日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 「英国東亜侵略史」 第六日

2018-09-27 09:11:27 | 大川周明

大川周明

 

英国東亜侵略史 

 

第六日

 中央亜細亜のパミール高原は、古より世界の屋根と呼ばれて居ります。此の高原から斜めに西南に走る山脈はスライマン山脈と呼ばれ、印度とアフガニスタンの国境を走つて印度洋に尽きて居ります。また此の高原から北に走るものは天山山脈と呼ばれ、ズンガリア盆地に於て一旦杜絶した後、再びアルタイ山脈となつて東北に延び、更にヤブノロイ山脈・スタノボイ山脈となつて一層東北に向ひ、遂に亜細亜大陸の東北端イースト・ケープとなつてべーリング海峡に突出して居ります。

 即ち南はインダス河口から北はベーリング海峡に至るまで、亜細亜大陸は西南より東北に走る蜿蜒万里の山脈によって、まさしく両断されて居るのであります。この山脈は世界の屋根の長い長い棟であります。而してこの屋根によって旧世界は東洋と西洋との二つに分たれて居ります。即ちこの屋根の棟の東南斜面が東洋であり西南斜面が取りも直さず西洋であります。ペルシア・小亜細亜・アラビアの諸国は、亜細亜のうちに含まれては居りますが、之を地理学の上から見ても、また世界史の上から見ても、明かに西洋に属するものであり、真実の意味の東洋は疑ひもなくパミール高原以東の地であります。

 

 此の東洋の世界はヒマラヤ山脈に起り、昆嵜山脈となり、東へ東へと進んで支那海に至つて尽きる東西万里の山脈によって、更に南北に両分されて居ります。南方即ちヒマラヤ山脈の南斜面は印度であり、ヒマラヤの北、天山アルタイ両山脈の東が取りも直さず支那であります。而してインドと総称されるヒマラヤ山脈の南斜面は、更に東西両部に分たれ、西なるはヒンドスタン・インド人の国、即ち狭い意味の印度であり、東部はビルマ・タイ・安南等を含む所謂印度支那で、其の名の如く地理的にも、東洋の偉大なる二つの部分、印度及び支那の中間に位する国土であります。

 

 印度と支那とは、東洋の二つの偉大なる中心であります。両者の面積は殆んど相同じく、人口はまた各々数億を激へ、ヒマラヤ山脈によって南北相隔てられ、一方には蒙古人種、他方にはアリアン人種が住み、一方は温帯、他方は熱帯、相距ることも遠く、相異なること大でありますが、東洋は実に此の二つのものの結合によって一つの全体をなして居るのであります。而して我が日本は此等の東洋の二つの中心から、実に幾多の貴きものを学び、善きものを習ひ、之を自身の精神の裡に統一し、之を生活の上に実現しつつ今日に及んだのであります。

 西洋人が渡来するまで、日本人に取って世界とは実に支那と印度、即ち唐と天竺とを中心とする東洋を意味し、此の両国に我が日本を加へて三国と称へて来たのであります。三国一の花嫁とは世界第一の花嫁のこと、三国一の富士山とは支那にも印度にもない世界一の立派な山のことだったのであります。三国妖婦伝といふ物語では、九尾の狐が、支那・印度・日本三国の宮廷を哺しまはつて居ります。それ故に支那と印度とは、我々にとりては、少くとも我々の祖先にとりては、決して他国ではなかつたのであります。日本は此等の国から数々のものを学んだので、啻に他国ではないのみならず、実に大切な国、有難い国であつたのであります。然るに今や釈尊が生れ、孔孟が生れた其の大切な国が、イギリスの属国となり、その半植民地と成り果てて居るのであります。

 

 我等が印度から学んだ最も貴いものは宗教であります。即ち印度思想・印度文明の精華と申すべき仏教の信仰であります。我々の祖先が如何に誠実に此の教を学び、比の教の生れた印度に憧憬して居たかを示すため、幾多の例を挙げることが出来ますが、最も私の心を打つた一っだけを申上けます。

 それは鎌倉初期の高徳、京都栂尾の明恵上人のことであります。此の上人は印度に渡って仏蹟を巡礼したいといふ抑へ難い願ひから、其の巡礼の筋道を事細かに調べ上げ、支那の都の長安から印度の王舎城までは8330里、日に8里づ歩けば千日、日に5里づつ歩けば、正月元旦に長安を出発して5年目の6月10日の午刻に王舎城に辿り着く、天竺は仏の生国なり、恋慕の思抑へ難きにより、遊意をなして之を計る、あはれあはれ参らばやと書いて居ります。

 不幸病のために印度巡礼の願は遂げられなかつたが、印度から渡つて来た竹を見るに、日本の竹と異なる所がない。さすれば釈尊当時の竹林園の竹もまたかやうな竹であらうと、一むらの竹を学問所の前に植ゑつけ、之を竹林竹と名けて、あけくれ眺めて居たのであります。まことに激しい思慕のこころと申さねばなりませぬ。若し此の明恵上人が、今日蘇って印度の現状を見、印度がイギリスの鉄鎖に縛られ、其の民は牛馬の如く虐げられて居るのを見たならば、血涙を流して悲しみ、火の如く激しく憤ることであらうと存じます。

 

 我々は印度の仏教から、信仰だけを学んだのではありません。仏教は同時に五明即ち五つの学問を我々に教へて居ります。第一は因明で、論理の講究、第二は内明で、教典の研究、第三は声明で、言語音律の研究、第四は医方明で医術の研究、第五は工巧明で、工芸美術の研究であります。而も教典の研究のうちには、仏典以外の儒教の経典をも含み、寺は寺小屋と呼ばれて国民教育の機関となり、その教科書には儒教の経典が用ゐられて居たのでありますから仏教は日本に取りて一個の宗教であつたのみならず、同時に文化の綜合体であつたのであります。

 即ち印度文化全体が釈尊又は仏教を通じて我国に伝へられ、その仏教の真理は、いろいろなる理論によってに非ず、生活体験によって日本人の魂に浸み込んだのであります。従って仏教徒たると否とを問はず、我々日本人は甚だ多くを釈尊の印度に負うて居るのであります。それ故、真実の日本人である限り、多かれ少かれ明恵上人が抱くであらう所の悲しみと噴りとを感ぜねばならぬ筈であります。

 それでありますから、我々日本人が英国の印度統治に対して加へる弾劾は、一昨日紹介したアメリカのブライヤンが加へる如き、単なる人道主義に拠る道徳的非難たるに止まらず、同時に我心と我身とに加へられたる辱しめを感じての義憤であります。
 現代印度革命思想の生みの親アラビンダ・ゴーシユは 『圧制者あり、我母の胸に坐す。我母を此の圧制者より救ふまで、我は断じて息まず』 と誓って居りますが、我存は此の悲壮なる覚悟を、我々自身の覚悟の如く身に泌みて感ずるものであります。

 私は此の度の対米英戦争に於ける日本の勝利が、必ず印度独立の機縁となり、導火線となつて、古へ釈尊より受けたる教に対する最も善き贈物として、自由を印度に与へ得るに至らんことを切望するものであります。

 日本と印度との間のかくの如き関係は、支那との場合に於ても同然であります。 我々は支那文明の精華と申すべき孔孟の教を支那から学んだのであります。我々は、総ての生活の基礎を倫理に置かねばならぬこと、即ち人格の上に置かねばならぬという高貴なる糟神を、極めて明晰なる理論を以て儒教から学んだのであります。
 のみならず、江戸時代300年の間、学聞と申せば支那の学問でありましたので、政治・道徳・文学、あらゆる方面に於て善かれ悪かれ支那文化は国民生活の隅々に浸透し、印度が然る如く支那もまた我身我心の一部となったのであります。

 其の上支那は印度と異なり、一衣帯水の間柄でありますから、多くの支那人が日本に来て、彼等の血が日本人の血に混つて居ります。
中国の大大名であつた大内氏も、薩摩の島津家も、遠く其の祖先をただせば、朝鮮を経て日本に渡つて来た支那人だと言はれ、一徹短気で名高い赤穂義士の武林唯七は孟子の子孫だとも申されて居ります。

 純然たる日本文学と考へられて居る紫式部の源氏物語でさへ、其の思想も、その文学としての結構も、明かに漢学漢文から脱化したものであります。大宝令は御承知の如く支那の法律制度を模範としたものであります。我等の洗祖は日本の歴史を学ぶと同じ程度の親しみを以て支那の歴史を学び、日本の英雄豪傑を崇拝ずると同じ程度の熱心を以て支那の英雄豪傑を崇拝したのであります。
 諸葛孔明の出師表は、どれほど日本人に忠義の心を鼓吹したか知れず、岳飛の誠忠がどれほど士気を鼓舞したか測り知れぬほどであります。日本人中の最も偉大なる日本人西郷隆盛が、如何に伯夷叔斉の高潔なる心事に傾倒して居たかは、彼自身の文章によって知ることが出来ます。

 わけても支那文学が甚だしく日本人に喜ばれ、漢詩を作ることは、教養ある人士に欠くべからざる条件の一つとさへなつたので、支那の詩歌文学に現れて来る山や川は自分の故郷の地名の如く日本人の耳に響いたのであります。黄河も楊子江も、赤壁も寒山寺も、乃至西湖も洞庭湖も皆な我灯の耳に久しく聞き馴れて居りますので、例へば 『楊子江頭楊柳の春、楊花は愁殺す江を渡るの人』 といふ詩を吟ずれば我々は支那の詩人が、長江に寄せた綿々の哀愁を、自ら楊子江畔に立って感ずる如く感じます。
 また 『洞庭西に望めば楚江分る、水尽きて南天雲を見ず』 と歌へば、洞庭湖は決して他国の湖とは思へないのであります。
 かやうな次第で日本と支那との間には、心の境がなくなつて居たのであります。日本人と支那人とは『我々』といふ一人称を用ふべき兄弟であります。

 此の支那が、国民の身と心を触ばみ尽す阿片吸飲のあさましい風習を止めるために、阿片輸入を禁止するのは当然至極のことでありましたが、それが承知罷りならぬといつて武力を用ゐたのが実にイギリスであります。 イギリスは、一切の道徳を無視し、毒薬を売込んで金儲をしようといふ一群の商人の貪欲なる希望を満足させるために、その軍隊を用ゐたのでありますから、英国軍隊を貫く精神は、ホーキンス、ドレーク等の昔ながらの海賊精神であります。
  今も昔も変りなき此の海賊精神を以てイギリスは支那に臨み、必要あれば武力を以て、然らざる時は買収と外交的術策と威嚇とを以て、遂に支那を其の半植民地とし、支那民族を最も都合よき搾取の対象としたのであります。イギリスの対支政策は形こそ変れ、大砲の筒先を向けて、恐るべき阿片を突きつけ、飲まねば打つぞと言った其の精神の種々の現れであります。 


 日本が支那の領土保全を不動の国是として来たのは、其の奥深き根抵を、日本人の真心に有して居ります。支那の文明は黄河と楊子江の流域に起り、その丈明は我が日本の生命と生活とのうちに、今尚溌剌として生きて居るのであります。それ故に何はともあれ、黄河、楊子江の流域が他国の手に奪はれるに忍びない、飽くまでも之を漢民族の手に保存させて置きたいというのが、自つと湧き上がる日本民族の赤誠であります。
 支那は、此の赤誠より送れる日本の政府のために、イギリスの、又はロシアの奴隷となり果てずに済んだとは申せ、年久しく欧米の資本主義並に帝国主義角逐の舞台となって来たので、年一年と自国の貴重なる丈化を犠牲にする危険に曝されて参ったのであります。

 

 曾ては東亜の国々をあれほど豊かにした支那文化は、巧みに支那の統一を破る術を心得て居る欧羅巴帝国主義的諸国、就中イギリスの侵入と共に、内的にも外的にも弱められて、つひに偉大なる過去の、単なる影と成り下らんとして居ります。のみならず、イギリスの巧妙なる搾取と相並んで、今やボルシェギズムの暗い力が新たに舞台に現れ、衰へたる支那を其の勢力の下に置き初めたので、支那の文化は破壊崩潰に対して、益存無抵抗に曝されるに至ったのであります。

 日本は自国の文化と、支那に於て脅されつつある東洋文化を救ふために、あらゆる努力を続けて戦ひ来れるに拘らず、支郡は起って我等と共に東洋を護り、亜細亜を滅ぼす勢力と戦はんとはせず、却つて刃を我等に向げ来つたのであります。而して、東洋の敵たる英米と罫を握り、今荷ほ東洋を救ひつつある日本と戦ひ続けんとするのであります。

 もとより南京政府は既に樹立せられ、汗精衛氏以下の諸君は、興亜の戦に於て我等と異体同心になつて居りますが、支那国民の多数は其の心の底に於て爾ほ蒋政権を指導者と仰ぎ、日本の真意を覚らんともせず、却つて日本に反抗しつつあることは、悲痛無限に存じます。さりながら明治維新を顧みましても、各藩に勤皇佐幕の対立抗争あり、勤皇諸藩の間に反目嫉視あり、最後に薩長相結んで幕府を倒すに至るまで、如何に多くの高貴なる鮮血が流されたかを思へば、是れ亦止むなき次第であります。

 

 日本の掲げる東亜新秩序とは、決して単なるスローガンではありませぬ。それは東亜の総ての民族に取りて、此の上なく真剣なる生活の問題と、切実なる課題とを表現せるものであります。此の問題又は課題は、実に東洋最高の文化財に関するものであります。それ故に我等の大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、経済的利益のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦いであります。此の東洋交化財は、既に申上げた通り、わが日本民族の魂に、またわが日本国家の中に統一されて、其の最高の価値と意義とを発揮して居るのであります。

 我々日本人の魂は、直ちに是れ三国魂であります。日本精神とは、やまとこころによつて支那糟神と印度精神とを綜合せる東洋魂であります。従つて東亜新秩序の真箇の基礎たるべき魂は、既に慣然として存在し且つ活躍しつつあるのであります。
 足かけ5年、我々は此の魂を基礎とせる.秩序を、先づ支那に於て実現するために、此の実現を妨げるものと善戦健闘して来ました。然るに今や世界史の進転は、東洋の敵たる英米と日本との明らさまなる戦争となり、従つて此の新秩序の範囲を、印度にまで拡大し得る形勢となつたことは、我々の欣喜に堪へざる所であります。

 

 大東亜即ち日本・支那・印度の三国は、既に日本の心に於て一体となって居ります。我々の心裡に潜むこの三国魂を、具体化し客観化して一個の秩序たらしめるための戦が、即ち大東亜戦であります。支那民族はやがて其の非を覚るであらう。印度民族はやがて解放されるであらう。正しき支那と蘇れる印度とが、日本と相結んで東洋の新秩序を実現するまで、如何に大なる困難があらうとも、我等ば戦ひぬかねばなりませぬ。いと貴きものは、いと高き価を払はずば決して得られないのであります。

 想へば1941といふ数は、日本に取りて因縁不可思議の数でありまず。元寇の難は皇紀1941年であり、英米の挑戦は西紀1941年であります。私は日本の覚悟と努力とによつて、英米の運命また蒙古のそれの如くなるべきことを信じて、此の不束なる講演を終ることと致します。

 〔終わり〕
                         大東亜戦争開戦の詔勅
 

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