日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明「米英東亜侵略史」(第六日)日本、国際聯盟脱退、大東亜戦争勃発

2018-09-21 10:05:51 | 大川周明

               大川周明 
      
大川周明 「米英東亜侵略史」 (第六日) 
  日本、国際聯盟脱退、大東亜戦争勃発
      


       

第六日

 ロンドン会議は、
日本現代史に対して深刻無限の意義を有して居ります。第一次世界戦このかた、日本の上下を支配して来た思想は、英米を選手とせる自由主義・資本主義と、ロシアを選手とせる唯物主義・共産主義であります。深く思を国史に潜め、感激の泉を荘厳なる国体に汲み、真箇に日本的に考へ、日本的に行はんとする人々は、たとへあつたしても其の数は少く、其の力は弱かつたのであります。

 然るにロンドン会議は、啻に此等少数の人々のみならず、多数の国民の魂に強烈なる日本的自覚を喚び起す機縁となつたのであります。而してロンドン会議の責任者浜口首相は、遂に国民義憤の犠牲となつたのであります。
 日本はワシントン会議以来、アメリカとの政治的決闘に於て、常に敗け続けて来たのであります。いまやロンドン会議に勝誇れるアメリカを見て、此の上敗けては遂に息の根が止められるぞといふ大なる憂が国民の魂の底から湧上つて来たのであります。それは我等の先輩が黒船の脅威によつて幕府も忘れ各自の藩も忘れて尊皇擁夷のために奪ひ起つたと同じことで、米国国務長官スティムソンは、100年以前にベルリが日本に対して勤めた同じ役割を勤めたのであります。


 ロンドン会議に至るまで
日本はアメリカの東洋進出に対して常に譲歩して来たのであります。そのアメリカの政府が余り傍若無人であつたために、アメリカの政治家のうちにさへ、日本の憤激をかって戦争を誘発せぬかと心配した人が少くなかつたほどであります。
 例へば加州に於ける排日問題の時でも、大統領ルーズヴェルトは、日本人は斯くの如き侮辱を甘受ずる国民でないと信じて居たので、フィリピン陸軍司令官ウッドに対し、何時日本軍の攻撃を受けても戦ひ得るやう準備せよといふ命令を発し、而も万一日米戦争になればフィリピンは日本のものとなるであらうと甚だ憂欝であつたのであります。

 そして心配に堪へ兼ね、フィリピン派遣といふ名目で陸軍長官タフトを東京に寄越したのでありますが、タフトが来て見ると、国民こそ激しく噴慨して居りましたが、政府は毛頭左様なことを考へて居りませぬ。そこでタフトは東京から 『日本政府は戦争回避のために最も苦心を払ひつつあり』 と打電して、ルーズベルトの愁眉を開かせて居ります。

  其の後十数年を経て、移民問題が再び日本国民を憤激させた時も
余りに日本の体面を傷つけては戦争になるかも知れぬと心配した米国政治家が少くなく、当時の駐日米国大使モリスの如きも其の一人であります。但し此の時も日本政府は、干戈に訴へても国家の面目を保たうなどとは夢にも考へていなかつたのであります。

  最後に1934年埴原大使をして、無法に日本人排斥法を通すならば 『重大なる結果』 を生ずるだらうと抗議させましたが、却つて上院議員ロッジのために 『日本はアメリカを脅迫するつもりか』 と開き直られ、もともと覚悟を決めての抗議でなかつたのでありますから、結局如何なる結果をも生ぜずに済みました。


 然るにロンドンン会議以後
事情は全く一変したのであります。政府は依然として英米に気兼ねしながら、国際的歩みを徐々に進めんとしたに拘らず、国民は日本国家の根本動向を目指して潤歩し始めたのであります。政府はロンドン会議に於て低く頭を下げたに拘らず、国民は昂く頭を擡げて、アメリカ並びに全世界の前に、堂々と進軍を始めたのであります。此の日本の進軍は、実に満洲事変に於て其の第一歩を踏み出したのであります。


 1928年、父張作霧の後を継いで満洲の支配者となれる張学良は、南京政府及び多年に亙るアメリカの好意を背景として、東北地帯に於ける政治的・経済的勢力の奪回を開始したので、満洲に於ける日本の権益に対する支那側の攻撃は年と共に激化し、排日の空気は全満に溢らんとするに至りました。もと満洲に於ける日本の権益は、ボーッマス条約に基くものであります。

 若し当時日本が起つてロシアの野心を挫かなかつたならば、満洲・朝鮮は必ずロシァの領土となつたであらうし、支那本部もやがて欧米列強の狙の上で料理されてしまつたことと存じます。日露戦争に於ける日本の勝利は、啻にロシアの東洋侵略の歩みを阻止したのみならず、白人世界征服の歩みに、最初の打撃を加へた点に於て、深甚なる世界史的意義を有して居ります。

 此の時以来日本は、朝鮮・満洲・支那を含む東亜全般の治安と保全とに対する重大なる責任を荷ひ、且つ其の重任を見事に果たして来たのであります。其の間に如何にアメリカが日本の意図を理解せず、日本の理想を認識せず、間断なく乱暴狼藉を働きかけて来たかは、三日に亙つて述べた通りであります。 

 此のアメリカの後援を頼み、
南京政府の排日政策に呼応せる満洲政権は、遂に暴力を以て日本に挑戦し来つたのであります。それは取りも直さず1931年9月18日の柳条溝事件であります。而して時の政府が断じて之を欲せざりしに拘らず、日本全国に澎湃として溢り初めた国民の燃ゆる精神が、遂に満洲事変をして其の行くべきところに行き着かしめ、大日本と異体同心なる満洲国の荘厳なる建設を見るに至つたのであります。


 我等は満洲事変が、
斯くの如き事変の発生を最も憎み且つ恐れて居た幣原氏が、日本の外交を指導しつつありし時代に起つたことを考へて、歴史の皮肉を想はざるを得ぬものであります。併し乍ら満洲事変は、決して日本に取りて不利なる時期に起つたのではありませぬ。運命は明かに日本に向って微笑して居たのであります。

  即ち此の事変の起つた1931年の夏の末には、
世界を挙げて大不景気の影響を深刻に感ぜざりしは無く、わけてもイギリスとアメリカは、欧羅巴及び本国に於て、経済的混乱に陥って居たのであります。 即ち此の年は信用機関の没落、イギリスの金本位制離脱、フーヴー大統領のモラトリウムなど、欧米の政府及び国民をして、途方に暮れしめた重大問題の頻発した年であります。

 さればこそスティムソンは、共の著 『極東の危機』 の中で 『若し誰かが、外国の干渉を受けずに済むと考へて、満洲事変を計画したとすれば、無上の好機会を掴んだものと言はねばならぬ』 と申して居ります。満洲事変はそれほど国際的に好都合の時に起つたので、日本のためには甚だ幸運であつたと存じます。 

 但しアメリカは勿論手を換いて見て居るわけはありませぬ。国務長官スティムソンは事変勃発の四日後、即ち9月22日に駐米大使を経て謂はゆる『熱烈なる覚書』を日本政府に交付して居ります。その中で彼は 『過ぐる4日間満州に於て展開せられつつある事態には、夥しき数の国々の道徳、法律及び政治が関係して居る』 と、威丈高になつて居ります。

 其の後に至り満洲事変に対して執つた国際聯盟の行動は
一としてスティムゾンと相談しなかつたものがなく、また其の指図に由らぬものがなかったのであります。当初スティムソンは、幣原外相に大なる期待をかけて居ました。国際聯盟、四国条約、九国条約、不戦条約、総じて此等の世界現状維持のための約束に欣然参加し来れる日本の外務省は、此度とてもアメリカの意図を無視した行動を取るまいと考へて居たのであります。

 これは決して私の想像でなく、スティムソン自身が同年9月23日、即ち 『熱烈なる覚書』 を日本に叩き付けた翌日の日記に 『予の問題は、アメリカの眼が光つて居るぞといふことを日本に知らせること、及び正しい立場に在る幣原を助けて彼の手によつて事件の処理を行はしめ、之を如何なる国家主義煽動者の手にも委ねてはならぬといふことである』 と書いて居ります。

 スティムソンは、之も彼自身の言葉によれば、
日本の外務大臣が日本に燃え上つた国家主義の炎々たる焔を消し止め、過去及び現在の征服を中止して、日本をして九国条約及び不戦条約に再び忠実ならしむるべきことを希望し、且つ其の可能を信じて居たのであります。而して幣原外相も恐らく此の希望に添ひたかつたに相違ありま廿んが、事変の発展はスティムソンの希望を完全に打砕き、彼は矢継ぎ早に 『不愉快なるニュース』 のみを受取らねばならなかつたのであります。


 而して此の年の12月に民政党内閣が倒れ、翌1932年1月、日本軍が錦州を占領ずるに及んで、スティムソンは遂に 『談合によつて満洲問題を解決せんとした予等の企図は失敗に終つた』 と告白して居ります。而して今度は 『満洲の平和撹乱者に対して、全世界の道徳的不同意を正式に発表する手段を取り、若し可能ならば日本の改心を要求する圧力となるべき制裁を加へる』 と決心したのであります。

 彼は此の目的のために国際聯盟を利用したのであります。国際聯盟は、スティムソンの属する共和党とは反対の政党、即ち民主党の大統領ヰルソンを生みの親とし、而も共和党のための勘当を受けた子供であります。然るに今や共和党の国務長官が、自ら勘当した子供を日本制裁のために働かせようとして、一切の鞭撻と激励とを与へたのであります。

 彼は1932年春、カリフォルニアとハワイとの間に於て、全米国艦隊の大演習を行はしめ、演習終了後も之を太平洋に止めて日本を威嚇しました。而して一方絶えずロンドンとジュネーブに圧力を加へ、此の年3月12日には、聯盟総会をして2月18日に独立を宣言せる満洲国に対し、不承認の決議をなさしめました。

 而して此の年11月末には
国際聯盟は謂はゆるリットン報告に基いて、日本に対して満洲を支那に返還せよといふ宣告を下したのであります。其の後此の宜告を続つて長い劇的な討論が行はれましたが、遂に我が松岡代表が 『欧羅巴やアメリカの或る人々は、いま日本を十字架にかけんとして居る。而も日本人の心臓は、恫喝や不当なる抑制の前には鉄石である』 と叫んで、日本の決意を世界万国の前に声明したのは、英米に対する宜戦詔勅の換発せる12月8日と、日も月も同じ10年前の12月8日であります。


 而して翌1933年2月14日、
リットン報告書が遂に聯盟総会によつて採択せらるるに及んで、松岡代表は即刻会場を退出し日本は立どころに国際聯盟を脱退したのであります、国際聯盟は言ふまでもなく世界旧秩序維持の機関であります。それ故に我々は、復興亜細亜を本願とすべき日本が、世界の現状即ちアングロ・サクソンの世界制覇を永久ならしめんとする斯くの如き機構に加はることに、当初より大なる憤りを感じて居たのであります。然るにスティムソンの必死の反日政策が、日本をして国際聯盟より脱退せしめる直接の機縁となつたことは、是れ亦歴史の皮肉と申さねばなりませぬ。

 

 さてスティムソンは、
1932年12月下旬、次期大統領に選ばれたフランクリン・ルーズヴェルトから、外交政策に就いて相談したいからといふ招待を受け、紐育ハイド・パークのルーズヴェルト邸で、長時間の会談を行ひましたが其の後数日を経てルーズヴェルトは、米国の対外政策に於て両者の意見は完全に一致したことを発表して居ります。従つて現大統領の東亜政策又は対日政策が、スティムソンのそれと同一なるぺきことは、既に此の時より明白であつたのであります。

 スティムソン政策の拠つて立つところは飽までも九国条約を尊重し、之に違反する行動は総て不法なる侵略主義と認め、徹底して之を弾劾するといふのであります。従つて此の政策を完全に継承せるルーズヴェルトは、今回の支那事変に際しても、当初より日本の行動を不法と断定し、支那の抗戦能力強化を一貫不動の方針として有らゆる援助を蒋介石に与へて来たのであります。


 此の事はルーズヴェルトが、
1937年10月5日、シカゴに於て試みたる最も煽動的な演説の中に、極めて露骨に言明されて居ります。―― 『条約を蹂躙し、人類の本能を無視し、今日の如き国際的無政府状態を現出せしめ、我等をして孤立や中立を以てしては之より脱出し得ざるに至らしめし者に反対するためにアメリカはあらゆる努力をなさねばならぬ』、 而してまさしく此の言明の通り、日米通商条約を廃棄し、軍需資材の対日輸出を禁止し、資金凍結令を発布して、一歩一歩日本の対支作戦継続を不可能ならしめんとすると同時に、蒋政権の抗戦能力を強化するためには、一切の可能なる精神的並びに物質的援助を吝まなかつたのであります。

 日本は若しアメリカが東亜に於ける新秩序を認めさへすれば東亜に於けるアメリカの権益を出来るだけ尊重し、且つアメリカの謂はゆる門戸開放主義も、此の新秩序と両立し得る範囲内に於ては十分に之を許容する意図を有つて居たのであります。

 然るにアメリカは、東亜新秩序建設を目的とする我国の軍事行動を以て、飽までも九国条約・不戦条約に違反する侵略行為となし、頑として其の見解を改めざるのみならず、東亜新秩序はやがて世界新秩序を意味するが故に、斯くの如き秩序-アングロ・サクソン世界制覇を覆するに至るべき秩序の実現を、その根抵に於て拒否するのであります。

 而も斯くの如きは決して現大統領の新しき政策に非ず、実にアメリカ伝統の政策であります。即ちシュウォードによつて首唱せられ、マハンによつて理論的根拠を与へられ、大ルーズヴェルトによつて実行に移された米国東亜侵略の必然の進行であります。此の伝統政策あるが故に、日米両国の衝突は遂に避く可らざるものであり今や来る可き日が遂に来たのであります。

 

 弘安4年蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せた時、
日本国民は北条時宗の号令の下、立どころに之を撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威せる時、東条内閣は断乎膺懲を決意し、緒戦に於て海戦史振古未曾有の勝利を得ました。敵、北より来れば北条、東より来れば東条、天意か偶然か目出度きまはり合はせと存じます。


 熟々考へ来れば、ロンドン会議以後の日本は、
目に見えぬ何者かに導かれて往くべきところにぐんぐん引張られて往くのであります。此の偉大なる力、部分部分を見れば小さい利害の衝突、醜い権力の争奪、些々たる意地の張合ひによつて目も当てられぬ紛糾を繰返して居る日本を、全体として見れば、何時の間にやら国家の根本動向に向つて進ませて行く此の偉大なる力は、私の魂に深き敬慶の念を喚ぴ起します。私は此の偉大なる力を畏れ敬ひまするが故に、聖戦必勝を信じて疑はぬものであります。

           
              米英に対する開戦の詔勅

       

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