘引しようといふのであります。
英国外相は此の提案に対して体よき拒絶を与へたに拘らず、ノックスは12月4日、如上2案を日・支・仏・独・露の各政府に示し、且つ英国政府の原則的賛成を得たと通告し、此等の諸国に対して 『同様に好意ある考慮』 を求めたのであります。此の突飛なる提案に対して、日露両国は固より強硬に反対し、ドイツ・フランス・イギリスもアメリカを支持しなかつたので、此の計画も亦た失敗したのであります。此の計画の背後にもストレートが活躍して居たのでありますが、其の失敗は 『イギリスの冷酷な日和見政策』 によるものとして激しく英国を非難して居ります。
かやうに手を変へ品を変へても成功しないので、アメリカは今度は列強の力を藉りて目的を遂げやうといふので、具の前年に成立した英米独仏の四国借款団を利用することとし、此の借款団から支那に向つて英貨1000万磅を貸附け之によつて支那の幣制改革及び満洲の産業開発を行ふ相談を始めたのであります。是は取りも直さずアメリカ一国では従来やり損つたから、列強と共同して日本を掣肘しようといふ計画であります。
然るに是れ亦日本に取つて幸であつたことは、恰も此の頃に武漢に革命の火の手が上がり、清朝は脆くも倒潰して支那は民国となつたので、此の交渉も中絶の姿となつたのであります。然るに新たに出来た国民政府は、此の四国財団に政費の借款を申込んだのであります。此の申込みを受けた四国財団は、日露両国を無視しては支那との如何なる交渉も無益なることを知つて居たので、結局日露両国を加へた六国借款団を作ることにしたのであります。
その借款団は1913年6月、仏国パリで作られたのでありますが、其の際日露両国は共に其の満蒙に於ける各自の特殊権益を損傷されぬことを条件として該財団に参加する旨を声明し、旧四国財団関係者の反対ありしに拘らず、列国政府が此の声明を承認したので、6月22日正式に六国借款団の成立を見るに至りました。
然るに日露両国がかやうな条件の下に参加して来たのでは、思ふやうに満洲進出が出来なくなつたりで、アメリカは翌1914年に至り、六国借款団は支那の行政的独立を危くするといふ口実の下に、勝手に之を脱退したのであります。
さて1914年は世界大戦の始まつた年であります。日本は日英同盟の誼を守り、ドイツに宣戦して聯合国側に参戦しました。するとアメリカの最も恐れたことは、此のどさくさ紛れに日本が支那及び満洲に於て、火事揚泥棒を働さはせぬかといふことであつたのであります。
そこでアメリカは此の年8月21日、無礼極まる通牒を日本に向つて発して居ります。その文面は先づ 『合衆国は日本のドイツに対する最後通牒につき、意見を発表することを見合はすべし』 といふので、殆ど日本を属国視して居ります。日本がドイツに対して最後通牒を発するのに、アメリカから文句をつけられる因縁は、毛頭ないのであります。
更に 『又欧羅巴の戦争の状態如何に拘ちず、曽て声明せる如く、アメリカは絶対に中立を維持することを以て、其の外交政策となす。而して合衆国政府は、日本の意嚮について左の如く記録するの機会を有す』 と豪語したる後、
第一に日本は 『支那に於て領士拡張を求めざる』 こと、
第二に 『膠州湾を支那に還附する』 こと、
第三に 『支那国内に重大なる動乱若しくは事件の発生する揚合に於て、日本は膠州湾領域外に於て行動するに先だち、アメリカと協同する』 ことを要求しているのであります。
誠に無礼極まる申分でありますから、日頃アメリカに対して妥協的態度に出ることを習慣として居る日本政府も、此の乱暴なる申分には取合はなかつたのであります。
さうして居るうちに、絶対中立を維持すると声明し、戦争は我等の自尊心の許さぬところだ、We are too pround to fight などと嘯いて居りながら、アメリカも遂に参戦したのであります。当初戦争に加はらなかつたのは、勝敗の数が逆睹し難かつたからでありましたが、戦局が段々と進んで聯合国側の勝算が略ぼ明かになりますと、存分に漁夫の利を収めるために、以前の声明などは忘れたかの如く大戦に参加したのであります。
いざ大戦に参加して見ると今までのやうに日本と相争つて居たのでは、甚だ心がかりになりますので、1917年アメリカからの提案によつて謂はゆる石井・ランシング協定が成立し、アメリカは初めて東亜に於ける日本の立揚を承認したのであります―― 『合衆国政府及び日本政府は、領土相接せる国家間には特殊の関係を生ずることを承認す。随つて合衆国政府は日本国が支那に於て特殊の利益を有することを承認す。日本の領土の接壌する地方に於て殊に然りとす。』 此の協定によつてアメリカは一時日本への意を迎へたのであります。併しながら此の協定は、後に申上げるワシントン会議に於て、苦もなく廃棄されたことは御承知の通りであります。
一方かくの如く日本の意を迎へながら、アメリヵは世界大戦の最中に於ても、満洲に発展する機会さへあれば、無遠慮に自国の立場を作らうとしました。例へば1917年ロシア革命によつてツァー政府が倒潰し、列強がシベリアに出兵することになりました時、アメリカは東支鉄道及びシベリア鉄道の管理権を握るといふ強硬なる主張を列強に同つて発したのであります。
是も実に乱暴な提案であります。日本は当然之に反対し、結局聯合国特別委員会を作り具の委員会が両鉄道を管理することになりました。
叙上の如き始末で、日露戦争以後に於けるアメリヵの東亜進出政策は、その無遠慮にして無鉄砲なること、近世外交史に於て断じて類例を見ざる所のものであります。
それは藪医者が注射もせずに切開手術を行ふやうな乱暴ぶりであります。而も数々の計画が其の都度失敗に終つたに拘らず、些かも恥ぢることなく、些かも怯むことなく、矢継ぎ早に横車を押し来るに至つては、言語道断と申す外ありませぬ。我々はアメリカのかくの如き気象ど流儀とをはつきりと呑込んで置く必要があります。
さてアメリカは、東亜に対しては今まで申上げたやうな傍若無人の進出を試み、只管、東亜に於ける我国の地位を覆へさうと焦つたのみならず、同じく日露戦争直後から、内に於ては在米日本人の排斥を始めたのであります。即ち1906年にサンフランシンコの小学校から日本少年を放逐したのを手始めとして、次第に無法なる目本人排斥を行ひ、1907年には数十人のアメリカ人が一団となつて日本人経営の商店を襲撃し、多大の損害を与へるに至つたのであります。
小学校から日本児童を放逐する時の桑港学務局の言分は、日本児童の数が多くて収容し切れぬこと、不行跡で不品行だといふこと、米国児童と年齢が違ひすぎるといふことにあつたのでありますが、実際は桑港の全小学校に日本少年は僅に93人しか入学して居らず、年齢は多く14歳以下で、15歳のものが33人、20歳のものが2人あつただけであり、米人教師の言葉によれば行状は優秀で、最も好ましき生徒であつたのであります。
カリフォルニアに於けるかくの如き日本人排斥は、甚だしく日本国民を激昂させ、輿論は烈しく沸騰したのでありますが、当時の日本の知識階級の中には、排斥は日本人が悪いからだ、日本人は何処へ行つても日本人で、決してアメリカに同化しないから、アメリカから見れば厄介者に相違ないなどと、まるで他国のことのやうに議論する人が多かつたのであります。
而して政府も或る程度までアメリカの言ひ分を通して、此の年の12月に謂はゆる紳士協約をアメリカと結び、向後は在米邦人の父子妻子、及び商人学生を除き、永住の目的を以て、日本人をアメリカに渡航させぬといふ約束をしたのであります。此の日本の譲歩に拘らず、而して其の約束を忠実に守つたに拘らず、カリフヤルニァの在留邦人に対する迫害と排斥とは、年々激しきを加へ来り、1911年には日本人土地所有禁止を目的とする法案が、加州議会を通過するに至つたのであります。
この排日運動は世界大戦中だけは暫く下火となつて居ましたが、1918年11月に世界大戦終結するや翌年正月から亦た復た排日運動が始められ、加州排日協会は下の5事を断行すぺしと決議したのであります。一、日本人の借地権を奪ふこと。
二、写真結婚を禁ずること。
三、紳士協約を廃し、米国が自主的に排日法を制定すること。
四、日本人に永久に帰化権を与へざること。
五、日本人の出生児に市民権を与へざること。
加ふるに排日法を制定するため臨時議会を開くべしとの決議案が満揚一致を以て加州議会を通過しました。日本は此の形勢を見て、米国の意を和らぐべく、自ら進んで写真結婚を禁止したのであります。
而も日本の譲歩に益々増長せる加州人は、盛んに排日法制定のために臨時議会を召集すべしと高唱し、加州知事の之を拒絶するや、直接州民投票によつて法案を通過せしめ、遂に邦人の借地権を奪ひ、不動産移転を目的とする法人の社員たることを禁じました。
而して1924年には、更に徹底的なる排日法が制定せられ、且つ実施せらるるに至り、米国の排日派は思ふ存分に其の目的を遂げたのであります。
但し此の日本人排斥は、決して心あるアメリカ政治家の意思ではなかつたのであります。現に大統領ルーズヴェルトは其の子カーミットに宛てた手紙の中に 『予は痛く対日策に悩まされて居る。加州殊に桑港の馬鹿どもは、向ふ見ずに日本人を侮辱して居るが、その結果として惹起さるべき戦争に対して、国民全体が責任を負はねばならぬのだ』 と申して居ります。
彼は日本人排斥を阻止するために出来るだけの力を尽しましたが、其の事が却つて加州米人を激昂させ、日本人を駆逐すると共に、彼等に味方する非愛国的なる大統領をも放逐せよ之騒ぎ立てたのであります。ルーズヴェルトは、任期終つて職を去るに臨み、予が加州の日本人問題で苦しんだことを思へば、其の他の議会対策の如きは、物の数でなかつたと述懐して居ります。
さればこそ彼は其の政治的後継者ノックスに向つて、下の如き賢明なる助言を与へて居ります――『米国の最も重大なる問題は、日本人を米国から閉め出しても同時に日本人の善意を失はぬやうに努めることである。日本人の死活問題は満洲と朝鮮である。理由の如何に拘らず日本の敵意を挑発し、また如何に軽微であらうとも日本の利益を脅威する如き行動を決して満洲に於て取らぬやう注意しなければならぬ』 而もアメリカは此の忠告と反対に、満洲に於て常に日本の敵意を挑発し日本の利益を脅威する如き行動を繰返して来たことは、是れまで申上げた通りであります。満鉄中立提議は、ルーズヴェルトから叙上の忠告を受けたノックス国務長官の名に於て行はれたものであります。
〔続く〕
大川周明「米英東亜侵略史」(第五日)
ルーズベルトの海軍大拡張政策と日本孤立化政策
大川周明 「米英東亜侵略史」(第三日)
ハリマンの満鉄買収政策を巡る日米の確執
「米英東亜侵略史」(第二日) 捕鯨と日本の開国要求、フィリピンの占領、ジョン・へーの支那の門戸開放政策 の続き
第三日
支那に対するアメリガの門戸開放提唱は、
いつも乍らのアメリカ流儀で、甚だ堂々たるものではありましたが、内実は昨日申上げた通り、一つには支那に於けるアメリカの利益を保護し、また一つには列強の対支進出を消極的に阻止する目的を以て行はれたものであり、其の上此の提唱によつて格別の効果を挙げることも出来なかつたのであります。
其の提唱者である国務長官ジョン・へーが、
既に下の如く却して居ります。 『予は支那人に向つて、アメリカに与へて居らぬやうな特権を他国に与へるなと激励した時に、支那人は文字通り斯う答へた。若し他国が武力に訴へて来た場合、支那だげでは之に抵抗出来ないが貴国は其の時に支那に味方をしてくれるかと。予は残念ながら然りと答へることが出来なかつた・・・・・・茲に米国の根本的弱点がある。我等は支那を掠奪しようとは思はないが、他国が支那を掠奪する場合、我国の輿論は武力を以て之に干渉するを許さない。其の上我等は十分なる兵力を有つて居ない』 斯様な次第でアメリカは東亜進出の準備と態度だけは整へましたが、大体立遅れて居たのでありますから、決して易々と目的を遂げることは出来なかつたのであります。
但し此頃に至つて太平洋の重要性は何人にも明白になり、
第19世紀に於ける世界政局の中心は大西洋でありましたが、第20世紀に入つて舞台は明かに太平洋に移り、従つて覇を太平洋に称へることが、取りも直さず世界的覇権を握ることを意味するやうになつたのであります。
新興アメリカ精神の権化といふべきセオドル・ルーズヴェルトは、最も明瞭に此の聞の消息を看取し、1905年6月17日附で友人B・1・ホヰーラーに宛てた手紙の中に、アメリカの将来は、欧羅巴と相対する大西洋上のアメリカの地位によつてに非ず、支那と相対する太平洋上の地位によって定まるのだと明言して居ります。
然らば太平洋をして世界政局の中心たらしめるのは何故であるか。
何が太平洋をして左様に重大なものたらしめるか。曰く、其の岸に沿うて支那満蒙が横はつて居るからであります。太平洋を繞る周囲の国々、洋上に浮ぶ大小の島々は、既に欧米列強の領有するところとなり、又は欧米勢力の確立を見たのでありますが、独り東亜だけに於ては、尚ほ未だ孰れの国々の勢力も、絶対に圧倒的ではなかつたのであります。
列強が尚ほ競争角逐を試みる余地があり、而も尚ほ未だ十分に開発されて居ない彪大なる国土があるが故に、太平洋は限りなく価値あるものとなつて居るのであります。此処には列強が其の工場を養ふべき豊冨なる資源が、尚ほ未だ開発されずに埋もれて居ます。 たとへ貧乏であるとは言へ、4億の人口を擁することは、欧米列強に取りて無二の市揚であります。
例へば昭和初年に於て、
日本では毎年一人当り38円つつ外国品を買つて居りますが、支那では僅に3円70銭前後、即ち我国の十分の一に足らぬほどしか買つて居りませぬ。若し支那人が一人当り10円づつ外国品を買ふやうになれば40憶円、20円つつ買ふやうになれば実に80億円の大金が、外国商人の腹に落ちるのであります。
加之、支那の国情が安定すれば、資本を投じて是程儲かる国はありませぬ。鉄道一本布くにしても南米などに布いたのでは、鉄道沿線一帯が開拓され尽すまでの何十年間は、猿や鸚鵡でも乗せなければ、荷物も客もないのであります。然るに支那ならば、鉄道開通の日から、旅客にも貨物にも困らないのであります。
斯様な事情でありますから、
支那が欧米列強の進出の最大目標となつたことに、何の不思議もありませぬ。それ故にアメリカに取りては、太平洋を支配するといふことは、東亜を支配するといふ意味であります。
東亜を支配するといふことは、支那満蒙に於ける資源の開発、その広大なる市場の獲得、その高率なる投資利益に於て、他国よりも優越せる地歩を確立するといふ意味であります。
さればこそルーズヴェルトは、先程の手紙の中に、唯だ漠然と太平洋とは申さず、実に 『支那と相対する太平洋」 と銘打つて居るのであります。而してアメリカの太平洋進出、従つて東亜進出は、日露戦争直後から初めて大胆無遠慮となつて来たのであります。
総ての攻撃又は進出は、
常に抵抗力の最も薄弱だと考へられる方向に向つて試みられます。然らばアメリカは、多年に亙る東亜進出計画を愈マ実行に移すに当つて、何処を最小抵抗と睨んだか。曰く満蒙であります。日露戦争によつて国力を弱めて居た日本の勢力圏満蒙が実にアメリカ進出の目標となつたのであります。
ルーズヴェルトの調停によつて行はれた日露両国の講和談判が、
尚ほポーツマスに於て進行中のことでありますアメリカの鉄道王と呼ばれたハリマンが、条約によつて目本のものとなるべき南満洲鉄道を買収するために、1905年8月下旬、秘かに日本に来朝したのでありますが、極力彼に奨めて此の来朝を促したのは、時の東京駐箚米国公使グリスカムであります。
ハリマンが如何なる弁舌を揮つて日本政府を篭絡したかは詳しく存じませぬが、日本は遂に彼の提議を容れて、驚くべき内容を有する覚書が、12月20日附を以て桂首相とハリマンとの間に成立したのであります。
その内容とは、満鉄及び満鉄に属する鉱山其の他各種事業の権利の半ばを、ハリマンの支配するシンジケートに譲渡し、之に相当する代金を受取るといふことであります。而してハリマンは、此の覚書を手に入れた其の日の午後に、直ぐさま横浜から船に乗つて帰国の途に上りました。
その丁度3日後に、ポーッマス条約を携へて帰朝した小村全権が、
其の覚書を見て驚き且つ憤り、極力反対を唱へて遂に政府を動かし、之を取消させたのである。日本政府が何故に満鉄をアメリカに売る決心をしたかは、我々の今日に至るまでの不可解とするところであります。
日本は文字通り国運を賭してロシアと戦ひ、多大の犠牲を払つて勝利を得ましたものの、之によつて日本が獲得せるところのものは、必ずしも大でなかつたのであります。
日本国民はハリマンが秘かに東京に来たころに、講和談判に不平を唱へて焼打の騒動となり戒厳令まで布かれたのであります。然るに其の少き獲物のうちから、満鉄をアメリカに売つてしまへば、勝利の結果を全く失ひ去るに等しいのであります。当時若し日本国民がハリマン来朝の真意を知つたならば、その激昂は一層猛烈であつたに相違ありませぬ。
想ふにハリマンは、日本が経済的危機に迫つて居たのに乗じ、
講和談判斡旋の恩を笠に着て、日本から満鉄利権の半分を見事に奪ひ取つたもので、若し小村全権が敢然之に反対しなかつたならば、恐らく日本の大陸発展が、此の時既にアメリカのために阻止されてしまふ筈であつたのであります。
此のハリマンの満鉄買収策は、極めて大規模なる計画の一部であつたのであります。その計画とは、先づ第一に満鉄を手に入れ、次でロシアの疲弊に乗じて東支鉄道を買収し、かくしてシベリア鉄道を経て欧羅巴に至る交通路を支配し、鉄道の終点大連及び浦塩から、太平洋を汽船でアメリカの西海岸と結び、大陸横断鉄道によつて東海岸に至り東海岸から汽船で大西洋を欧羅巴と結ぶ交通系統、即ち世界一周船車聯絡路をアメリカの手に握る第一歩として、満鉄を日本から買収しようとしたのであります。
さてルーズヴェルトが日露の問に立つて講和談判の斡旋をするまでは、
是れまで申上げて来たやうに、アメリカは大体に於て常に日本に好意を示して来たのであります。然るにハリマンの計画一たび失敗するに及んで、日本に対するアメリカの態度は、次第に従前とは違つて来たのであります。それはアメリカが、日本を以てアメリカの東洋進出を遮る大なる障碍であると考へ初めたからであります。茲にアメリカの甚だしき無反省と横暴とがあります。
東亜発展は日本に取りて死活存亡の問題であります。さればこそ国運を賭してロシァと戦つたのであります。然るにアメリカの東洋進出は、持てるが上にも持たんとする贅沢の沙汰であります。アメリカは其の贅沢なる欲望を満たさんがために、日露戦争によつて日本が東亜に占め得たる地位を、無理矢理に奪ひ去らんとしにのであります。実に此の時より以来、アメリカは日本の必要止むなき事情を無視し、傍若無人の横車を押し初めたのであります。
横車の第一は、
日露戦争の終つた翌年即ち1906年に、突如当時の東京駐箚代理公使ヰルソンをして、下の如き提言を日本政府に向つて為さしめたことであります。―― 『満洲に於ける日本官憲の行動は、総て日本商業の利益を扶植し、日本人民の為めに財産権を取得せんとするにありて、是が為め該地の日本軍隊の撤退を了する頃には、他の外国の通商に充つべき余地は稀有、若くは絶無たるに至るべく、世界列国の正当なる企業並に通商に対する門戸開放に同意すと雖も、日本従来の潜越なる専権に鑑み、斯の如き行動は合衆国政府の甚だ遺憾とする所なり。日本政府は、露国が嘗て該地方に実質的の国家的統制を為さんとして失敗せるに鑑み、切に反省せん事を望む』。
かういふ乱暴な文句をつけたのであります。10万の生霊を犠牲にし、20意の金を使って、満洲からロシア勢力を駆逐したのでありますから、有らゆる企業を計画することは当然至極のことなるに拘らず、既に日露戦争の翌年から、アメリカはかやうな横槍を入れて居ります。
次には翌1907年のことであります。
支那に於て事業を営むことを主として居るイギリスのボーリング商会が、秘かに支那と交渉を進め、京奉線即ち奉天から北京に至る鉄道の一駅、新民屯から、先づ北方法庫門に至り、行く行くは北へ北へと延ばしてシベリア鉄道と聯絡する斉々哈爾までの鉄道敷設権を獲得したのであります。
当時の奉天のアメリカ総領事は、有名なストレートであります。ストレートは成功しなかつた米国のセシル・ローヅと言はれ、1901年コーネル大学を卒業すると直ちに支那に赴き、ロバート・ハートの下に在つて支那海関に3年勤務し、
日露戦争の勃発と共に新聞記者となつて朝鮮に赴き、此処で京城駐箚米国公使に知られ、その私設秘書兼副領事を勤め、其の時に日本来朝の序でに朝鮮を旅行したハリマンと相識り、大いに鉄道王の尊敬を博したのでありますが、
1906年僅に26歳にして奉天総領事となつて赴任したものであります。ひとりハリマンのみならず、ルーズヴェルトもタフトも、皆なストレートを非常に重んじて居ました。
此のストレートは、有らゆる機会を捉へて日本を抑へつけ、
アメリカの力を満洲に扶植する覚悟で着任したのでありますから、ボーリング商会が法庫門鉄道敷設権を獲得しますと、彼は直ちにアメリカを之に割込ませたのであります。此の鉄道は満鉄と並行して、シベリア鉄道と渤海湾とを結びつけるものでありますから、此の鉄道が布かれることになりますと、満鉄は大打撃を受けなければなりませぬ。
今日に於ても満洲農産物の最も多いところは北満洲一帯であります故に、其処から出る農産物が満鉄を経ずに営口又は葫蘆島に出ることになれば、日本は満鉄を有つて居ても甲斐もないことになります。従つて小村全権が北京に於て満洲善後条約を支那と結んで、下の如く約束して居ります。
― 『支那政府は南満洲鉄道の利益を保護する目的を以て、自ら該鉄道を回収する以前に於ては、該鉄道の附近に於て、若しくは之に併行して如何なる鉄道をも敷設せず。又該鉄道の利益を害する如何なる支線をも敷設せず』。
支那がかういう約束をして置きながら、ボーリング商会に法庫門鉄道の敷設を許可することは、疑ひもなく条約違反であります故に、日本は強硬に之に抗議し、遂に支那をして一旦与へた許可を取消さしめたのであります。
さりながら、ストレートは、決してそれ位のことで思ひ止むものでありませぬ。彼は翌1908年、支那当局者との間に満洲銀行設立の約束を結んだのであります。当時支那の政治の実権を握つて居たのは袁世凱であります。蓑世凱は、日露戦争前並に日露戦争中は、我国に非常なる好意を示して居たのであります。それはロシアといふ共同の敵があつたからであります。然るに日露戦争以後、ロシアに代つて日本が満洲に勢力を張るに至りますと、今度はアメリカの力を借りて日本の満洲に於ける発展を掣肘しやうといふ方針に変へたのであります。
此の衰世凱の親米政策を利用して、
ストレートは当時の東三省総督徐世昌及び奉天督辨唐紹儀と相図り、満洲に於ける鉄道の敷設並に産業の開発を主目的として、其の金融機関たる満洲銀行を建てることを承認させ、2000万弗借款の仮契約を結んで、欣ぴ勇んでアメリカに帰つて往つたのであります。アメリカは此の銀行を機関として、満洲に於て日本と角逐して鉄道並に事業を始めようとしたのであります。
然るに日本に取つて幸福であつたことには、
此の年衰世凱が政変のために失脚し、彼の政敵なりし醇親王が支那の政治を執るやうになりましたので、ストレートの計画は今度も失敗に終つたのであります。
また此の年即ち1908年11月に、
アメリカは時の駐米日本大使高平小五郎に対し、日本は満洲に於て決して他国の事業の邪魔をせぬ、門戸開放・機会均等の主義を忠実に守ると約束せよと提議し、日本をして之を応諾させたのであります。かくして謂はゆる高平・ルート協定の成立を見たのであります。
〔続く〕