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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明「米英東亜侵略史」(第二日)捕鯨と日本の開国要求、フィリピンの占領、ジョン・へーの支那の門戸開放政策

2018-09-17 09:19:31 | 大川周明

              大川周明 --ウィキペディア
        

大川周明 「米英東亜侵略史」
        

【第一日】 
大川周明 「米英東亜侵略史」 序、(第一日)ペルリの日本来航と幕府の対応



第二日

 さて第十九世紀前半のアメリカは、
実に急速なる領土拡張の時代でありましたが、其の拡張は植民と征服と買収との三つの方法を以て行はれ、面積は半世紀間に3倍半となつて居ります。此の領土拡張に伴つて当然人口も増加し、是亦約3倍半になつて居ります。


 而して此の頃から東洋貿易への参加といふことが次第にアメリカの関心を惹き初めわけても無限の富を包蔵すると思はれた支那市場が彼等の大なる誘惑となり、大西洋を横ぎつて阿弗利加を回り、丁度ペルリが通つた航路によつて印度洋及び支那海に至るアメリカ商船は年々其の数を加へて来たのであります。
 従って、此の頃はアメリカ造船業の黄金時代でもあり、1861年の統計に拠りますと、アメリカ商船の総噸数は554万噸、イギリスのそれは591万噸、英米両国を除く世界諸国のそれが580万噸、即ちアメリカは世界商船総噸数の三分の一を占め、イギリスと雁行する商船国となつて居るのであります。


 恰も斯かる時に当り、カワフォルニアに金山が発見され、
東部のアメリカ人は言ふ迄もなく、世界各国の人々が、アメリカの太平洋沿岸に殺到して来たので、沿岸一帯は急激なる発展を見るに至りましたが、就中支那労働者の米国に渡航する者が俄に多数となり、同時に米国商品の対支輸出も次第に盛況に赴いたので、従来の如く大酉洋.・印度洋を経て支那海に至る迂回路を棄て太平洋夕横ぎつて支那に至る直接航路を開く必要が迫つて来たのであります。

 加之、太平洋はムニつの意味でアメリカ人の心を惹き付けたのであります。第18世紀から第19世紀にかけて捕鯨はアメリカ及びロシアの最も重要なる産業の一つでありましたが、第19世紀初頭に至つて大西洋の鯨は殆んど捕り尽され、同時に北太平洋に夥しき鯨の居ることが知られたので、此の方面に於げる捕鯨船の活躍が頓に目覚ましくなりました。

 殊に1842年、米露両国の間に条約が結ばれ、両国互に其の領海内に入つて鯨を捕り得るやうになつたので、アメリカ捕鯨船の日本近海に出没するもの俄に多くなり、1840年代には既に1200隻に及んだと言はれて居ります。

 当時何故に彼等がそれほど捕鯨に熱心であつたかと申せば
蠣燭の原料にする油を取るためであつたのであります。其の頃の欧羅巳は、植民地から搾取した富によつて生活は豪奢となり、各国の宮廷を初め、貴族富豪は競つて長夜の宴を張つて、飲み且つ踊つて居たのであります。
 其の宴会揚を真昼の如く明るくするために、数限りなく蝋燭を灯したのでありますが、其の蝋燭の白蝋が鯨油から取れるので、贅沢が増せば増すほど、鯨が蝋燭に化けて欧羅巴の金殿玉楼を照らすことになつたのであります。


 斯様な次第で太平洋に出漁する捕鯨船のためにも、暴風や難破の際の救謹所又は避難所が必要になり、米支直接航路のためには中間の貯炭所又は食料補給所が必要になり、かくの如き必要のためにアメリカは我国に着目するに至ったのであります。
 さういふ経緯を経てアメリヵに於ける日本訪問の機が次第に熟し、1850年には米国議会が此の事を決議し遂にペルリの日本派遣となつたのでありますが、其の時に政府がペルリに与えた訓令の要旨は下の如きものであります。

 即ち第一には
アメリカ船舶が日本近海で難船し又は暴風を避けて日本の港湾に入つた場合、日本はアメリヵ人の生命財産を保護するやう永久的なる和親条約を結ぶこと、
第二はアメリカ船舶が燃料食糧の補給のために入港し得る港を選定すること、
第三には通商貿易のために二、三の港を開かせることであります。

 ペルリは日米通商の下地を作つて帰国し、
其の後を受けて日米条約を締結したのはハリスであります。此の条約調印のために井伊大老の首が飛び明治維新の機運を激成したことは申上げるまでもありませぬが、私は当時の談判の経緯を仔細に書残せるハリスの日記から、二、三の重要なる箇処を紹介して置きます。

 先づ彼は
『従来幕府の役人は、日本の主権者たるミカドに対して、動もすれば之を軽んずる傾向があつたが、近来は盛んにミカドの絶対権を主張するのを見て、大勢の推移したことが感ぜられる。予は従来将軍を以て事実上の日本の君主と思つて居たが、今やミカドが名実共に主権者にして、将軍は其の仮装的統治者であるやうに思はれ初めた』 と申して居ります。これはハリスの談判進行中に俄然として勤皇論が擡頭し来れることを示すものであります。

 また彼は
『日本といふ此の不思議な国の数々の中で、ミカドの如く予の判断を苦しめたものは無い』 と書いて居ります。 此のミカドの不思議は、ひとりハリスのみのことでありませぬ。それは90年後の今日のアメリカ人に取つても、依然不思議のものとなつて居ります。
 但し此度の日米戦争に於ける日本の勝利の根抵を奥深く探ることによつて、或はアメリカ人も初めて此の不思議を理解するに至るかも知れません。私は其の然らんことを切に祈つて止まぬものであります。


 さて此の頃のアメリカは、
当時の大統領ビューカナンが1857年5月、支那使節に任命されたヰリアム・ピヅドに与へた教書に於て 『支那に於て我が同胞の通商と生命財産の保護以外には、如句なる目的をも追求せざることを銘記せよ』 と述べて居る通り、当時支那に起りつつありし長髪賊の乱に対しても傍観的態度を取り、ペヘルリが画策せる琉球占領計画をも 『面白からぬ提案』 として斥け、また之と時を同じうして台湾を米国の保護領とせよといふ宜教師パルケルの画策をも黙殺して居ります。

 時の国務長官シュゥォード
将来太平洋が世界政局の中心舞台たるべきことを力強く主張したので、歴史家は好んで 『シュウォード時代』 又はシュウォード政策といふ言葉を用ゐまするが、実際に於ては、何等積極的活動を太平洋又は東洋に於て試みて居りませぬ。
 1850年に至つて一旦は著しく活濃となつたアメリカの太平洋及び支那に対する活動は、1861年に始まれる南北戦争以後、1898年のフィリピン占領に至る四十年聞、甚だ消極的となつたのであります。

 

 蓋し此の時代は未だ金融資本主義が現れず、
帝国主義の未だ確立せられない以前であつたので、欧米の東洋政策、わけても対支政策の領域を支配して居た産業資本は、支那を自国製品の販売市場として、又は原料生産地として、最大限度に之を利用することを主たる目的として居たのであります。
 例へば1867年、アメリカ政府がロシアからアラスカを買収した時に、国民は政府の帝国主義的動向を激しく非難し、国内に未だ耕されぬ土地が彩しいのに、何の必要あつて斯様な無駄な買物をするのか、白熊でも飼ふつもりかと憤つて居ります。

 また京城駐剳米国公使が、
朝鮮に於ける宣教師と共力してアメリカ勢力を京城に扶植せんとした時も、ワシントン政府は該公使に対して 『朝鮮の政治に干渉することは貴下の権限外なり』 とたしなめて居ります。日清戦争(1894~95年)の時も、時の国務長官グレシャムは 『米国は武力を行使し、又は欧羅巴列強と提携して此の戦争に干渉する意図なし。米国は表面は好意的中立を守り、内実は日本にのみ好意を寄せんとするものなり』 といふ訓令を、京城駐剳公使に与へて居ります。当時のアメリカは、日本の膨脹はアメリカを脅威せずと考へて居たのであります。


 而も日清戦争は東亜政治史全体の偉大なる転回点となつたのであります。即ち日本に破れた支那が此の時初めて封建支那の無力と解体とを全面的に暴露せるに乗じて、恰も此の頃に擡頭し来れる帝国主義が、孤立無援の支那を掠奪の対象として、激しく殺到し初めたのであります。而して之と共にアメリカの東洋政策も、俄然面目を改めたのでおります。

 さてシュウォードの太平洋制覇の理想は、
只今申上げた通り、約半世紀の間、アメリカの具体的政策とはならなかつたのでありますが、彼の理想は一部のアメリカ政治家によつて堅確に継承されて来たのであります。この理想は1880年代から次第にアメリカに浸潤し初めて来た帝国主義と相結んで、アメリカの東亜政策も漸く積極性を帯びみやうになりました。

 而して此の新しき帝国主義の最も勇敢なる実行者は、今日の大統領フランクリン・ルーズヴェルトの伯父セオドル・ルーズヴェルトであり、其の最初の断行が1898年の米西戦争を好機として、フィリピン群島及潔グアム島を獲得したことであります。

 戦争の当初に於て、時の大統領マッキンレーは
『アメリカはフィリピン群島の強制的併合を行はんとするものに非ず、予の道徳的規範によれば、かくの如きは犯罪的侵略なり』 と声明したに拘らず、後には 『神意』 と称してフィリピン統治をアメリカに委任することを要求したのであります。
 その一切の献立を行つたのが、取りも直さず海軍長官であつたルーズヴェルトでありまず。アメリカはスペインの統治に不満なりしフィリピン独立運動者を煽動し、之を援助してマニラのスペイン守備隊を攻撃させました。

 此の時アメリカは数々の約束を彼等に与へたが、
彼等を片付けるに足る軍隊がアメリカ本国から到着するに及んで一切の約束を蹂躙し去つたのであります。即ちフィリピン独立党はアメリカに欺かれて、其の手先となつてスペイン軍と戦ひ、然る後に彼等自身も葬り去られたのであります。

 当時の日本人民間にはフィリピン独立運動に援助を与へた人々も多く、アメリカの悪辣なる手段を痛憤したのでありますが、日本政府は 『如何なる国が南太平洋で日本の隣邦となるよりも、アメリカが隣邦となることを欣ぶ』 として、米国のフィリピン併合に賛意を表したのであります。

 いまやアメリカは
『イギリスが香港に拠る如く、我等はマニラに拠る』 と公言し、フィリピンを根城として東亜問題に容喙する実力を養ひ初め、1899年には国務長官ジョン・へーの名に於て、名高き支那の門戸開放を提唱し、翌1900年には、支那の領土保全を提唱したのであります。

 此の二つの提唱は、アメリカ人の言分によれば、或る程度まで利他的政策であり、支那に同情し支那を援助せんとする希望から出たものであるといふのでありますが、それは偽りの標榜であります。

 第一にジョン・へーは此の政策を提唱するに当つて、
毫も支那自身の希望や感情を顧みず、支那政府は門戸開放に同意なりや否やの問合をさヘアメリカから受けたことが無かつたのであります。ジョン・へーの提唱は、支那に対するアメリカの権利を一方的に主張したもので、要するに支那はアメリカの同意なくては如何なる国にも独占権を与へてはならぬ、関税率を決めてはならぬ、相互条約を結んでもならぬといふ要求であります。 
 蓋し欧羅巴列強は、アメリカに先んじて支那に於てそれぞれ勢力範囲又は利益範囲を確立して居たので、立遅れたアメリカは、支那に対する自国の政治的・経済的発展に大なる障碍の横はれるに当面し、之を撤去するために門戸開放を唱へたのであります。


 また其の領土保全主義は、支那が列強によつて分割せらるる揚合、アメリカの現在の準備と立揚では、自分の分前が甚だ少なかるべきことを知つて居たので、支那に於ける自国の利益を消極的に守るために他ならなかつたのであります。
 即ちロシア及びイギリスが、既に武力と襖土占領の手段によつて其の勢力を支那に張り、殊にロシアの如きは将来も同様の手段を遂行せんとするに対し、アメリカは門戸開放と領土保全とを提唱する以外、支那に於ける現在及び将来の帝国主義的利益を擁護するために、如句なる現実の手段をも有たなかつたのであります。

 〔続く〕
  大川周明 「米英東亜侵略史」(第三日) ハリマンの満鉄買収政策を巡る日米の確執



 


大川周明「米英東亜侵略史」序、(第一日)ペルリの日本来航と幕府の対応

2018-09-15 17:44:56 | 大川周明


              大川周明 --ウィキペディア
        

 大川周明 『米英東亜侵略史』

 昭和16年12月8日は、世界史に於て永遠に記憶せらるべき吉日である。米英両国に対する宣戦の詔勅は此日を以て煥発せられ、日本は勇躍してアングロ・サクソン世界幕府打倒のために起つた。而して最初の一日に於て、既に殆んどアメリカ大平洋艦隊を撃滅し、同時にフィリピンを襲ひ、香港を攻め、マレー半島を討ち、雄渾無比の規模に於て皇軍の威武を発揚した。

 この小冊子は、対米英戦開始の第七日、即ち昭和16年12月14日より同25日に至るまで、四方の戦線より勝報刻々に到り、国民みな皇天の垂恵に恐濯感激しつつありし間に行へるラジオ放送の速記に、極めて僅少の補訂を加へたるものである。
 そは『米英東亜侵略史』と題するも、与へられたる時間は短く、志すところは主として米英而国の決して日本及び東亜と並び存すべからざる理由を闡明するに在りしが故に、史実の叙述は唯だ此の目的に役立つ範囲に限らざるを得なかつた。

 若し此の小冊子が、聊かにても大東亜戦の深甚なる世界史的意義、並びに日本の荘厳なる世界史的使命を彷彿せしめ、之によつて国民が既に抱ける聖戦完遂の覚悟を一層凛烈にし、献己奉公の熱腸を一層温め得るならば、予の欣幸は筆紙に尽し難いであらう。

  昭和17年1月

            大川周明


米国東亜侵略史

第一日

 私は大正14年、節ち今から16年以前に 『亜細亜・欧羅巴・日本』 と題ずる著書を公けにして居ります。此の書物は百頁にも満たぬ小冊子でありますが、容量に似合はぬ数々の大なる目的を以て書かれたものであります。
 目的の第一は、戦争の世界史的意義を閑明して、当時日本に跋扈して居た平和論者の反省を求めるためでありました、目的の第二は、言葉の真箇の意味に於ける世界史とは、東西両洋の対立・抗争・統一の歴史に外ならぬことを示すためでありました。その第三は、世界史を経緯し来れる東洋並に西洋の文化的特徴を彷彿させるためでありました.その第四は、かくして全亜細亜主義に理論的根拠を与へるためでありました。而して目的の第五は、新しき世界の実現のために東西戦の遂に避け難き運命なることを明らかにして、之に対する日本の荘厳なる使命を省みるためでありました。私は此の書の最後を下の如く結んで居りますー

 

 『いま東洋と西洋とは、それぞれの路を往き尽した。相離れては而ながら存続し難き点まで進み尽した。世界史は両者が相結ばねばならぬことを明示して居る。さり乍ら此の結合は、恐らく平和の間に行はれることはあるまい。天国は常に剣影裡に在る。東西両強国の生命を賭しての戦が、恐らく従来も然りし如く、新世界出現のために避け難き運命である。
 この論理は、果然米国の日本に対する挑戦として現れた。亜細亜に於ける唯一の強国は日本であり、欧羅巴を代表する最強国は米国である。この両国は故意か偶然か、一は太陽を以て、他は衆星を以て、それぞれ其の国の象微として居るが故に、其の対立は宛も白昼と暗夜との対立を意味するが如く見える。

 この両国は、ギリシァとペルシァ、ローマとカルタゴが戦はねばならなかつた如く、相戦はねばならぬ運命に在る。日本よ! 1年の後か、10年の後か、又は30年の後か、そは唯だ天のみ知る。いつ何時、天は汝を喚んで戦を命ずるかも知れぬ。
 寸時も油断なく用意せよ。建国三千年、日本は唯だ外国より一切の文明を摂取したるのみにて、未だ曽て世界史に積極的に貢献する所なかつた。此の長き準備は、実に今日のためではなかつたか。来るべき日米戦争に於ける日本の勝利によつて暗黒の夜は去り、天つ日輝く世界が明け初めねばならぬ』


 私の此の立言は、16年後の今日、まさしく事実となつて現はれたのであります。私は日米戦争の真箇の意味に就て、16年以前と毛頭変らぬ考へを有つて居ります。此の戦争は固より政府の宣言する如く、直接に支那事変完遂のために戦はれるものに相違ありませぬ。
 而も支那事変の完遂は東亜新秩序実現のため、即ち亜細亜復興のためであります。亜細亜復興は、世界新秩序実現のため、即ち入類の一層高き生活の実現のためであります。

 世界史は、此の日米戦争なくしては、而して日米戦争に於ける日本の勝利なくしては、決して新しき段階を上り得ないのであります。然らば、日本とアメリカ合衆国とは、如何にして相戦ふに至つたか。太陽と星とは同時に輝くことが出来ないのでありますが、如何にして星は沈み太陽は昇る運命になつて来たか。其の経緯を探ることが取りも直さず私の講演の目的であります。而して此の経緯を明かにすることは、同時に我等の敵の本質を、其の善悪両面に就て併せ知ることに役立つのであります。

 

 そもそも欧米列強の圧力が、頓に我国に加はつて来たのは、凡そ150年以前からのことであります。丁度此頃から、世界は白人の世界であるといふ自負心が昂まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られて居るといふ思想を抱き、謂はゆる文明の利器を提げて、欧米は東洋に殺到し初めたのであります。


 然るに当時の日本は、多年に亙る鎖国政策のために、一般国民は日本の外に国あるを知らず、僅に支那朝鮮の名前を知つて居るだけで、印度の如きさへも之を天竺と呼んで、恰も天空の上に在るかのやうに考へて居たほど、海外の事情に無関心であつたのであります。
 従つて文化年中にロシア人が北海道に来て乱暴を働かうとしたことは、日本に取りてはまさしく青天の霹靂であり、徳川幕雇は甚だしく狼狽したのであります。幕府は兎にも角にも有らん限りの力を尽して防備の方法を講じましたが、其の後は暫く影を見せなかつたので、文化・天保年中になりますと、却つて其の反動が起こり海防のために力を注いだ松平楽翁公などを、臆病者と笑ふやうな始末でありました。
 騒ぐ時には血眼になつて騒ぐが止めれば丸で忘れ果てて、外国船などは来ないもののやうに思ふ、これは今も昔も変らぬ日本人の性分であります。


 左様な次第で其の後の数十年間といふものは、日本は或時は過度に外国の侵略を恐れ、或時は全く国難を忘れ乍ら、其日其日を過ごして来たのであります。然るに嘉永初年の頃から、長碕のオランダ人が荐りに徳川幕府に向つて、イギリス人・アメリカ入・ロシア人などが、日本に開港を迫つて来るから要慎しなさいと注進して来たのであります。

 此の注進によつて幕府当路の人々や、一部のオランダ学者には、形勢が次第に切追して来たことが知られて居りましたが、其の頃の政治と申せば、総じて何事も人民には知らせず、唯だ由らしめるといふ方針であり、また仮令知らしめようと思つたところで、通信機関の不備な時代でありましたから、国民は無論のこと役人の大部分さへ世界の形勢に就て無知識であつたのであります。

 尤も暮府は、若し外国船が近海に現はれた場合は 『二念なく打払へ』 といふ命令を下しては居ました..併し幾ら『打払へ』とは言はれても門遠方に弾の届く大砲もなく、鎖国以来巨船建造を禁ぜられて、一隻の千石舶さへもない状態であつたのであります。


 日本の国内が斯様な状態に在りました時、予てからオランダ人が注進して居た通り、日本に向つて開国を要求する外国軍艦が、堂々と名乗を挙げて江戸に間近き浦賀湾に乗込み、通商開港の条約締結を求めて来たのであります。それは言ふまでもなくペルリに率ゐられたアメリカ艦隊で、時は嘉永6年陰暦6月3日、暑い盛りの真夏のことで、今から算へて98年以前、西暦1893年に当ります。

 先程申上げた通り、比時より50年以前から、外国船が廔々(しばしば)日本近海に出没しましたけれど、其の立寄つたのは皆な江戸から申せば辺鄙の地であります。従つて若干の先覚者は夙に●(注、一字不明)勃たる憂国の心を抱いて居りましたけれど、国民一般は風する馬牛であつたのであります。然るに此の度のアメリカ艦隊に至つては其の碇を泊せるところは日本国の玄関であり、其の求むるところは条約の締結でありますから、ロシアの軍艦が蝦夷の片隅に立寄つたのとは、其の人心に与へた影響は到底同日の談でなかつたのであります。


 浦賀奉行は、ペルリ来朝の趣旨が、アメリカの国書を奉呈し、通商和親を求めるに在るといふことを聴き、日本の国法を説明して、浦賀では国書を受取り兼ねるから、直ちに長崎に回航するやうに申しましたが、ペルリは頑として耳を藉さず、武力に訴へても目的を遂げねば止まぬ意気込を示しました。其の上アメリカの水兵は、勝手に浦賀湾内を測量し始めたので、日本の法律は左様なことを許さぬと抗議しましたが、ペルリは自分はアメリカの国法に従ふだけで、日本の国法など一向に存じ申さぬと空嘯く始末であつたのであります。


 浦賀奉行の急報に接した江戸幕府の周章狼狽は、まことに目も当てられぬ次第でありました。飽迄も国法を守らうとすれば、忽ち戦争の火蓋が切られて、江戸湾は封鎖される。さすれば鉄道も荷馬車もない其の頃の日本で江戸に物資を運ぶたつた一つの路であつた海上交通が断たれてしまふ。江戸10万の市民は日ならずして飢に迫る。

 さすれば既に動揺しかけて居た徳川幕府の礎は愈々危険になつて来る。仮に幕府は何うなつても宜いとしても、何等防戦の準備なくしてアメリカと戦端を開くことは、日本の興廃に関する一大事となることを痛感したので、幕府は遂に久里浜に仮館を建て、6月9日此処でペルリからアメリカの国書を受取り、返事は明年といふことにして、一旦浦賀を引上げさせたのであります。 


 恐らく幕府の役人のうちには、アメリカと申せば波濤万里の彼方である、往復には先づ2、3年もかかるであらう、其の内に何とか妙策もあるだらうと考へた者もあつたでありませうが、ベルリは決して浦賀を去つたのではなく支那の上海に行つただけでありましたから、約束通り翌嘉永7(1853)年正月匇々、またもや浦賀に来り、而も此度は進んで神奈川湾に投錨し、幕府に向つて厳重に確答を求めたので、止むなく幕府は横浜でベルリと談判を行ひ、遂に日本は長崎の外に下田・函館の2港を開く約束をしたのであります。

 僅に100年以前のことでありますが、当時の日本と今日の日本とを比べて見ますと、実に感慨無量であります。嘉永6(1852)年6月9日、愈々ペルリが久里浜に上陸するといふので、アメリカ軍艦は砲門を開いて祝砲を放ちました。その殷々轟々たる響に驚いて、久里浜の漁民はすは戦争だと仰天し、夜具包や仏壇などを背負ひ出して、山手の方に逃げまどつて居ります。

 ベルリ一行に腰掛けさせる椅子が無いのに困り、いろいろ智慧を絞つた揚句に考へついたのが、葬式の時に坊さんが使ふ曲録であります。それが宜からうといふので、村役人・町役人に命じて寺々から曲録を借り集めて見たものの、孰れも古色蒼然たるものばかりで、漆が剥げて居たり脚が折れたりして居ます。

 そこで大急ぎで朱塗の剥げたのには紅殻を塗り、黒塗の剥げたのには墨を塗り、毀れたところは釘で打ちつけなどして漸く10脚だけ調へましたが、其の中で一番綺麗なのが野比村の最宝寺の朱塗の曲録でありましたので、浦賀奉行が之に腰掛けることにしました。それよりも情なかつたのはペルリ艦隊が浦賀碇泊中の日本側の警備であります。幕府は4人の大名に此の警備を命じたのでありますが、其の方法は各大名が漁師から借り集めた漁船を以て、アメリカ軍艦を取囲み、謂はゆる八陣の備を取つて居るのであります。

 八陣の備と申すのは、三方から軍艦を取巻き、陣鐘・陣太鼓を鳴らし、法螺貝を高らかに吹立て、丁度鶏が羽を緊めるやうに、軍艦を羽がひじめにするのであります。其等の船には皆々沢山の旗や差物を立てて居るのでありますが、風が強く吹き初めると旗や幟がはためいて、船の動揺が激しくなるので、急ぎ之を旗竿に巻付け、船舷に横什しにして縛り付けねばなりませぬ。其の上艦長は各藩の家老が之を勤めましたが、波が荒くなると肝心の艦長が忽ち船に酔ひ、坤りながら号令をかけるので何を言ふのやら聴き取れぬ始末であります。

 而してアメリカ人は軍艦の上から此の有様を望遠鏡で眺めて居たのであります。此の警備はペルリからの抗議で解くことにしましたが実際は何の役にも立たなかつたのであります。
  此の時の警備の実状を目撃した一人が斯様に申しで居ります― 『彼の際に仮令一片の風なく、十分に八陣の備を完うしたるにもせよ、いざ、戦争といふ場合に於ては、先方に於て仰々しく砲門を開き発砲するに及ばず、ただ軍艦を以て、取巻きつつある100石積の運送船又は漁船の間を縦横に操縦し暴れ廻るに於ては、恰も玩弄物の天神様を摺鉢の中に入れ之を摺るが如く、一瞬にして粉砕微塵となるや必せり。然るにペルリは十分に此の状態を知りつつ、心を和らげ温心以て応接を遂げしは、実に寛仁大度の器量あるものと云ふ可し』


 さてアメリガが如何なる径路を経て、日本に艦隊を派遣するに至つたかを述べる前に、先づペルリの人と為りに就いて申上げて置かねばなりませぬ。ペルリは1858年に使命を果たして帰国してから、直ちに詳細なる報告を政府に提出して居ります。此の報告は後に印刷に附せられ 『18523・1853・1854年に行はれたる支那海及び日本へのアメリカ艦隊遠征顛末』 といふ長い表題の本となつて居りますが、実に四六倍版600頁の大冊で、遠征中に是だけのものを書き上げるだけでも並々の仕事でありませぬ。
 而して報告中に現れたる彼の知識、彼の識見、注意の周到などによつて判断すれば、疑ひもなく彼は当時アメリカ第一等の人物であります。

 仔細に此の報告を読みますれば、我々は当時のアメリカの是非善悪を最も良く掴み得るやうに思はれます。ペルリは1852年11月24日ノーフォークを出発し、大西洋を横断して12月11日、即ち18日目にマメィラ島に達し、
 茲で越年して1853年1月10日セント・ヘレナ島に寄港、1月24日ケープ・タウンに到着し、2月3日に此処を出帆して18日に印度洋上のモーリシャス島に着いて10日間滞在、
 次で3月10日にセーロン島、3月25日にシンガポール、4月7日に香港、5月8日に上海、5月26日那覇に着き、
 それから浦賀に参つたので、出帆してから約八箇月を費して居ります。
 これが当時アメリカから東洋に参る普通の順路であつたのであります。


 ペルリは此の航海の途上に於て、欧羅巴諸国の数々の植民地に寄港したのでありますが、丹念に其の植民政策を研究し、其の非入道的なる点を指摘して、手酷き攻撃を加へて居ります。わけても著しく目につくことは、イギリスに対する激しき反感であります。
 セント・ヘレナに寄港中は、ナポレオンが幽囚されて居た見すぼらしき家を訪ね、仮令敵とは言へ、古今の英雄にかくの如き待遇をするとは何事ぞと義憤を洩らして居ります。

 当時イギリスは、ナポレオンが5年間も起臥して居た家を、家賃を取つて 「人の百姓に貸し、其の百姓はナポレオンの使用して居た部屋の一つを厩にして居たのであります。またイギリス植民地統治の残酷に対しても忌渾なく弾劾を加へて居ります。
 是を今日の英米関係に対比して見ますると、誠に今昔の感に堪へないのでありますが、当時はアメリカがフランスの助力によつて独立してから6、70年、イギリスと戦つてから3、40年経つたばかりで、今日とは事変り、アメリカは大なる敵意と反感とをイギリスに対して抱いて居たのであります。

 但し彼は外国殊にイギリスの侵略主義を非難すると同時に、正直に自国の非をも認め、我々もメキシコ其の他に対して道徳に背くやうなことをやつたが、之は国家の必要上止むを得ぬことであつたと申して居ります。彼は其のメキシコ戦争に於ても、艦隊司令官として戦つたのであります。


 ペルリは日本に参る前に、実に丹念に日本及び支那の事情を研究して居りました。彼は日本人が高尚な国民であること、之に対するには飽迄も礼儀を守り、対等の国民として交渉せねばならぬことを知つて居たのであります。
 即ち日本に対しては、オランダの如き卑屈な態度を取ってはならねし、またイギリスやロシアの如き乱暴な態度を取つてもならぬ。何処までも礼儀を尽して交渉し止むを得ぬ場合にのみ武力を行使するといふ覚悟で参つたのであります。
 但し日本を相手に戦争を開く意図はなく、従つて果して開港の目的を遂げ得るや否やを疑問として居ります。此の事は1852年12月14日附でマディラ島から海軍長官に宛てた手紙の中に明記して居ります。但し其の場合は、日本の南方に横たはる島、即ち小笠原島か琉球を占領すべしと建策して居ります。


 斯様な次第でペルリは中々立派な人物であり、かかる人物が艦隊司令官として日本に参つたことは、日米両国のために幸福であつたと申さねばなりませぬ。其の上アメリカ合衆国も当時は決して今日の如き堕落した国家ではなかつたのであります。アメリカ建国の理想は尚ほ未だ地を払はず、ワシントンの精神が国民の指導階級を支配して居た時であります。

 若し今日の米国大統領ルーズベルト及び海軍長官ノックスがペルリの如き魂を有つて居るならば、若し彼等が道理と精神とを尚ぶことを知つて居るならば、若しアメリカが唯だ黄金と物質とを尚ぶ国に堕落して居なかつたならば、日本に対して此度の如き暴慢無礼の態度に出で、遂に却つて自ら墓穴を掘る如き愚を敢てしなかつたらうと存じます。

   〔続く〕 
    大川周明 「米英東亜侵略史」(第二日) 捕鯨と日本の開国要求、フィリピンの占領


大川周明「日米問題、排日移民法を論ず」(大正13年6月) 

2018-09-11 16:17:38 | 大川周明

      大川周明

日米問題、排日移民法
  

 吾等は数年以前公にしたる「日本文明史」の中で、米国は第ニ維新の激成者として天から選ばれてるのかも新れぬと述べて置いた。また今年元日一号の「日本及日本人」に発表せる一篇の中に、東西戦の避け難き所以を説きて、亜欧の両最強国がそれみ、東西の代表者として戦はわばならぬ運命にあることを力説した。いま日米問題に吾等の自信は益々堅固となるだけである。

 

 今の日米問題は、加何なる意味に於ても事件其ものは『問題』でない。何故ならば、荀くも問題と言はれる以上、何等か研究討議の余地なければならぬ。研究討議の余地あるのは、事の是非善悪に就て疑惑の余地あるからである。然るに此度の日本人排斥法案は、その無理非道なる、青天に白日を見るが如く明々白々にして、些の疑惑を容るべき処がない。米国は決して是認すべくもなき人種的偏見に迷ひ、日本人の前に国を鎖ざそうとするだけである。

 

 かくの如く、事件其ものは問題でないけれど、日本が米国に対して如何なる態度を採る可きかと云ふことは、極めて重大なる問題である。米国が日本に対して加へたる無礼、日本の額に『汝等は劣等民族なり』と標し付けたる烙印、これを日本は如何にすべきか。遠慮会釈もなく蹈み付けられた体面を何うすればよいのか。なすり付けられたる顔の泥を何うすればよいのか。

 ペリー提督が初めて吾国に開国を求めたりし時、彼が二流の白旗を添えて幕府に送った書翰があるーー『先年以来各国より通商の有之候所、国法を以て違背に及ぶ、もとより天理にそむくの至大なり、然らば蘭船より申達通り、諸方の通商是非に希ふに非す、不承知に候はゞ、千戈を以て天理に背くの罪を糺し候に付、其方も国法を立て防戦いたすべし、左候はヾ防戦の時に臨み、必勝は吾等の前に有之、其方敵対成兼可申、若其節に至り和睦を乞度くば、此度贈り置候所の白旗を押立っ可し、然らば此方の砲を止め、艦を退て和睦いたす可し。」 

 実に驚く可き申分である。面して今ま吾等の前に其国を閉ぢんとするのは、天理に背くが故に暴力を以てしても開国させてやると言った此のペリー提督の孫裔でないか。ペリーに溯るまでもない、正義人道の選手としてウイルソンを世界に押出した現代北米人でないか。吾等は此の驚く可き侮辱を忍従してよいのか。

 

 併し乍ら日本人よ、汝等を劣等者として排斥するのは米国のみでない事を明かに知って置け。1913年加州で初めて日本人土地所有禁止法案を議決したるに対し、日本の朝野一斉に反対の声を挙げた時、カーネギーが実に手痛き一言を以て吾等に立向った――『日本の同盟国たる英国は其の3大植民地に於て、日本移民に土地所有を禁するは勿論、其他一切の方法を以て排斥して思るに対し、日本人は聊かも抗議を申込んだことが無い。然るにその同国と同じことを加州がやったのに対して、俄に抗議を申込むのは了解し難い』と。
 まさしく此翁の言ふ通りである。英吉利も亦、米国より以前に絶対に其の領土を正当なる労働によって生きんとする日本人の前に厳鎖して居るのだ。

 国際主義だ、人道主義だと言って、火箸より細いステッキを振って歩るく心身ともに洋装を凝らせる新思想家諸子よ。諸君が如何にポケットに忍ばせたる紙白粉で面を撫でまわし、天晴れ文化人となった積りで居ても、足一歩アングロサキソンの上を踏めば、諸君も台湾の生蕃、回弗利加(アフリカ)のホッテントット、ポルネオのダイヤク人と一列一斉に、有色人と云ふ部類に入れられて、或いは電車の屋根裏に乗せられ、成は旅館料亭で断られ、寄席劇場で席を区別されて居るのだ。

 諸君のオール・バックと、セルロイド眼鏡と、仕立下ろしの洋服とは日本でこそ耳隠し女の秋波を、せしめるに足るけれど、太平洋を西へでも東へでも南へでもって、アングロサキソン領上に行けば、たゝ、嘲笑侮蔑の的となるだけであるとして見れば、諸君の自尊心を傷けずには居らめであろう。

 此の排日は、経済問題や、労働問題や、政略や、本国と植民地との関係や、他いろいろの事情が錯綜して居ることではあるが、其の根本の原因が、人種偏見に存すると云ふ事実は、吾等をして痛心に堪えざらしめるものである。

 其他の因縁は仮令複雑を極めても、相談のしゃうによっては埒明かぬこともないが、此の人種的偏見だけは不幸にして尋常一様の手段では取除かれない。

 殷繿遠からず之を吾国の特殊民に見よ。
 彼等と吾等と元来何の相異る所あるか。たゞ無智の民衆の心に、彼等は何となく汚らはしいと云ふ観念が何時とはなく植付けられたばかりに、如何に惨ましい境遇に押込められて来たか。又は之を猶太民族に見よ。ただ基督教徒でないと云ふことが根本になって、厭ふべさ民と云ふ感情が西欧人の心に刻み付けられた為に、世界の悪は悉く彼等の罪に帰せられ、難波大助さへ彼等の手先なるかに説きまわる日本の軍人さへあるでないか。

 アングロサキソン人が、吾等日本人を『好ましからぬ人民』として、せっせとの民衆の心に、更にまた其の少年の心に吾等を厭ひ、吾等を卑しみ、吾等を侮る感情思想を植付けて居るのを見て、吾等は黙示することが出来るか。若し此に放置するならば、日本人は遠からずして世界の特殊民、第二の猶太人となり果て、跼蹐として広い天地を狭くせねばならなくなるだけだ。左様な不面目は断じて吾等の忍び得る所でない。

 日米問題の解決は、単に米国に対してのみならず、世界に於ける日本の立場を極めるための解決である。吾等は非常の覚悟を以て此の問題を処理せねばならぬ。吾等の友なる一仏人は、曾て吾国に告げて言ふに――『白人は唯だ其の恐るゝもののみを敬する』と。然り、吾国は多年の娼婦外交を止めねばならめ。穏健着実などと、勝手な美名を附して娼婦外交でやって来た結果が今見る通りでないか。外交は手練手管だと云ふやうな妄想はもう止めて欲しい。

              (『東洋』第二十七年六月号、大正十三年六月)   


大川周明『復興亜細亜の諸問題』  西蔵問題の意義 英露の角駆  

2018-09-10 08:42:33 | 大川周明

大川周明 『復興亜細亜の諸問題』  


四 西蔵問題の意義
 西蔵は清朝の初、支那の版図に帰したるもの。宗主国としての実権が、如何な程度まで行はれていたかは別間題として、兎にも角にも、名義の上に於て明白に支那の外藩である。
 然るに英露両国国が、全く支那を無視して、肄まゝに対蔵政策を行ひ、西蔵に関して条約を締結したることに、清国に取りて決して快いことで無い。此等の事情に、支那をして心を西蔵問題に注がしめ、先づ趙璽豊を駐蔵大巨に任じ、屯田制を実行し、新軍を教練せしめ、之を以て完全な支那の一省たらしむべく努め初めた。

 然るに先のヤングハズバンド侵入に際し青海に亡げたる達頼喇嘛は、青海よう蒙古に至リ、蒙古より北京に至り、1908年冬、北京よら再びラサに帰ったが、清国の政策を喜ばず、容かに談叛を企謀した。

 趙璽豊は四川総督に改任にせられ、聯予代って駐蔵大臣となって居たが、達頼喇嘛物の野心を北京政府に打電したの、清国政府は趙爾豊に命じて西蔵に入征せしめた。

 達頼喇嘛は、四川軍ラサに到ると聴き、1909年1月、ダージリンに奔ったので、清国政府は達頼喇嘛の名を褫奪し、班禅喇嘛をして教物を代理せしむることゝとした。

 

 宛も此の時に到り、武漢に倒満興漢の挙兵あり、300年の清朝、忽ちにして倒れ、茲に中華民国の出現を見た。この革命の混沌に乗じ、予てより清朝に隷属するを快しとせざりし外蒙古は、露国の後の下に独立を宣言し、西蔵も亦之に次で独立運動を起し、支那遠征軍と戦って、屢々之を破った。

 初め達頼喇嘛のラサよりダージリンに奔るや、印度政府は、之をカル方ッタに招じ、歓待至らぎる無かった。今や達頼喇嘛は、故国の風雲動けるを見て、英人援助の下に兵を募り、銃器弾薬を携へて印度を発し、西蔵独立軍に迎へられて、堂々ラサに入り蒙古と同じく独立を宣言した。

 中華民国臨時大総統袁世凱は、1912年4月、西蔵を以て支那を22行省と一般なることを布告し、断じて西蔵の独立を許さずと宣言し、征西軍を派遣した。

 英国は、西蔵に対する支の武断政策が、自国に取りて不利を来すべ記を知り、革命後の混沌に乗じて西蔵問題を解決すべく、比年8月、駐支公使ジョルダンをして、下の如き不法なる提議をなさしめた。

一、英国は支那覇の、西蔵内政に干渉するを許さず。
二、英国は支那官吏が西蔵に於て行政権を行使すること、並びに西蔵を一省として取扱ふ事に反対する。  
三、英国は支那が其の軍隊を西蔵に駐屯せしむることを欲せず。  
四、若し支那にして叙上の提議を承認せずば、中華民国を承認せず。 

 而して支那は、之に対して何等答ふる所無かったが、再三ジョルダンの督促を受くるに及び、此の年12月23日附の通牒を以て明白に此の提議を拒絶した。

 1907年の英露協約によれば、英露両国は、孰れも単独にて支覇と西蔵問題の解決に従ひ得ざる事情となつて居るたに拘らず、革命成り、英国は外蒙に於ける露国の自由行動を承認する代わりに、露国も亦、英吉利の西蔵問題単独解決を黙認することとなり、
 1913年1月、露国は外蒙古の活仏を、英国は西蔵の達頼喇嘛を慫慂し、双方の代表者を庫倫に会し、秘密会議を開きて蒙蔵協約を議せしめ、此月11日、九箇条より成る協約成立し、其の調印を見るに到った。

 その要領は、蒙蔵両国は、互いに独立を承認し、提携して喇嘛教の弘布に尽力し、且通商関係を開始すべしと云府に到った。

 是の如き形勢は、支那をして狼狽せしめ且不安を感ぜしめた。

 かくて支那政府は、英国公使に対し 『昨年12月23日附支那政府の回答に対する英国政府の意思を、至急支那政府にに通告し、支那政府をして、西蔵問題を塾考し速に円満なる解決をみるを得せしめんことを希望する』 と述べ、
 間接に英支蔵会議の開催を促し、尋で5月支那政府自ら進んで英国公使に対し、西蔵問題解決のため、倫敦に於て英支蔵会議を開かんことを提議した。
 英国公使は同月16日、支那の提議に対し、西蔵人の意向き斟酌して、印度国境ダージリンに開かんことを要求し、支那政府は之れに同意した。

 

 然るに宛も第2革命の勃発するありて、為に会第を延期し、10月13日、漸く第1回会議を印度シムラに開き、次いで会議地を印度成長所在地デリーに移したが、両者の意見に甚だしき懸隔ありて、交渉更に進捗せず1914年7月6日に到り、突如として交渉不調に終わり、角代表者は遂に袂を別ちて去るに到った。

 

 此事ありて一箇月、端なく世界戦の勃発を見、英国は死活の戦ひに没頭することとなり、西蔵問題は未解決のまゝ放置されて居た。
 既にして世界戦は終局を告げ、万視聴悉く巴里平和会議に向かって注がれ、また他を顧みる遧なかりし時、大英帝国は独り綽々たる余裕を示し、1919年5月21日、ジョルダン公使をして、突如支那政府に向って、西蔵問題の解決を提議せしめた。而して英国の西蔵に関して支那に要求する所は、実に左の二大要項である。

一、西蔵に完全なる自治を与へ、英支両国は、単に若干の護衛兵を有する辧理長官を派遣すること。

二、西蔵の領土は、青海を保護領とし、甘粛省の西寧・粛州地方約1600平方里、新疆省の和蘭地万約800平方里、打箭炉・巴搪・裏搪を含む四川省の辺境約1000平方里を支那より割き、以て西蔵領土の境界とすること。 

 若し此の要求に従へば、支那は啻に西蔵に対する宗主権を喪失するのみならず、新疆に於て大戈壁の南境一帯、甘粛に挨まる凸第一帯、四川に於て蔵・第・川の三角境線より、北方泯山々脈に至る辺境を割取せられ、ま蒙古を除ける支那外蕃の半ばを喪はねはならぬ。 

 加ふるに其の含まれたる境域は、番く支那本部と辺境各地との交通の衝路に当り、支那本土保全の上に、極めて重大なる意義を有するものである。

  徐総統は、英国の提議に対し、断じて是の如き要求を承認する能はずとなし、或いは西蔵内部の状況調査に名を藉り、或は支那の内外多事を口実として、開議の遷延を図った。

 而して支那政府は、西蔵問題の解決に就て、『西蔵の自治を承認するも、其の領土は青海を含まず、現在支那兵の駐屯せる地方を除き、新疆・青海・西蔵の三境界点より南垂し、英領印度凸点に室る線を以て、其の国境とすべし』と云ふ譲歩的対案を有して居るが、而もも之以てしてさへ、英国の要求との間に、尚甚だしき懸隔がある。

 西蔵問題に於て、支那の最も憂慮とすべきは、啻に之によって大なる領域を失ふのみならず、実に将来西蔵を根拠とする英国第力の東漸に在る。

 支那本土に於ける英国の勢力は、既に援子江域に横溢して居る。
西蔵より支那本土に通ずる四川の辺境打箭炉を経て、揚子江を西に遡る英国勢力と、西蔵より東に下る英国勢力とは、茲に支那南北の間に合流介在して、一大割線を描くべく、而して是くの如くんば支那の前途、また知る可きのみと言はねばならぬ。


 而も支那の途は、直ちに日本の前途である。
此年の帝国議会に於て、時の首相原敬が、此の問題に関する一代議士の質問に対し、『予は西蔵問題の定義が事実となるや否やを確知でぬ。仮令事実とするも、吾国とは関係なき問題である』 と応へたる驚くべき言葉は、予の今日に至るまで忘れざる所である。


 先年英国が支那革命の混乱に乗じ、初めて西蔵問題を提議せるられた時、上海民立報は、『狡英は暴露よりも甚だし』と憤慨し、国民の覚醒を促した。
 然るに更に此の問題が提出せられたる当時、支那の人心は唯だ山東回権に熱中し、幾層倍も重大なる意義を有する西蔵問題にに対し、挙国殆ど痛痒を感ぜぬ如きものがあつた。 

 而も日を経るに従ひ、支那の志ある者、漸く問題の重大に気付き、一方親米熱の昂騰に比例して、繁栄の気次第に濃くならんとした。英国は支那を駆りて、その最も恐るべき敵米国に走らしむルの不利を知り、屢々西蔵問題の解決を要求しつゝも、脅迫威嚇の態度を以て支那に臨むことを避けた。
 而して支那は常に言を左右にして問題の解決を避け、年を経る今日に及んで未だ決着を見るに至らない。


五 
戦後亜細亜と英国 
 世界戦前に於て、英国の中失亜細亜に対する態度は、根本に於て消極的であった。その政策は、既に述べたる如く、如何にして印度を外患より保全するかに在った。 


 英国は、阻界の満腹国として、唯だ其の有てるものを失はざらんと努めて来たのだ。而も 『慾に際限がない』のは、昔も今も変りなき事実である。世界戦終結当時に於ける英吉利は、少くも外観たけでは、その亜細亜・亜弗利加に於ける地位が、比類なく安固となれる如く思はれた。

 かくて有てるが上に有たんとする心抑え難く、中亜に於ける其の政策は、俄然として侵略的・掠奪的・積極的となって来た。
西蔵に関して支那に要求せる提議も、亦其の一例に外ならぬ(註一)。
 海上の女王を以て 甘んじたり英吉利は、更に陸上の君主たらんとし、セシル・ローヅの阿弗利加の夢、カーゾン卿の亜細亜の夢、此の二つの偉大なる夢が、将に実現せらるべく見えた。


 印度百年の宿敵露西亜は、世界戦によって、土崩瓦壊した。新興強大の第ニの敵独逸は、悲惨を極むる敗亡者となった。 『ベルリン・バグダッド』、さては『ハムプルヒ・ヘラート』 と云ふやうな野心も、返らぬ夢となり果てたた。
 英吉利は、印度に就て心を安んじた。
 仮令内憂はあるにしても、少くも印度の外患だけは取除かれたと思った。  

 然るに時日の経過は、英国の表面の成功の裡に、恐るべき破綻潜み、英国の荘厳に見ゆる計画が、甚だしき誤算の上に立てられたことを、次第に明白ならしめた。


 第一に、革命西亜が、旧露よりも恐るべき印度の 『外患』 として現はれた。そは、東洋諸民族の解放を標榜し、中亜諸邦を味方として、印度を縛る英吉利の鉄鎖を寸断すべく、有らゆる画策を講じ初めた。
かくて英国の安心は束の間だけとなり、形勢は再び中亜を挟んで英露対時となった。

 第二には、間接又は直接英国支配の下に在りし、亜細亜諸民族が、猛然として自由独立の精神を作興して来た。
 グラッドストン以来の 『厳粛』 なる声明を無視して保護国とせる埃及も、その激烈なる国民運動によって、
 また独立を承認するの止むなきに至り、埃及にける英国の地位は、戦前よりも却って安定を欠くに至った。
 戦中に一旦地歩を占めたるメソボタミアも、土民の不断の反抗の為に、其の得たる大部分を放棄せねばならなくなった。

 波斯を保護領とせる1919年の新英波条約も、覚醒せる波斯国民の奮起によって、遂に一片の白紙となり、徒らに波斯人の排英精神を烈しくするに終った。


 戦前には、外国との交渉は総て英国を経べかりし亜富汗斯坦も、今や全然其の独立自由を承第せねばならなくなった。而して英吉利の最後の宝玉印度は、国を挙げて大規模の反英運動を開始し、真個空前の 『内憂』 を醸しつゝある。
 かくの如く観来る時、吾等は大英植民帝国の現状並に其の将来の運命に対し寧ろ凄惨の気に打たる々ものである。
 世界戦は、疑ふべくもなく英国をして発展の頂に登らしめた。
 巴里平和会に於て、ロイド・ジョージが、愚なる政治学者ウイルソンを弄しつゝありし時が、恐らく其の絶巓に立てる時であった。

 而も向上の尽くる処は向下の初まる処、向下の窮まるは向上の初まる処。此時よりして英国は嶮なる急坂を下り、此時よりして亜細亜は向上の路を登り初めたのだ。
 かくて中央亜細亜問題、乃至全亜細亜問題が、明白に其のを意義を一変して、先には何に欧羅巴が亜細亜を分取するかの間題たりしもの、今や亜細亜復興の努力を意味するに至った。


 多年未解決の儘に残りし西蔵問題も、やがて真個の 『解決』を与へられるであらう。曽て米国の名高き記者ギポンス、その西蔵に関する一論文を結ぶに下の一句を以てした。日く 『若し支那共和国が、新世紀の精神を体得せる一個強大なる組織をその内訌の間から生み出すならば、西蔵は印度を護る盾とはならずに、全亜紅亜運動に於ける、日支印三国の接点となるかも知れぬ』 と(註二)。
 吾等は、ギボンスをして、其の先見の明を誇らしむるの日が、速かに来らんことを待つ。

 

(駐一)  仏第西の一新聞は、戦後に於ける英国の東方政策を非難して、下の如く言った。
 日く 『英国は、勢力をメソポタミア張り、アラビアにヒジャズ王国を製造して、危険なる全アラビア主義の野心を煽り、パレスチナを掌裡に収めんとし、而して1916年の協約によって仏国に約束せるシリアをさへも奪はんとする』 と (1919年3月13日ラ・リベルテ)。

 

(註二)  H・A.Gibbons: New map of Asia、P.37


大川周明『復興亜細亜の諸問題』  西蔵問題の意義 英露の角駆  

2018-09-10 08:23:52 | 大川周明

四 西蔵問題の意義
 西蔵は清朝の初、支那の版図に帰したるもの。宗主国としての実権が、如何な程度まで行はれていたかは別間題として、兎にも角にも、名義の上に於て明白に支那の外藩である。
 然るに英露両国国が、全く支那を無視して、肄まゝに対蔵政策を行ひ、西蔵に関して条約を締結したることに、清国に取りて決して快いことで無い。此等の事情に、支那をして心を西蔵問題に注がしめ、先づ趙璽豊を駐蔵大巨に任じ、屯田制を実行し、新軍を教練せしめ、之を以て完全な支那の一省たらしむべく努め初めた。
 然るに先のヤングハズバンド侵入に際し青海に亡げたる達頼喇嘛は、青海よう蒙古に至リ、蒙古より北京に至り、1908年冬、北京よら再びラサに帰ったが、清国の政策を喜ばず、容かに談叛を企謀した。

 趙璽豊は四川総督に改任にせられ、聯予代って駐蔵大臣となって居たが、達頼喇嘛物の野心を北京政府に打電したの、清国政府は趙爾豊に命じて西蔵に入征せしめた。

 達頼喇嘛は、四川軍ラサに到ると聴き、1909年1月、ダージリンに奔ったので、清国政府は達頼喇嘛の名を褫奪し、班禅喇嘛をして教物を代理せしむることゝとした。

 

 宛も此の時に到り、武漢に倒満興漢の挙兵あり、300年の清朝、忽ちにして倒れ、茲に中華民国の出現を見た。この革命の混沌に乗じ、予てより清朝に隷属するを快しとせざりし外蒙古は、露国の後の下に独立を宣言し、西蔵も亦之に次で独立運動を起し、支那遠征軍と戦って、屢々之を破った。

 初め達頼喇嘛のラサよりダージリンに奔るや、印度政府は、之をカル方ッタに招じ、歓待至らぎる無かった。今や達頼喇嘛は、故国の風雲動けるを見て、英人援助の下に兵を募り、銃器弾薬を携へて印度を発し、西蔵独立軍に迎へられて、堂々ラサに入り蒙古と同じく独立を宣言した。

 中華民国臨時大総統袁世凱は、1912年4月、西蔵を以て支那を22行省と一般なることを布告し、断じて西蔵の独立を許さずと宣言し、征西軍を派遣した。
 英国は、西蔵に対する支の武断政策が、自国に取りて不利を来すべ記を知り、革命後の混沌に乗じて西蔵問題を解決すべく、比年8月、駐支公使ジョルダンをして、下の如き不法なる提議をなさしめた。

一、英国は支那覇の、西蔵内政に干渉するを許さず。
二、英国は支那官吏が西蔵に於て行政権を行使すること、並びに西蔵を一省として取扱ふ事に反対する。  
三、英国は支那が其の軍隊を西蔵に駐屯せしむることを欲せず。  
四、若し支那にして叙上の提議を承認せずば、中華民国を承認せず。 

 而して支那は、之に対して何等答ふる所無かったが、再三ジョルダンの督促を受くるに及び、此の年12月23日附の通牒を以て明白に此の提議を拒絶した。

 1907年の英露協約によれば、英露両国は、孰れも単独にて支覇と西蔵問題の解決に従ひ得ざる事情となつて居るたに拘らず、革命成り、英国は外蒙に於ける露国の自由行動を承認する代わりに、露国も亦、英吉利の西蔵問題単独解決を黙認することとなり、1913年1月、露国は外蒙古の活仏を、英国は西蔵の達頼喇嘛を慫慂し、双方の代表者を庫倫に会し、秘密会議を開きて蒙蔵協約を議せしめ、此月11日、九箇条より成る協約成立し、其の調印を見るに到った。
 その要領は、蒙蔵両国は、互いに独立を承認し、提携して喇嘛教の弘布に尽力し、且通商関係を開始すべしと云府に到った。

 是の如き形勢は、支那をして狼狽せしめ且不安を感ぜしめた。かくて支那政府は、英国公使に対し『昨年12月23日附支那政府の回答に対する英国政府の意思を、至急支那政府にに通告し、支那政府をして、西蔵問題を塾考し速に円満なる解決をみるを得せしめんことを希望する』と述べ、
 間接に英支蔵会議の開催を促し、尋で5月支那政府自ら進んで英国公使に対し、西蔵問題解決のため、倫敦に於て英支蔵会議を開かんことを提議した。英国公使は同月16日、支那の提議に対し、西蔵人の意向き斟酌して、印度国境ダージリンに開かんことを要求し、支那政府は之れに同意した。

 

 然るに宛も第2革命の勃発するありて、為に会第を延期し、10月13日、漸く第1回会議を印度シムラに開き、次いで会議地を印度成長所在地デリーに移したが、両者の意見に甚だしき懸隔ありて、交渉更に進捗せず1914年7月6日に到り、突如として交渉不調に終わり、角代表者は遂に袂を別ちて去るに到った。

 

 此事ありて一箇月、端なく世界戦の勃発を見、英国は死活の戦ひに没頭することとなり、西蔵問題は未解決のまゝ放置されて居た。既にして世界戦は終局を告げ、万視聴悉く巴里平和会議に向かって注がれ、また他を顧みる遧なかりし時、大英帝国は独り綽々たる余裕を示し、1919年5月21日、ジョルダン公使をして、突如支那政府に向って、西蔵問題の解決を提議せしめた。而して英国の西蔵に関して支那に要求する所は、実に左の二大要項である。

一、西蔵に完全なる自治を与へ、英支両国は、単に若干の護衛兵を有する辧理長官を派遣すること。

二、西蔵の領土は、青海を保護領とし、甘粛省の西寧・粛州地方約1600平方里、新疆省の和蘭地万約800平方里、打箭炉・巴搪・裏搪を含む四川省の辺境約1000平方里を支那より割き、以て西蔵領土の境界とすること。 

 若し此の要求に従へば、支那は啻に西蔵に対する宗主権を喪失するのみならず、新疆に於て大戈壁の南境一帯、甘粛に挨まる凸第一帯、四川に於て蔵・第・川の三角境線より、北方泯山々脈に至る辺境を割取せられ、ま蒙古を除ける支那外蕃の半ばを喪はねはならぬ。 

 加ふるに其の含まれたる境域は、番く支那本部と辺境各地との交通の衝路に当り、支那本土保全の上に、極めて重大なる意義を有するものである。

  徐総統は、英国の提議に対し、断じて是の如き要求を承認する能はずとなし、或いは西蔵内部の状況調査に名を藉り、或は支那の内外多事を口実として、開議の遷延を図った。
 而して支那政府は、西蔵問題の解決に就て、『西蔵の自治を承認するも、其の領土は青海を含まず、現在支那兵の駐屯せる地方を除き、新疆・青海・西蔵の三境界点より南垂し、英領印度凸点に室る線を以て、其の国境とすべし』と云ふ譲歩的対案を有して居るが、而もも之以てしてさへ、英国の要求との間に、尚甚だしき懸隔がある。

 西蔵問題に於て、支那の最も憂慮とすべきは、啻に之によって大なる領域を失ふのみならず、実に将来西蔵を根拠とする英国第力の東漸に在る。

 支那本土に於ける英国の勢力は、既に援子江域に横溢して居る。西蔵より支那本土に通ずる四川の辺境打箭炉を経て、揚子江を西に遡る英国勢力と、西蔵より東に下る英国勢力とは、茲に支那南北の間に合流介在して、一大割線を描くべく、而して是くの如くんば支那の前途、また知る可きのみと言はねばならぬ。

 而も支那の途は、直ちに日本の前途である。此年の帝国議会に於て、時の首相原敬が、此の問題に関する一代議士の質問に対し、『予は西蔵問題の定義が事実となるや否やを確知でぬ。仮令事実とするも、吾国とは関係なき問題である』と応へたる驚くべき言葉は、予の今日に至るまで忘れざる所である。


 先年英国が支那革命の混乱に乗じ、初めて西蔵問題を提議せるられた時、上海民立報は、『狡英は暴露よりも甚だし』と憤慨し、国民の覚醒を促した。然るに更に此の問題が提出せられたる当時、支那の人心は唯だ山東回権に熱中し、幾層倍も重大なる意義を有する西蔵問題にに対し、挙国殆ど痛痒を感ぜぬ如きものがあつた。 

 而も日を経るに従ひ、支那の志ある者、漸く問題の重大に気付き、一方親米熱の昂騰に比例して、繁栄の気次第に濃くならんとした。英国は支那を駆りて、その最も恐るべき敵米国に走らしむルの不利を知り、屢々西蔵問題の解決を要求しつゝも、脅迫威嚇の態度を以て支那に臨むことを避けた。而して支那は常に言を左右にして問題の解決を避け、年を経る今日に及んで未だ決着を見るに至らない。


五 
戦後亜細亜と英国 
 世界戦前に於て、英国の中失亜細亜に対する態度は、根本に於て消極的であった。その政策は、既に述べたる如く、如何にして印度を外患より保全するかに在った。 


 英国は、阻界の満腹国として、唯だ其の有てるものを失はざらんと努めて来たのだ。而も『慾に際限がない』のは、昔も今も変りなき事実である。世界戦終結当時に於ける英吉利は、少くも外観たけでは、、その亜細亜・亜弗利加に於ける地位が、比類なく安固となれる如く思はれた。

 かくて有てるが上に有たんとする心抑え難く、中亜に於ける其の政策は、俄然として侵略的・掠奪的・積極的となって来た。西蔵に関して支那に要求せる提議も、亦其の一例に外ならぬ(註一)。海上の女王を以て 甘んじたり英吉利は、更に陸上の君主たらんとし、セシル・ローヅの阿弗利加の夢、カーゾン卿の亜細亜の夢、此の二つの偉大なる夢が、将に実現せらるべく見えた。


 印度百年の宿敵露西亜は、世界戦によって、土崩瓦壊した。新興強大の第ニの敵独逸は、悲惨を極むる敗亡者となった。『ベルリン・バグダッド』、さては『ハムプルヒ・ヘラート』と云ふやうな野心も、返らぬ夢となり果てたた。
 英吉利は、印度に就て心を安んじた。仮令内憂はあるにしても、少くも印度の外患だけは取除かれたと思った。  

 然るに時日の経過は、英国の表面の成功の裡に、恐るべき破綻潜み、英国の荘厳に見ゆる計画が、甚だしき誤算の上に立てられたことを、次第に明白ならしめた。


 第一に、革命西亜が、旧露よりも恐るべき印度の『外患』」として現はれた。そは、東洋諸民族の解放を標榜し、中亜諸邦を味方として、印度を縛る英吉利の鉄鎖を寸断すべく、有らゆる画策を講じ初めた。かくて英国の安心は東の間だけとなり、形勢は再び中亜を挟んで英露対時となった。

 第二には、間接又は直接英国支配の下に在りし、亜細亜諸民族が、猛然として自由独立の精神を作興して来た。グラッドストン以来の『厳粛』なる声明を無視して保護国とせる埃及も、その激烈なる国民運動によって、また独立を承認するの止むなきに至り、埃及にける英国の地位は、戦前よりも却って安定を欠くに至った。戦中に一旦地歩を占めたるメソボタミアも、土民の不断の反抗の為に、其の得たる大部分を放棄せねばならなくなった。

 波斯を保護領とせる1919年の新英波条約も、覚醒せる波斯国民の奮起によって、遂に一片の白紙となり、徒らに波斯人の排英精神を烈しくするに終った。

 戦前には、外国との交渉は総て英国を経べかりし亜富汗斯坦も、今や全然其の独立自由を承第せねばならなくなった。而して英吉利の最後の宝玉印度は、国を挙げて大規模の反英運動を開始し、真個空前の『内憂』を醸しつゝある。
 かくの如く観来る時、吾等は大英植民帝国の現状並に其の将来の運命に対し寧ろ凄惨の気に打たる々ものである。世界戦は、疑ふべくもなく英国をして発展の頂に登らしめた。
 巴里平和会に於て、ロイド・ジョージが、愚なる政治学者ウイルソンを弄しつゝありし時が、恐らく其の絶巓に立てる時であった。

 而も向上の尽くる処は向下の初まる処、向下の窮まるは向上の初まる処。此時よりして英国は嶮なる急坂を下り、此時よりして亜細亜は向上の路を登り初めたのだ。かくて中央亜細亜問題、乃至全亜細亜問題が、明白に其のを意義を一変して、先には何に欧羅巴が亜細亜を分取するかの間題たりしもの、今や亜細亜復興の努力を意味するに至った。

 多年未解決の儘に残りし西蔵問題も、やがて真個の『解決』を与へられるであらう。曽て米国の名高き記者ギポンス、その西蔵に関する一論文を結ぶに下の一句を以てした。日く『若し支那共和国が、新世紀の精神を体得せる一個強大なる組織をその内訌の間から生み出すならば、西蔵は印度を護る盾とはならずに、全亜紅亜運動に於ける、日支印三国の接点となるかも知れぬ』と(註二)。
 吾等は、ギボンスをして、其の先見の明を誇らしむるの日が、速かに来らんことを待つ。

 

(駐一) 仏第西の一新聞は、戦後に於ける英国の東方政策を非難して、下の如く言った。日く『英国は、勢力をメソポタミア張り、アラビアにヒジャズ王国を製造して、危険なる全アラビア主義の野心を煽り、パレスチナを掌裡に収めんとし、而して1916年の協約によって仏国に約束せるシリアをさへも奪はんとする』と(1919年3月13日ラ・リベルテ)。

 

(註二)  H・A.Gibbons: New map of Asia、P.37


大川周明『復興亜細亜の諸問題』  西蔵問題の由来と帰趨 英露の角駆  

2018-09-07 10:50:41 | 大川周明

大川周明『復興亜細亜の諸問題』 

第二 西蔵問題の由来及び帰趨 

 

『英国の印度喪失は、英国の領土に、アングロ・サキソンの有らゆる血と火と鉄とを以てするも、到底破れたる両端を接し難き、一大破綻の発生を意味する』
   ―― ホーマー・リー『アングロ・サキソンの世』

 

『此の不幸蒙昧なる印度の為に、自由の勝利を告ぐる時来らは、配せよ、次の瞬間に、歴史の時計は海洋の女王の死を世界に告げるであらう。而して英国は、僅かに本店を倫敦に有する一大世界銀行となり了るであらう』
   ―― スナサレフ『印度』 

『英国にして一旦印度を失はは、断じて世界的帝国の地位を保つことが出米ぬ』
   ―― カーゾン卿『波斯問題』第一巻

 

一 中亜に於ける英露の角逐

 印度が英国に取りて、極めて重大なる意義を有するは、単に無限の天産と、無数の住民とを有するが故でない。印度は実に英国資本に対する巨大なる投資場であり、大志ある英国青年に取りて、文武仕官の好舞台であり、莫大なる商業の中心であり、重要なる海上聯絡点であり、軍隊の駐屯処であり、面して最も必要なる海軍根拠地なるが故である。シェーグスピアを失はんより、寧ろ印度を失はんと言へる時代は既に過去となった。今日の英吉利は、百のシークスピアを失ふも、寧ろ印度の保全に焦慮する。

 

 第19世紀前半以来英国外交の根本政策は、印度保全の一事にして居た。而して其の要点は、第一に如何にして英国より印度に至る海路又は陸路、能ふべくんば海陸両路の支配権を、自己の掌裡に収むべきか。第二に如何にして直接印度自身を防衛すべきかに存していた。而して此の目的の為に、英国は印度の接譲諸国、即ち波斯・亜富汗斯担・西蔵の独立又は不分割を以て根本方針とし、且能ふべくんば之を英国勢力の範囲たらしめたらしめんと欲した。

 然るに一方露西亜帝国は、彼得大帝以来、印度侵略並びに不凍港獲得の為に、大胆にして執拗なる努力をを続けて来た(註一)。露国は屢々ボスポラス・ダーダネルス両海峡を経て、地中毎に進出せんと試みた。而して其の都度、欧州列強殊に英国の為に阻止せられしは、言ふ迄もなく印度に至る海路の安全を確保する為であった。

 地中海進出を拒まれたる露西亜は、東方遥かに太平洋を望み、西比利亜・満州を経てう浦藍斯徳に到り、終に哈爾賓より南下して黄海に達し、旅順大連の両港によって不凍の海口を下のみならず、更に朝鮮半島をも其の勢力範囲に入れんとした、而も朝鮮一度び露国の掌裡に帰するに於ては日本は直ちに国家的存立を脅威されねばならぬ。

 かくて日木政府は、露国多年の宿望たるを海口を獲得せる機会に於て、極東のに於る日露両国の勢力圏を制定すべく、1898年3月、時の駐日露国大使ローゼン男に、極めて譲歩的なる日露協商の草案を提供し、若し露国にして、日本が朝鮮に於て自由行動を承認せば、日本は満州及び其の海岸を挙げて、全然露国の勢力範囲に置くことを承認すべしと提議した。

 此の提案はローゼン公使の尽力ありしに拘らず、遂に露都の賛成を得る能はず、露国は飽迄も朝鮮の放棄を肯んじなかった。(註二)是くの如き形成は、遂に日露戦争を惹起し、露国は朝鮮半島より遂はれたるのみならず、其の獲得せる不凍港をも失ふに到つた。

 而も当時の露西亜は、決して一敗地に塗るるものでなかった。百年の国是は、断じて彼等の放棄せざるところ、彼等は飽迄も其志を遂げずば止まざらんとした。而して彼等の採るべき途は、更に捲土重来して前両策の遂行を図るか或いは方針を変じて(一)波斯より亜刺比亜海及び及び印度洋に進出するか、(二)又は亜富汗斯担及び西蔵より、印度に向かって南下するか、如上の執れかでなければならなかった。

 

 後の両者は、互に最も密接な関係を有し、国際政局の上に於て、一括して中央亜細亜問題の名を以て呼ばれ、而して問題の中心は、印度其者であった。波斯・亜富汗斯担・バルチスタン・新疆・西蔵に関する一切の問題は、悉く印度を中心として論ぜられ、此等の食の価値は、印度との遠近にとつて定まるものとされて来た。


 第19世紀末葉に至るまで、印度を脅かす英国の外敵は、唯だ露西亜一国であった。然るに現世紀に至り、振興独逸帝国の大組なる東漸政策は、伯林・バグダード政策の姿に御於て新しき而して恐れるべき印度の脅威となった。英国はバクダード鉄道の将来に関して、甚だしき不安を感じ、1903年、遂にエレン・バラー卿をして 『予は波斯湾頭に他国武器庫の建設せらるゝを見んよりは、寧ろ君府が露国の手に帰せんことを欲す』 と声明せしむるに至つた。

 この声明、並に時を同くして英国外相ランスダウン卿が、波斯湾は印度国境の一部なり、と公言したことは、英国が多年の君府政策を一変せることを示すものである。

 英国は土耳古保全を以て百年に互る伝統的政策として来れるに拘らず、遂に其の方針を一変して君府を露国に委ね、之によつて 『印度並びに英国海上権』 を脅威せんとえする独逸の東進に当たらしめんとするに到ったのだ。

 而して是くの如き国際政局が、世界戦の根本原因をなせることは言ふ迄もない。錯綜せる近因があるにもせよ、世界戦究極の因縁は、実に亜細亜への路、惹いて亜細亜其者を奪ひ取らんとせる欧羅巴列強の饜くなき侵略の慾である。

 

 (註一)露西亜の南下政策は、彼得大帝の遺詔に」基づくとせられて居る。此の名高き遺詔は、果たして大帝の手に成れるや否やを疑問とするが、兎に角その中には下の如き一節がある。曰く 『銘記せよ、印度商業は世界商業にして、能く之を統制する者は、即ち欧羅巴の覇者たり得ることを。故に一切の機会を逸せず戦を波斯に挑み、其の没落を促進し、波斯湾に進出せよ而してシリアを経て古代東方貿易の復興に努力せよ。』 

 

(註二)Furst G.Trubetzkoi:Russland als Grossmacht 第49頁以下に、之に関する日露交渉の簡潔明瞭なる叙述がある。

 

 

二 英国と西蔵との関係 
 かくて中央亜細亜間題は、世界政策の根本問題の一である。而して西蔵問題は、中央亜細亜問題の一部たること、前述の如くである。而も吾等は茲に暫く西蔵問題のみを分離し、其の由来と真相とを略叙し、其の亜細亜の将来に対する意義を闡明すると同時に、中央亜細亜問題全般の面目をも彷彿せしめんと欲するものである。

 もと英国は、西北境より来る印度の脅威に対しては、常に非常なる苦心を以て、之が対応に努めて来た。蓋し有史以来印度侵略の企てられしこと前後26回、而して其の21回は、多かれ少かれ目的を達して居る(註一)。


 而も其等の印度侵入軍は、悉く印度西北境を越えて来襲したのだ。従って英国が心を此の方面に注ぐのは極めてめて当然のことである。然るに東北西蔵方面に至りては、峨々たるヒマラヤの天険、自然城壁をなすが故に、英国はネパール・プータン両国を保護国としシキムを属領とすることによって、東北境より来る危険を防ぎ得たと考へて居た。

 加ふるに日清戦争によって其の本体が曇露せらるゝまで、世界は眠れる獅子として支那を恐れて居た。従って英国は、一面には西蔵に政治的発展を試みて支那と事を構ふるを恐れ、他面には支那の力能く西蔵よりする露国の脅威を防ぐに足ると信じ、殆ど心を東北境に労しなかった。

 ただ、英吉利は、夙く既にヘスティングスの時から西蔵と通商関係を開きたいと希望して居た。されど西蔵は、堅く鎖国主義を採り来りしが故に、其の目的は遂げられなかった。 


 既にして1875年、雲南に於けるマーガリー殺害事件に際し(註二)、英国は其の賠償条件の一として、英人の入蔵許可を要求し、支那政府これを承認して、翌年9月に調印せられたる所謂芝罘協約に補遺として此事を明記した。

 其後1884年に至り、印度政府は芝罘協約の明文に基き、通商の目的を以てするコルマン・マコーレー一向の入蔵許可を支那に求めた。支那は、英国勢力の西蔵に及ぶを欲せざりしが故に、西蔵人の外人排斥を理由とし、一行の安全を保し難しとの口実の下に、一行の入蔵拒まんとし、商議年に亙りて決しなかった。

 されどコルマン・マコーレー一行は、飽迄入蔵を断行すべく、ダージリンに至って一切の準備をなし、将にに旅程に就かんとせし時に当り、英国の上緬甸占領より、英支両国に大なる外交紛議を生じた。蓋し清朝の初、乾隆帝の時、緬甸王孟雲は、使を北京に派し、1790年清朝より緬甸王に封せられ、10年一貢を命ぜられて此時に及んだのである。


 故に1886年、英国の緬甸を併合するや、支那は之に対して抗議を提起し、緬甸は支
那の藩属なることを主張した。是に於て英支両国の間に談判開始せられ、其の結果支那は遂に『英国が緬甸に対し最高主権を有すること』を承認したが、同時に『光緒2年の芝罘条約により英国使節の西蔵に入るを許可せし件は、目下清国内障碍多きを以て一時中止すべし』と協定した。

 之によってマコーレー一行の入蔵は中止となった。西蔵人は一行のダージリンより引上けるのを見て、英吉利竟に為すなしと推測した。かくて翌1887年、一隊の西蔵兵、シキムに侵入し、ダージリンに近きスィンタオに城塞を築かんとした。この侵入は、翌年3月、グラハム将軍部下の一小部隊の為に、容易に撃退されたが、之によって復た英支両国の間に西蔵に関する紛議を生じ、支那政府は、1890年駐蔵大臣升泰をカルカッタに派し、所謂英蔵条約に於て、東はプータンより、西はネパールに至る間の分水嶺を以て、英蔵の国境となし、支那は正式にシキムの英国保護領たることを承認した。

 

 而して1893年、清国政府は英国公使の要求に応じ、若千の改訂を加へて、更めて蔵印条約を締結し、西載の亜東Yatungを開いて商市とし、英国領事館の設置を許した。されど西蔵の英人に対する反感は、此の事件によって愈々高められ、益々鎖国の門を堅くするに至った為に、英国は該条約によって殆ど何者をも得る所なかった。 

(註一)Capptain Gervais Lyons:Afghanistan 第二章 Fast Invasions of Indiaに、過去における印度侵入に関して、明瞭簡潔なる説明がある。 

(註二)英国は緬甸バモより雲南方面への通路発見するため。1874年ブラウン大佐の下に一遠征隊を派することとなつた。一行はバモを経て、支那人6名を伴ひて上海より来れる漢口領事書記生マーガリーと合し、緬甸兵150人を護衛とし、1875年3月6日、バモを発して雲南に向ひ、2月18日国境を越えて雲南に入った。

 マーガリーは、伴える支那人と共に先発したのであるが、2月21日、土民の為に殺害の厄に遭った。而してブラウン大佐の本隊も、亦土民の激しき反抗に会ひ、同月26日、バモに向かって帰途に就かねばならぬこととなった。


三 英露の西蔵争奪並に妥協

 若し西蔵が、一切の外人に対して等しく門戸を閉じて居たならば英吉利も強て之を開こうとしなかったであらう。然るに1900年に至り、達頼蝲嘛の使節が、親翰と贈物とを携えて、露国皇帝を訪問したとの飛報は、英吉利政府を驚愕せしめた。 蓋し露国の南下政策は、ローリンソンが慨嘆せる如く、『夜が昼に統くやうに』続行せられ、終に其指を西蔵にも染むるに至ったのだ。

  もと露国は、夙くより蒙古及び新疆を経路するに苦心して居た。而して此等喇嘛教国の懐柔を容易ならしむる為には、西蔵の達頼喇嘛と結託するを以て最も得策とするのみならず、西蔵の奄有は露国百年の宿願たる印度侵入にも、また好個の足場を与へるものである。

 かくて、露西亜は、着々対蔵政策を画策し始めた。露西亜は、先ず露領内の蒙古族に属する喇嘛教を奉ずるブリヤート人を利用して、達頼喇嘛に接近するの策を講じた。ブリヤートの血を引ける露人ドルチェフが、此の役割を見事に果たした。彼は能く達頼喇嘛の心を攬り、参謀長となり、姓名を西蔵風に喀汪堪布と改め、達頼喇嘛の寵遇を一身に集め、啻に使節を露都に派遣せしたるのみならず、達頼喇嘛其の人の露都行をさへ勧めつゝあったのだ。


 露国の是くの如き態度は、印度の東北境、また決して意を安んじ難きを英国に知らしめ、俄然として其の不安の念を昂めしめた。かくて英国は、復た清国政府と交渉を開始し、英蔵国境問題及び通商問題に関し、画国の間に商議を行ふべきことを提案した。支那は此の提議に対し、1902年、委員を国境に派し実地に就て協定すべしと応へ、翌1903年5月、印度政府は英国委員をして、西蔵国内に在りて、最も印度国境に近き一邑カムベ・ジョンに於て、支那も及び西蔵委員と会商せしむべきことを通告した。

 

 ヤング・ハズバンド大佐が、英国委員に任命された。被は200のシク兵を従え、此年7月カムベ・ジョンに到着したが、支那及び西蔵委員は、年暮れんとして尚姿を見せなかった。時恰も、日露の風雲急にして、露国は西蔵を顧みるの逞なかりしに乗じ、英国は比の機会に於て、権力を西蔵に確立し、露国勢力を根本的に顛覆するに決した。かsくて2000の軍隊が、カムベ・ジョンに派遣された。ヤングハズバンドは、1904年1月、之を率ゐてタン峠の嶮を越え、4月中旬江孜Gyangtesに達した。西蔵人は其の前進を阻止すべく,三度英軍を襲ったが、悉く撃退された。


 6月1日に至りヤングハズバンドは、書を達頼喇嘛に送り、6月25日以前に回答せざる時は、英軍をラサに進むべきを告げた。書面は開封せず返附された。かくてヤングハズバンドは、正に到着せるセル援軍を合せ、3000の兵を率いて8月3日ラサに入った。

 此時英軍の為に殺されたる西蔵人は、実に1500を算し、而も英第の死者は僅か37名であった。

 達頼喇嘛は、獦爾丹寺長に政府を託して青海に亡げた。英国は西蔵を強制して此年9月7日下の要項を含む条約に調印させた。

一、西蔵は江孜Gyangtes、Gantok、亜東Yatungを開いて通商地とし、英蔵両国民の貿易を承認しうること。

二、印度国境より江孜Gyangtes及びGantokに到る通路を阻碍する武備を撤退すること。

三、西蔵は、予め英国政府の承諾を経るに非ずば、西蔵の土地を外国に譲与・租借・抵当、その他如何なる名義を以てするも、其の権利を外国に許与せず、又鉄道・鉱山其他利権を外国に許与せず、又外国の西蔵に対する干渉に応ぜず、且外人の入国を許さざること。

 

 是の如き条約は、明白に支那の主権を無視し、西蔵を以て保護領たらしむるが故に、清国政府は駐蔵大臣に対して打電し、之に調印することを禁じ、且つ唐紹儀を全権委員に任じ、1905年1月、カルカッタ赴きて英国全権ヒルヤーと交渉商議せしめたが、英国は頑として交渉に肯じなかった為に、唐紹儀は何等得る所なく張蔭棠をカルカッタに残して、9月北京に帰った。

 然るに比年英国内閣の更迭あり、親内閣は駐支英国公使サトーに訓令し、北京を会講地として、西蔵条約に就て商議すべきことを、清国政府に提議せしめた。支那は之に応じて唐紹儀を談判の局に当らしめ、1906年4月、下の要項を含む英蔵追加条約の調印を見るに至った。

一、英国は西蔵の領土を占有せず、且西蔵の一切の政治に干渉せざること。
二、清国は他の外国に対して、西蔵の領土、及び一切の政治に干渉せしめざること。
三、英国は江孜・Gantok・亜東の三通商場より電線を架設して、印度境内に通信するを得ること。 

 

 一方英国は、露西亜が日露戦争の敗北に疲弊セル機会を捉へ、1907年8月、名高き英露協約を締結し波斯・阿富汗斯坦・及び西蔵に関する協定を遂げ、多年に亘る中亜に於ける英露の角駆逐も茲に暫く中止せらるゝに至った。

該協約の西蔵に関する部分は、下の如くである。

一、英国は、西蔵の土保全を尊重し、其の内政に干渉せざること。
二、両国は互いにラサに代表者を派せざること。  
三、清国の西蔵に対する宗主権を尊重し、清国政府を経由するに非ざれば西蔵と交渉せざること。
四、両国とも西蔵に於て利権を求めざること。  
五、現品と正金とを問はず、西蔵の収入の如何なる部分をも、之を画国又は両国国民に対して抵当となし、又に之に供託するを得ざること。


大川周明『復興亜細亜の諸問題』  革命に脅かさるる欧羅巴、世界戦と非白人昂潮 

2018-09-02 11:50:12 | 大川周明

 

大川周明全集 第二巻

第一 革命欧羅巴と復興亜細亜 


三 革命に脅かさるる欧羅巴

 然るに英独争覇の世界戦は、其の混沌の裡より露西亜革命を生んだ。而して露西亜革命の成就署ボルシェヴィキは、啻に露国内の戦士としてのみに非ず、同時に欧羅巴革命の戦士として起った。彼等は少数者が国民の物質的利益を壟断する資本主義を、其の根柢に於て否定し、全民の福祉を理想とする労働主義によって、経済生活の統一を実現せんとした。而して之と共に資本主義の政治、所謂近世民主々義の政治を敝履の如く放擲した。

 世界の民衆は英米資本家の宣伝に欺かれ、民キ主義は資本主義の敵なるかに空想する。而も仏蘭西の社会主義者ドレージーが、其小著『来る可き戦』に於て、骨を刺す辛辣を以て爬羅抉剔せる如く、『資本家其者こそ民主主義の指導者、その最も忠実なる推奨者、その最も熱心なる扇動者である。否、彼等は実に民主主義の発明者だ。民主主義は一個の黒き幕である。資本家は此幕の蔭に隠れ、此幕を以て民衆の憤怒攻撃に対する無上の鉄壁として、強奪を肆まにして居る。』

 

 蓋し民主主義の政治的特質は、多数を絶対にすることに在る。而も政治に於ける所調多数とは、個々の主観の器械的合算でないか。真理は「質』にして「量」でない。そはゲーテが『最も嫌忌す可き者』とせる『多数――能力乏しき先駆者と、適応力なき無頼漢と、同化され易き弱者と、自己の為すべき所を知らず唯だ他人に追蹤する民衆と、此等のものより成る多数』によって定めらるべくもない。そは明朗透徹なる魂のみ、能く認識し得る所のものである。

 

 加ふるに今日の民主的議会政治は国家を器械的・地理的に分割して、代表者を選出するが故に、其の代表は毫も国家生活を有機的に代表するものでない。故に革命露西亜は、近世欧羅巴の民主政治を一蹴し去った。而して国民の経済的生活に即して、有機的なる政治的組織を断行し、選ばれたる少数者の魂によって新露西亜を統一指導せんとした。

 ボルシェヴィキは是くして生める新しき力を以て戦を旧欧羅巴に挑んだ。『欧羅巴の民主主義と云ふ汚れた着物を脱棄せる時が来た』とは、レニンの冷静なる宜告であり、『資本階級の欧羅巴滅ぶか、さもなくば吾等滅ぶであらう』とはトロッキーの熱烈なる怒号であった。

 

 革命の混沌に乗じ、新生露西亜を強迫してプレスト・リトフスク条約に調印せしめたる独逸は、其後15個月にして、果して革命の勃発を見た。唯だ独逸革命の指導者は、革命の一撃成功するや、革命は既に終局せるかに考へ、民衆の革命的行動を制止して、一刻も早く秩序を回復することに没頭した。故にリープクネヒトの死を一段落として、普通選挙の上に立つ共和国の出現を以て、独逸革命の幕は一先づ閉ざされた。其後匈牙利、バイエルン、及び独逸諸市に於て、露国の夫れと同一なる共産主義革命の勃発を見るに至ったが、悉く不成功に終り、ボルシェヴイズムは其の西漸の歩武を阻止された。

 

 さり乍ら、革命の種子は全欧羅巴に、深く且汎く蒔かれて仕舞った。資本主義に対する不満は、戦後に於て最も顕著となった。今や西欧資本主義は、一面に於て其の道義的信用を失へると同時に、他面自ら惹起せる物質的緒問題さへも、之を解決する能力なしとせらるるに至った。而して事茲に至れる径路は、之を辿るに困難でない。蓋し世界戦は、交戦諸国に於て、強大なる社会的本能の復活を招徠した。真に死活の戦闘に没頭せる諸国は、宛も原始民族が其の部族的生活に於けるが如く、不断に全体的危険と団体的野心とを痛感した。さしも激しかりし階級闘争も、之が為に中止の姿となり、政党の権力争奪も之が為に一時其影を潜めた。
 国内に於ては全市民が利害を超越せる無私の社会的奉仕を強要せられ、戦線に於ては全軍人が愛国的義務として生命其者を国家に献げさせられた。加ふるに諸国の政府は軍人並に一般国民の士気を鼓舞する為に、一切の美弁麗句を以て、戦後の多幸を其の国民に約束した。国民は国家の存立の為に前後約5年に互り、無限の報酬を懸けても尚且平時に於ては応ずるもの無かる可き危険なる生活に堪え続けた。

 

 戦終りて後幾100万の軍人が、協同互助を根本鉄則とする戦場生活より、最小の労力を以て最大の利益を収むることを主義とする利己競争の会社工場に帰り来れる時、彼等の或者は明白に、或者は漠然と、今日の社会組織に不満を感ぜさるを得なかった。一個の人間が単に土地・鉱山・又は器械を所有すると云ふだけの事実で、同胞の日々の生活条件を左右する時に何の自由が国民にあるか。富が言論を支配して人間の思想を左右する時に、何の正義があり得るか。彼等は現在の社会組織を以て彼等が人間としての向上を阻止するものと感じた。かくして戦争終局と共に一時中止せられたる階級闘争は再び開始された。

 

 而して其の激烈なることは到底戦前の比でない。蓋し欧羅巴人は多年の戦争によって殺人に慣れ流血に慣れた。之によって養はれたる殺伐の気象は、所思を遂ぐるに暴力を以てせしめ易い。戦後の欧羅巴人は此点から見ても、之を戦前に比して著しく危険性を帯びるものである。

 かくて革命は欧羅巴を脅威しつつある。若し欧州政治家か、更に高き統一原理によって此の激しく対抗する両者を処理することなく、徒らに之を抑圧せんとするならば、恐らく非常なる社会的変動を免れぬであらう。此の国家内部の争闘は、それが長かれ短かれ続く限り必然国力を弱めずしては止まぬ。而して吾等は此の現象の裡に欧羅巴世界制覇の週末が、既に近づきつつあるを默示される。

 

 

四 世界戦と非白人昻潮 

 

 欧羅巴民族が殆ど地球全面の主人公たるに至りしは、今日の英米人が好んで主張する如く彼等が『正義人道の選手』たりし為に非ず、実に『天国に於て隷属者たらんより、寧ろ地獄に於て支配者たらん』ことを欲せる剛健無比の戦闘的意志を所有せるが為である。彼等は、己が生存に適する条件を具備せる温帯地方を侵略せる場合には、悉く先生民族を駆掃蕩した。濠洲並に北米には殆ど全く土人の跡を絶ち、自人が唯一の住民となった。彼等の住むに堪えざる熟帯地方に於ては、土人の労力なくしては一切の事を不可能とするが故に、肆ままに彼等を虐使する。

 

 之を亜米利加に見よ。甘蔗・煙草・木綿の哉培を南部に開始するや、先づ西印度緒島の土人に労働を強制した。余りに激しき苦役の為に西印度土人遂に亡び去るや、黒人奴隷を阿仏利加より輸入して虐使した。亜細亜に於ては爪哇土人が和蘭の為に300年苦役を課せられた。阿弗利加に於ては黒人を駆使して、セネガルに落花生を、黄金海岸にココアを、スダンに木綿を栽培し、トランスヴァルに於てはカフィル人に鉱山労働を強制し、其の逃走するや印度苦力を輸入した。彼等は斯くの加き経済的掠奪に際し、唯だ商品として有利なる裁培にのみ没頭するが故に、食料品の栽培を閑却し、之が無残なる飢饑を諸処に現出せしめた。加ふるに彼等は、此年の諸植民地を以て永久に自国商品の市場たらしむ可く、一切の工業的発達を阻止して居る。

 

 而も此等大なる領土を支配しつつある欧羅巴人は、其数に於て驚くべく寡少である。熱帯阿弗利加全部は僅かに9万、馬来群島は8万、印度は15方の白人によって土人の死命が制せられて居る。無数の有色人が宛も水牛の幼童に牧せらるる如く、比較にもならぬ少数者によって苦もなく虐げられて来たのだ。さり乍ら水牛が憤怒怨恨の角をして其の牧童に躍りかかる日が次第に迫って来た。而して之を激成せる最近の刺戟も亦革命欧羅巴を生める世界戦其ものに外ならぬ。

 

 世界戦の初期、独軍破竹の勢ひに戦慄せる英仏は亜細亜、阿弗利加の諸領土に於て能ふ限りの軍隊を募集して之を戦線に立たしめた。之を募集するに当りて英仏は彼等を呼ぶに『兄弟』を以てし、文化擁護の共同の目的の為に起てと称へ、之を西部戦線に立たしめ、埃及の野に戦はしめ、ガリポリ或はサロニキに奮戦せしめた。彼等の勇気を鼓舞し、彼等の忠誠を贏得るために、英仏は彼等に告ぐるに、世界戦は実に彼等自身の為の戦なること、其の戦はるるは全世界に正義と自由とを確立する為なることを以てした。

 

 支那は幾万の苦力を仏蘭西に送った。彼等の多くは英軍指諢の下に弾丸雨下の間に働いた。暹羅は其の軍隊を西部戦に加せしめた。印度は莫大の戦費を寄附し、且欧羅巴・小亜細亜・埃及に於て英吉利の為に戦った。30万を超ゆる合衆国黒人も、亦戦線に立った。阿弗利加加黒人も、忠実に英仏の為に戦った。 
此等有色人軍隊は到るところ常に第一線に立たせられた。而して勇敢に英仏の為に戦ひ、日毎に戦場に傷き、又は生命を失った。新聞は筆を極めて彼等の勇武を称揚し、一斉に『勇敢なる同胞よ』と書き立てた。而も彼等の死屍は葬むらるることなくして戦場に棄てられた。飢えたる大が彼等の肉を啖ったであらう。雨露が彼等の骨を枯らしたであらう。
 されど彼等の霊魂は何等の慰安又は祝福の言葉に送られず、淋しく天に帰らねばならなかつに。彼等は重傷を負ふて痛苦に呻吟しても病院に収容されなかった。若し手当を加へても、再び戦場に立ち得ざるほどの重傷者は、悶えて死ぬかに放置された。ただ白人兵士を収容して、尚ほ余裕ありし時にのみ軽傷者を収容し、傷癒ゆれば直ちに駆って再ひ戦場に立たせた。彼等は一切の残虐を忍び、艱難に堪えて、唯だ戦後に確立せらる可き正義を期待した。

 

 而も如何に甚しき幻滅ぞ。英仏の所謂『正義』と『自由』とは、国際聯盟の相を以て現れたのだ。国際聯盟規約第10条は実に下の如く規定して居る。曰く『聯盟国は聯盟各国の領土保全及び現在の政治的独立を尊重し、且外部の侵略に対して之を擁護することを約す』と。そは欧米の利益を呼ぶに国際的正義の名を以てし、之によって一面には自己の良心を欺き、他面には世界の愚者を欺きつつ、外面的制度の確立によって世界の現状を出来得る限り持続せんがため、隸属国民より自由を恢復するの権利を奪ひ、弱小国民より強大ならんとする権利を奪ひ、新興国民より老齢国民の後継者たる権利を奪はんとする為の規定でないか。

 さり乍ら一切の組織又は制度は、理法の具体的実現としてのみ意義と価値とを有する。外面的制度によりて世界の現状をステロタイプし、一切の生類を支配する儼然たる理法を無視し、国家の新に生れ、又は大に発展し、又は終に死滅するを防がんとするが如き、非法の計画並に努力は、晩かれ早かれ水泡に帰すべくある。世界戦は『不義』と『隷従』とを擁護すべき国際聯盟を生まんが為に戦はれたのではない。

 

 国際聯盟の成立に拘らず、英仏の標榜し宣伝したる看板と文句とは、既に隷属民族の魂に、真個の自由と正義とに対する、抑へ難き要求を鼓吹した。かくして『現状維持』を根柢とせる国際聯盟の精神を破りて、欧羅巴世界制覇に挑戦する気勢が全有色人の間に漲るに至った。今や国際聯盟が其の全を約せる『各国の領土』に於て、到処白人覇権に対する土人の反抗を見ざるはない。世界戦中、仏蘭西の軍人並に労働者の供給地なりし北阿弗利加に於ては、国土擁護の為に仏人と協力せる土人か、之によって自己の価値と威厳とを自覚し最早従来の待遇に甘んじなくなった。

 

 北米に於ては戦時に白人移民労働者帰国の為に、俄かに合衆国の経済的生活に擡頭し来れる黒人の自覚、並に戦場より帰りて受けし冷遇に対する黒人兵士の憤激が、合して1919年7月の黒白人争闘となり、ウオシントンやシカゴの町々を鮮血で彩ることとなった。而して亜細亜全土に互りて、白人支配に対する抵抗が、昻まる潮の如くなって来た。かくて白人対非白人の抗争が、漸く具体的に民挨闘争の相を取らんとするに至った。而して此の非自人昻潮の中心の力は、取りも直さず復興亜細亜其のものである。

 

 

五 復興途上の亜細亜

 土耳古を除く全亜細亜の協力によって戦はれたる世界戦が、其の終結と共に全亜細亜に漲る不安を生みたるを見る時、吾等は此の雄渾にして悲壮なる戯曲の背後に在りて、之を展開せしめつつある偉大なる力に驚魂せざるを得ぬ。

 世界戦後の亜細亜間題は、最早全然戦前と其の性質を異にし、欧羅己の支配に対する亜細亜復興の努力を意味するに至った。而して是くのき推移は、茲に欧羅巴人に取りてこそ亜細亜不安であるけれど、吾等亜細亜人に取りては、明白に亜細亜復興の努力である。

 

 所謂亜細亜不安は、西は埃及よれ、東は支那に至るまで、種々なる姿を取りて現はれて居る。而して其の不安・混沌の間に輝く一貫脉々の光は、実に復亜細の精神である。従順羊の気き爪哇土人すら、熱心に黄色人種の聯合を唱へるに至った。瓜哇在住の支那人は、和蘭政府の苛酷なる圧迫と戦ひつつ、本国の支那人と密接なる関係を樹立すべく努めて居る。1916年、バタヴィアの回教首僧は、和蘭女王誕生日祝賀式に参列することを拒んだ。数々の団体が、東印度諸島民聯盟を実現すべく志土の導の下に画策して居る。

 印度に於ては迅速なる自治乃至完全なる独立が国民の強大なる要求となり、ガンディに率ゐられて規模雄大なる排英運動が起って居る。

 亜富汗斯担及び波斯は革侖露西亜と手を握り、英国勢力の駆逐に全力を挙げて居る。小亜の諸回教民族は、国際聯盟が定めたる委任統治並に保護統治を排斥すべく武器を取って英仏と抗争を続けて居る。土耳古帝国最後の運命を負へるムスタフア・ケマール・パシャは、アンゴラに拠って戦勝聯合国全体を其敵とし、掲ける所の弦月旗は正に利鎌の如く冴えて居る。

 

 此等の総ての運動は、其の表面に現はれたる所では政冾的乃至経済的である。さり乍ら其の奥深く流るる所のものは、実に徹底して精神的である。何となれば今の亜細亜運動は、目覚めにる亜細亜の魂に其の源を発して居るからである。之を土耳古に就て見る。青年土耳古の初めて奮起せる時、彼等の則る所は西欧民主主義に外ならなかった。

 然るに世界戦中に於て、彼等が唱道せる土耳古国民主義は土耳古精神の奥深く流るるツラン魂より湧き来れるもの。故に其の求むる所は、決して西欧の主義乃至制度を輸入せんとするに非ず、純乎として純なる土耳古文化を、自らの力によって創造し長養せんとするに在る。

 印度に於ても吾等は同様の事を見る。世界戦前に於ける印度国民運動は、仮令アラビンダ・ゴーシュの鼓吹せる理想が薄伽梵歌の聖泉に汲める印度本来の哲学的思索に根ざせりとは言へ、之に感激して革命の実際に活動せる青年は、少なくとも其の手段方法に於て、西欧革命運動を模倣して居た。然るに今日ガンディに率いらるる革命運動は、単り其の精神に於いてのみならず、一切の手段に於て徹底して印度的となった。

 而して回教諸国の復興運動が政治的なると同時に精神的なることは、回教其者の本質より見ても明白である。彼等の欧羅己と戦ふは、其の政治的支配・経済的掠奪を斥けんが為のみに非ず、実に彼等自身の信仰を護らんか為である。

 この二重の独立、精神的独立と政治的独立、これが目覚めたる亜細亜の今求めつつある所のものである。而して此の二重の独立に対する要求が即ち亜細亜不安の原因であり、且亜細亜復興の真意義である。

 

 1921年3月16日、労農露西亜と土耳古アンゴラ政府との間に締結せられたる条約は、其の第4条に於て、真に深甚なる思想を示して居る。曰く『両締盟国は、東方諸国の国民的自由獲得の為の運動と、露西亜労働階級の新社会制度建設の為の運動との間に、多大の接触点あるを確認し、茲に東方諸国民の自由並に独立の権利、及び其の欲する所に従って政体を選ぶの権利を宣言す』と。然り、革命欧羅巴と復興亜細亜とは、新しき世界史を経緯する根本要素である。旧き欧羅巴は革命せられねばならぬ。雌伏せる亜細亜は復興せられねばならぬ。

 

 自由は進んで獲取すべきものにして、与へらるべぎものでない。亜細亜より其の自由を奪へる民族は、絶倫なる意力の所有者である。故に彼等に優る強大なる『力』を実現するに非すば、亜細亜は竟に自由を得るの日なしと覚悟せねばならぬ。革命乃至内訌は、欧羅巴の国力を弱くするであらう。されど自己の力は他の強弱によって定まるものでない。亜細亜は真個に強くならねばならぬ。亜細亜は敢然として自己金剛の意力を発揮せねばならぬ。而して『力』とは思想の発動である。故に亜細亜は其の『力』を発揮する為に、正しき思想を把持せねばならぬ。
 その『力』をして剛健偉大ならしむる為には、雄渾森厳なる思想を体得せねばならぬ。その敵を克服する為には、其の敵よりも勝れる高貴なる思想に奉仕せねばならぬ。世界戦の神意は、革命欧羅巴と復興亜細亜とを、其の混沌・苦悩の裡から生み落すに在った。吾友リシャル君曽て『万国の主』をして言はしめて日く、

 『さらば東方よ起て。起って汝が帝王の衣裳を着けよ。今は汝、往きて西方と会ふ可き時なり。而して其の往くは戦士が敵に向って進む如くならず、新郎の新婦に赴くが如くなるべし。而も之が為には、鳴呼西方よ、汝先づ其の悪しき夢――傲慢と狂暴との夢より醒めざる可からず。鳴呼洵に汝等は新郎新婦なり。汝等相結ばば、即ち将来を生まむ』と。 

 新しき世界の黎明が来た。欧羅巴は夢より醒めねばならぬ。而して亜細亜は惰眠より起たねばならぬ。


大川周明『復興亜細亜の諸問題』 革命欧羅巴と復興亜細亜、 世界戦前の亜細亜 英独争覇としての世界戦

2018-09-01 18:38:58 | 大川周明

大川周明全集 第二巻

 

第一 革命欧羅巴と復興亜細亜

 

 『生活若くは生命は、不断に生成の途上に在る。吾等昨日の事変を反省しつつある間に、今日は既に進化の新方面が、日前に展開せらるるを見る。哲学が、灰白色に褪せて行く人生の、古びたる姿態を描きつつある間に、人生の他の一面は、燃ゆる紅の裡に躍動しつつある』――イリングアース 『神と人の人格』 

 

一 世界戦前の亜細亜問題

 亜細亜民族は「第一に自由を得ねぜならぬ。自由を得たる亜細亜は、周匝竪固に統一されねばならぬ。如何にして自由を得べきか、如何にして統一を実現すべきか、是れ実に亜細亜当面の関心事である。
 今日の亜細亜は、欧羅巴の臣隷である。奴隷に何の問題があり得るか。奴隷に何の理想があり得るか。奴隷は唯だ主人の意志に従ひ、主人の利益の為に動なさるる走屍行内に過ぎぬ。故に真の意味に於ける亜細亜の問題は、亜細亜が自由を得たる時に始まる。

 

 亜和亜は初めより欧羅巴の前に怖れ伏していたのではない。彼等の或るものは今日の英独人が山野に狩猟を事とせる蛮民なり時代に既に燦然たる文化を有して居た。彼等の或ものは欧羅巴人が尚ほ西欧の小天地に跼蹐せる時代に船を南洋に浮べて諸島の経略に従った。
 彼等の或ものは朔北の荒野に嵯幅し、人の住むに堪えずと思はしきる窮業の地に見事なな田家を建設した。其中より出でたる英雄は中亜より欧羅巴に進み、国を黒海の岸に建で、屢々ダニューブ河を越えて中欧を脅かした。彼らの或ものは迅雷の如く伊太利に攻入り、神の鞭として西欧民族を戦慄せしめた。

 

 彼等は是くの如き偉大なる対外発展の力を示せるのみならず、内に在りでは彼等に独特なる政治組織によつて其国を治めた。世界に比類なき大堡塁を築き大運河を開鑿した。西洋に先ちて磁石を用ゐ、印刷術を発明し、大薬銃砲を発明した。彼等は高尚なる文学、深遠なる哲学、高貴なる道徳を有して居た。両して世界の人心を支配する総ての偉大なる宗教は皆な亜細亜の間に生れ出でた。
 故に亜細亜人は其の歴史に現はれたる特質より見るも、或は世界文化に貢献せる事実より見るも断して欧羅巴人の下に在るものでない。而も300年の優勝は白人をして自負吟高ならしめ、300年の劣敗は黄人をして自棄卑風に陥らしめた。  

                

 然るに日露戦争は亜細亜自党の警鐘となった。而して日露戦争に於ける日本の勝利によって啻ために破られざりし西欧民旗に対する最初の打撃であった。彼等が長き間の勝利の歩みは実に此時に於て最初の瑳歌を見たのだ。之と同時に吾等と人種を同じくする亜細亜諸民族は、俄然として自党し初めた。

 啻亜細亜民族のみならず、西欧列強の圧迫に苦しめる一切の民族の間に彼等に対する反抗するこころが昂まつて来た。極東の一小黄人国が面積に於て60倍し、人口に於て3倍し、其の勇武き以て世界の恐怖たりし白人強国を敵とし、見事に之を打ち破れることは自余の亜細亜諸国に取って真に驚嘆に堪へざる不可思議であつた。
 而も吾等は目のあたり彼等の不可能を可能ならしめた。而して彼等に鼓吹するに 『吾等も亦』 てふ希望を以てした。

 

 此の希望は必然隷属民族の間には独立運動として、名義だけも独立を保てた諸国の間には国家改造運動として現はれた。欧羅巴が其の奴隷とせる民族の独立を高圧せんとするは何の不思議も無い。
 亜細亜諸民族の勃興は欧羅巴の最も欲せぎる所であった。第20世紀初頭20年の歴史は欧羅駆列強が亜細亜復興を欲せざりしことを、亜細亜に於て議会制度行はれ、責任政府樹立せらるるを欲せざりしことど、明々白々に物語る。

 見よ、土耳古の革命成功し、瀕死の旧国が新たに蘇らんとせし時、彼等は一切の手段を講じて其の発展を阻碍し、伊土戦争・バルカン戦争によつて其の国力を疲弊させた。波斯の立憲政治も亦此国を両分せんとする英露両国の野心を妨ぐるが故に、其の議会は非道を極むる外国軍隊の暴力によって輯覆された。

 支那革命が五族統一の国家的理想を象徴せる五色の新国旗を押立てて、之が実現に拮据せし時も、蒙蔵に占拠して支部を制せんとしたる英露両国は、固より其の成功を喜ばなかった。
 而して最も悲しむべく、且恥づべきは、亜細亜復興の指導者たる可き日本其者が、英国外交の翻弄する所となり、其印『離間制御Divideu and Rule』の政策を二重に成功せしめ、支郡内部に党争の因を蒔き、同時に日支両国の背離を招くに至れることてある。

                               

 是の如くにして亜細亜の将来は尚ほ暗澹として居た。仮令亜細亜は其魂の底に自由と統一とを求むる心働き、而して此心を最も適確判切に 『亜細亜人の亜細亜』 と云ふ一語に表象し、之を掲げて新亜細亜の理想とせしにもせよ、世界の大勢は此の理想を実現しし得る日が、何れの時に来るかを疑いはじめた。
 欧羅巴は、依然として世界の独裁者たるべき『新生なる使命』を確信し、世界制野の角逐を亜細亜において続行した。

 故に国際政局に於ける所謂亜細亜問題と、欧羅巴列強が如何に亜細亜を其の利己の狙に載せ、如何に之を料理し、如何に之を分取するかの問題であった。日露戦争の世界史的意義は未だ歴史の進行の上に其の全面目を現はさなかった。之を露塁するに至らしめたのは実に世界戦其ものである。

 

二 英独争覇としての世界戦

 世界戦は其の表面に現はれたる相としては英独の世界争覇戦であった。欧経巴の世界的覇権は、第15世紀後半曽って十字軍にとつて鼓舞せられたる戦闘的精神がが、経上の活動に旺向せる時に初めて其の萌芽を見た。かくて第16世紀以来欧羅巴列強は世界的覇権獲得のために、不断の戦ひを続けて来た。而して第19世紀初頭に於て勝利は一旦英国の手に帰した。

 

 英国の地理的特徴、即ら大西洋上に於ける大英群島の位置並に其の島国性が、世界的覇権の発展を有利ならしめたことは最も明白なる事実である。さり乍ら斯くの如きな理的特徴が、英国発展の要件として利用せらるるに至りしは中世紀末葉以後のことに属する。
 第16世紀以前の英国は、欧羅巴の辺端に位置する僻陬の群島として経済的並びに文化的に、西欧大陸諸国の後塵を拝し、政治上に於ては、群島内部の国家的統一と仏蘭西の侵略とを以て、其の国是としと居た。然るに亜米利加大陸並びに東印度航路の発見は、英国史のもっとも重大な展開汚点となった。

 英吉利が此発見に刺戦されて、 一面群島内部の国家的統一を成就すると共に、他面大陸侵略政策を放棄し去って、其の進路を海洋並に海外諸国に向くるに及び、英国の地理的特徴は俄然として其の意義を発揮して来た。
 即ち英国の島国性は、四面環毎の故を以て他国と直接の軋轢を防ぎ、大陸諸国が至大の犠性を払へる国境戦争の紛糾を免れ、之によつて節約られる国力を挙げて海上の活動に用ゐるを得せしめた。

 而して其の位置たる、欧羅巴大陸と大西洋との通過点に位し、著しく発達せる海岸線は、国民の為に無数の港湾を形成するが故に、欧洲西北の一歩哺に遣ぎざりし島国が、今や欧羅巴大陸の運命を海上に展開する自然の開拓者たるに至つた。

                   

 1588年、英吉利海峡に於ける英国艦隊3日の奮戦は、完全に無徹艦を紛砕し、徹底して西班牙海上権を顛覆した。100年に互りイベリア国民の優越は之と共に没落し、英吉利は其の海上発展の確乎たる地歩を占むることが出来た。

 次いで英吉利は第二の敵手として和蘭を選んだ。而して其戦はオリヴァー・クロムウエル其人の雄渾なる精神と鉄血の意思とより迸れる、1615年の航海条例によつて、もっとも無遠慮に和蘭に対して挑まれた。1652年より1674年の間に行われたる前後3回の戦役によつて、従来「海洋の幸福なる所有者」とはれたる和蘭は、其の優越なる制海権を遂に英吉利の為に奪はれた。

 和蘭を雌伏せしめたる英吉利は第3の敵手として仏蘭西と戦った。英吉利は1688年より1815年に至る126年のうち、其の64年間は実に戦争を以て終始した。地球の孰れの国民も英吉利の如く頻々たる戦争に参加せるはない。
  而して此間の諸戦争は欧羅巴戦争として記述されて居るけれども、実は西班牙王位継承戦を初めとし、墺太利王位継承戦・七年戦・乃至ナポンオン戦に至るまで一として欧蟶巴並に植民地に於ける英仏争覇戦の反映ならざるは無い。

 ナポレオンの出現は英仏争覇の最後の決戦となった。ナポレオンが其の常勝の武威を以て欧羅巴を蹂躙せることは表面其の政策に矛盾あり撞着ありて、畢竟一身の権力欲を逞うせるに過ぎざりしかに観える。さり乍らナポンオンは英国勢力の圧倒を以て其の根本政策とせるもの。一代の戦争並に経綸は、悉く此の根本政策の遂行より打算せられたる、秩序あり系統ある一大組織を成すものである。

 洵にナポレオン衷心の熱烈真摯なる本願は、百年以来世界争覇の敵手たる英国より其の優越なる地位を奪ひ、仏蘭西の勢力を恢復して世界的帝国の冠冕を獲得せんとするに存して居た。故に彼は第一には地中海の制海権を占め、次で印度を経略し、これによって英国の勢力を殺がんとした。

 第二には直ちに英本国に侵入して之を克し、一切の要求を容れしめんとした。第三には英国商品の大陸輪入を禁止して致死の経済的打を加へ、之によって英国を屈服せしめんとした。
 彼が1798年モールタ島を略取し、埃及に侵入し、一方使節を印度に派して諸藩王を煽動せるが如き、皆な第一策遂行の為に外ならぬ。而して英本国への直接侵入は、不幸にして仏国海軍が不完全なりし為に、再三実行を企てて遂に不成功に終った。かくて彼は全力を挙げて第三策即ち大陸封鎖の厲行に着手し、全欧諸国に対して、或は千渉を加へ、或は優略併呑し、或は同盟を結び、遂に欧州全土を蹂躙するに至った。

 

 大陸封鎖は英国に取って非常なる打撃であった。1803年のハンノーフェルの占領以来、ナポレオンは着々欧大陸の海岸を封鎖し、1812年露国に侵入せる頃には、英国の経済界は甚だしき悲境に陥り、英蘭銀行の兌換券は80パーセント以下に下落し、従来大陸に於て25法に相当せし一磅は今や僅かに17法となり、商業上の恐慌起りて銀行の破産頻々相次ぎ、議会に於ても非戦論の声漸く高きを加ふるに至った。

 故に若しナポレオンにして能く露国を征服し得たりしならんには、英国も遂には屈服を免れざりしなる可く、英仏基地を換へて世界的覇権は恐らく仏国の掌裡に帰したであらう。
 而も莫斯科の敗戦は、遂にナポレオンをして千仭の功を一に欠かしめたるのみに非ず、爾来運命は歩一歩此の千古の天才と逆行し、終に1815年ワーテルローの敗戦となり、其畢生の競争者の冷酷なる監視の下に、大西洋上の一孤島に流謫の身となるに及び、茲に英仏最後の世界争覇戦は、英国の完全なる勝利を以て其局を結んだ。

 

 かくて第19世紀の英国史は、最早や覇権獲得の歴史に非ずして維持の歴史となった。これ英国が1914年の大戦に至る迄、一たびも決定的戦争を行ふの要なかりし所以である。
 唯だ夫れ英国の政策其ものは、第19世紀に至りても何等変更せられたるに非ず、苟くも新興国の嶄然として頭角を現はさんとするものあれば、直ちに一撃を之に加へ、或は之を脅威して其の野心を放棄せしめずんば止まなかった。

 クリミア戦争並に日露戦争に於ける露西亜、ファショダ事件以後に於ける仏蘭西の如き、皆この政策の爼上に載せられたるもの。而して近代独逸の勃興が歔羅巴の勢力均衡を脅かし、英国の世界的覇権に対する競争著たるに及んで、英吉利は第4の敵手として独逸を選び、所謂包囲政策によりて先づ独逸を孤立の地位に陥らしめ、遂に英独争覇の世界戦を見るに至ったのだ。

 

 第19世紀に於ける英吉利の発展は実に世界史的驚異である。そは政治的組織としては世界最大の国家であり、其の領土は地球全陸王の四分の一に互り、其の人口は全人類の三分の一を占める。
 僅に300年以前、フランシス・べーコンが其の著作に用みるを恥たる英吉利言葉は、1億2万人の母国語、5億5千万人に対するる公用語、殆ど全世界に通する商業語となった。
 
而して此の世界制覇は、規模最も大なる経済的根柢の上に築かれ、英吉利は第19世紀初頭、夙く既に世界商工業の首位を占め、通商貿易の中心点として覇を海運界に称へ、是くして獲得せる無限の富を以て欧羅巴を債務者とする債権国となり、次で「世界銀行」たるに至った。

 

 さり乍ら英吉利の世界制覇は、何等徹底雄庫なる理想遂行の賜でない。アイゼンハルト、プライ、トライチケ等の独逸史家が英吉利の膨張を以て或は之を僥倖に帰し、或は之を窃盗的行為とし、或は之を譎詐騙取に過ぎずとするのは、国民的偏見に基づける罵響とのみ言へぬ。

 シーリー教授、其著『英国膨張論』に論じて曰く、『英吉利帝国の発展は、当初より一個雄大なる目的を立して其の遂行を図れるに非ず、唯だ一の功業より自然に他の功業を生み、歩々自然に建設せられたるものである』 と。 かく論じたる時、彼は英国を弁護せんとして、実は其の覇権獲得が無主義・無理想の利己心より出でたることを最も腹蔵なく白状せるものである。

 英国の隆興は其の地理的位置と、国民の絶倫なる功利的聰明と、利己の機会を掴むに敏捷無比なるとによれるもの。その大なる国家は、経済袒織に於て貪欲飽くなき資本主義、政治組織に於て投票函方能の民主々義、この両者を以て経緯せる一個無漸の地獄である。


 而も過去に於ける彼等の成功は、彼等を駆りて天人倶に許さざる増上慢に陥らしめ、ロスチャイルドの婿にして自由党の大臣たりしローズベリは、公々然グラスゴーの大学々生に演説して、「神は吾等に賜ふに世界支配の権を以てした」と言ふに至った。


 此の暴君に対して堂々叛族を飜せるものは、勇敢なる新興独逸であった。されど独逸の挑戦は、蛇に対する虎の挑戦であり、其の鋭き爪は英吉利の夫れと等しく、資本的帝国主義の爪牙であった。そは貪婪の国・増長の国たる点に於て毫厘も英吉利と択ぶところ無い。 

 

 仮令独逸の社会主義者レンシュが、其著 『世界革命の3個年』 に於て、如何に強牽附会して、英独戦は世革革命戦なりと力説しても、猿逸の起てるは決して革命の戦士としてではない。
 『パンの
中身は既に英吉利の為に奪はれ尽し、独逸に残されしは唯だ其の外殻のみ』 とは、独逸国民の代言者トライチケの抑え難き憤懣であった。かくて独逸の志せる所は、英吉利が蛇の邪智を以て奪へる、味よきパンの中身を、唯だ虎の暴力を以て横取りするに在った。

 

 独逸は英吉利の本質其者を否定したか。断じて之をしない。其の資本主義・民主主義を否定したか。断じて之をしない。彼等は英吉利を罵った。而も彼等の悪罵は決して英吉利の本質に対して加へられたのでない。そは単なる悪口雑言に外ならなかった。偽善者と云ふ常套の非難以外に、直ちに英吉利の肺腑を刺す鉄崑崙の一句でもあったか。
 
 洵にゲルマンの胸には既に 『アングロ・サキソン』 が深く其根を下ろして居たのだ。彼等の奉ずる国是は、英吉利と等しく資本的帝国主義であった。その政治的理想並に経済的組織に於て、亦何等本質的相違が無かった。
 従って彼等は其敵の心を心とせる 『「謀叛者』 たるに止まった。英独の孰れが勝利を得るにせよ、世界は依然として欧羅巴の鉄鎖に縛られ、唯だ其の鉄鎖の持主を代へるに過ぎなかったのた。



大川周明『復興亜細亜の諸問題』 序

2018-08-31 10:28:45 | 大川周明

復興亜細亜の諸問題

                                       

〔解説〕

一、復興亜細亜は大川博士の畢生の念願であった。ヨーロッパ支配下に呻吟するアジアの解放、アジアの自由・独立統一を標榜して立った博士こそ真にアジア解放の先駆者であった。この第二巻に収録する著作 10編は、即ち博士の烈々たる闘魂溢れるアジア救国の大業績である。


 第二次世界戦争(昭和14年9月~昭和20年)の結果、印度・パキスタン・セイロン・ビルマを始めアジアの国々は見事にその政治的独立を達成した。而してこの栄誉あるアジア独立の日の将来を、既にその半世紀の以前に於て徹見せる博士はヨーロッパ支配よりの自由・独立こそ「確実疑うべくもない世界史必然の発展段階である」確言している。


一.「第一次世界大戦(大正3~8年)は英国をして発展の頂に登らしめた。巴里会議に於てロイド・ジョージが愚なる政治学者ウイルソンを飜弄しつつあり時が恐らく共の絶巓に立てる時であった。

 而も向上の尽くる処は向下の初まる処、向下の窮まる処は向上の初まる処、此時よりして英国は嶮峻なる急坂を下り、此時よりして、亜細亜は向上の坂を登り初めた。かくて中央アジア問題乃至全亜細亜問題が明白に其意義を一変して、先には如何に欧羅巴が亜細亜を分取するか問題たりしもの、今や亜細亜復興の努力を意味するに至った。」


一、  この確信に立つ博士は、第一次大戦の前後を通して復興途上に苦闘する西蔵・タイ・印度・アフガニスタン・トルコ・エジプト・回教圏に及ぶアジア諸民族の独立運動を研討し、もってアジアの国民的自覚、アジア金剛の独立精神を鼓舞宜揚している。

 

一、本書は拓殖大学に於ける大正10年(1921〉年の「東洋事情」講座の講義草稿を整理したものであって、後掲の「亜細亜建設者」(昭和15年・1940)とともにアジア復興に関する博士の主著である。

            (大正11年6月・菊版・462頁・大鐙閣刊)

  

     

 一顧して長望すれば10年矢の如く去った。竜樹研究を卒業論文として大学の哲学科を出た時、予が心密かに期したりしは、一生を印度哲学の色読に捧けることであった。僧仏によって知識を練り、瑜伽によって之を体達するの道を雕説くウパニシャッドこそ、汲みて尽きざるわが魂の渇きを癒やす聖泉であった。かくて多くも要らぬ衣食の資を、参謀本部の独逸語の安飜訳に得つゝ、日毎大学図書館に通って、心を印度哲学の研究に潜めた。


 さて予に取りて決して忘じ難き一書は、サー・ヘンリー・コットンの「新印度』である。印度に対する至深の関心が現在の印度及び印度人に就て知る所あり度いと云ふ念ひを、いつとはなく予の心に萠し初めさせたことは、固より何の不思議もない。


 大正2年の夏であった。一タの散歩に神田の古本屋で、不図店頭に曝さる、コットンの書を見出出した。予はコットンの為人も知らず、また此書が世にも名高き著作なりとも知らず、唯だ書名の「新印度』とあるに心惹かれ、求め帰って之を読んだ。而して真に筆紙尽さゞる感に打たれた。


 此時に至るまで、予は現在の印度に就て、殆ど何事も知らなかった。印度思想の荘厳に景仰し、未た見ぬ雪山の雄渾を思慕しつ、婆羅門鍛練の道場、仏陀降誕の聖地としてのみ、予は脳裡に印度を描いて居た。然るにコットンの著は、真摯飾らざる筆致を以て、偽はる可からざる事実に拠り、深刻鮮明に印度の現実を予の眼前に提示した。此時初めて予は英国治下の印度の悲惨を見、印度に於ける英国の不義を見た。予は現実の印度に開眼して、わが脳裡の印度と、余りに天地懸隔せるに驚き、悲しみ、而して憤った。


 予はコットンの書を読み終へたる後、図書館の書庫を渉って、印度に関する著書を貪り読んだ。読み行くうちに、単り印度のみならず、茫々たる亜細亜大陸、処として白人の蹂躙に委せざるなく、民として彼等の奴隷たらざるなきを知了した。


 ウパニシャッドはいっしか予の机上より影を隠した。豊太閤裂冊の怒りに魅入られたる如き心を以て、
予は専ら亜細亜諸国の近代史を読み、亜細亜問題に関する薯書を読んで、亜細亜に対する欧羅巴侵略の径路、亜細亜を舞台とする列強角逐の勢ひを知らんとした。而して是くの如き研究は、更に予を駆りて近世欧羅巴植民史及び植民政策の研究に没頭せしめ竟に今日に至らしめた。


 10年以前、出家遁世さへし兼ねまじかりし専念求道の一学徒、今は即ち拓殖大学に植民史を講じ植民政策を講じ、東洋事情を講じつゝ武侠の魂を抱いて紅葉ケ岡の学堂に知識を練る青年と共に、復興亜細亜を生命とする一戦士となった。本書に輯たる諸篇の多くは、大正10年度の『東洋事情』講義草稿に加筆し、訂正せるものである。


 初め予の研究の転向するや、予の諸友は之を以て邪路に踏込めるものとなし、須らく第一義の参究に復帰すべしと迫れること、唯に一再に止まらなかった。就中当時住友の社員たり、今は内村鑑三氏の分身たる黒崎幸吉君が、国際問題に関する予の一小著に対し、切々として予が印度哲学より如是の研究に移るの非を諫めたる書面を送り来れることは、今尚ほ感謝なくして想起し得ざる所である。

 されど吾心は、最早塵外に超然として、瞑想思索を事とするに堪ゆ可くもなかった。否、亜細亜酸鼻の源泉は、実に予が求めたりし如き出世間的生活を慕ふ心其ものに在ると思ひ初めた。亜細亜の努力、殊に印度至高の努力は、内面的精神的自由の体得に存し、且之によって偉大なる平等一如の精亜神的原理を把握した。その神聖なる意義と価値とを正しく認識する上に於て、予は断じて人後に落ちるものでない。


 而も亜細亜は、此の原理を社会的生活の上に実現すべく獅子王の努力を用ゐなかった。其の必然の結果は、内面的・個人的生活と外面的・社会的生活とが、互に分離孤立する小乗亜細亜の出現となり、一面には精神的原理の硬化、他面には社会的制度の弛廃を招き、遂に却って白人阿修羅の隷属たるに至った。

 亜細亜は其の本来の高貴に復るべく、先づ二元的生活を脱却して妙法を現世に実現する無二無三の大乗亜細亜たることに努めねばならぬ。之が為には、吾等の社会的生活、その最も具体的なるものとして吾等の国家的生活に、吾等の精神的理想に相応する制度と組織とを与えねばならぬ。予は是くの如く考へた。

 是くの如く考へたる故に、予は最も広汎なる意味に於ける政治の研究に深甚なる興味を抱いた。大乗的見地に立てば喫茶啖飯も亦第一義、小乗に堕すれば読経打坐も亦第二義となる。剣かコランかの信条を真向に振翳し、宗教と政論とに間一髮なきホメットの信仰にいたく惹かれしも、亦実に此頃の事であった。回教に関する本書の数篇は、如是因縁に由来する。


 支那を除く亜細亜諸国の研究は、従来殆ど等閑に附せられて居た。従って亜細亜に関する国民の知識は、予想以外に貧弱であり、亜細亜問題に対して風する馬牛であった。今日に於ては、印度に関する多数の著書あり、亜細亜問題全般に関しては盟兄満川亀太郎君の好著 『奪はれたる亜細亜』 あり、之を数年以前に比して同日の談でないとは言へ、亜細亜知識の普及は尚未だ充分でない。若し之を知ること充分ならば、誰か抑え難き義憤を抱いて降魔の剣を執らざるを得ん。

 世界三大国の一と増上慢する日本さへ、神武の孫裔たる国民が、足一歩アングロ・サキソンの土を踏めば、即ち 『好ましからぬ民』 として世界の扱ひである。自余亜細亜諸国のこと、また知るべきのみ。若し日本民族の魂に、正義の為に百済を援けて大唐帝国に宣戦せる天智帝のこゝろ猶存し、冊を裂いて明国の使臣を叱咜せる豊太閤のこゝろ猶存し、面目の為に其友を殺さんとせる鎌倉権五郎のこゝろ猶存するならば、亜細亜の現状を究め、其の大勢の趨く所を知って、而も默して坐し得る道理がない。
 本書の諸篇が、聊かにても復興亜細亜の大義を国民のこゝろに鼓吹し得るならば、予の労作は酬ひられて余りある。

 

 日本は 『大乗相応の地』 である。故に其の政治的理想は遠々として高からざるを得ぬ。国を挙げて道に殉ずるの覚悟を抱いて、而して大義を四海に布かんこと、是れ実に明治維新の真精神を体現せる先輩の本願であった。

  新日本の復興亜細亜の国民は、此の本願を伝統して森厳雄渾なる職責を負はねばならぬ。而して亜細亜の指導、その統一は、実に大義を四海に布く唯一路である。そは日本の為であり、亜細亜の為であり、而して全人の為である。総ての亜細亜をして、来りて日本を強め、而して復興亜細亜の実現の為に協力せしめよ。これ実に予が日々夜々の祈である。

 唯だ痛恨極まりなきは、今日の日本が尚未だ大乗日本たるに至らず、百鬼横行の魔界たることである。日本の現状、今日の如くなる限り、到底亜細亜救拯の重任に堪えず、亜細亜睹国また決して日本に信頼せぬであらう。


 堅く信ず、南洲小楠の霊、天上に瞑するに由なく、眼前の局促に囚はれ、蝸牛角上の竸合に没頭して他を顧みざる日本政治家共を棄唾し、偏へに望みを純一武侠の青年に属して居ることを。
 吾等の正義は一貫徹底の正義でなければならぬ。吾等の手に在る剣は双刃の剣である。其剣は、亜細亜に漲る不義に対し峻厳なると同時に、日本に巣喰ふ邪悪に対して更に秋霜烈日の如し。
かくて亜細亜復興の戦士は否応なく日本改造の戦士でなければならぬ。啐啄一時、大乗日本の建設こそ、取りも直さず真亜細亜の誕生である。

     大正11年6月
                   神奈川県大船常楽寺に於て
                         大 川 周 明


大川周明 「新しき世界戦」 英米の強大は実に日本存立の至深の脅威

2018-08-30 21:04:17 | 大川周明

          
       

大川周明 「新しき世界戦」 
 

 嘘も千度言えば真となる。-吾等はこの俚言を、世界戦の結果に於て、切実深刻に認むることを得た。前後52か月の間、心にも無き正義と自由とが、幾回アングロ・サキソンの長い舌先で弄ばれたか。而も嘘は遂に真となった。正義を唱へて腹に邪険を抱く者、自由を唱えて手に専横の鉄鎖を握る者が、遂に葬られるべき時が来た。

 『或国民は板たるべく、或国民は釘たるべく、或国民は槌たるべく慣らされた。板叫び、釘鳴り、槌響く、何たる騒がしさぞ。』 此の騒がしき響こそ、死すべき者を納める棺が作られつつある音だ。其こころ、能く歴史の深き意義に透徹し得るものは、死すべき音の正体を、確実明白に知って居る。

 無智の人間は、一切の物質を支配する理法を無視する故に、『自然』を以て若干元素の縦ままなる集合離散と見る。無智の国民は、一切の意志を支配する摂理を無視するが故に、『歴史』は彼らの意志を以て恣ままに決定し得るものと信じて居る。
 1914年 ~18八年の世界戦に於て、無智なる各国の治者どもは唯だ彼らの意志の目的とする所のみを見た。而して彼らの信じて目的とする所、実は『歴史』が手段とせる所なりしことは毫厘も想到しなかった。故に彼等は、死に物狂の悪戦苦闘の後に其の最も行くを欲せず、最も到るを欲せざりし所に導かれた。

 ゲルマンの鋭き剣、ついに折れて、今アングロ・サキソンの凱歌響く。而も曾てスラブ其戈を棄てし時、ゲルマンも亦凱歌を挙げなかった。来るところの者、総てに来る。
 序次は必ず彼等にも回り来らずに止まむ。否、世界戦の真意義は、世界革命の先駆たりしことに存し、世界革命の新意義は、実に 『アングロ・サキソン』 其ものの顚覆討尽に存する。 『歴史』 が製作しつつある此の醜怪長大なる巨軀を納れんが為にほかならぬ。

 アングロ・サキソンの世界的制覇、これ第19世紀に於る最も重大なる世界史的事実である。5海洋の宗主権は彼らの掌中に帰した。地球全陸地の5分の2は彼らの独占する所となった。僅々300年以前、フランシス・ベーコンが、其の著作に用ゐるをさへ恥じたりしイギリス言葉は、今や1億2万人の母国語、5億5千万人の公用語、殆ど全世界に通用する商売語になった 。
  而して此の厖大なる 『アングロ・サキソンの世界』 は、経済組織に於て貪欲飽くなき資本主義、政治組織に於て投票箱全能の民主主義、おの両者を以て経験せる、一個無慚の地獄である 。

 

 シーリー教授、その著 『英国膨張論』 に於て、 『英帝国の発展は、当初より一個雄大なる目的を劃して之が遂行を図れるに非ず、一切の巧業より自然に他の巧業を生み,歩々自然に建設せられたるものなり』 と論じた時、彼は英国を弁護線として、その覇権獲得が無主義、無理想たる赤裸々の利己心、一切の機会を摑むことに長けたる老獪なる猾智に根ざせることを、極めて腹蔵なく白状せるものである。


 シュルツエ・ゲヴーニッツが其著『英帝国主義と自由貿易』に於て、適確精到に説けるが如く、アングロ・サキソンの最も顕著な民族思想は、実に経験主義である。

 ベーコン、ロック、ヒュームより、下りてはミル、スペンサーに至るまで一切の典型的英国哲学者、一人として経験主義者なら笊はない。故にアングロ・サキソンの特徴は、個々の事実、特殊の経験を尊んで、行動の根底を其上に置くことに存する。而も 『経験』 の吾等に教ふる所は、断片的部分的なる個々の事相にして、事物の徹底せる統一的、綜合的認識は、其の完治せざる所である。故に経験主義は、必然に全体を縦として個別を主とする個人主義たらざるを得ぬ。


 『経験』 又は 『事実』 は、普段に変化し流転するが故に、行動を基礎を此の上に築く者は、常に事実の後となり、之に追従し迎合せざるを得ぬ。かくの如きは畢竟無主義、強ひて名くれば白紙主義又は日和見主義である。
 而して 『日和』 を見る標準は彼等に取りて利己其ものの外に求むることが出来ぬ。かくてアングロ・サキソンは、徹底して経験主義者、日和見主義者、而して利己主義者である。世界を地獄たらしむる資本主義と民主主義は、実に此の民族精神に培われし毒草である。
 その覇権獲得は、高利貸の積富に比すべく、何ら徹底雄渾の理想遂行の賜物に非ざることは、すでにシーリー教授の公言せるところなるに拘わらず、過去に於る僥倖は、彼等を駆って天人倶に許さざる矜高自負に陥らしめ、ロスチャイルドの婿にして、所謂『自由党』の大臣ローズベリーは、グラスゴー大学学生に向ひ公々然演説して 『神は吾等に賜ふ世界支配の権を以てした』 と暴言を吐くに至った。


 此の暴君に対して堂々と叛旗を翻せるものは、勇敢なる独逸であった。されど独逸の挑戦は、蛇に対する虎の挑戦であった。その鋭き爪は、英米の其れと均しく近世資本主義の爪牙であった。それは貪婪の国たる点に於いて、断じて英米と択ぶ所なかった。仮令レンシュが、其著 『世界革命の3個年』 に於て、如何に牽強附会して英独戦は世界革命戦なりと力説するも、独逸の起てるのは決して革命の戦士としてではない。
 『パンの中身は既にイギリスの為に奪われ尽くし独逸に残されたのは其の外殻のみ』 とトライチケの抑え難き憤懣であった。独逸の志せる所は、イギリスが蛇の邪知を以て奪へる味よきパンの中身を、唯だ虎の暴力を以て奪還せんとする所にあった。

 独逸は 『アングロ・サキソン』 の本質其のものを否定したか。断じて、之をしない。彼等はアングロ・サキソンを罵った。而もその悪罵は、何ら彼等の本質に対して加へられなかった。そは単なる悪口雑言ではなかったか。偽善者という陳腐な非難の外に、直ちに彼等の肺腑を刺す鉄崑崙の一句でもあった乎。洵にゲルマンの心臓には、既に『アングロ・サキソン』が深く其根を下して居た。

 フランクフルター・ツアイトンク、又ベルリン・ターブラットの紙上には、英国の自由なる議員政治の華々しき光景を描ける論説が、喜び読まれて居た。彼等の経済生活が英国と異なる点は、唯だ資本家の結束、私人資本の比較的見事な統一と言ふことだけであった。かくて彼等は其敵の心を心とせる『謀叛者』たるに止まった。歴史は 『來る可き者』 の為に路を拓く役割を、彼等に課したに過ぎなかった。

 

    二 

 

 世界戦-資本的英独の争覇戦は、其の混沌の裡より露西亜革命を生んだ。而して露国革命の成就者ポルシェヴィキは、啻に露西亜帝国内の戦士たるに止まらず、△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△老獪なるアングロ・サキソンは、鋭敏無比なる利己的本能によりて、当初より此の革命の危険性を感得し、深甚なる恐怖と不安を抱いた。
 而して鈍感愚直なるゲルマンは、目前の利益に其心暗み、アングロ・サキソンが衷心の戦慄を以て呪詛せる時、却って無邪気に挊舞した。僅かに1年の後、彼等自身も遂にスラブの先轍を踏んだ。
 而してアングロ・サキソンは、先に呪咀せる同一革命に対して、今は歓喜の声を挙げた。されど彼等の凱歌は、畢竟衷心の恐怖を蔽はんが為でない乎。


 資本主義の根城、民主主義の堅塁、而してこれに拠って戦前既に世界の覇者たりしアングロ・サキソンは其の唯一の強敵ゲルマンを倒して、表面は押しも押されもせぬ世界の独裁者となった。而も前門の虎斃るると同時に、更に恐るべき狼が、彼等の背後から凄まじき咆哮の声を挙げ來ることは、恐らく予期せざることであった。
 世界は今や悉くアングロ・サキソンの前に慴伏する。この間に在りて独り彼等を戦慄せしむるものは、△△△△△△△△△△△△△△△ポルシェヴィキの外にない。故に彼等は、独逸の 『軍国主義』 を倒すと共に、直ちに引続いて露西亜の 『過激派』 と新しき戦ひを始めなければならなかった。


 世界戦なほ酣なりし頃、ロマノフ王朝の利己専制の闇を破って、新しき露西亜の生まれんとする時、聨合諸国は 『東部戦線の恢復』 を名として、兵を露国に出すことになった。
 当時に於て此の出来事は、大戦の一余波として、特別に世界の注目を惹かなかった。然るに後に至りて、この露国出兵は、対独とは徹頭徹尾別個の戦ひになることが、明白確実になって来た。対独戦争は終局を告げた。その独逸の悲惨なる 『其日』 を以て完全に目的を遂げた。
 夫れにも拘わらず対露戦争は尚ほ息まんとせぬ。否、別個の敵に対する別個の戦いが、最後の終局まで戦はれねばならない。かくて巴里の平和会議は 『過激派』 を敵とする新しい戦争の準備会議となり、最高会議は終に参謀会議となった。

 

 此の新しき戦ひは、同一主義の上に立てる利害の衝突を原因とする利己私欲の争ひではない。それは主義と主義との争ひであり主張と主張の衝突である。即ち一方 『アングロ・サキソン』 の一語により適切適確に表現せらるる資本主義、民主主義は他方 『ポルシェヴィキ』 の一語に代表せるる新組織に対して必死の格闘を続けている。


 日本は、至深の関心を以て、此の死闘を見る。アングロ・サキソンは、固より決死の努力である。彼等は飽く迄も其の敵を倒さずば息まぬ覚悟を以て、周囲に対して巧妙を極むる戦争に従ふ。彼等は内なるポルシェヴィキに備へ、外なるポルシェヴィキと戦ふと共に、旧来伝統の権力を弥が上に強大ならしめんとして、昔乍らの貪欲の婪の眼を、弱小疲弊の民族に向けて所謂『神』より賜われ世界支配の権利を遂行せんとする。


 英国を見よ。既にアジアの大分を奴隷とせるに拘わらず、戦時戦後の混沌に乗じて、蛮勇アフガンを完全に隷邦とし、太陽の国波斯(ぺるしゃ)を第二のエジプトとし、毒手更に 『世界の花園』 中啞に及び、更に西蔵を援有して遙かに支那の中原に進出せんとする。
 米国を見よ。南は太平洋上に点々とする飛石を踏んで、英国と共に大漁支那を俎上に載せんとし、北はアラスカより北氷洋を越えて極東西比利亜に伸び、一路南下して満蒙に迫る。彼等の勢威は、少なくとも表面に於て、旺向して止まる所なきの観がある。


 翻って一方 『ポルシェヴィキ』 を見る。スラブの戦士は、当初よりWorld`s revolutionを標識とし、而して今日に至るまで忠実之を奉じて苦戦を続けた。△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△総ての革命又は革命が然る如く、露国革命も亦其の勃発に際して、必要の限度を逸出した。
 多くの過誤ありしことも亦事実である。彼等は少数者が国民の物質的利益を壟断する資本主義、経済的無政府主義を、其の根本に於て否定し、国民全体の福祉を至極の関心事とする労働主義に拠って、経済的生活の綜合的統一を将来せんと努めた。而して之と共に資本主義の政治-所謂民主政治を弊履の如く放擲した。

 愚直なる世界の民衆は、英米資本家の宣伝に欺かれて、民主主義は資本主義の敵なるかに空想する。而も民主主義は、仏国の社会主義者のドレージーが、其小著 『來る可き戦ひ』 に於て骨を刺すの辛辣を以て爬羅剔抉せる如く、資本家其者こそ 『民主主義の指導者、其の最も忠実なる奨励者、扇動者である。否、彼等は実に民主主義の発明者である。民主主義は一個の黒幕である。資本家は其後に隠れて、強奪を擅にし、此幕を以て国民の憤怒攻撃に対する最良の堡塁とする』 。

 
 蓋し民主政治の本質は、多数を以て絶対とする点に在る。而も多数とは、個々の主観の器械的合算ではないか。真理は 『質』であって 『数』 ではない。
 そはゲーテが 『最も嫌悪すべきもの』 と道破せる 『多数-能力乏しき先駆者、適応力ある無頼漢、同化され易き弱者、自己の為なすべき所を知らずして唯だ他人に追従する民衆よりなる多数』 によって定めらる可きものに非ずして、透徹明朗なる理性のみ、能く認識し得る所のものである。
 加うるに民衆的議会政治は、国家を器械的、地理的に分割して、代表者を選出するが故に、其代表は毫末も国家生活を有機的に代表するものではない。
 此点に於て革命露西亜の権化トロッキーが、△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△ 民主的施設を一蹴し去り民族の産業的生活に即して有機的なる政治組織を断行し、善く選ばれたる少数者の理性によりて、新露西亜を統一指導して居ることは、相当注目に値する試みである。

 

    三

 

 然るに独逸の為す所は何だ。彼等は革命の第一歩を踏みだし乍ら、戦士としての自己の使命を知了せず、低徊し狐疑しつつ半途に彷徨する。試みに露独革命を比較せよ。其の方法に於てその行程に於て、何たる甚だしき懸隔ぞ。一は革命後の建設は断じて言論による可からずとして、理性の命ずる所に従って専制を敢行した。

 然るに独逸に於ては、革命後直ちに国民議会を招集し、輿論に基づいて新独逸を建設せんとした。彼等は仏国革命がナポレオンの専制によりて遂げられたことを無視した。目の当り露西亜革命がレーニンの専制によって成就えることに目を閉じた。

 仏国に於て議会が其力を奪はるることなくして、露国に於てレーニンが機関銃を議会に向かって発砲せらるることなくしては、到底革命を遂行すべくも無かった。
 蓋し革命後の 『議会』 は、革命によって権力を奪われた者が、言論によって其の特権を恢復すべき唯一の門として、例外なく利用せらるるが故である。且つ独逸革命の中心勢力は、言ふ迄もなく多数社会民主党出会った。
 彼等は戦前に於いて既に議会の大政党とし全議員の100分の28を占めて居た。彼等は旧独逸に於て、既に『勢力』を享有せる、旧制度の適応者となり得て居た。否、彼等は、彼等の党名-形容矛盾Contradiction in adjectoの非難を免れざる党名が、明らかに示すが如く、実に形式的デモクラシの信者なりしが故に、必然英米議会政治の謳歌者であった。

 
 革命せられたと称する独逸を見よ。 『革命せらる可き旧独逸』 との間に何等の本質的相違があるか。その最も著しい特徴は独逸を英米化せる点ではないか。社会民主党多年の理想が殆ど豪末にも行われて居ないではないか。経済組織の変更に関して最も肝要なりとせらるる経営協議会法の如きすら、労働者に向って事業経営に参与する権利を全面的に認めて居ないではない乎。

  それで何処が革命だ。愚鈍なる独逸よ、汝の強敵は、汝の衷なる、並びに汝の外なる 『アングロ・サキソン』 -民主主義、資本主義である。汝、その燃ゆる憎しみを、外、英米に向くる時、先ず之を自己の衷に向けねばならぬ。世界的変乱は今将に酣である。
 一方 『アングロ・サキソン』 は、英米相鬩ぎつつも其共同の敵と戦ひ、他方 『ポルシェヴィキ』 は露独尚扜格しつつも、次第に歩調を一にして邁進してゐる。


 日本の政治家、口に大勢順応を繰り返す時、彼等果たして明確に其の大勢を知る乎。若し之を知らば日本をして如何に此の大勢に順応せしめんとする乎。世界は戦ひつつある。此戦ひの孰れかに与らずして、所謂大勢に順ふことは出来ぬ。
 『アングロ・サキソン』 に与するか。英米の強大は実に日本存立の至深の脅威ではないか。然らば『ポルシェヴィキ』 に与する乎。日本の精神の裡に、漸く力強く巣食へる 『アングロ・サキソン』 の頑強なる抵抗を如何。日本は正に進退両難のジレンマに置かる。
                                   
        ( 『解放』 第二巻第五号、大正9年5月)


大川周明 時事論集 第一篇 第二維新の発祥期 三 世界史を経緯しつつあるニ問題

2018-08-28 22:13:47 | 大川周明


 大川周明  時事論集 

 第一篇 第二維新の発祥期



三 世界史を経緯しつつある二問題

     一

 世界史を舞台として、雄渾深刻なる戯曲、いま吾等の前に演せられつつある。
此の戯曲の真相は、後代の人々には明白になるであらう。
而して深甚なる感激を彼等に与へるであらう。
演劇の進むにつれ、徹底して新しき世界秩序次次第に吾等の前に展開し来る。

 世界は、歴史の末だ會て知らざる徹底的革命に面して居る故に
数限りなき事象が紛糾錯雑を極めて吾等の周囲に起伏する。

 然も共等一切の事象のうち、真個世界史的意義を有するものは、
まがふ可くもなく唯だ二つである。

 世界史を経緯しつつある此等二個の事実を、明白確実に領会することは、
取りも直さず非常なる世界変局の真相を把握する所以である。

 二個の事実とは何ぞ、一は即ち国内部に於ける階級争闘であり、
他は即ち国際間に於ける民族争闘である。

 固より此等の戦ひは、今日に始まれることでない。
そは人類国家ありて以来、一貫して戦はれたる争闘であり、社会進化の原動力であった。

 社会主義者の或ものが、偏へに階級争闘による社会進化を力説して、
民族争闘に其眼を閉ちるは笑ふ可き僻見に過ぎぬ。


 経済的生活が最も高調される現代に於て、
階級争闘は富者に対する貧者の宜戦として現はわれた。

 而して欧羅巴の世界覇権が確立された今日に於て、
民族争闘は白人に対する非白人の反抗として、
更に具体的には、亜細亜復興の努力として現はれた。

 世界史の進行によって、今将に解決せられんとするものは、
実に労勵問題並に亜細亜復興の問題に外ならぬ。

 

         二 

 世界戦の行程に於て、資本対労働の対抗は、次第に深刻を加へて行った。
而して戦前に於ける所謂亜細亜問題は、
貪婪なる欧洲列強が、如何に俎上の亜細亜を彼等の間に分配するかの争ひであったが、
戦局の進むにつれて、問題は茲に其の性質を一変し、
侵略劫奪の欧巴に対する亜細亜復興の努力となった。

 

 世界戦はベルンハルディを代言人とせる独逸の強力主義と、
英仏米のブルジョア自由主義との戦闘なりしが故に、
此の当面の勝敗が決せらるるまで、
他の最も重大なる二問題は、暫く背後に潜まざるを得なかった。

 故に世界戦の酣なりし時、労働対資本の争闘は、
いづれの国に於ても休戦の状態に在った。

 併し乍ら此の休戦は、何等決定的理由に基けるに非ず、
唯だ緊張し集注せる国民的感情が、伝襲的社会主義の空漠なる国際主義に比して、
比較にならぬほど強大であった為に外ならぬ。
 同時に所謂亜細亜問題も、亦一時中断の姿であった。

 それのみならす、人道と自由とを明実とせる聯合諸国は、
民族自決、独立、乃至自治等の誘惑的標榜を掲けたるが故に、
独立の力なき亜細亜の諸弱小民族は、
その勝利が彼等に向って大なる希望を鼓吹するが如く見えたる聯合国側に加担した。

 世界戦は終った。
 必然の進行として一時共の影を潜めたる二個の根本問題が更に深刻なる姿を以て現れた。
資本と労働との抗は、今や新しき戦局に入り、二個の到底相容れざる抗争原理が、
一切の狐疑逡巡を排して、最後の決戦を試むべく進みつつある。

 而して亜細亜に於ては、欧羅巴在来の支配に対し、
亜細亜諸民族は明白に平等と独立とを要求し始めた。

 今尚ほ当面に徂徠しつつある一切自余の問題は、
死せる過去に属する諸問題の余波に過ぎぬ。
近き将来の生命ある問題は、決して唯だ此等二つである。

 

               三

 いま全欧羅巴を通じて、
社会主義並に資本主義が、其の全陣容を整へて、面々相対峙して居る。
然も両者は未だ相戦ふに至らぬ。

 従来のプルジョア階級は、依然として優越なる物質的力を擁し、
見えざる将来の為に危険を冒すよりは、
現在の不幸を忍ぶを常とする多数人の心理を援とし、
一切の力を糾合して、其の地位を保持せんと苦心して居る。

 そは露西亜に於ける社会主義革命政府の実現に戦慄畏怖した。
而も今日に至るまで、之を孤立せしめ、之を封鎖し、
而して之を飢寒に陥れ、
且つその西慚を阻む防波堤を建設することに成功して来た。

 露西亜以西の真個の革命運動は、法律的又は軍事的手段によって鎮圧されて来た。


 然も一面に於て世界の経済状態は、戦後年々窮境に陥り、
之に伴ひて従来の資本主義は、啻に其の道徳的信用を失へるのみならず、
他の解決を峻拒し乍ら、
己れも亦自ら惹起せる物質的諸間題を解決する力なきことを暴露するに至った。

 

 吾等は到る処に旧権力の結束と集注とを見る。
此の現象は革命仏蘭西と欧羅巴との戦の後、
その第一の結果として起れる旧き君主政治・貴族政治の結束と集注とに、
著しき類似を有する。

 而も今日の結束は、
仏蘭西革命以後の夫れに比し、力於て劣り且つ永続の可能がない。

 蓋し今日に於ては、革命の力が、当時の如く疲弊し困憊せるに非ず、
唯だ一時阻止されて居るだけであり、
且つ革新を要望する力の集積は当時の夫れに比して甚しく強大なるが故である。

 政治的、社会的、経済的革新の衆多の力は、今や阻止せられ、
圧迫せらるる毎に、到処益々強大を加へつつある。

 

        四

 露国革命の成功及び進歩は来る可き形勢の鮮明なる予兆である。
世界戦は、英吉利の膨大を招けるが為に非ず、
独墺の没落せるが為に非ず、
唯だ露国命を招来せるが為に、永く後代に記憶せらるるであらう。

 露国革命の意義は、共の社会的価値に存せず、
又は現在のポルシヴェキ政府の存続如何にも存せぬ。

 恐らくボルシヴェキ執権は、恰も最高会議が、旧権力の一時的集注なるが如く、
過渡の一機関であり、
革命的勢力の一時的集注に過ぎぬであらう。

 而も此の革命政府の業績は、真個驚異に値する。
そは不断に内外両面の敵に襲はれ、
峻酷なる封鎖の下に飢塞の極に押やられ、
屢ば没落の危きにしつつ、能く一切の難局を打開し、
常に困難の間より新しき力を獲得し、
混沌の間より強力なる政治的並に軍事的機関を組織し、
終に新社会の基礎を築き上げた。

 そは真に仏蘭西革命の間に於けるジャコピン党の業績と共に、
一個人間精力の奇蹟である。

 

 ボルシヴェキの国家が、
望ましきものであるか、
又は此れが新しき社会の必然の形態であるかと云ふことは吾等の当面の関心事ではない。

 吾等にとりて重要なることは、
一個の偉大なる国民が、徹底して過去の制度を顛覆し社会主義の極端なる実行を敢てし、
プルジョアの議会政治に代ふるに一個新しき政治組織を以てし、
全然新しき社会秩序の創造の為に、
其の全力を挙けつつあると云ふ共ものである。

 そは確信と勇気との仕事である。
而して人類の進歩を促進し激成せるものは、常に此種の確信と勇気とであった。

 

      五

 社会主義が、其歩武を西欧に進めるには、
尚ほ若干年月を要するであらう。
而して其間に少からざる修正と変化とを経るであらう。
さりながら形勢は次第に迫りつつある。

 今や西欧の労働運動は、到るところ社会政策的より社会主義的に移り、
従って必然革命的注質を帯ぶるに至った。

 社会的地位の向上と参政権の獲得とを目的とせる曩日の運動は、
資本主義的制度の徹底的否定と化し、
労働を以て富に代ふる社会的基礎及び統治的権力たらしめんとする戦ひとなった。

 労働運動は斯くして革命的となった。
ただ其の創造せんとする新しき社会の具体案に至りては、
各団体の主張に杆格あるが故に、
未だ悉く歩調を共にするに至らず、
従って資本主義との決戦を躊躇して居る。

 されど一切の躊躇に拘らず、その趨向は既に明白であり、
その帰着も亦明白である。

             

 現在の欧羅巴文化の制度は、
少なくとも其の資本主義的組織の姿に於ては、
最早如何ともす可からざる窮極に達した。

 そは晩かれ早かれ死すべくである。
 而して之に代わるべき制度は、
露国に於て企てられつつあるものと同型の社会主義的組織か、
若しくは新しく而して未だ顕はれざる原理の出現でなければならぬ。

 

    六

 新しき社会原理の出現に関する可能は、亜細亜の復興である。

 會て自由に思索し、自由に行動し、自由に生活せる亜細亜が、
今後も永く欧羅巴進化の跡を模倣して満足すると云うようなことは信ずべくもあらぬ。

 亜細亜の魂は、その構成に於て、その活動に於て、
欧羅巴の夫れと深刻に異なって居る。
 従って亜細亜の生む所のものは、それが真に亜細亜の所産である限り、
欧羅巴が生めるものと同一である筈がない。

 さり乍ら現在に於て亜細亜復興の運動は、尚未だ序幕に過ぎぬが故に、
其の主とする所は、自己の正当なる権利の回復にありて、
独立せる創造的思索乃至活動に着手するに至らぬ。

 

 所謂亜細亜不安は、
亜細亜復興の自然の径路である。

 そは埃及より支那に到るまで、種々なる形態を取りて現れ集て居る。
回教民族に在りては、保護統治、委任統治の拒否、回教諸国の聯盟運動として現はれ、
印度に於ては完全且つ迅なる自治の要求として現はれた。

 而して此等の運動は単に政治的のものでない。
その底深く流るるものは、竟に徹底して精神的である。

 亜細亜が求むる所のものは、単に政治的独立でない。
そは欧羅巴文化の侵入に対する精神時的独立を強く求めつつある。

 印度に於ては、亜細亜的デモクラシーが主張され初めた。
回教運動は疑ふべくもなく、同時に政治的であり、且精神的である。
委任統治乃至保護統治を拒否するは、
言ふまでもなく欧羅巴の政治的支配並に経済的掠奪を拒否するのである。

 

 而も其以上に更に之を斥くる深き理由がある。
蓋し欧羅巴が掠奪の目的を遂げるためには、
亜細亜の御生活を欧羅巴の資本主義並びに産業主義に鋳直さねばならぬ。

 而して亜細亜は此の生活の改鋳を悪無のである。
此の二重の独立に対する要求が、実に亜細亜不安の原因であり、
且つ亜細亜復興の真意義である。

 

   七

 欧羅巴資本家政府は、
亜細亜の不安に困惑し、表面に於て妥協譲歩し、
事実と主義に於て之を否定することによつて、当面を弥縫せんとする。

 例へば印度は責任政府の創設を許されず、
唯だ之に向っての『確実』なる予程だけを与へられた。

 而して印度は、
完全なる自治を得る為に、
英国精神に象りて政治的・経済的・社会的に改造を準備せよと求められつつある。

 

 仏蘭西軍隊は、
ダマスクスを占領して、人民の選べる君主と政府とを放逐し、
欧羅巴と利害を共にする『真個の』政府を組織してやると宜言した。

 英吉利は、
自己の擁立せるアラビヤ政府にメソボタミアを提供し人民の起って之に抵抗するや、
其『蒙味にして無智なる独立の企図』を圧迫する為に兵を用ひつつある。
 波斯に対しては『保全』を標榜して之れを保護国とせんとした。

 

 土耳共は厳格なる国際管理の下に『自由』を与へられ、
且『近代文明国家となり得べき此空前の幸福と機会』とを、
希臘軍隊によって強要されるのだ。さり乍ら総じて上の方法が、
決して亜細亜不安を払拭する途に非ざることは明白である。

 

 欧羅巴は永く斯くの如き政策を続けることが出来ぬ。
そは既に救ひ難き財政状態を益々窮境に陥れて、
国内の社会的革命を促進する有力なる一因となるであらう。
 然らずとするも、既に覚醒し初めたる亜細亜は、
必ずや早晩一切の難関を打開して共の求むる所を得ねば止まぬ。

 

    八

 将来を支配する二つの力、
革命の欧羅巴と復興の亜細亜とは、現在のところ少くとも精神的に相結ぶ傾向がある。

 各国の労働党は、現に激しく政府の政策に反対して、
隷属国民の要求に応援を与へて居る。

 赤露は旧露国内に於て民族自決を許し、
波斯を助け、土耳其に声援して居る。

 此の傾向は、恐らく共通の圧制に対する反対に根ざせる同情に基くものであらう。

 或は一時の利害関係からの事であらう。
若し然りとすれば、何等か恒久的根柢なき限り、
両者の提携は一時的のものでなければならぬ。

 仮令革命露西亜が、ジョルジア又はアゼルバイジャンにソビエット政府を建設するにしても、
若し此等の政府が偶然的性質のものであるならば、
換言すればポルシェイズムが此等の民族の本能・性格・思想のうちに存する奧深き或ものと、
一致し契合するに非らざれば、そは断じて永続するを得ぬ。

 また英国の労働党にしても、印度に自治を許すことは、
自己の抱持する社会的・経済的意味の進化を予期しての事である。
 然も自治を得たる印度は、必ずしも西欧の進化を其侭に踏襲するものでない、
或は英国労働覚の夢想だもせざる印度自身の社会的経済的組織を実現するかも知れぬ。

 

    九

 叙上の事情の下に、
吾等は恒久的秩序の確立を、尚ほ遠き未来に期待せねばならぬ。

 今日の均衡は、何等永続性を有して居らぬ。
そは一時の行詰りである。

 従って吾等は、或るモメンタムが加はるか、
若しくは事情が圧抑せられつつある力に起の機会を与へると同時に、
必ず非常なる事変の勃発すべきことを予期せねばならぬ。

 而も吾等の至極の関心事は、
如何なる事情が此等の力の為に路を拓くかと云ふことでない。
機運は其の熟し来るや、一切の事情を利用する。

 吾等の真に知らねばならぬ事は、彼等の進む方向、並に彼等が包容する意味である。

 社会主義的制度の発達と亜細亜の復興とは、
疑ひもなく大なる変化を招来するであらう。

 然も其の変化は、尚未だ人類の理想の実現であるまい。
社会主義は、今日よりも人類の生活に大なる平等と密接なる結合とを実現するかも知れぬ。

 而も若し社会主義の齎らす変化が、
単に物質的のものであるならば、
そは他の更に必要なるものを失ひ、
人類の器械的重荷を一層堪へ難からしめぬとも限らぬ。

 亜細亜復興も、
単に諸民族の独立によって国際的均衡のやり直し巻に終るだけならば、
人類文化の発展に何等本質的なる貢献をせぬであらう。

 

     十

 然るにいま世界を支配せんとする叙上二個の力は、
二つの偉大なるもの――欧羅巴の精神と、
亜細亜の魂とを代表する。 

 希臘思想と基督教とに鍛へられ、
更に科学によって練られたる欧羅巴精神は、
知識と物質と生活との自由、
共同生活体に於ける平等と連帯、
思想と感情と行動との実際の友愛を実現することによって、
人類の進歩又は完全を、招徠し得べしとの観念に到達した。

 而して近代欧羅巴の努力は、
自動的に此の結果を生ずべき社会制度を発見し確立することに在った。

 

 之に対する第一の方程式は、
個人的民主々義、政治的自曲と法律的平等との制度であった。
而も其の結果は、吾等が現に目撃する如き惨酷なる社会的不平等、
経済的掠奪、不断の階級争、黄金と器械との唾棄すべき支配を生むに終った。

 

 かくて今や第二の方程式が提示された。
 そは自然の不平等の裡に、理性と科学との力によって、
出来る限り絶対の平等を実現せんとするもの、
共同生活に於て出来る限り絶対に労働を平等にし利得を平等にせんとするものである。

 第二の方程式が、第一よりも成功すや否やは、大なる疑問である。
何となれば此の方程式は、当初は唯だ最も苛酷なる強制によってのみ支持せらるべく、
少くとも人間は一時其の自由を奪はれねばならぬ。

 加ふるに第二の方程式の提示者は、
精神に於て実現せられざるものは、
之を生活に実現することが出来ぬと云ふ根本の困難を無視して居る。

 

 人は共の精神に於て自由であり、
融合がある時にのみ、初めて生活に於ても自由・平等・友愛を実現し得る。

 そは可変不定なる、
而して禀賦と本能とによって常に左右せられ勝なる思想や感情の能くする所でない。
之が為には、深刻徹底せる魂の革新を必要とする。

 欧羅巴は、漸く此の必要を認め初めた。
然も今日に於ては、彼等の主力は、尚ほ合理的方式と器械的能率の発見及び実現に傾到されて居る。

 

     十一

 亜細亜は、
従来欧羅巴の如く社会的進歩の為に全力を傾倒したことがない。
 その至高の努力は実に内面的・精神的自由の体得に存し、
且之によって偉大なる平等一如の精神的原理を把握した。

 而も亜細亜は、此の原理を社会生活に実現する為に努力することなかった。
その結果は、内面的個人生活と、外面的社会生活との分離を招いた。
吾等は特に印度に於て、最も鮮明に此の悲しむべき実例を見る。

 

 印度に於ては、
精神生活に於ける最勝者が、社会的生活を出離して山林に隠れた。

 而して此の出世間的禁慾生活は次第に彼等の証悟せる精神的原理を硬化せしめ、
遂に之を以て人間の社会に於ては実現し難きもの、
社会を離れてのみ実現し得るものたらしむるに至った。

 

 さり乍ら亜細亜は、
欧羅巴多年の抑圧専制の後に、現実の生活問題に面せざるを得なくなった、
而して欧羅巴とは事異なれる方法に於て、之を解決すべき必要に迫られつつある。

 亜細亜は、
欧羅巴の経験せる産業制度、その第一相としての資本主義、
その第二相としての社会主義を模倣するかも知れぬ。

 されど若し斯くの如くんば、亜細亜復興は、
人類の努力に何等新しきものを加へぬことになる。

 又は復興の亜細亜と革命の欧雍巴との融合が、
両者の最高の理想――内外両面の自由・平等・友愛を実現す可き真個の組織を生むかも知れぬ。
然り、之れ実に今日吾等が抱懐し得る最大の希望である。

 

     十二

 此の如き世界史の偉大なる転回期に於て、
日本の地位は真個特殊のものである。
 そは亜細亜にて名実共に独立を保持し来れる一国てあり、
且欧羅巴の制度を採用して共の社会を組織せる唯一国である。

 日本は、欧羅巴の社会制度を踏襲したるが故に、
その経済組織に於て必然資本主義の確立を見た。
而して資本主義刔は世界戦争中に於て最も著しき速度を以て発達した。

 日清日露の両役によって、
日本が武力的に欧洲列強と同位に進んだとするならば、
世界戦によって、日本は初めて欧米と伍し得べき資本主義的発達を遂けたと言ひ得る。

 故に今日日本に於て見る社会不安は、程度の差こそあれ、
本質に於ては西欧のそれと同一のものである。

 

 さり乍ら、日本は此の問題を西欧に模倣して解決すべきか、
西欧の社会主義を如実に借用して、新しき日本を組織す可きか。

 吾等は断じて否と答へる。
 吾等は亜細亜精神の権威によって、
日本の改造は、単なる西欧の卑しむべき模倣であってはならぬと断言する。

                                                                

 日本は亜細亜国家として、
亜細亜本来の魂の自由、内面的平等、糖神的統一を、
千年に亙りて鍛練して来た。

 而して亜細亜に於て日本のみが、
西欧の科学的知識を咀嚼し消化した。
同時に日本のみが儼乎たる独立国として、
自由に創造の大業に従ひ得る地位に在る。

 故に革命欧羅巴と復興亜細亜とが、
来るべき世界史の経緯であるならば、
その第一頁を書くものは日本でなければならぬ。

 東西一切の要素を抱擁する日本の魂から、
若し日本が真個に自覚して、
独創的に考え且つ行うならば、
必ずや新しき或るものが生れるであらう。


 未だ知られずして然も出現を待ちつつあるもの、
未だ『時間』の実験室に於て試みられず、
未だ『自然』の意匠に於て描き上けられざる或ものが、
日本の国民的生活の上に実現せらるることによって、
世界は初めて、真個進歩の一段階を登るであらう。

 日本国民は、此の神聖なる事業の為に、
その身体と精神との全力を用ゐねばならぬ。




大川周明 時事論集 第一篇 第二維新の発祥期 二 世界戦(第一次)と日本

2018-08-27 11:43:34 | 大川周明

大川周明 時事論集 第一篇 第二維新の発祥期 


二 世界戦(第一次)と日本

  『曾て土耳古の弦月旗ありき。ヴェルサイュ宮殿の会議が、世界の暗夜なりしことは、其を主裁せる米国の星旗が默示す』。然り、少くとも欧羅巴は、1914~18年の世界戦を以て、明白に暗夜に入った。而も暗夜の前には黄昏がある。欧羅巴の白日は、第19世紀と共に終った。
 日第戦争は実に共入相の鑪に外ならなかった。『富者』に対する勝利の路が、世界戦によって『貧者』の為に拓かれたる如く、日露戦争は『富国』に対する勝利の路を、400年来初めて『貧国』の前に開いた。世界革命戦の序幕は、既に1904~05年の日露戦争によって開かれたのだ。

 

 故に此戦ひは、白人に対しては暮であり、同時に非白人にしては晩鐘であった。明治大帝の日本が、金剛の信を以て降魔の剣を執り、四百年来劫掠の歩みを続けて、未だ曾て敗衂の辱耻を異人種より受けざりし白人の侵略に対し、最初の而して手酷き一撃を加へたことは、白人圧迫の下に在る諸国に、希望と勇気とを作興し、列強横暴の下に苦しむ小国に、理想と活力とを鼓吹した。

 

 日本国の名は、冬枯れの木々に、春立帰りて動き来る生命の液の如く、総じて虐げられたる民、辱められたる民の魂に、絶えて久しき希望の血を漲らしめた。今万国の無産者、レニンの名に其の胸を躍らす如く、日本国の名、当時世界の弱小国に救済者と響いた。印度の家々の神壇に、彼等の宗教改革者ギユーカーナンダの肖像と相並んで、明治大帝の真影が飾られ初めた。

 波斯の新聞は、テーランに日本公使館の設置、日本将校の招聘、日波貿易関係の促進を力説し、『強きこと日本の如く、独立を全うすること日本の如き国たらん為に、波斯は日本と結ばねばならぬ、日波同盟は欠くべからざる必要となった』と論じた。

 

 埃及に於ける国民主義の機関紙アルモヤドは、日本が回教国とならんことを切望し、『回教日本の出現と共に、回教徒の全政策は根本的に一変せん』と論じた。かくて土耳古革命に次ぐに波斯革命を以てし印度及び埃及にける独立運動の勃興となった。


 当時に於ける彼等の感情を、最も切実詳明に表白するものは、埃及の国民主義者ヤヒヤ・スイツディクが、其著『回教紀元第14紀に於ける回教睹国民の覚醒』に結べる烈火の文章であるー『堅く信ぜよ、希望せよ、希望せよ、希望せよ。吾等明かに一歩を踏出した。吾等をしてに出でしめたるは、実に欧羅巴の横暴其ものに外ならぬ。
 吾等の進化を促がし、必然吾等の復興を促がすもの、また実に吾等欧羅巴と不断に接触するが故である。そは簡単明瞭に世界史の循環に外ならぬ。神意は一切の障壁を粉砕して、断乎として実現を見る。欧羅巴の亜細亜に対する後見は、日時に日に名目のみとなり、亜細亜の諸の鉄門は、彼等に対して鎖されつつある。吾等確実に世界史の未だ知らざりし革命の出現を、明白に吾等の前に洞察する。洵に新しき世、来ること近し』と。

 

 今の世の『富者』が、レニンの天下は三日天下と多寡を括りし如く、当時の欧羅巴は、日本勝利の世界史的意義を徹底して把握することが出来なかった。唯だ少数の先覚者のみ、能く此の入相の鐘に諸行無常の響を聴いた。


 仏蘭西のルネ・ビノンは其少なき一先覚、1906年の著『太平洋の争覇』の中に、下の如く述べて居る。曰く『現代欧羅巻巴は、日露戦争の教訓を学ぶの用意なく、且之を領会せぬ。其日暮しの政策に満足し、総括的識見即ち精神主義を無視し、目前の利益に安心し、遠大の計を樹て得ざるもの、是れ現代諸国の本質より来る当然の結果。
 今日の欧羅巴に於て、何処に聯盟の原理を求め、何に聯盟の基礎を置き得る乎。余りに多くの異れる利害関係、余りに多くの相容れ明ざる野心、余りに根強き嫉妬憎悪、余りに跋扈する魂なき人間、此等のもの相合して欧羅巴精神の真個の声を葬むる。

 

 日本の実力は、其の聯隊と軍艦とに存せず、実に欧羅巴の不和に存する。然り、欧洲諸国に、目前の利害を超じたる一個の理想なきこと、共同の感情に其胸を躍らしめ得ざることに存ずる。真の禍は、実に潜んで吾等の衷にある』と。

 

 彼は真個透徹の先見者、日露戦争以後の欧洲は、正しく彼の憂へたる方向に進んだ。而して1914年の世界戦を以て、欧羅巴は黄昏より暗夜に入ったのだ。


 世界戦は、其の胎内に社会革命を孕み、露独の社会主義国家を生んだ点に於て、重大なる意義を有するのみならず侵略劫奪の欧羅巴没落を暗示する新ペロポネソス戦争として、特殊の重大なる一面を有する。吾等の今ま検討せんとする所は、世界戦の階級争闘史的方面に非ずして、其の民族争闘史的意義である。『失ふ所のものは唯だ鉄鎖、得る所のものは実に世界、万国の無産者よ団結せよ』とは、名高き共産党宜言の結語である。而も欧羅巴諸国に於ける労働者の心理は、マルクスの仮定せる所と全然異なって居る。

 ラッセルが『自由に到る道』に述べたる如く、欧羅巴に隷属せしめんが為に『亜細亜、阿弗利加を縛る鉄鎖は、半ば労働者によって鍛えられた。労働者自身が、専制と劫掠の一大制度の一部分』である。 

 故に欧米労働者を縛る鎖が、資本主義の顛覆と共に寸断せらるることありとするも、白人以外の隷属民族を縛る鉄鎖は、決して取り去られぬと云ふことを、明瞭確実に知って置かねばならぬ。

 ラッセルは之を例証する為に、濠洲及び加州労働者が、黄色人種に対して激しき嫌悪と恐怖とを抱く事実を挙け、其の最も根本的なる原因を労働の競争及び人種的憎悪に帰し、前者の困難は之を克するに難からざること現に白人移民に対して何等排斥運動の起らざるを見て知り得べきも、人種的博悪の本能に至りては、容易に之を払拭し難きを述べ、仮令双方が社会主義国家となっても、其間の争闘を免れぬと論じて居る。

 

  彼の言は正しい。亜細亜並に阿弗利加は、自己の力を以て自己を解放せねばならぬ。真理を蔽はるる精神的鉄領は恥づべくある、自由を束縛せらるる権力的鉄鎖は痛ましくある日露戦争深甚の默示は、実に世界をして真理と自由との天照らすところー即ち正義の輝くところたらしむべく、日本其のものが選ばれたることに外ならぬ。

 

 是くの如き見地に立つ時、欧羅巴全体を一団として、世界戦が此の民族全般に、就中その世界的覇権に、如何なる本質的影響を与へたかを明瞭にすることは、吾等の重大なる関心事となる。

 

 世界戦は、ロスロップ・ストッツダードがいみじくも譬へたる如く、正に新ペロポネソス戦争である。ペロポネソス戦争が、希臘文明の自殺、その没落の前提たりし如く、世界戦は端的に欧羅巴覇権没落の前提である。固よりペロポネソス戦争が初めて戦はれてより、共のマケドニアに併合せられたるまで約一世紀、更に羅馬の為に征服せられて、Graeculusが劣等なる人間を意味する名詞とまで成下がれるは、また百年の後であった。欧羅巴人が第二のGraeculusとなるのは等しく百年の後、二百年の後であらう。 

  而も世界戦と共に、彼等が到底挽回し難き坂を下り初め事たること、猶ほペロポネソス戦争に於ける希臘人の如しとする推定は、決して肆ままなる独断でない。十字軍により時て興り、世界戦によりて倒る。これ実に彼等の定められたる運命である。欧羅巴は己に不起の病に冒された。吾等は其の種々なる症候によって、彼等の民族的疾病を診断せんとするものである。 

 

  吾等は先づ欧羅巴が世界戦によって蒙れる物質的損害を点検する。第一に彼等は幾何の富を失ったか。

 精確なる戦費の計算は固より不可能とするも、ボジャート教授の概算するところによれば、交戦諸国の直接戦費約3720億円、間接戦費3020億円、併せて実に6740億円に達する。而も此の想像を絶する巨額の損失は、教授が巻附言せる如く、『世界戦が人間の活力・生計・道徳・乃至共他の社会的関係並に活動に向って加へたる破壊と混沌と第を全然度外に置けるものである』。

 

 富の損失は爾く大である。而も生命の損失は更に恐るべくある。前後50余箇月に亙りて動員せられたる交戦諸国の総兵数は約6000万、戦病死者入800万、負傷者1900万、俘虜700万を算する。而して此の数字は、直接戦闘に参加却せる者のみを計上せるもの、若夫れ之が原因となって諸国の人口に及ばせる間接の影響に至っては、真に不可測底である。

 多くの学者の一致する所によれば、今の戦争に於ける兵士1名の死は、飢餓・棄児・堕胎・疾病・虐殺等による市民5名の死亡を伴ふ。こは波蘭・露西亜・土耳古・セルピヤに於て最も甚だしかった。戦争に原因せる西班牙感冒並に肺炎に斃れたる者の数だけでも、欧羅巴を通じて400万と推定せられて居る。而して戦争に伴へる出産率の減退も、亦言ふまでもなく非常であった。

 

 世界戦が欧羅巴の人口に及ほせる影響は、仏蘭西の例を見るとき、最も明瞭である1914年仏蘭西の人口3970万、戦時中に動員せられたるもの約800万、そのうち140万は死亡し、300万は負傷し、40万は俘虜となった。負傷者のうち約80万人は癈者となった。かくて仏蘭西は最も見事なる200万以上の生命を失った。而して一般市民の上に就て見るも、戦争4年間の死亡者数は、出生者数より多きこと毎年平均約30万に達して居る。而も是くの如き結果は、老年者の死亡率が高まりし数に非ず、出生率の著しき減退に由るものなる点に於て、最も寒心すべくある。

 

 即ち仏蘭西の出産数は、1913年に於て約60万人なりしもの、1916年には僅かに31万5千人となり、1917年には34万3千人となって居る。故に総てを概括すれば1913年より19年に至る6年間に仏蘭西の人口は約300万の減少を見た。而して是くの如きは独り仏蘭西のみの事に非ず、交戦諸国を通じて、多かれ少なかれ、同様の現象を見ざるは無い。

 

 出生率の減退は、決して世界戦と共に始まったのでない。そは第19世紀の末年に於て、既に殆ど総ての白人諸国に共通なる『世紀末』の一症候であった。而も其の減退の程度が、上流階級・知識階級に於て薯しく、下流階級に於て少ないと云ふことが、最も優種学者の憂虞措かざる所であった。就中避妊の行はるること年々甚たしきを加ふる事実が、心ある者をして憂へ且憤らしめた。避妊とは何だ。明白に一個の殺人である而も自己の骨肉を亡ばすのだ。

 

 戦争に於ては敵を相手、而して自らも殺される覚悟である。且その動機は私欲でない。欧羅巴人は、口に戦争の残虐を唱へつつ、実は一層恥づべく卑むべき残忍を、平然として敢てして来た。かくて欧羅巴に於ける不婚・晩婚・不妊・避妊が、教育ある階級に最も顕著となった。換言すれば優良種の繁殖率が著しく低下した。

 世界戦は此の傾向を急激に甚だしくしただけである。19歳乃至45歳の男子にして、強健なる身体を有する者は殆ど挙げて動員せられた。而して彼等の最も勇敢なる煮精神的にも肉体的にも最良なる者が最も多く死傷した。

 故に種族保存の点より見て、欧羅巴は測り難き損害を世界戦によって蒙った。米国の生物学者ハムフレーは下の如く論じて居る。日く『残存者に多産を奨励して、此の損失を償ひ得べしとするは不合理の極である。残存者は唯だ自己と同様なる比較的劣種の後継者を生み得るのみだ。故に此戦争によって加へられたる民族の損失は之を尽すべき言葉がない』と。

 

 時而も戦陣に斃れし無数の勇者は、単に優良なる後継者の父としてのみならず、彼等自身が欧羅巴全体にとりて欠く可からざる宝であったのだ。英国の学者フィシーは、戦死者名簿中より多数俊秀有為なる青年の名を挙げ、「国家将来の進展、一に共の絶倫なる智力に待たねばならぬ青年を、むざむざ戦場の露と消えさせ、之を防ぐ可き何等適宜の方法を講ぜざりし政府の措置を難じ、世界が彼等の死によって失へる所は、到底計量の能くする所に非ずとじて居る。

 

 『戦場に在る1000万の軍人の運命は、家郷に在る5000万の老幼男女をして悲痛・貧窮・乃至其他の生命を殺ぐ苦痛第を嘗めさせる』とハヴック・エリスが言へる如く、世界戦が一般欧羅巴国の精神的・肉体的生活に加へたる深甚なる打撃をも、また吾等は看過してはならぬ。極めて順境に在る婦人の挙子率が、薯しく減退した事実、並に出生嬰児に生理的欠陥者夥だしき事実は、実に戦争の悲惨なる心理的反映に外ならぬ。

 故に伊太利セルギ教授は『欧羅巴の生物学的不利』が、に最良の多産たる青年の死亡より来るのみならず、国民が突然投ぜられたる惨憺たる境遇より来ることを述べ、此の惨憺たる境遇が『欧羅巴人の精神に知的並に感情的泯乱・神経過敏・憂欝・悲哀・乃至各種の苦痛』を生み、之によって民族の将来の為に甚だしき不幸の種を蒔くことを悲しんで居る。

  

 是くの如き損失は、最も順調なる政治的経済的事情の下に在りてすら、之を回復すること至難である。然るに大戦後の欧羅巴の状態はどうだ。ヴェルサイユ宮殿暗夜の会議は、如何なる平和を将来したか。講和条約の調印せられたる時、南阿聯邦を代表せるスマッツ将軍は、実に公然世界に向って下の如く声言した。

 日く『余は平和条約に調印した。而も其は唯だ戦争終結を絶対に必要と認めたるが故であって、断じて条約共ものが満足すべきものなりし故でない。休戦以来6箇月、その欧羅巴に対して破壊的なりしこと、毫も戦時の4箇年と択ばなかった。余は平和条約を以て、戦争及び休戦と云ふ二章の段落をつけるものとしてのみ、之に合意せるに止まる。余は為されたる仕事を非難せんとするものではない。而も余は平和条約が決して諸国民の期待せる如く平和を将来せず、平和の真事業は、条約調印後に始めて着手せらるべきを思ふ。余は批評としてに非ず、確信としてく断言する』と。

 

 洵に彼の言の如く、1919年6月28日、ヴルサイュの間に於ける対独講和条約の調印を以て、巴里平和会議は終了したけれど、其後満1箇年以上を経過せる今日、米国上院は竟に条約批准を肯んせず、英米の反目は日に深刻を加へ、仏英の嫉視また甚だしく、仏の対独復仇政策は執拗酷烈を極め、アドリア海には依然怒濤逆捲き、ソヴェト露西亜に対する戦争は手を替へ品を替へて続行せられ、近東諸邦の領土争奪戦は終熄の期を知らす、回教諸国の危急また刻々累卵の勢を呈し、而して支那は尚ほ山東問題に執着する。

平和会議は、洵に旧き問題に解決を与へざりしのみならず、唯だ一層紛糾せる幾多の新問題を惹起した。ハルデーン卿は、昨春プリストル大学の卒業式に臨んで、世界戦最大の教訓は『英国が次の戦争に備へねばならぬと云ふ事』だと演説して居る。何と云ふ厄介な教訓だ。要するに欧洲戦後の政局は、混沌の二字に尽きて居る。

而も是くの如き政治的状態の不安定が、破壊せられたる欧羅巴経済生活の回復を、極度に困難ならしめることは事理明白である。産業革命以来の欧羅巴は、世界の工場であった。そは労働者を養ふ食料と、器械を養ふ原料とを、世界の各地より輸入し、而して共工場の製品を、世界の各地に輪出して来た。欧羅巴人は自給の民たることを止めて、共の産業並に都市生活者の生命を、最も遠隔なる外国輸入品によっていで来た。

戦前に於ける欧羅巴の繁栄は、実に其の極めて見事に組織せられ、大規模に行はれたる世界貿易の発展に負へるもの。然るに世界戦の巨大なる鉄鎚は此の微妙なる組織を、無残にも紛砕し去ったのだ。而して欧羅巴が蒙むれる経済的打撃の程度は、戦時中聯合諸国食糧管理の重任に当りしフーヴーの言、最も適切簡潔に之を尽して居る。彼に従へば、平和条約調印当時の欧羅巴の経事済的窮境は、概括して『生産壊頽』の一句に尽きる。

 

 欧洲4億5000万の人口に対し、共の必需品生産力の低下、今日の如く甚しきはなかった。欧羅巴の生産は、その全能率を発揮する場合に於ても、3億5000万の人口を養ひ得るに過ぎぬ。自余一億の生命は、共の維持を輸入品に仰がねばならぬ。戦争が欧羅巴の生産率を極度に減退せしめたこと、従って莫大なる入超を招けることは、其の経済的生活に深刻なる打撃を与へた。若し生産力が急速に回復せられなければ、次で来るものは政治的・道徳的・経済的混沌の外にない。而して共の混沌たるや、是迄夢想だもせられざりし悲惨なるものであろう。

 

 是くの如きは世界戦が欧羅巴の物質と人命とに加へたる損害の一般である。物質的・現実的人生観の上に立ち、偏へに経済生活を高調し、所謂『経済人』を以て人間至高の典型とし、之れを人生究竟の目的となし来れる現代欧羅巴に取りて、此の不可測底の物質的損害は、実に致死の打撃と言はざるを得ぬ。 

 

 試みに仏蘭西の思想家ポール・ヴレリの悲嘆に聴け。『いま吾等、西欧文明の死すべきを知る。エムラ、ニネヴェ、パピロンの名は、ほのかなる愛らしき名であった。今や仏蘭西・英吉利・露西亜、また愛らしき名たるに止まるものとならう。沈めるルシタニア号も美しき名である。歴史の深淵は、一切を呑んで余りある。文明は猶ほ人命の脆さが如く脆い』と。如何に切なたる哀調ぞ。

 

洵に物質的損害に伴へる欧羅巴の道徳的・精神的打撃は広汎にして深刻を極める。オクスフォードの監督ゴア博士曰く『吾等今、一切の戦後に伴ふ道徳的理想の凋落並に低下を見る。戦争の真個の危険は戦時に存せず、実に戦後に在る。蓋し戦争其ものは、人の精神を高貴ならしむる力を有する。悲惨堕落は常に戦後に来るを常とする。而して世界戦も亦此例に洩れぬ。前途の暗黒なること、今日の如きは無い。予は信ず、欧洲諸国の精神は、休戦条約の締結以後に至りて実に戦慄すべき程度に堕落した』と。  

 

而も唯物的欧羅巴は、今後幾年かの間、精神的・道義的方面を犠牲にして、只管物質的回復のために全力を挙けるであらう。ショー教授が『戦争は彼等の行動並に思索の力を蘯尽し、当面の必要なる修繕に没頭する以外、一歩積極的建設を実現すべき智恵も意思も欠如して仕舞った』と述ベたのは、恐らく真相を道破せるものであらう。

 

固より欧羅巴には多くの雄渾深刻なる思想家あり、徹底勇健なる精神主義者がある。而も猶太が基督によりて救はれざりし如く、印度が釈尊を出だして隷属の民となれる如く、彼等の力、竟に白人の凋落を止め得べしと思はれぬ。

 

 蓋し哲学的思想乃至宗教的信仰が、国家乃至民族の道徳と文明とを創造するが如く思惟するは、因果の顛倒である。民族の力は、懸って該民族の生命其ものに在る。其の強弱は、該民族が一切の社会的事情に順応し且之を支配する生命力の強弱と比例する。一民族の生命にして健全なる時、該民族は初めて健全なる思想信仰を把握する。故に一民族が撥剌たる生命を有するは、一定の思想信仰を有するが故に非ず、反対に溌剌たる生命を有するが故に之に適はしき思想信仰を体現し得るのである。

 

 白耳義の名高き学者ルネ・ジェラール、欧羅巴の堕落が其の伝統的思想を失ひ、宗教的信仰を放棄せるに原因すと云ふ一般の主張に痛撃を加へて日く、『是くの如きは実に救ふ可からざる謬見。凡そ民族の堕落敗頽は、信仰を捨つるに原因するものにあらず、堕落敗頽するが故に、健全なる祖先の豊かなる想ひを擲棄し、而も之に代るべき強力勇健なる新らしき想ひを掬み得ぬのである』と。

 

 かく観じ来る時、誰か疲憊の欧羅巴に雄渾森厳なる民族的信仰の色読を期待し得るか。その社会制度より来る悲惨、風俗の敗頽、酒精中毒、マルサス主義、投機的企業、動物虐使、財貨に対する放肆なる欲求、凶暴なる遊戯、無節制の享楽主義、放縦なる快楽、是れ欧羅巴赤裸々の真相。而して是くの如き条件の下に、剛健にして高遠なる理想が、民族的に実現し得られる可能は断じて無い。欧羅巴が共の尊貴を回復する為には、ただ死して再び蘇るの一途あるのみだ。

 

 『光は東方より』ー此の古き言が新しき内容を以て実現せらる可き秋が来た。日本は非白人解放の戦士として其の魂の真個の光を輝かさねばならぬ。然も之が為には速かに内、魂の光を蔽ふ一切の暗雲を徹底して掃蕩し去らねばならぬ。吾等に於て日本改造は直ちに是れ世界改造の為である。吾等の唱ふる所は、個人又は総個人の福利を目的とする国家の建設でない。斯くの如き支那的・英吉利的精神は、吾等の蹂躙し去らんとする所。乃至私に根ざせる富国強兵の独逸主義、また吾等の唾棄せる所。期する所は実に『理法の具体的実現としての国家』を建設するに在る。

 

 国家の目的を人類の道義的完成に認め、人間の道徳的本性は、国家のうちに其の最高真実を見るとなせるものはプラトーン及びアリストテレースの思想であった。而して是れ実に儒教の根本精神を述べたる大学が其の首章に於て『大学の道は明徳を明かするに在り、至善に止まるに在り』となし、其の実現の条件として、内面的には格物致知、外面的には治国平天下を要求したると、正に同一の思想である。  

 

 大学の道は、智識的方面に於て格物致知―即ち一切存在の背後に存する理法を把握し、実践的方面に於ては治国平天下ー即ち此の理法を国家てふ組織の上に実現することに存し、而して之を以て至善即ち人類至高の正義となすものに外ならぬ。奈具朝時代、日本が初めて明確に国民的自覚を抱ける時、印度思想の精髄を体得せる吾等の視先は、国家を以て妙法の実現と観じ、仏土の荘厳を日本に期待した。

 

 吾等一面国家を以て利己満足の機関なりとするアングロ・サキソン思想を克服し、他面国家を以て支配階級掠奪の機関なりとする社会主義思想を止揚して、新たに建設し組織せんとする所のものは、実に是くの如き国家に外ならぬ。
 世界戦は是れ新ペロポネソス戦争、日本は断乎として落日の欧羅巴に対する従来の過当なる崇拝畏怖を止め、深く日本精神に沈潜し、無限の努力によって一切の至貴至高なるものを日本の魂其ものの衷より汲取り、一貫徹底これを内外に実現せねはならぬ。かくて日本は永遠の征戦の途に上る。





大川周明 時事論集 第一篇 第二維新の発祥期 第二維新に面せる日本

2018-08-26 11:55:20 | 大川周明

                          大川周明
時 事 論 集 

〔解説〕
一、維新の大業に一念発起してからその生涯の幕を閉ちるまで約40年間、機に臨み時に応じて発表した小論文を、本全集各巻との重複を避けて編輯し「時事論集」とした。便宜上時代を追って「第ニ維新の発祥期」「行地社時代」「神武会時代」「大東亜戦争以後」の4期に分けたが、特に満洲事変及び支那事変中のものは全集第ニ巻に収め、大東亜戦争中のものは同じ第二巻の「新亜細亜小論」に収録した。

一、『月刊日本』第70号(昭和6年1月号)の巻頭言に博士自ら「吾等が第二維新の覚悟を抱き始めたのは、実に大正7年(1918)米騒動の前後であり、一顧して長望すれば星霜すでに13年を経た。云々』と云われたとおり、象牙の塔に籠って思索の内に学問的要求を満たすことに堪え切れなくなって、敢然として現実の改造運動に拮据するに至ったのは、大正8年、『猶存社』を創立した当時からである。
 猶存社は機関紙『雄叫び』を発行して、沈淪頽廃せる風潮の真っ只中に挑んで行ったが、『雄叫び』は第3号を以て官辺の圧迫に屈した。

一、猶存社解散の後、博士は満鉄東亜経済調査局、旧本丸内の社会教育研究所のちの大学寮を本拠として同志との往来を繁くしたが、大正14年(1925)『行地社』を結成し、機関紙『月刊日本』を発行した。『月刊日本』は同年4月に創刊号を発刊して爾後営々7年に亘り、昭和7年4月85号を以て終った。本書には月刊日本のなかから『道義国家の原則』ほか16の論文と適当なる巻頭言を抜萃した。

一、博士は組織布陣の運動を進一歩して昭和7年2月、行地社から『神武会』に移行して、行地社の機関紙をそのまま継承したが、形は新聞タブロイド版とし、昭和10年4月神武会解散まで満3年継統した。但し博士はこの間殆んど囚桎の生活を送られた為に機関紙掲載の論文の数はすくないが、この獄中にあった期間は専ら『近世欧羅巴植民史』に没頭していた。

一、戦後の圧巻は正しく『コーラン』の原典和訳であるが、他巻との重複を懸念して数篇を載せるに止めた。

第一篇 第二維新の発祥期
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一、 ここに取録する『第二維新に面せる日本』『世界戦と日本』『世界史を経緯しつつある二問題』は、大正10年著『日本文明史』(写真)の結論部分をなす第26章・第27章・第28章である。

一、尚ほ『日本文明史』が、博士の日本歴史研究四著書のうちの最初の著作であることは、本全集第一巻「国史概論」の解説(409頁)に既述したところである。   
    (『日本文明史』大正10年10月版406頁 大鐙閣刊)
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一 第二維新に面せる日本

 勤王倒幕を標語とせる治維新は、憲法発布を以て一段落を告げた。而して明治維新の革命的運動を大観すれば、そは『幕府』即ち一切の封建的制度を根本より倒壊することによりて、不当なる武力の圧迫より吾等の『君』を救ひ参らせたものである。

 之を今日より回顧すれば、明治維新の建設的一面は『勤王』の標語が最も簡潔明晰に表明する如く、皇室をして真個国家の中心となし奉るの一点に集注せられ、而して此の目的は、幾多有名無名の元勳の粉骨砕身によりて、最も見事に成就された。
 国民は頼朝の覇権確立以来700年、否な藤氏専権以来実に千年にして、初めて明朗なる天日を仰ぐことを得た。この大業の遂行にして、我等日本国民は、子々孫々に至るまで、満腔の感謝を維新革命の志士に献げねばならぬ。


 然るに『幕府』倒れてより50年、憲政布かれてより30年、日本国民は曩日『勤王』志士の心を紹いで、而して之を徹底せしむる為に、更に『興民』の志士として、第二維新の大業に拮据せねばならぬ時となった。この第二維新を成就することに由て、日本は始めて其の国体の精華を発揮し、真に君民一体の実を挙け、天地と共に無窮なりとの森厳雄渾なる建国の精神を実現して、真個世界の救拯者たるを得るであらう。

 何故に我等は第二維新の必要を高調する乎。日く日本は君臣一体の国なるが故である。『君』は第一維新によりて之を武力の圧迫より救ひ参らせた。されど『民』は今や金力の圧迫に呻吟しつつある。故に之を黄金の不当なる支配より解放することは、君民一体の実を挙ぐる唯一無二の途である明治維新の破壊的一面は『討幕』の一語に尽き、其の建設的一面は『勤王』の一語に尽きた。

 大正維新に於ては倒さる可きものは黄金を中心勢力とする閥であり、興さる可きものは国民其ものである。即ち大正維新の標語は『興民討閥』でなければならぬ。

 

 然らば如何にして第二維新を必要とする国状を招徠せしめたか。
第一には日清日露の両役以後に於ける人心の弛緩論である。日露戦争が勝利を以て終局する迄は溌剌進取の生命が、尚ほ日本の国家に躍動して居た。日本を世界の強国と伍せしめずば止まずとする雄健剛毅の精神が、尚ほ国民の精神を支配して居た。

 然るに一たび露国と戦ひ勝ちて、皮相外面ではあり乍ら、世界一等国の班に入ると同時に、明洽日本の理想は﨡に其の外形だけは実現せられ、之と共に従来張りつめし心弛み、且つ国民を鼓舞すべき新たなる具体的理想が遂に樹立せられざりしが故に、頽廃の風潮が驚くべき急速に一世に漲るに至った。

 試みに日露戦役を中心として以前及び以後に於ける人心の激変を見よ。
若し眼光よく此の無形の変化に徹する能はざるものは、日清日露の両役の間に人となれる今日30代の青年又は壮年者と、日露戦仗以後に初等の教育を受けて人となれる20代の青年者との思想道念を彼此対照せよ。真個に驚くべき変化であり且つ相違でないか。
 

 固より明治日本の教育は、日露戦役を一期として前後其の根本義を改めた訳ではない。而も生を両役の当時に享け集し敏感なる青少年の心は、国家非常の秋なりし対外戦の間に育ちて、国家の内面に躍如たりし無形の精神に陶冶せら明れしが故に、能く堅実なる国家観念を把持し、真個日本精神を長養するを得た。

 然るに日露戦役以後に人となれる青年は、学校の修身に於て如何なる事を教え込まれたにせよ、自然主義、享楽主義、而して功利主義横行の時代に呼吸せるが故に、若千少数の例外を除けば国家に奉公するの精神なく、偶々之れ有れば日本本来の国体と相容れざる国家観念を奉じて、其の実現を図らんとするの状態であり、之を全般より言へば著しく不健全なる思想道念の所有者である。

 而して青年の心は、要するに総体としての国民精神の反映である。青年をして茲に至らしめたのは、取も直さず日露戦役を段落として、国民の心に昔日の壮快敢為なく、剛健進取なく、好学知新なく、而して苟安自負の心、早くも其頭を擡けたるが故に外ならぬ。

 第二には政府当局者の責である。
西南戦役によって明治維新の大業、略々成就せらる、と共に、勤王志士の壮厳なる精神、慚く其光を薄くし、身を以て君国に奉ずる大公無私の政治家次第に減じ、朝に在りては閥族相率ゐ野に在りては朋党比周するの風を助長し、国民をして、政治家の無誠意を憤らしめ、官民の阻隔を招ぐに至った。

 殊に歴代の政府が、国民生活に対して殆ど全く自由放任の政策を採れることと、種々なる関係より権力階級・富豪階級を保護するの政策に出でたることとは、互に相扶けて一般国民を圧迫するに至り、国家的生活によりて何等積極的幸福を享有せずと感ずるに至って、必然忠君愛国の思想が衰へた。
 

 而して第三に如上の形勢を助長し激成せしめたものは、
言ふ迄もなく世界大戦である。世界大戦による経済的変動、急激に所謂成金者を生んだ。而して此等の成金者が敢てせる奢侈と、政治家の之に迎合阿附せる態度とは、深刻に人心を険悪ならしめた。

 かくして世界大戦は、一面に於て急激に貧富の懸隔を甚だしくしたと同時に、他面に於て戦争に伴へる物価の昻騰は、殆ど底止するを知らざる勢を以て進み、国民の生活を俄然として不安に陥らしめた。加ふるに米食の激増より来れる内地の産米不足は、最も直接に国民生活を不安ならしめ、遂に重大なる暴動を惹起するに至っこ。

 かくして生活問題より来る貧民と富豪との敵視、資本家と労働者との確執は、急転直下の勢を以て進み、所謂温情主義の如きを以てしては、最早断じて解決を不可能とする状態となった。

 

 第四に之を思想の方面より観るに、
欧米思潮の応声虫にして其魂を西洋に売れる学者操觚者のデモクラシー鼓次が吾等の前に述べたる20代の青年を駆りて、益々不健全又は抽象的なる国家観念を抱くに至らしめた。而して一方には幕末攘夷の精神を今日まで引摺り来れる極端なる保守主義者が、之に対抗して伊勢の神風的言論を高調し、共極は国体擁護運動となりて彼我入り乱れての論戦となり、更に世人の神経を鋭敏ならした。

 

 第五には外患である。
明治維新の有力なる契機も、実に黒船襲来であった。今や『黒船』は、英米の亜細亜侵略主義の相を取りて、刻々に吾等を脅威しつつある。近く150隻の大繿隊を東海に派遣することによりて、米国は再び維新激成者の役割を勤むべく上帝の選抜を蒙むったのかも知れぬ。

 世界大戦以前に於て、英米の発展には独逸と云ふ強大なる牽制者があった。アングロ・サキソンとゲルマンとの対抗は、亜衵亜を掃蕩せんとする白人潮流の一大防波堤であった。
  然るに今や此の防波堤は、無残に破壊せられて、急潮は何の支ふるものもなく、矢の如く、疾く押寄せる。西南よりは英国が、亜刺比亜・波斯・亜富汗斯坦・印度・西蔵と頂々に洗ひ尽して、今や波浪ヒタヒタと中華民国の岸を打って東北よりは米国が、アラスカより北氷洋を超え、西比利亜より満洲に出で、満洲より支那に進み嵜る。 

 

 独逸の次には日本と云ふのが、最早消さんとしても消し切れぬほど、深く鮮かに刻み込まれたアングロ・サキソンの外交的心理でないか。若し日本にして其の伝統的外交を根本より改めて、亜細亜を味方として彼等に対抗せざる限り、此の国難を切抜ける道があるか。而して此の国難襲来に対する不安と憂慮とが、人心動揺の一因となって居ることも、拒み難き事実である。

 

 さて斯くの如く考、来れば、最早尋常一様の手段を以てしては、到底国家を富嶽の安きに置くことが出来なくなった。然り、第二維新の機運は熟して来た。日本国を目睫に迫れる内憂外息より救ひ、進んで明治元動の遺業を大成し真個君民一体の国家を実現して、その世界的使命を遂行するために、吾等は結束して起たねばならぬ。明治維新の実行者は実に白面の青年であった。第二維新も、亦吾等青年によって成就されるであらう。

 


大川周明『日本精神研究』 第五 剣の人宮本武蔵 五 人となりたる剣

2017-11-21 22:03:51 | 大川周明

大川周明『日本精神研究』
 第五 剣の人宮本武蔵 


五 人となりたる剣 
 

 横井小楠をして先人未発の識見と敬服せしめたる萩昌國の武蔵論に、宮本武蔵の志業に就て下の如く述べている――『武蔵が志、小の兵法を以て人々に教へ悉く精兵猛士たらしめ、大の兵法を以て聡明非常の将帥に教へ奉り、右の猛兵烈士を発従指揮して、万国の小夷を鎮圧せしめんと欲す。
 これ武蔵が胸中の密にて。敢て人に語らざる所にして、亦之を語るとも人の解能ざる所にして、中々区々たる一器の兵法者の存知申所にて決して無御座候』と。二百年来武蔵を蔽へる雲霧が、初めて昌國によって操無せられたるものと言はねばならぬ。

 武蔵は其の求めたる『非常聡明の将帥』を熊本の明君細川忠利に於て得た。
忠利は真に武蔵の知己で、三百石を以て客分として武蔵を召抱え、充分に武蔵の人物識量を認め、啻に剣法の師範として非ず、政治顧問として彼を待ち、君臣水魚の交りをなした。
 昌國は此の君臣親密の間柄、並に武蔵の態度に就て、また下の如く言ふ――『武蔵と申候士は、其の人となり深潜厳毅、極めて思慮深き者にて、其の所謀は武蔵が口に出で公の御耳に入候までにして、中々外聞に漏洩し、君寵に誇り、諸老の忌諱に触るるやうの浅露の士にては決して無御座候。』

 武蔵が忠利に仕へたのは寛文十七年のことであるが、翌十八年忠利の薨去に遭ひ、武蔵は深刻なる落胆を嘗めた。
 此時より以後の武蔵の心は宛も世捨人の如く剣道指南の外は詩歌や書画に閑日月を送った。今日熊本に遺れる武蔵の芸術的作品は、多く此間に成された者である。
五輪書が寛文二十年、六十歳の時に書かれたことは、冒頭の序文にある通りである。

 既にして正保二年の春に至り、武蔵の健康勝れず、自ら起ち能わざるを知り、次の書を三家老に遺し、日頃座禅修行したる岩殿山の霊巌洞に籠り、静かに命を終へんとした。

 『熊と各様まで書きつけ御ことわり申候。兼て病気に御座候処、殊に当春己来煩ひ申候て以来、別して手足立ち難く罷成り候。此前拙者久しき病気故、御知行の望など仕らず罷在り候。
先越中様も御兵法御すきなれ候故、一流の見立申上度く存じ、ほぼ兵法の手筋御合点なされ候時分、是非なき仕合せ、本位を失ひ候。
兵法の理ども、書付上げ申すべき旨御意候へども、御書付までに御合点如何はしく存じ、下調べ差上げ、兵法新しく見立て候こと、儒者仏者の古語、軍法の古沙汰をも用いず、只一流を心得、理法の思を以て諸芸諸能の道にも存じ、おほかた世界の理に於て明らかに得道候へども、世に逢ひ申ささる休無念に存じ候。
今まで世間兵法にて見過ぎ候やに存じ候。
 
 右様のことは、真の兵法の病になり申し候事御座候、今申すところ、拙者一人の儀は古今の名人に候へば、奥意相伝へ申すべく候処、手足少しも叶ひ申さず、当年ばかりの命も斗り難く候へば、一日なりとも山居仕り、死期の体、世上へ対し蟄居候ことに仰付けられ候やう、御取斗り下さるべく候以上』。

 三家老は此の手紙を得て、捨て置かるべき事でないから、家臣を霊巌洞に遣はし、武蔵を帰邸せめ、篤く介抱させたけれど、天命尽きて幾もなく世を逝った。
 武蔵の生涯は、孤筇万山の崎嶇を渡れる悲壮の生涯である。伝ふるところ真実ならば、彼は其父に憎まれて九歳の時に家を出で、十三歳にして既に真剣の勝負を行ひ、誰を定めまれる師ともせず、只一剣によつて、自ら鍛え、自ら勝ち、終に明かに『世界の理』までも得道したに拘らず,此君の為ならと許せし細川忠利一たび世を逝りて、天下また己を知る者ない。

 世間を見れば所謂兵法者と称するもの、孰れも兵法の至深なる意義を価値とを解せず、ただ巧みに剣を振って衣食の道となし、兵法を以て一の末技たらしめんとして居る。

 生死を賭して把握せる道法が、目前かくの如く堕落し、此道彼と共に亡びんとするかの如く感じたる時、彼が『無念に存じ候』と悲憤せざるを得なかった心事を想察せよ。
『拙者一人の儀は古今の名人に候』――何と云う崇高な姿せあらう。全く武蔵は『名人』と云ふより以外、また適切な呼方がない。覚者と言はば仏教的なり、剣聖と言はば支那覇的となるであらう。 

 彼れの到達せる境地は、仏教又儒教の至高の理想とする所なるに拘らず、彼の風格は些の支那臭なく、印度臭なく、実に徹底して日本的である。彼こそは『人と成れたる剣』である。


大川周明『日本精神研究』 第五 剣の人宮本武蔵 四 五輪諸の思想

2017-11-20 09:37:36 | 大川周明

大川周明『日本精神研究』
第五 剣の人宮本武蔵
 四 五輪諸の思想 
 
 さて宮本武蔵の『五輪書』は、是くして体得せる『兵法の道』を、『仏法儒動の古語をも借らず軍紀軍法の古きことをも用いず』実に彼自身の用語、彼自身の体系を以て表現したもの其の尋常一様の者に非ざるは言ふ迄もない。
 祖は決して単なる剣術の心得を述べたるものに非ず、堂々たる一篇の哲学書である。曾て荻昌国が之を読んで『実見實理精密用至、朱夫子大学或間の己後、如斯精密の書は見及申たる事は無御座候』と讃嘆したのも決して誇張の言ではない。

 五輪書は地・水・木・火・風・空の五巻に分たる。
第一は兵法の道の大体、二天一流の依って立つ基礎を設けるGunudlageなるが故に之を地の巻と名づける。第二は身も心も無碍自在なること、恰も時ありて涓滴となり、時ありて滄海となり、方圓の器に従って芥帯泣きが如くなるべき道を設けるものが故に之を水の巻と名づける。第三は烈々たる気魄を以て一人ち一人、万人と万人と相戦ひ必勝を得る事、恰も大小の火が物を焼く如くが故に火の巻と名づける。第四は他流の兵法即ち自家の風とは異なれる他の風を厳正に批判するものなるが故に風の巻と名づける。而して第五は言詮に上すること難き究竟の哲理を仮假に文字にしたるものなるが故に之を空の巻と名づける。予は少しく詳細に叙上五巻を紹介し、其の幽玄なる真理を掴得するに努めるであろう。 

地の巻は既に述べたる如く宮本武蔵の兵法総論である。
武蔵曰く『それ兵法と云ふこと武家の法なり。・・・・・今世の中に兵法の道、慥に弁まへえたるといふ武士名なし・・・・・おほかた武士の思ふ心をはかるに武士は只死ぬると云ふ道を嗜むことと覚えるほどの儀なり』と。さり乍兵法とは決して左様なる感傷的・消極的のものでない。そは実に『何事に於ても人にすうるる心』を鍛錬する道法である。

 また曰く『我が身を売物のように思ひ・・・・色を飾り花を咲かせて術を街ひ或は一道場、』或いは二道場など云ひて、此道を習ひて利を得んと思ふこと、誰か云う生兵法大疵のもと、まことなるべし。』と。かくの如きは兵法の尊厳を傷ふこと甚だしきものである。兵法とは決して『近代兵法者』が道として居る『剣術一途のこと』でない。そは『いずれの道に於いても人に負けざる所』を体得する道法である。

 さてすぐれると云ふことは負けざること、即ち勝こと--優越し、克服し、統率することである。そは剣を以て一人の敵に勝つと云ふが如き浅薄狭隘な事でない。身と心との一切に於て勝利の栄冠を得ることである。武蔵の言を籍り来れば。『身を正しく行ふ道』に勝ち、『世の礼法を行ふ』に勝ち、『民を養ふこと』即ち善政を行ふことに勝ち、『善人を持つこと』即ち賢良をして国家に其処を得しむことに勝ち、『人数を遣ふこと』即ち軍隊を統率することに勝つの道である。

 一切に勝つ――これこそは実に日本其者の心でないか。此の日本を修理固成し日本をして今日あらしめ、進んでは将に亜細亜に礎を置く永久の荘厳国家たらしめんとするものは神武帝以来燃え輝きて熄まざりし健闘善戦の心、優越向上の心、征討克服の心、支配統率の精神に外ならず、今後また永遠に燃るべ着物である。而も武蔵が明瞭に説與する如く、吾等の内なる魂の戦に於て、また吾等は勝利者たることを期待する。かくて吾等の戦ひによって羸ち得るものは、一貫して真なるもの、善なるもの、而して美なるもの――とりもなおさず至高の生命である。

 故に真個に此道を体得するため武蔵は下の如き覚悟を学道の人に要求する。
――『第一に邪なき事を思ふ所、第二に道の鍛錬する所、第三に諸芸にさわる所、第四に諸戦の道を知る事、第五に物事の損得を弁える所、第六に諸事目利を仕覚ゆる事、第七に目に見えぬところを悟って知る事、第八にわずかな事にも気を付ける事、第九に役に立たぬことをせざる事。』苟も兵法を学ばん者は此の心懸けを以て朝な朝な夕な夕な勤め行わねばならぬ。『此道に限って直なる所を広く見立て座れば兵法の達者とは成り難し。』

 さて武士は腰に両刀を帯ぶ。『一命を捨つる時は道具を残さず役に立てたきものなり、道具を役に立てず、腰に納めて死すること本意に有るべからず。二刀一流の據るところは必ずしも刀に限らぬ。兵法者は大刀脇差は言ふに及ばず、如何なる場合に如何なる武器を如何に用いることの最も有効なるかを明らかに知って置かねばならぬ。而して兵法に於て最も肝要なるは拍子を弁へることである。拍子とは強いて換言すれば「契機 Moment」である。拍子を弁へるとは刻々に移る活動の焦点、活動の中心となりつつある統一点を黨地に把握し、自己の活動をぴったり之と順応せしめることである。『兵法の拍子、鍛錬なくては及び難き所なり。・・・・何れの巻にも拍子の事を専ら書きし留守也。其書付の吟味をして能々鍛錬すべきもの也』。

 次に水ににお巻は、無碍自在なるべき心身の鍛錬を説く。
 その『兵法心持の事』と題する一條の如き、先聖といへども加ふる所あるまじき教訓である
--『兵法の道に於て心の持様は常の心に変わる事勿れ。常ににも兵法の時にも変わらずしてこ心を広く直ぐにして緊く引張らず、少しも弛まず、
心の偏らぬやうに心を真中に置きて心を静かに揺るがせて其揺ぎの刹那も揺ぎ止まぬやうに能々吟味す可し。
 静かなる時も心は静かならず、何と疾き時も心は少しも疾からず、心は體に連れず、體は心に連れず、心に用心せず、心の足らぬことなくして、心を少しも誤らず、
末の心は弱くとも底の心を強く、心を人に見分けられざるやうにして、小身なる者は心に大きな事を残らず知り、大身なる者は心に小さき事を能く知りて、大身も小身も心を直にして、我身に贔屓を、せざるやうに心を持つこと肝要なり。心の内濁らず、広くして広き所へ知恵を置くべきなり。知恵も心もひたと磨くこと専らなり。
 知恵を磨き天下の理非を弁え、物ごとの善悪を知り、萬づの芸能、其道々々をわたり、世間の人に少しも騙されざるやうにして、後兵法の知恵となる心なり。』 
 凡一心の修養を説きたるものにして、是区の如く根本的に用意周到に、丁寧親切に、而も具体的なる教訓は、古今を通じて類ひ稀であらう。

 彼は斯く根本の心得を説きたる後、進んで兵法の身なり、目付、大刀の持方、足づかひ、構へ、拍子、さては打、當り、受けに至る一々の剣法に就いて、武蔵独自の用語を以て、幽玄に説示して居る。

 先ず兵法の身なりを説いては『常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり』といふ聖俗一如の原理を述べ目付を説いては『観の目強く、見の目弱く』と教へて居る。観の目とは理法を認識する力、見の目とは現象を感覚する肉眼のことたるは言ふまでもない。吾等は常に現象に囚はれて、其の奥底に横たわる理法の認識を逸し勝ではないか。
 不〇(注、一文字?)流転の現象に引き摺られ、知覚による経験を基礎として行動して居ては如何にして確乎不動の人生を築き上げることが出来よう。吾等は飽迄も観の目を強くし、永遠なる理法を把握し、之を吾等の生活に実現して行かねばならぬ。かくして吾等は生に勝ち得るに至る。

 第三の火の巻は、戦ひて必ず勝つ原理の説明である。
 その説くところは固より剣によって敵に勝つの法であるけれど一として直ちに人生内外の戦闘に於て勝利の生命を獲得すべき戦術ならざるはない。彼は先ず戦場、即ち自己の立脚する境遇、若しくは軍を用ふべき地理を明確に知了すべきを説く。

 戦闘には吾よりするか、彼よりするか、同時にするか、此の三以外に開戦の道泣きを述べ、能ふべくば吾より攻勢に出づるの利を説き、機先を制するの必要、戦ひの頂点を見極めて之を突破するの必要、敵の刻々に変ずる京成を予め看得するの必要、敵の拍子の崩れを幾徹のうちに観取するの必要、自ら敵其者となりて戦ふこと、敵の意思を探知し吾が意思を示さぬこと、乃至敵を吾が士卒と心得て之を自由にする知力の修練より、最後に名高き巌の身を説く
--『巌の身と云うは動くことなくして強く大なる心なり。身に自ら萬理を得て盡きせぬ處なれば、生ある者は、皆よくる心ある也。無心の草木までも根ざし難し。降る雨、吹く風も同じ心なれば、此身よくよく吟味ある可し。』

 第四は風の巻。
他の兵法の風を知らずしては、自家の兵法を『慥かに弁え難き』が故に、他流の道を尋ねて厳正なる批判を加へたのが此の巻である。
 吾等は之によつて武蔵が決して独断自負の独合点から二天一流を立てたのではなく、他の兵法の流々に就て、精細周匝なる研究の結果によれるものなることを知る。吾等は武蔵の『独行道』が決して偏狭なる主我の確立に非ず、批判の階段(きざはし)を登り行きて独自の打開せるものなることを明瞭に知らねばならぬ。

 第五の空の巻は『万里一空の所、書き現はし難き』を假りに言詮に上せたるもの、武蔵の至深なる證悟を知るべき最も珍重に堪えざる章句である。

 『二刀一流の兵法の道、空の巻として書き顕はす事。空と云うこころは、物ごとの無き所、知れざる所を空と見立つる也。勿論空は無き也。有る所を知りて無き所を知る、是即ち空也。世の中に於て悪しく見れば、物を弁えざる所を空とみる所、実の空には非ず、皆迷ふ心也。
 此の兵法の道に於ても、武士として道を行ふに、士の法を知らざる所、空には非ずして、色々迷ありて詮方なき所を空と云うなれども、是実の空には非ざる也。武士は兵法の道を慥に覚え其外武器を能くつとめ、武士の行ふ道少しも暗からず、心の迷ふ所なく、朝々時々に怠らず、心意二つの心を磨き、観見二つの目を研ぎ少しも曇りなく、迷の雲の晴れたる所こそ、実の空と知るべき也。』実の道を知らざる間は仏法によらず、此法によらず、己れ己れは慥なる道と思ひ、善き事と思へども、心の直道よりして世の大規(おほかね)にあはせて見る時は、其の身々々の心の贔屓、其目々々の歪によって、実の道には背くもの也。其心を知って、直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広く行ひ、正しく明らかに大きなる所を思ひとって、空を道とし、道を空と見るべきなり。空有善無悪。智葉有なり、理は有なり、道は有なり、心は空なり。』 

 彼は専ら一剣によって老壮乃至大乗仏教の至深の哲理を打開した。
 そは決して単なる思索の収穫に非ず、生死を賭したる戦闘の間に體認し来れる真理なるが故に、其の言句の間に脉々tる生命が通って居り、之を幾度びとなく読み返すうち、武蔵を通して輝く具体的なる『空』を湍摩(しま)し、従って覚者としての宮本武蔵の面目を彷彿することが出来る。