日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 「英国東亜侵略史」 第五日

2018-09-26 21:03:18 | 大川周明

大川周明


「英国東亜侵略史」

第五日 

 今日は英国の支那進出について申上げます。支那の数々の物産のうち、夙くから西洋で珍重されたのは、絹布及び茶であります。此の高価なる品物は、印度航路のまだ開かれぬ前から、陸路中央亜細亜を経て欧羅巴に供給されて居たのであります。そして最初に海路によって此の有利なる貿易を独占したのはポルトガルでありましたが、第17世紀の初め、チャールス一世の時に至り、英国商人の一団が、支那貿易に参加すべく、国王から特許状を与へられ、艦長ウェツデルが此の目的のために一小艦隊を率ゐて支那に向ひ、1635年マカオに到着しました。


 即ち我国では3代将軍徳川家光の時に当ります。ポルトガルは此の新しき競争者の出現を憤り、一切の迫害を加へて其のマカオに拠ることを妨げたので、ウェツデルは此の地を去つて広東に進まうとしました。然るに艦隊が広東河口の虎門砲台に差しかかると、突然支那兵が砲撃を加へたので、ウェツデルは直ちに之に応戦し、遂に砲台を占領してイギリス国旗を掲げました。
 その結果、支那はイギリスに通商を許し、交易の場処を広東城外に定めました。爾来、英国と支那との貿易は専ら広東を通じて行はれ、やがてイギリス人は支那貿易に於て他の欧羅巴諸国を凌ぎ、少くとも他国商人の取扱ふ荷物でも、船は主としてイギリス船で運ばれ、ロンドンが支那商品の欧羅巴市場となりました。


 さて初めに述べたやうに、イギリス人が広東から積出す主要商品は、主として絹布と茶でありましたが、之に対して莫大の現
を払はなければならなかつたのであります。支那は当時自給自足の国でありましたから、殆んど欧羅巴貨物を必要とせず、唯だ銀だけがほしかつたのであります。しかしながら、多量の銀を輸出することは、イギリスに取って甚だ苦痛であつたので、之に代るべき商品を求め、一石で二鳥をんと苦心しました。そして現銀に代るべき商品を英国商人は阿片に於て発見したのであります。

 18世紀の中頃まで、阿片は多くペルシアで栽培され、それが支那に輸入されて一部の階級に愛用され、次第に弘まつて行く情勢にあつたのであります。そこでイギリス商人はインドで阿片栽培を奨励し、やがて印度阿片が支那に輸入され初めましたが、其の額は年々増加して行ぎました。それだけ支那の阿片吸飲者が激増したわけであります、此の事は支那に取つて二重の深刻なる打撃でありました。 


 第一には阿片中毒によつて国民の心身が劣悪になります。第二には従来とは反対に現銀が国外に流出しだします。それは銅銭に対する銀の騰貴を招き、租税収入は減少し、一般に経済的・財政的危機を誘発する惧があつたのであります。
 それ故に支那は既に1796年に阿片の輸入を禁じ、1815年には国民に阿片吸飲を禁じて居りますが、此の年イギリス商人の輸入した阿片は3千箱でありました。1822年には両広総督院元が厳量に阿片販売を禁じましたが、度々の輸入禁止に拘らず、此の年の輸入額は一万箱に達して居ました。


 爾来、支那は毎年阿片禁止令を発し、その輸入及び吸飲を厳禁せんとしましたが、輸入も吸飲も年々増える一方で、結局どうすることもできなかつたのは、支那の官吏が賄賂を取つて、見て見ぬふりをするからであります。 そこで後には、どうせ防ぎ切れないからといふので、重税を課して輸入を黙許することにしたので、海岸到る処で密輸入が行はれ、之を取締る大官までが、いつの間にやら阿片吸飲者となつてしまつた始末でありました。

 支那政府は阿片政策に就いていろいろ頭を悩まし、之に対する政治家の意見も区々でありましたが、遂に阿片貿易に徹底せる弾圧を加へるに決し、必要の場合には武力をも用ゐる覚悟を極め、この目的のために1839年、林則徐を欽差大臣に任じて広東に派遣することになりました。

 林則徐は勇気もあり、精力もある愛国者でありました。彼は外国商人の所有する阿片は、禁制品だから支那官憲に引渡せと要求して、約2万箱の阿片を押収して之を焼いてしまひましたが、偶〃此の時に支那人がイギリス水夫のために殺された事件がありました。
 林則徐は犯人の引渡を要求したけれど、イギリス側が之に応じなかつたので、遂に最後通牒を発し、若し時間内に犯人を引渡さなければ、広東市外商埠地内の英人区域を攻撃すべしと威嚇したので、商埠地居留の外国人は皆なマカオに引上げました。 


 然るにイギリスは、欣んで林則徐の挑戦に応じたのであります。戦争は先づ広州附近で、支那軍艦に対するイギリス側からの砲撃を以て始められましたが、イギリスは印度を根拠地とし、支那より遥に優越せる戦争技術を用ゐ、易々と支那軍を破ったのであります。
 その陸海軍は、舟山列島・香港を略取し、次で寧波・上海・呉淞・鎮江等を占領しました。いまや英国艦隊は揚子江に侵入し、大運河による北支と中支との連絡を遮断し、将に南京を衝く勢を示したので、支那は1842年8月29日、南京でイギリスとの講和条約に調印せねばならなくなったのであります。


 此の南京条約は、今日まで支那を拘束する不平等条約の長き歴史の最初のものでありますが、此の条約と翌1847年の補足条約とによって、丁度100年目に昨日我軍が奪回した香港を開き、且つ此等の諸港に於ては、外国に対する是までの一切の制限を撤廃し、関税率と港湾税率とを定め、支那に於ける外人の治外法権の基礎を置いたのであります。


 阿片戦争はマルクスの言葉を籍りて言へば 『それを誘発した密輸入者どもの貧欲に適はしき残忍を以てイギリス人が行へるもの』 であります。この戦争は深刻無限の影響を支那に与へて居ります。
 まずイギリスと戦って惨めな敗北をしたために満洲朝廷の威信が地に落ちてしまひ、其の後決して再び回復されなかつたのであります。5つの港が貿易の自由のために開かれて以来、数千の外国船が支那に殺到し来り、支那国内には瞬く間に英米の廉価なる器械製品が氾濫するやうになり、手工を基礎とする支那産業は機械と戦争の前には倒れ去る外仕方がなかつたのであります。 

 いまや驚くべき多量の不生産的なる阿片が消費され、阿片貿易によって貴金属が流出したのに加へて、国内生産に及ぼせる外国競争の破壊的影響が加はって来たのであります。旧い支那が維持され、保存されるための第一要件は、完全に国を鎖ざして置くことでありましたが、今や其の鎖国が、イギリスの武力によって苦もなく打破られたのであります。
 恰も密封された枢の中に、注意深く納められて来たミイラが、一朝新鮮なる外気に触れると、立ち所にボロボロとなるやうに、阿片戦争は支那の財政・産業・道徳並に政治機構の上に重大なる作用を及ぼし、必然的に支那国家の解体を促したのであります。

 此の時以来急速に土地は腐敗した官吏や豪商の手に落ちて往った。灌漑や堤防が投げやりにされたので、旱魃や洪水の度毎に農民は貧困に陥った。匪賊の横行跋扈が年と共に甚だしくなった。騒動は各地に勃発した。その最も大規模なるものは、いふまでもなく1850年から64年に亙る長髪賊の乱であります。そして欧米列強、わけてもイギリスは、此の動乱を好機として、一層強大なる根拠を支那に於て築き上げたのであります。

 やがてアロー号事件を導火として、第2次英支戦争が行はれました。アロー号というのは香港政庁に登録されて居た支那船で、アイルランド人を船長とし、勝手に英国国旗を掲げて航海して居りましたが、水夫14名は皆な支那人で、実は英国国旗の蔭に隠れて阿片の密輸入を事として居た数々の船の一であつたのであります。

 1856年、此の船が広東下流の黄埔に碇泊して居た時に、船長の留守中に支那兵が乗込み、禁制品の阿片を発見したので、英国国旗を引下ろし、乗組員12名を罪人として支那軍艦に引致しました。此の些々たることを口実とし、また先年フランス宣教師が広西の田舎で殺されたので、支那に難題を吹かけて居たフランスと聯合し、1857年暮、英仏聯合軍が広東を攻めて之を陥れ、総督葉明環を囚へて之をカルカッタに送りましたが、一年の後に之を幽死させて居ります。

 そこで英国司令官は一書を北京に送り、支那全権は、香港に来て和を講ぜよと申入れたが、支那は無論之に応じなかったので、然らば直接北京政府と談判すると称へて、戦を北方に移し、英仏聯合軍は白河河口の太沽砲台を陥れ、河を遡って天津に入つたので、支那は止むなく両国と和議を結んだのが所謂天津条約であります。
 この条約によってイギリス其の他の列強は、北京に公使を駐在させること、既に開かれた5港以外に更に5港を開くこと、イギリス船舶のために揚子江を開放することなどを取極めました。


 此の条約は北京で批准交換せらるべきものであったが、支那側は上海で之を行はうとしたので、イギリスは例によつて武力を以て強行しようとし、1859年英国艦隊は天津に進航するに決しましたが、此の度は太沽砲台から砲撃を受けて一旦退却した後、更に英仏相結んで再び支那に宣戦し、海陸合して2万5千より成る英仏聯合軍が、またもや支那を破つて、此の度は北京に進撃し、清国皇帝は熱河に蒙塵するに至りました。

 此の戦争に於てイギリス陸軍の主力は、実に1万の印度兵でありました。印度人は英人のために其の国を奪はれた上、同じ亜細亜の国々を征服する手先に使はれて今日に及んで居ります。
 かくて支那は、1860年10月、英仏両国と北京条約を結び、天津条約を確認し、天津を開港場とし、多額の償金を払ひました。香港の対岸九竜を奪ひ取つたのも此の条約によつてであります。1859年、此の戦争が尚ほ酣であつた時、イギリスの新聞、デーリテレグラフは実に次のやうな社説を掲げて居ります。

 『大英帝国は支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、清帝を其の宮廷より放逐し、将来起り得る攻撃に対して実質的保障を得ねばならぬ。わが国家的象徴に侮辱を加へんとする支那官吏を鞭にて打て。総ての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ、人殺しの如き人相して、奇怪な服装をなせる是等多数の悪党の姿は、笑ふに堪へざるものである。支那に向っては、イギリスが彼等より優秀であり、彼等の支配者たるべきものたることを知らしめねばならぬ』 誠に驚くべき征服欲であり、また驚くべき下品な言葉使でもあります。


 次いでイギリスは、更に陸路によって支那への進出を試みました。既にビルマを征服せるイギリスは、1876年ビルマと支那とを遮る嶮峻なる山脈を突破して、雲南省との通商路を開かんとし、ブラウン大佐を隊長として、ビルマのパモから雲南省毘明に至るべき遠征隊を派遣することにしました。
 同時に英国領事館附書記生マーガリが、上海から漢口に出で、湖南・雲南を経てバモに出で、此処で準備を整へ待って居たブラウン大佐に会し、その通訳兼案内者になつて雲南に向つて引返しましたが、途上ブラウン大佐に別れて出発し、雲南の一駅で何者かのために殺され、またブラウン大佐も支那兵のために囲まれ、目的を遂げずにビルマに引返しました。   

 此の路が、今度の支那事変に至って開通した所謂ビルマ・ルートであります。イギリスは、此のマーガリ事件を口実として支那を威嚇し、此の年所謂蜀芝罘条約を結びましたが、イギリスは此の条約によって、支那又は印度から自由に西蔵に入国し得るやうになり、爾来、着々西蔵に勢力を扶植し、そのために幾度か支那と衝突しましたが、その都度支那は譲歩するだけでありました。
 そしてイギリスは西蔵を勢力範囲とすることによって、一面ロシアの印度侵略に備へ、他面之を足場として雲南、四川への進出を執拗に続けたのであります。


 若し新興日本が支那保全を以て其の不動の国是とし、且つ此の国是を実行する力を具へて居なかつたならば、既に阿弗利加大陸の分割を終へ、満腹の帝国主義的野心を抱いて東亜に殺到し来れる欧米列強は、必ず支那分割を遂行しイギリスは当然獅子の分前を得たことと存じます。
 現に支那・印度・西蔵に活躍せる名高きイギリス軍人ヤングハズバンドは、支那の如く土地は広大、物産は豊富、而も其の全地域が人間の住むに適する温帯圏内に横はる国土を、一個の民族が独占して居るのは、神の御心に背く- Against god’s Will だと公言しているのであります。

 日本の強大なる武力は、幸にして支那を列強の狙の上にのせなかったのでありますが、それでもイギリスの政治的・経済的進出を拒むに由なく、支那の最も大切なる動脈揚子江に於て、わけてもイギリスの勢力は断然他を凌いで強大となつたのであります。
 従つて日本が長江に経済的進出を始めるに及んで、其の最も手強き妨害者はイギリスであつたのです。其の数々を列挙することは時間が許しませんが、唯一つイギリスの悪辣なる妨害とは如何なるものであつたかを示す実例を挙げます。


 それは日英同盟が結ばれた翌年即ち1902年に、日本郵船会社で、曾て30年間楊子江に航路を張つて居た英人マクベーンの事業を数百万円で買収し、其の船に社旗を掲げて楊子江航路を開始すると、稀代の珍事が起つたのであります。
 即ち上海・漢口を初め揚子江岸諸港の英国人居留地会が、郵船会社の船には一切今までマクベーン船舶の繋留せる水面に立寄るを許さずといふ決議をしたことであります。これは地所は売つたが空中権は売らないから家を建ててはならぬといふに等しい無理難題であります。日本は極力抗議をしたけれど、英人は頑として聴き入れず、郵船会社は百計尽きてフランス人に交渉し、不便ではあつたがフランス居留地の水面に繋船し、遠く倉庫から迂回して荷物を揚卸しすることになつたのであります。之が後の日清汽船会社の前身であります。

 日本はイギリス人の同様の意地悪き妨害と幾度か戦ひながら、とにもかくにも長江流城に今日までの地位を築き上げたのであります。日本の長江発展史は、取りも直さずイギリスとの経済闘争史であります。


〔続く〕
大川周明 「英国東亜侵略史」 第六日

 

 


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