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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 「『海舟座談』を読む」

2019-01-21 23:00:50 | 大川周明

大川周明 「『海舟座談』を読む」

 

 巖本善治翁の『海舟座談』が、何人もたやすく手に入れ得る岩波文庫の一冊として、新たに覆刻第刊行されたことは予にとりて此頃になき喜びである。予が初めて此書を読んだのは、指折り数へて三十年にも近い昔のことであった。

 そのころの予は、到底此書の真個の価値をし味読し得べくもなかった。それにも拘らず、読み去りみ来る聞に此書から受けた深甚なる感銘は、年経たる後まで鮮かであった。物こころ付いてから予は幾たびか此の書を読みかへしたいと思ったが、その時には最早や絶版となって居て、容易に手に人れるすべもなかった。

 少年時代に感激を与へられた書籍を追慕する時、わが胸は失へる楽園を思慕する如きこころに湧きかへる。そは朗かな悲哀であり、楽しさであり、やるせなきである。予は廔々このこころに誘われ、強いて探し求めて懐かしき昔なじみの本を手にした。然るに、わが若き魂にあれはど深き感銘を刻み込んだ其本が、おほむねは些の感興を惹かぬものと成り果てて居た。このごろも『化人之奇遇』と『経国美談』とが、春陽堂から明治大正文学全集の一冊として刊行された。そは中学時代に予の魂を奪ひ去りしものであり、其後もし屢々いま一度読みかへしたいと思った本であるから、早速これを披いて見た。而して両者とも、読むこと数頁ならざるに、予をして巻きを閉ぢさせた。

 巖本翁の『海舟座談』は、もとより両書とも其の性質を異にするが故に、之を同日に談ることは当を失するものである。而も此書が、今度読みなほしたことによって、以前とは別の新しき感激を予に与へたことは担むべくもない。

 

 予は『大海を渡る巨舟』の如かりし海舟の面目を、その美醜を併せて明らかに看取することが出来た。

神品と称すべき巖本翁の文章の妙味もしみじみと味わう事が出来た。而して此書が蔵して有る数々の教訓を漸く窺ひ知ることが出来た。予は此の書を同志諸君に紹介せざるを得ない。

 

      

 明治二十年八月から、海舟が世を去りし明治三十二年一月に至る十存余年の間、わが巖本翁は少くも一週一回多きは二回に及んで海舟に親観炙し、その片言隻語みな筆記して之を筐度に蔵した、その明冶二十八年以前のものは、不幸類焼にかかりて灰燼に帰し本書に取められたるものは、明治二十九年より臨終五日前に至る談話の筆記である。

 予は先づを海舟に対するき巖本翁の敬虔なる渇仰と、講究苦学の誠心とに感動せざるを得ない。人を慕はば当に翁の如くなるべし道を学ばば当に翁の如くなるべきである。予の如きは、八代城山先生に師事する事すること十数年、獏々としてただ頑童の慈父に対するがくにして過ぎ、いま長逝に遭ひて参究の足らざりしを悔ゆるも既に遅く、ひたすら心を稚心を恥じるのみである。その予でもさへ、拝謁の頻繁なりしために、やや、先生の風格を会得することが出来たとすれば、巖本翁が海舟の真面目を把持し得たことに何の不思義もない。巻頭の序交、すでに海舟の骨格を示し、次で『先生を失ふの歎』によって皮肉を附し、更に『水川のおとづれ』に於て鬚眉を完了し去り、如意自在に英雄を紙上に霊動させて居る。

 かくの如きは独り翁のみ能くするところと言はねばならぬ。何となればを海舟の真骨頂を知れる者は他にあったとしても、それを如実に彷彿せしなら霊妙の筆を有てるものは、恐らく翁のほかにないからである。


 海舟の本領は、能く其神を視て未だ形跡あらざるに之を治医する識と徳とに存すとせる巖本翁の断案は、何人も首肯せざるにないであらう。江戸城明波しの時は言ふまでもなく明治に人りての三十年間も、一身を以て天下の重きに任じ常に手腕を人の見えざる所に施して居る。小牧枢密院書記官長が海舟に向かって『何か不平があるか』と問へるに対し『満腹の不平だ。三十年己が苦心して立ててやつたものを、みんなが寄ってたかつて、ぶちこわそうとはするから不平だ』と答えたのは、海舟の抱負と苦衷を語り尽して居る。人は多く維新当時の海舟を知りて、維新以後三十年の苦心惨憺を知らない。

 巖本翁日く『維新の先生の地位を逆境といふのが通例であるが、金権の局に当って処置せられたのであるから、其の力量を施すの途から言へば、むしら順境である。維新後の三十二年間こそ、先生の逆であらう。この逆境に居て裏面に経営し、機鋒功績を没して、未発に大事を処置せられた苦心は、とても維新前の比ではないと信じている』と。まさしく其の通りである。


 予は必ずしも海舟の先見が悉く的中して居るとも思はない。また支那及び露西亜に対する意見にも、同意し難きふしぶしがある。さり乍らそれは決して海舟の偉大を高下するものでない。海舟の偉大は、終始一代の救済を以て任とし、確然として大本を守り、事に当れば至誠一發、驚くべき細心と大胆不敵とを以て断行し善処し去るところにある。

 

そは巖本翁が言へる如く、天凛すでに凡ならざる上に、之を磨くに五十年の境を以てし、六十年の苦学を以てせる鍛練の結果に外ならない。智略に富む者は胆力に乏しく、剛胆なる者は思慮を欠く、滾々不尽の智略と、寸隙も遅疑せざる果敢の決意とを兼備せる海舟の如きは真に希有非常の人物とせねばならない。

 

     

 巖本翁の『海舟座談』は、かくの如キ偉人の談話を筆記せるもの。日く『先生の高談、興来り意気隆んなれば奔馬の如く、其の閑寂なるや少言深沈、千斤の重きを引くが如し。茲に清話の調を見めす。其の勃率として起る所、もしくは聯想連感、縄々転々として次々の題目に移る所、一に当現の風状を写す。故に暫く忌避すべき条目の外、一句を増減せず。

 語辞は萇の日直ちに筆記したるものなれに、大抵真に違はじと思へり、然れども余が先生高談の調を感銘して毎夜之を其儘に筆記したる習慣は、歳月と共に練熟し、後年に及んでは稍や自ら許すと雖も、前年の品に至りては、単に筋骨理路を写すに止まりたるものあり、頗る安んせす。故に左に編載するに於て、近きを先にし、遠きを後にして、倒叙の方を用ゆ。読者をして先生高談の声調に慣れしめ、而して後らに他に及ばんと欲するが為め也』と。

 

 語る人と書く人と、意気投合して互に感応道交せること斯くの如くなるは、是亦希有珍重の沙汰と言にねばならぬ。此書が世上の所謂談話筆記ものと、截然その選を異にする所以である。予は若干の章句を下に引用して、此書が如何に海舟の面目を躍如たらしめて居るかの実証を示すであらう。

 

 海舟日く、若い時は本が嫌ひで、手紙でも書きはしなかった。元、剣術の方だからネ。四年ほど押込められている時に、隙で仕様ないから読書したのサ。朝は西洋サ、昼は漢書、夜は日本の書で、雑書で、大抵読だよ。もう四年もやれば、余程の学者になる、本読みになるのは楽なものだと、さう思ったよ。剣術の前は禅学サ。夫でも、今の様な禅学ではないよ。夫でも技には限りがあるから、其上は心法だ。至誠を明かにせねばならぬ。後にはつまらない事をしたと思ったが、事に当った時役に立ったよ。

 

――己は先づ五十年で、これが家の難局に一番長く当ったものだ。田舎の議員が来て生意気なことを言ふから、『馬鹿奴、うぬ等にわかってたまるものか』と怒ってやった。『お前に己が米の事を言っても信じやすまい。笑ふだらう。己に政治の事を言ふのは、お前に米の事を言ふやうなものだ。こっちは五十年政治で飯を食ってるものだ』言ってやった。大臣になるのならんのって、そんな事より外に御奉公がしてある。先々月も、お上へそう申上げたのサ。徳川家から献上ものをする筈でありますが、夫は致しません。こう勤倹をして慎んで居りますのが、御奉公と思ひますからと言ったのだ。此でも夫相応の奉公はしてあるよ。

――此間も、国家の大事だと言って来て言ふ人があるからハアそうですかと言ったのサ。スルト、あなたは枢密顧問で居て、国家の大事をお構ひななさらんと言うから、お前方がそう構ふから、私等は構わんでもいいと言ふたのサ。

 内の権助が、飯もたかないで、勝家の一大事と言って騒ぎ廻って、其上スリコギを振り廻して、お三と喧嘩をやら貸すと困るよ。飯をたく事は善くたいて、其上の心配は、忠実に、心の中で仕て居れば、いいではないか。

――時勢の変りといふものは、妙なもので、人物の値打ちがガラリと変わって来るよ。どうも其事が分からな勝田がネ。今から三十二年前に、初めて分かったよ。ワシガ抜擢されて、其ころ上の者と初めて一つの会議などに出た処が、カラキシ一つも知らない。夫は夫はひどいものだ。どうして之で事が出来たものかと思って、不思議なほどであつたが、その時切めて、勢いの転ずる具合が分かった。

 

―― 一つ大本を守って、しっかりした所さへあれば、騒ぎのあるのは反って善いのだと言ふけれども、どうも分からないネ。一つ大本を守って、夫から変化して行くのだ。その変化が出来にくいものと見える。

―― 古庄等は、川上玄哉の仲間サ。東北連合は、実に彼等の謀略サ。いよいよ連合も出来ましたと言ふて、帰りに来たから善く分かったよ。東北は、少なくとも二年位は持つと思って居たヨ。スルト薩長が力を尽してあちらに向かふから其虚に乗じて大阪に打って出て、良堂を絶ち、西京の天子を抱くといふ虚講だつた。あの当時、アア云う計画をしたのは、アノ仲間ばかしだつたよ。川上と云ふのは、夫はひどい奴サ。コワクテコワクテならなかつたよ。たとへば斯う話して居てサ。嚴本と云ふものは野心があるなどと云ふ話が出ると、ハハアそうですかなどと空●(不鮮明、文字不明)いてとぼけて居るが、其日、スグと切れて仕舞ふ。そしてあくる日は、例の如くチャンとすまして来て少しも変らない。喜怒色に現はれずだよ。あまり多く殺すから、或日ワシはそう言った。『あなたのように多く殺しては、実に可哀相でありませんか』と、言ふと『ハハアあなたは御存じですか』と言ふから、『夫は分かって居ます』と云ふと、落付き払ってネ。 

『それはあなたいけません、あなたの畠に作った茄子や胡爪は、どうなさいます。善い加減のトキにちぎって、沢庵にでもおつけなさるでせう。アイツらは夫と同じことです。どうせあれこれと言ふて聞かせてはダメデス、早くチギッテ仕舞ふのが一番です。アイツらは幾ら殺したからと言って、何でもありまん』と言ふのよ。己れにそう言った『あなた、そう無第作に人を殺すのだから、或いは己などもネラワレルことがあらうから、そう言つて置きますが、だまって殺されては困るから、ソンナ時は左様言ふて下さい。尋常に勝負しませう』と言ふとネ、『ハハア、御じやうだん斗り』と言つて笑ふのだ。仕末にいけやしない。
 竹添などにそう話すとネ、少しも信じないよ。『アナタはそう仰るけど、そう云ふ人物ではありません』テツて少しも疑わない。夫はひどい人物だよ。

 

     

 

 以上の引例は、僅かに片鱗を示せるに過ぎない。巖本翁が刻苦して筆録せる海舟の数々の談話のうちには、江戸城明渡し前後の若心談がある。維新元勲並びに明治政治家諸公の人物月旦がある。徳川政治の本質に関する説明がある。

 事に対する辛辣なる批判がある。泥棒仲間の生活についての講釈もある。明治以来徳川家の為に尽せる濃かな心づ可否についての述懐もある。話台複雑にして豊富なる、語調の活殺自在なる、諷刺の適切なる、まことに応説に遑なからしれるものがある。而して全篇を貫いて最も冷厳にして、而も最も熱烈なる憂国至誠の心が周流して居る。

 

 附録として海舟の近侍者思出でを聴取り、其儘筆記したるを取載して居るのも、また親切なる用意である。情脆いたちであり乍ら、どこか意地悪く、無類に辛抱強くて同時に激しい癇癪持ちであり、大局に通ずると共に何な細かいことにも気がつき、世態人情を知り抜いて居る『人間勝安房』の面目を、飾りなく述べて居るので、此の偉大なる江戸児の面影が、ありありと眼前に浮んで来る。

 予は同志諸君が此の書を一読せられんことを望んで止まない。之を読む者は、其人の性格境遇に応じて、必すそれそれ適切なる教訓を得るであらう。海舟の所謂『時勢の転変』が切迫しつつある時、維新の転変に善処せる此の英雄の行蔵を知ることは、吾等にとりて切実なる修行の一である。

               (昭和五年十一月『月刊日本』第六十八号)


大川周明『日本精神研究』 小楠の思想及び信仰、英雄的精神の把持 

2019-01-18 22:24:43 | 大川周明

大川周明『日本精神研究』

 

第一 横井小楠の思想及び信仰

 

一 横井小楠の思出

 紛々たる世間の是非は、決して人間真個の価値を損益するものでない。遇へるが故に貴きを加へず、知られざるが故に失ふなしと云ふは、何人も異存なかる可き真理である。それにも拘らず吾等は、識徳一代の師たるに余りある人が、住々にして坎(カン、あな)(か)【カンカ、①行きなやむさま、②世に認められないさま】不遇の間に終へたるを見る時、心に深き悲みを覚えざるを得ない。仮今玄徳の三顧なかりしとしても、孔明は依然として孔明である。さり乍ら草蘆に膝を抱いて朗吟するのみが、決して彼れの全面目でなく、漢室を既に絶えたるに起して大義を天下に明かにせるところ、大丈夫の本領最も如として居る。又は太公望にしても、直鈎を垂れて渭水の浜に釣ることが、決して其の全面目でなく鷹掲として天地の塵を払ひ、周室八百年の基礎を築けるところ、英雄の本領、最も煥然たるを見るのである。

 虚心にして偉人の言に聴き、自在に其の経論を行はしめ、以て天意を地上に実現させることがまさに吾等の務めでなければならぬ。吾等には容易に見えぬ真理を把握し、吾等の容易に能くせぬ正気を体得し、万人に先ちて見、万人に先ちて導くことは、実に偉大なる魂のみ之を能くする所である。

 

 或時子貢が孔子に問ふた――『茲に美しい王があると致します。之を筺底に秘蔵して置いたものでしやうか、それとも眼のある買手を求めて売ったものでしやうか』と。言ふまでもなく孔子を美玉譬へての質問である。而して孔子は言下に之に答へて『之を沽(買う、売る)らんかな之を沽らんかな、我は賈を待つ者なり』と言って居る。そは恐らく孔子衷心の感懐であったらう。夢に屢々周公を見たのも、一代の希望が冶国平天下に在りしが故である。『苟くも我を用ゐる者あらは、朞月にして已に可ならん、三年にして成ることあらむ』と云ふのが、実に孔子の政治的抱負であり、拱手して道を講ずるは其の本旨でなかった。

 

 夫れにも拘らず、孔子は世用られなかった。啻に其の経綸を天下に施し得ざりしのみならず、却って陳蔡の野に飢死せんとし、性急多血の弟子子路をして、君子も亦窮することあるかと言はしめたほどであった。而して夫れにも拘らず、聊かも世を恨み憤ることなかった。論語には孔子の起居を形容して『申々如たり夭々たり』と言ひ、孔子自身は自家の心境を『坦蕩々たり』と言って居る。かくて弟子に向っては、己れさへ誠に学ぶ所あれば決して人の知ると知らざるとに心を悩ますなと教へた。而して自ら省みては、人に知られざるを憂へず人を知らざることを憂へた。『人知らずして慍らずまた子ならずや』――等此の一句を読む毎に感概無ならざる得ない。

 

 横井小楠が其の雄渾なる抱負を世に行ふ術(すべ)もなく、閑居して僻村に在りし頃、論語を講じたことあった。開巻学而章の講義のみ、僅かに弟子の筆記に残り収められて小楠遺構の中に在る。上の一句を講じて下の如く説いたーー『これ古人己れが為にするの学にして、存養の工夫なり。

 

 一通りの人にして時に用ゐられざるを慍らずとも、未だ弟子と称するに足らず。努力の積リて信従するもの多く、一代の碩儒とも云ふ可きほどの人才にして、世に用られず九王に明にふ時、少しも慍らざることこそ、真の君子と云ふ可きなれ』。

 

 此の解秋は、決して前人の未発を言へるものでない。而も吾等之を読んで常に心を打たれるのは、小楠木自身が世に遇はすして僻居せる間の講義なるが故であゑにもまた知られざる偉人の一人であった。

 明沿を維新の前後、英雄雲の如く多くある。而も最初に指を屈せらるべき三人は、恐らく南州海舟小楠である。西郷南州及び勝海舟は、仮令其の真直目を解するもの甚だ多からずとするも、尚ほ国民全般に景仰思慕せられ辺村の児童能く其名を知って居る。

独り横井小楠木に至りては、国民の多数に忘却せられ、其名を口にする者だに少ない。

熊本の東ニ里ばかり、沼山津と呼ぶ小村がある。小楠が閑居して日夜同志と講学したるところ。
  小楠木の誌に『曠原大沢西東に接し朝靄暮霞風光殊なり』 

 とあるのは、沼山津の景色を詠じたるものである。未だ村に入らずして小さを自然石の墓、詣でる人もなく淋しげに路傍の田圃に立って居る。既に村に入れば、目馴れぬ一棟の造作、清流に面して建てられたるがある。初夏の頃に行かば、村人の蚕を此処に飼ひつつあるを見るであらう。墓は実に小楠の髻塚であり、養蚕部屋は実に小楠講学の塾舎の跡である。

 一顧して長望すれば既に十八年の昔となった。笈を熊本に負ふて五高の一学生たりし頃、或いは吾れ一人、或いは友と打連れ、沼山津の閑村を訪ふて小楠の俤を偲びたりしこと、幾度びなづしかを知らぬ。或る時は寮禁を破って、深夜窃に窓より寄宿を脱け、沼山津に至りて小楠墓前に黎明まで坐したることもある。満地の霜を踏んで帰りしことを想へば、晩秋か初冬の頃であったらう。青春多感の年ごろのことなれば、熊本の人々が彼等の間より出でたる最も偉大なる一人に対し、其の墳墓を草莽に委し、其の塾舎に蚕を飼はしむるを見て、聖書に『予言者その家郷にては敬重(たふと)まるるものに非ず』とある言葉など思ひ合せ、窃に涙を催したこともあった。総て予に取りて忘れ難き思出を新たにしつつ、横井小楠の志操と 信仰とを探り、其の体達せる悟得と、其の徹底せる識見とを学び且味はひて、吾等の衷なる日本精神の長養に努めるであらう。
 

ニ 英雄的精神の把持 

   『五尺の短身  一竹昻  
    千山万水   去って蹤なし 
    平生の心事  知る何れの処ぞ 
    寄せて在り  英蓉第一峯』 

 安政末年か交久初年の頃である。さなきだに落日の如かりし徳川驀府の運命は、米国軍艦の來航、大震災の頻発と矢継早の内憂外患に、一層衰亡を早められた。勤王党と佐幕党との拮抗、攘夷党と開国党との激論は、日に日に、深刻激越となり、天下騒然、人心恟々たる時であった。王佐の志き抱きつつ、而も超然として熊本城東沼山津に退閑して居た小楠の寓居に、鮫島と云ふ若侍が、江戸に上ると云ふので暇乞に来た。革命的熱情抑え難く、東上して改造運動に奔走しようと云ふ青年であった。茲に掲げた七絶は、其時鮫島に贈れる小楠の詩である。

 

 小楠は其門に集まる諸士に向って、常に『人間は第一等を心がけぬばならぬ』と訓誡して居たが、いま鮫島と云ふ青年にも、日頃の訓誡を詠じて餞(はなむけ)としたのである。小楠の伝紀に『「先生身材中人に及ばず』とあるから、随分小男であったに相違ない。さてこそ『五尺の短身一竹筇』である。 

年少藩命を受けて江戸に遊学し、先年また中国から近畿東海北陸諸国を経めぐって、山と云ふ山、川と云ふ川の数々を踏破したが、総じて心に残る跡とてもなく、一顧茫々夢の如しである。

乍併唯だ一つ、はっきりと心に刻まれて居るのは富士山だけ、そして吾心は常に其の富士至高の絶巓に寄せてある。

『寄せて在り芙蓉第一峯』――小楠はこれから国事に奔走しようと云ふ血気の青年に、此の覚悟を求めたのだ。成功を祈ると言わず、高名を揚げよとも言はない、たヾ人間として至極の覚悟を求めたのだ。而して其覚悟とは、取りも直さす清高明朗なる精神――最も剴切に富士によって象徴せられる至高の日本精神を、徹底して把持することである。

 

 この訓誡は、今日の吾等に取りて、一層切実な意義がある。英雄的精神を鼓吹する教育は、畸形児を養成する所以として批難せられる当今である。合衆国の教育に『良民』を造るのが目的である、日本も今後は凡人教育で行かねばならぬなどと、埒もなき議論が真面日に主張せられる時代である。生物としての生存競争に有能であることが何よりも重んぜられ、感情を喜ばす快楽が何よりも持囃(ソウ、はやし)され、金銭に換算し得る利益が何よりも貴ばれ、それ以外のものは総じて当世にそぐわぬものとして斥けるられる時代である。革命改造を志す人々も、概ね外面的制度の更新により、自働的に向善の世界が現出するかに考へ、憂国愛人の気を専ら各種の制度改革運動に傾け、動もすれば至極の一大事を忘れ去らんとする。

 

 さり乍ら、個人と言わずまた国家と言はず、其の最後の根底は竟に拠り立つところの精神に在る。一切の外画的制度は、所詮精神の具体的発現に外ならぬ故に、日本国家を改造すると云ふことは、取りも直さす吾等の精神を改造することである。面して精神を改造すると云ふことは、真価の日本精神に復帰すること――常に心を芙蓉の第一峯に寄せることである。

 

 さて小楠の日本精神とは、決して偏狭にして矜高なる島国根性のことでない。攘夷が天下の興論となり、国民は或は極度の猜疑を以て外人を待ち、或いは極度の侮蔑を以て之に対して居た時、独り小南は卓然として主張したーー『外人もまた一天の子でないか、然る以上は之を待つに天地仁義の大道を以てせねばならぬ』と。かくて水戸一派の保守的慷漑家に対しては、実に下の如き痛棒を加へて居るーー『格別見識もなく、従って大策もなく、ただ大和魂とやらを振廻す人々は、外人を以て直ちに無道の禽獣となし、最も甚しきは初より之を仇敵視して居る。天地の量、日月の明を以て之を見るならば、何と云ふことであらう。この頑冥固陋が、国家蒼生を過らんとすることは、痛嘆限りなき次第である。』。

 

 日本は栄螺のやうに蓋を鎖ぢて、小さくなって居るべき国でない。富国強兵を理想とする人があるけれど、富国強兵に止まりては役に立たぬ。日本の使命は実に『大義を四海に布く』ことに在る。

 貴舜孔子の道を明かにし、石洋の技術を吾有とし、日本の国家を一新して西洋に普及するならば、道義を基礎とする真実の世界的平和が、必ず招徠せられるであらう。而して『此道本朝に興る可し』と言ふのが実に小楠の堅き信念であった。されば其の敬愛せる弟子元田永孚に向かって、下の如き抱負を洩らしたことがある――『苟くも吾を用ゐる者であらば、吾れ当に使命を奉じて先づ米国を説き、一和協同の実を挙げ、然る後に各国を説き、遂に逐に四海の戦争を止めるであらう』。

 

 こは元田が驚嘆したるが如く『『遥かに世論の外に出でたる見識』である。小楠は如何にして是くの如き徹底せる見識を養ひ得たか。固より天禀の俊秀が大いに与って居る。而も小楠の詩に『斯道懐に在る三十年』とあり、また『終身堅苦の力を尽し得て、雲霧を披いて青天を見んと欲す』とあるによつて知られる如く、そは実に久しき行蔵、濃かなる鍛練の賜の外ならなかつた。

『功利に流れず、大丈夫の心聖人賢を希ふ』――小楠は此心を以て厚く自ら修めたのである。

 

 功利に流れずに禅に流れずと云ふ一句、意味最も深長である。日本精神の真個の具現者は、皆な功利に流れずに禅にれざる人格者であった。自雲の地に托して天に遊ぶが如き風格は、恐らく日本独特のもので中らうか。真如の光明を捕へつつ煩悩界中に拮据し、世を超越して而も世と離れて而かも世と離れない。功利主義者現実主義者の典型のやうに思はれて居る徳川家さへ、其の晩年は天海僧正の法談を無上に楽しんで居た。たまたま、駿府から江戸に出る。色々と政治向きの用事を以て目通りを願ふ重き役人も、天海の法談が済むまでは、更に相手にされなかった。さればとて家康は決して仏いちりばかりの好々爺になり了うせたのではない。満腹の経綸は年と共に精緻となったのだ。

 

平野国臣と言へば、剣気覇気に満ちたる志土を想像するかも知れぬ。然らば先づ下に引く彼の歌を読め――
   君が代の安けかりせば予てより  
       身は花守となりけむものを

と。彼れもまた徒らに狂狷乱を好む所調実行家肌の人ではなかった。花守ともならまほしき清高隠逸の心を抱きながら、止むに止まれす君国の大羲のために剣を執って起つたのだ。事成らすして斃れたとは言へ、彼の此の精神は、啻に明治維新の基礎となりしのみならず、長久に国士の魂に宿って生きるであらう。実利に没頭して魂を忘れ、彼岸に憧憬して現実を軽んずるは、両つながら竟に日本精神の真面目でない。かかる二元的態度を脱却し、天理を明かにして心を当世に尽すことこそ、げに日本英雄児の本領である。


大川周明 「南方問題」(昭和十六年)

2018-12-19 23:23:06 | 大川周明

 大川周明『南方問題』(昭和十六年)


ワシントン会議にて
 日本がアメリカに大讓歩をしたことに依って一時危機は取り払はれたのであります。ワシントン会議は言ふまでもなく、日本の軍事力を制限し、同時に9ケ国条約を結んで支那の領土保全、門戸開放主義を確立する、4ケ国条約を結んで太平洋にける現状を推持するといふことを定めたものでありまして、この際日本ではアメリカの要求に応じて海軍力を制限し、東亜大陸並に太平洋における現状を英米側の言ふが儘に承認することによって、一時非常に差迫った日米問の空気を解消さしたのであります。

 さういふ状態で来て居りました所、支那の領土保全並に門尸開放を主題として9ケ国の間にばれた第一の条約は満洲事変に依り事実上破られたのであります。

 それから海軍制限、これもロンドン条約の破棄に依って既に破られてしまひ、今日では太平洋上の島々に関する4ケ国条約が、有るか無きかの知く存在して居るだけであって、ワシントン会議で决めた3つの日米対立和条約の中二つは、既に空文に帰し、たった一つだけが残って居るといふ現状にある訳であります。この4ケ国条約も今や日本は必要に依っては破らなければならぬといふ立場になって居るのであります。

     

 そこて吾々は太平洋全般に関する経済的若しくは地理的観察を試みる必要が起こったのであります。太平洋と申しましても海の問題ではなく、太平洋を繞る沿海地方並に太平洋に散在する島々か所謂太平年問題の要素となるのでありますが、是を地理的若しくは経済的に分けて考へますと、凡を6つに分類できると思ひます。

その第一は
 日本と満州、支那を含む所謂東亜大陸地方であります。
 太平洋に臨む東亜大陸地方であります。その二はフィリッビン、仏領印度、タイ国、マレー半島を含む熱帯地方の一群であります。その次は赤道直下に横はる所の主として蘭領印度諸島であります。これにニューギニヤも含まれてをります。 

 その次は濠州並にニュージーランド、第四は北アメリカの太平沿岸、最後には南米の太平洋沿岸であります。これらの諸国と我が日本との関係を先づ経済的に辿って見ますと、第一に満州、支那を含む東亜群であります。

 

これと我が日本とはどういふ経済関係になって居るかと申しますと
 先す関東州と日本との貿島関係は去年の統計に依れば総額8億1800万円に達します。
 

 満州との貿易総額は更に多くて、9億4200万円、支那との買易総額は6憶7100万円てありますから、これを全部合わせますと24億3100万円になっております。日本の外国貿易は昨年の総額は約65億円でありますから24億3100万円と申しますと、実にその三分の一以上に当ってをります。先程数へ上げた太平洋国との間の経済関係、即ち太平年貿易の名で呼ばるべきものは48億90万円でありますから、太平年全易額の約2分の1が関東州、満州、この東亜大陸群との間に行はれてをるのであります。

 

 でありますから太平洋地方の中で現在の所、この東亜大陸が我が日本と最も密接な関係があるといふことだけは言ふ迄もない所であります。さうして日本はこの関東州、満州、支那から最も重要な原料を輸入して、製品をこの国々に輸出して居るといふ関係にあることも、また更めて言ふまでもありませぬ。

 

その次にはフィリッピン、仏領印度支那、海峡植民地
  及びタイ国を含む一帯でありますが、

 この地方と日本との貿易総額は2億200万円でありまして、最も多く日本が此れ等の国から取って居るのは鉄と錫と米であります。さうして日本から輸出するものよりも、向ふから日本に輸出する原料の方が非常に多く、それぞれ、2500万円程度日本が余計にものを買ってをります。
 唯タイ国だけは日本からの輸出が約2600百万円であるのに対して、タイ国から日本に輸人するものは500万円に過ぎないから、この国だけに対して日本は出超となってをります。これは現在の所に於て大なる経済関係がありませぬが、産物は只今申した通り鉄と錫と米であって、我が国に最も重大な関係にあるのでありますから、将来もっと緊密な関係を結ばねばならぬ事は申すまでもありませぬ。

 殊にこれらの国々に対する日本の輸出が割合に少いといふのは、フランスでも、イギリスでも、殊に仏領印度支那に於ては非常に高い関税を設定し、日本の盛んな輸人を殆ど禁止的に防止して居るからであります。これが一度撤廃されれば日本の製品がこれらの人口の相当多い地方にどんどん流れて行く可能性は十ニ分にあるのであります。

 

次には赤道直下に横はって居る所の蘭領東印度諸島でありますが、
 ここは日本との貿易総額は約2億1000万円であります。この地方に日本から輸出するものは1億3800万円でありまして、日本に輸入するものは7200万円、即ち約6600万円の出超であります。この地方の産物のうち、世界に於て第一位を占めて居るものは規那(キニーネ)であります。

 即ち規那の世界の総産額の93%は蘭領印度から出るのであります。それからゴムとコプラの産額は、共に世界の第2位を占めて居る。茶、コーヒー、砂糖、則ち諸嗜好品の産額が世界の第3位を占めてをります。米は世界の第5位を占めております。それから錫でありますが、これは去年は非常に産額が少なくて、7400トンでありますがそれでも世界の第3位を占めてをります。一昨年の産額は丁度その倍額の1万4000トンであった。石油は750万トン程度であって、これは世界の第6位を占めてをります。

 

日本の今日の一年の石油消費額は幾らか、
 正確な所は分りませぬが、400万トン見当と見てよくはないかと思ひます。ドイツの一年間の消費額は700万トンと言はれてをります。イタリーの消費額は200万トンと言はれてをりますでありますから蘭領印度の750万トン、英領北ポルネオの150万トンを合すると約900万トン、日本の現有石油産額、人工石油その他を合せて100万トンとすれば、南洋の石油が日本の支配下に置かれるならば毎年1000万トンの石油に事欠かすに済むといふことになるのであります。

 

 随って蘭印は日本に於て最も不足して居る物、これあるが為に日本は常に米国に対して頭を下けなければならぬものを持って居る。同時にアメリカが之なければその産業組織に大影響を及ばす所のゴムを世界に於て第2位に産出するといふ点にて、非常に重大な意義を持ってをります。
 アメリカでは南米にゴムの栽培を始めてをり、
又人工ゴムを製造しておりますが、南米に於けるゴムの産額は只今の所僅に世界の総産額の2割に過ぎませぬ。随って蘭領印度のゴムの輸出がアメリカに対して禁止されるならばアメリカは如何ともし難い痛手を受けるのであります。のみならす蘭領印度諸島は軍事的に見ましても非常に重大な意義を有するものであります。


地図を見れば一目明瞭でありまする通り、
 蘭印一帯はンンガポール、番港、ポート・ダーウイン、この3つの軍港によって囲まれて居りまして、謂はば太平洋に於ける英米日三国の勢力の緩衝地帯、若しくは南洋に於ける英米仏三国の間に介在する中立国の役目を現に動め居るのであります。

 でありますから、若しこの地方に於ける三国の勢力均衡が破れて、イギリスの支配下になるか、或はアメリカの勢力支配下になるか、又日本の勢力支配下になるかによって、西南太平洋全般に亘る勢力の分野が極めて確然として来るのであります。

 日本がここに優越権を確保すればそれだけ日本の威力であるけれども、若し英米一国、若しくは英米協力してここに勢力を確立して日本を追払ふならば、是は日本に取っては実に死活の問題であります。でありますから軍事的に見ましても、この蘭領印度は日本に取って非常に重大な関係があるといふことを我々ははっきり知って置かなければならぬ。

 

次に第4のものは濠州
 及びニュージーランドを含むイキリス領でありますが

 ここと日本の貿易総額は1億5、6千万円でありまして、日本はホンの僅かなものを輸出して、甚だ多くの羊毛を濠州から買ってゐるのであります。次には北米及びカナダであります。ここと日本との貿易総額は実に17億8700万円の巨額に達してゐるのでありまして、日本はこれらの国に対しては、売るものより買ふものの方が遥かに多いのであります。

 即ちアメリカからは吾々は3億6000万円余計買ってをります。カナダからは1億1000万円余計に買ってをるのであります。而もこれらの国々から買ふ所の品物は日本に取って最も大事な物ばかりであります。例へば棉花、石油、錫、鉄、鋼、機械並に部分品、パルプ、木材、ニッケル、鉛、その他の原料品でありまして、北米並にカナダから此等のものを買はなければ日本の工業が成立って行かぬといふ立場に置かれる限り、日本が英米に対して頭を下げるのも無理もない次第であります。

 この急所を押へて居る為に、アメリカは履々対日輸出禁止を仄かして吾々を威嚇し、実際工業をやって居る方面の産業資本家がこの成嚇に震へ上ってアメリカに媚態を示さうとするのは、又諒とすべき点がないともいへぬのであります。でありますからこれらのものをアメリカから買はずに済むだけの算段をすれば、若しくはアメリカになくてはならぬものを日本が押へさへすれば、従来の如く頭を下げすに済むやうになるのであります。

 

最後には中南米の太平洋沿岸でありますが、
 この方面の貿易総額は相当に奨励されてゐるにも恂わらす、昨年は僅かに6000万円でありまして、将来と雖もこの方面に於ける経済的発展はさまで有望ではなく、随って日本との関係も薄いといふことになって居ります。

 

 斯様に申上けて来ますと、所太平洋問題の中で南方問題が我が日本に取って極めて重大な関係を持って居るといふことは自ら明瞭になるだらうと思ひます。吾々は既にこの太平洋沿岸地方の一群、東亜方面とは密接な経済関係を築き上げて居る。

 

 これを更に南方に及ほしてマレー半島、タイ国、仏領印度、蘭領印度を吾々の生活圏に取人れるならば、初めてアメリカに対して、若しくは将来出来る所の諸大ブロックと対立して、初めて日本国の安全を図ることが可能となるのであります。

ヨーロッパ戦争の結果は整ほ明瞭であるといって宜からうと思ふのであります。
 英仏の敗退に依りまして単りヨーロッパの政治体制に大変化を来すのみならず、世界の大植民帝国である英仏勢力の衰へるに随って、全世界に大なる影響を与へ、就中その影響が吾々と関係のある太平洋方面にも直ちに波及するのでありますから、南方問題は実に我々の焦眉の急になったのであります。

 

 第2次ヨーロッパ戦争が起きて英仏勢力が斯の如く急速に衰へる之は、南方問題は尚は未た明日の問題であったのでありますが、今はそれが今日の問題、目前の問題となってしまったのであります。イギリスがドイツに負けた場合はどうなるか、又本国がドイツ軍の為に占領されてもイキリスが飽く迄ドイツと戦ひ続けるといふ場合にどうなるか、先づ英本国がドイツに乗取られても戦さをするといふ場合には、何人も考へる如くイキリスは第一にカナダに落延びることでありませう。併しカナダに落延びることは事実に於てアメリカの属国になるといふことであります。

 名目は独立国であっても、アメリカの勢力下に完全に立っといふことであります。若しイギリスが飽くまでも奮闘するといふ意図があるならば、カナダに行くよりは恐らく濠州に政府を移すのぢゃないかと考へられます。欧州に政治中心を移して、南太平洋並に印度洋に亘り第二帝国を築く算段をせぬとも限りませぬ。

 詰りニュージーランド、豪州、ニューギニヤを纏める。オランダは現在に於てイギリスの保護国といって冝しいので、既に経済的には全くイギリス経済圏の中にあるのでありますが、今日の状況に於てはオランダは既にイキリスの政治傘下に置かれたのでありますから、蘭領印度も含めて、其の上出米るならば南亜連邦をも含め、印度洋から南太平洋に日る第三帝国建設に努力するか知れぬのであります。

 

 左様な場合にてアメリカは、南太平洋が日本の勢力範囲に帰するよりは、イギリスの勢カ節囲に帰した方が有ゆる点に於て好都合でありますから、全力を挙げてこの第二帝国建設に助力を与へるだらうと思ひます。

 

こうなって来ると、先程申上げた通り、
 日英米の勢力均衡に依って保られて居った南洋一帯に於て、必然英米協同勢力と日本勢力との対立が起り、否でも応でも雄雌を決しなければならぬ羽目に陥るのであります。若し日本が逡巡して、英米両国が西太平洋、豪州及び蘭領印度に進出して来た後に立上るとすれば、この戦争は日本に取って極めて不利となります。
 でありますから日本は一日も早く国家の方針を決めて、斯様な状態が実現せぬやうに努力するのが当然であると思ひます。若し日本が、英米が斯くの如き積極的な行動を取らぬ前に早きに臨んで確乎たる地歩を蘭領印度に樹立すれば、英米は自ら諦めざるを得ぬことになるのであります。

 

 アメリカは第一次、第二次、第三次と海軍の大拡張をやって他日の日米戦に備へて届ります。今日では大西洋方面に於て大なる危険を控へて居るために、西大平洋まで力を用ひることは出来ないのでありませうが、あの50億弗といふ膨大な軍備拡張が急速に実現された場合には、日本は非常に不利な状態に陥ります。
 凡そ富める国と富まざる国とが軍竸争をやる場合には早きに当って勝負を決した方が冝いのであります。之は古今の通則であります。一年経れば一年だけ軍備のギャップが激しくなりまして、富める国は得し、富まざる国は非常に損をするのでありまして、どうしてもやらねばならぬものであるならば、又、日本がアメリカに屈服したくないならば、早く本当の肚を決めて断平たる態度に出でなければならぬと思ひます。日本はその時期に到達して居る。ヨーロッパ戦争が終らぬ裡日本は早く南方対策を確立する必要があるのであります。

 

6月の29日に有田外務大臣は
  東亜モンロー主義に関する宣言をしてをります。
 この宣言は日本の南方に対する大体の意図を漠然と示したものであります。然らばこれはアメリカに対して如何なる反響を及ほしたかと申しますと、それは7月5日に、即ち該声明後一週間経ってから、アメリカのハル国務長官がトイツのリッペントロップ外務大臣に与へたステートメントの中で、間接にかういってをります。「現に他の地域に於てモンロー主義と同種のものとして強調されつつあるやに見受けられる政策」――これは有田声明のことでありますが、「それらはモンロー主義の加く自己防衛並に現存の各国主権の尊重に基礎を置いたものではなく、事実にては或る一国が剣をもって他の自由独立の国民を征服し、軍事的勢力と政治的経済的支配とを完成せんとする口実に過ぎないものである」としてアメリカのモンロー主義と日本の東洋モンロー主義とは違ふものだといってをります。

 

それではアメリカのモンロー主義は何なるものかといふと、
 「偏へに自己衛の政策であって、米国諸国の独立の保持を目的とする、即ち米国諸国の西半球への侵略を防止し、西半球の外部よりの政治的体形を包容せんとする如何なる企図も不可能ならしめる」といふのであります。是は成程百年以来唱へられたモンロー主義であります。併しながら此のアメリカのモンロー主義は自己防衛の為に必要であるといふならば、東亜に於けるモンロー主義も亦日本の日己防衛の必要ヒへるものでありますから、此の点にてアメリカのそれと何等本質的の相違はないのであります。これを攻撃するのはアメリカの勝手と言はざるを得ないのであります。

 

兎にも角にも今後南方問題に於て
  日本と当面の衝突を免れざるものはアメリカであります。
 第2のワシントン会議が開かれて、この衝突を平和に解決するか、又は武力に訴へねばならぬことになるか、それは逆賭けし難いのでありますが、第一第二の会議に於て、この前の会議に於けるが如くアメリカに屈服するならば、日本の将来は非常に悲観すべきものとならざるを得ないのであります。何人も考へる所でありますが、ヨーロッパ並にアフリカはドイツを中心引とするヨーロッパ・アフリカプロックを建設すると思ひます。その東にソヴェットロシヤを中心とした一大ブロックが出来るでありませう。

 

 南北アメリカは合衆国の指導の下に一大ブロックを作ると思ひます。残された太平洋の西岸に於て日本を中心とする大ブロックが出来なければ、只今申上げた3つのプロックの間に介在して日本が天壌無窮の国家を保つことは不可能でありますから、この非常な機会を我が日本の指導者達が決して逸してはならぬ、また国民は是非とも此の機会を逸しさせないやうに政府を鞭撻する必要があると思ひます。当局の人達に聴いて見ますと、海戦に於てアメリカに勝つ見込は十二分にある。

 イキリスはシンガポールを空っぽにして居る、本国の食料品、軍需品の輸送が一大事であって、まごまごすればイギリス国民は餓死しなければならめので、本国防衛並に大西洋を往復する商船隊の保護に海軍力を尽して居るから、こっちは空っぽであるといふのであります。

 

 またアメリカの現在の海軍力も、アリューシャン群島、ハワイ、ミットウェーの線は日本の攻撃に対して守るだけが関の山であって、西大平洋に進出して日本を打つだけの用意は整って居ないと申します。 

 

 であるから戦争に勝つ自信は有り余るけれども、この載争は一朝一夕につく勝負でなくて、長い間の日本とアメリカとの経済戦になる。左様な場合に日支事変の片付かぬ今日、更に長期の経済戦に耐へるかどうかは非常な問題である。それ故に国内の新しい体制、国民の新しい組織が南進の先決問題である。この組織が出来なければ危くて積極的行動には出られない。今の所は先づ仏領印度支那から徐々に経済的に進出して行くが冝しいと、斯う申すのであります。

 

併し私は之に就て疑問を持ってをります。
 第一国内の新体制、若しくは国民組織の問題でありますが、如何に体制を整へても、如何なる形式に依って国民を組織しましても、若しこれに魂が入らなければ、あってもなくても同様であります。今日の日本の経済機構、官僚機構、政治機構、これを観念的に考へますと、決して悪いものではない。何処の国のそれに較べても決して劣って居りませぬ。
 それにも拘らず今日の日本の政冶の貧困は何であるか。これは機構があっても魂が入ってをらぬからであります。気永に仏領印度支那から経済的発展を試みるなどと呑気なことをいって居たのでは、仮令どんな立派な体制を机の上に作り出さうが、そして国民をその中に追ひ込まうが、決して魂が入りませぬ。如何に形式を整へても、本当の魂が入らなければ決して物の役に立ちませぬ。

 

 日本国民が本当に危急存亡の秋に立っ時、努力如何に依って日本が飛躍的発展を遂げ、惰ければ日本が滅びるといふ非常な時期に立っ時、国民の精神が初めて緊張し、昂奮し、感激し、初めて一切の機構に魂が人り生きた働きをするのであります。でありますから私は、体制を先にするのは、寧ろ順序を取違へて居るのではないかと思ひます。

 先づ国家が大決心をして、国民の根本動向をはっきりと掴んで、国を挙けてそれに向って突進することによって、初めて新体制に魂が籠り、さうして国力を思ふ存分発揮することが出来ることになるであらうと思ひます。私は政冶の新体制は寧ろ後で、国家が偉大なる事業に向って断平として一歩を第み出すことが先だと思ふのであります。

   (吉岡永美編「世界の動向と東亜問題」、生活社、昭和十六年)


大川周明 『新亜細亜小論』(下篇) ガンディを通して印度人に与ふ 

2018-12-14 10:52:41 | 大川周明

大川周明 『新亜細亜小論』下篇

 
 

                                             マハトマ・ガンディ
                                                  (ウィキペディア)

 

 

ガンディを通して印度人に与ふ  

    一  

 マハートマ・ガンディは、その著 『日本人に対する警告』 を、彼の思い出を以て始めて居る。それ故に余もまた之に倣って、ガンディに対する公開状を、余自身のそれを以て始めるであらう。

 今より卅余年以前、竜樹研究を卒業論文として東京帝国大学を出た時、余が心密かに期したりしは、毎日大学図書館に通つてウパニシャッド研究に没頭して居た。

 さて余にとりて決して忘れ難き一書は、サー・ヘンリー・コットンの 『新印度』である。インドに関する至深の関心が、現在の印度及び印度人に就いて知るところありたいといふ念ひを、いつとはなく余の心に萠し始めさせたことは何の不思議もない。一九一三年夏、一夏の散歩は余に古本屋の店頭に曝されたるコットンの書を見出した。余は新印度といふ書名に心惹かれ、求め帰つてこれを読んだ。而して筆紙尽くし難き感に打たれた。

 この時に至るまで余は現在の印度について殆ど全く知るところがなかつた。未だ見ぬヒマラヤの雄渾を思慕し印度思想の荘厳を景仰しつつ、余はただ婆羅門鍛錬の道場、仏陀降誕の聖地としてのみ、ほしいままに脳裡に印度を描いていた。
 然るにコットンの書は、余りなき筆致をもつて、偽りなき事実に拠り、深刻鮮明に印度の現実を余の眼前に提示した。この時初めて余は英国治下の印度の悲惨を見た。余は現実の印度に開眼して、それが吾が脳裡の印象と余りに天地懸隔セルに驚き、悲しみかつ憤った。

 余はコットンの書を読み了へたる後、図書館の書庫を渉りて印度の政治、経済に関する著書を貪り読んだ。しかして読み行くうちに、単り印度のみならず、茫々たる亜細亜大陸、処として白人の蹂躙に委ねられざるなく、民として彼等の奴隷ならざるなきを知った。

 ウパニシャッドは何時しか余の机上から影を隠した。燃ゆる怒りを以て余は専ら亜細亜諸国の近代史を読み、亜細亜問題に関する諸著を読んで、亜細亜に対する欧羅巴侵略の経緯を知らんとした。しかしてかくの如き研究は遂に余を駆りて近代欧羅巴植民史及び植民政党の研究に没頭せしめて今日に至った。かくて出家遁世さへもし兼ねまじかりし専念求道の一学徒が、転じて復興亜細亜を生命とする一戦士たるに至った。

 余は第一次世界大戦がなほ酣はなりし一九一六年初頭 『印度における国民運動の現状及びその由来』 と題する一書を印刷して、これを日本の朝野に頒布した。恐らくこの書は現代印度の政治的実情を日本に紹介せる最初のものである。また余は友人W・W・ピスアン君の『印度のために』と題する一書を印刷頒布した。当時日本の何人も南亜の一弁護士ガンディの名を知らざりし頃、ピアスン君はその小冊子の中に印度における各部門の指揮者を紹介せし後、最後に政治的指導者としてガンディのために誰に対してよりも多くの行数を費やしている。余もまたこの時初めてガンディの為人を知り、遥に思慕の念を寄せていた。

 此等の両著は共に英国の同盟国たりし日本政府によつて発売頒布を禁止せられ、余は此の時以来英国官憲のブラック・リストに載せられることとなつた。加ふるに英大使館の強要によつて日本政府が退去命令を発したり印度の革命家の一人を、余の家に匿まへることを知るに及んで、英国は一層余に対する警戒を厳重にし、余が会員たりし日印協会の理事を動かし、余をその協会から退会までさせた。

 かくて余は日本に於ても最も早く印度問題に関心を抱き、且印度人のうちに多くの友人を有する一日本人として、マハートマ・ガンディの『警告』に答へんとするものである。

 

    二 

 マハートマ・ガンディは、印度独立に対する吾等の至深の関心を、無用な節介なるかの如く言つて居る。それは言ふまでもなくガンディが日本の真実の意図を知らざる故である。単りガンディと言はず恐らく印度人の多くは、日本が何故に印度のためにそれほど憤りかつ嘆くかを知るに苦しむであらう。

 印度に取つて日本は他国であるかもしれない。しかも日本は、千年このかた印度を 『他国』 と思っていない。西洋人の渡来するまで、吾等に取りて世界は支那と印度とを中心とする東洋のことであり、之に日本も加へて常に『三國』と呼んで来た。日本は支那及び印度から数々の尊きもの貴きものを学び、之を自己の精神の裡に統一し、之を生活の上に実現しつつある今日に及んでいる。

 それ故に支那は支那の実を考へ、印度は印度のみを考へ、また他国のことを念とせざりしに拘らず、独り日本のみは常に 『三國』 を意識し、美しき花嫁を誉めて三國一の花嫁と言ひ、富士山を誇りては三國一の富士山と言って来た。この事は吾等の日常生活が、三國意識の上に営まれて来たことを示すものである。往年日本に来遊せる印度の学者B・K・サルカル君も其著 『印度人の観たる支那仏教』 の中において明らかにこの事を認めている。

 日本が印度から学んだ最も尊きものは釈尊の宗教である。而して仏教は単に宗教的信仰のみならず、印度文化の全体を日本に伝へたので、仏教徒たると否とを問はず、日本人は仏教を通じて甚だ多くを釈尊の印度に負うて居る。それ故に真実の日本人である限り、英国のインドに対する不義に対して、恰も吾師に対して不義が加へられた時に抱くであらうと同一の憤りと嘆きとを感ずるのである。

 吾等が英国の印度支配に対して加へる弾劾は、単なる人道主義による道徳非難たるに止まらず、実に吾心と吾身とに加へられたる辱しめを痛感しての義憤である。インド革命思想の父ともいふべきアラビンダ・ゴーシュは『圧制者あり、わが母の胸に座す。わが母をこの圧制者より救ふまで吾は断じて息まず』と誓っている。われ等はこの悲壮なる覚悟を実にわれ等自身の覚悟の如く身に泌みて感ずるものである。

  印度最高の努力は、内面的・精神的自由の体得に存し。かつこれによつて崇高なる精神的原理を把握した。その神聖なる意義と価値とを認めることにおいて、余は決して人後に落ちるものではない。ただ印度はこの原理を社会的生活の上に実現すべく金剛の努力を払わなかった。其の必然の結果は、内面的・個人的生活と外面的・社会的生活との分離となり、遂に一面には精神的原理の硬化を招き、他面には社会的制度の弛緩を招いた。かくて若干の聖者が精神的高根の絶頂を究めて独り自ら浄うせる時、三億の民衆は英国の奴隷となり果てた。

 日本は印度の痩せこけた姿を座視するに忍びない。岡倉天心の悲壮なる言葉を籍り来れば、吾等は『宝石を鏤めたる恥ずべき勲章を以て重く其の胸を飾れるラージャやソブナの印度を、古代の栄光を青年から隠蔽する白髪のパンジャトの印度を、刺繍されたサーリー服の上に愛国の涙を濺ぐ薄暗きゼナナの印度を、抗議し難き経済的事業に就いては敢えて抗議せんとせぬ国民会議の印度を、飢饉に焦きつける稲田の印度を、疫癘のさなかに浮かれ騒ぐバザールの印度を、恥辱もて彩られたる追憶の印度』を見るに忍びない。

 日本は大東亜戦における日本の勝利が、印度独立のために千載一遇の好機たるべきを信じ、古へ釈尊より受けたる教に対する最上の返礼として、印度独立のため能くする限りの援助を提供せんとする以外、また他意あるのではない。若しマハートマ・ガンディが、印度独立に対する日本の誠実なる意図を疑ふならば、それは真個の日本を知らざるためである。

 

    三  

 マハートマ・ガンディの日本に対する一切の非難は、大東亜戦争をもつて帝国主義的野心の発動なりとする誤解の上に立つ。斯くの如き誤解は疑ひもなく英米の宣伝及び支那の虚構を真実とするによるものである。若しガンディが明治維新の精神を正しく理解するならば、この誤解は必ず消え去るであらう。

 既に百年以上も前に日本の先覚者は、北方よりするロシアの脅威と、南方よりする英国の脅威に備へるため、国内に於ける徹底せる政治的革新の必要を痛感すると同時に、この革新を近隣諸国に及ぼし、相結んで強力なる亜細亜を建設し、以て西洋諸国と対抗せねばならぬと信じて居た。それ故に大東亜共栄圏の理念は、決して今日事新しく発案されたものでなく、明治維新前夜において既に先覚者日よって明確に把握されていたものである。彼等は日本の国民的統一と東亜諸国の近代的改革及び両者の結合に依る亜細亜の復興を以て、内面的に固く相結べる不可離のものと考へた。斯くの如き思想は、同じ時代の支那及び印度に於いて誰一人考へなかつたであらう。

 明治維新は実に斯くの如き精神を以て行われた。それ故に維新精神の誠実なる継承者は、単に日本国内の政治的革新を以て足れりせず、実に燃ゆる熱情を以て近隣諸国の事を自国の事の如く考へて来た。

西郷南洲は下の如く言っている――
 『日本は支那と一緒に仕事をせねばならない。それには日本人が日本の着物を着、支那人の前に立つても何にもならぬ。日本の優秀な人間は、どんどん支那に帰化してしまわねばならぬ。そしてそれらの等の人々によつて支那を立派に道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれない。』

 一八九六年、密かに横浜に亡命し来たれる孫文を、如何に温かく日本は庇護したか、今日の支那国民党が其の組織を築き得たのは実に東京においてであり、孫文が支那革命の指導権を握り得たのは、実に日本の先覚者の無私なる援助によるものである。

 而して其の援助は主観的同情たるに止まらず、幾多の志士が自ら支那に渡りて、或いは屍を戦場に曝し、或いは一生を支那革命のために捧げて一切の艱難辛苦を厭わなかつた。

 彼らの心には支那と日本の隔ての垣がなかつた。彼等は日支両国の固き結合による東亜新秩序の実現は、両国の孰れに取りても避けることを許されぬ課題であると考へた。亜細亜の辿るべきこの運命を、亜細亜の孰れの国よりも先んじて自覚し、そのために拮据経営し、そのために欣んで多くの犠牲を払つて来たからこそ、日本に東亜の指導権が与へられる。

 日本を敵視する国々の宣伝に惑わされず、日本に来て日本の魂に自ら触れ得たる者は、恐らく余の言葉に首肯するであらう。例へば亜細亜の桂冠詩人にして印度の忠僕たるタゴールは、二十余年以前その日本滞留の短き期間において、能く亜細亜における日本の地位と使命とを観得している。彼はその来たるや凱旋将軍の如く迎へられ、その去るや路頭の人の如く送られた。これ等の如き反復は恐らく彼を欣ばしめなかつたであらう。唯だ幸いにして彼は感情によつて判断を誤ることはなかつた。

 彼は下の如く言った――『日本人が亜細亜を糾合し且つこれを指導することを以て国家の使命と考へるのは毫も怪しむに足らぬ。
 欧州諸国はその間に幾多の相違あるに拘わらずその根本的観念並に見解において正に一国である。彼等の欧羅巴以外の国民に対する態度は、之を一大陸と言はんよりは寧ろ一国といふを至当とする。例へば仮に蒙古人種にして欧羅巴の片土を侵すとせよ。然らば全欧は挙つてこれが撃退に協力するであらう。日本は孤立することが出来ぬ。日本
 一国を以て聯合せる欧州列強と角遂するは、偶々その敗北を招く所以である。さればとて日本は真個の味方を欧羅巴以外に求めることは出来ぬ。然りとすれば日本がその味方を亜細亜に求めるのは当然である。

 日本が自由なる暹羅(注、インドシナ半島中部にあるタイ王国の前名シャムにあてた漢字)、自由なる支那、而して恐らく自由を得ずば止まぬ印度と相結ばんとするに何の不思議があるか。相結んで起てる亜細亜は、仮に西亜のセム民族の協力を除外するも、なほ且つ強力なる聯盟である。固より是くの如き遼遠なる前途を有するであらう。その実現には幾多の難関が横たわるであらう。言葉の相違、交通の困難も障碍とならう。さりながら暹羅より日本まで、そこには親近なる血縁がある。印度より日本まで、そこには共通なる宗教あり、芸術あり、哲学がある。』

 いまや遼遠なる道は殆ど歩み尽くされ、幾多の難関は殆ど踏破された。印度は日本に呼応して蹶起することによつて立ちどころに恥づべき英国の鉄鎖を寸断し、自由と独立とを回復し得るに至った。希くは猜疑を去れ。

 

   四  

 一切の個人または国民の本質は、個々の実行又は政策に現れたるところによつて判断すべくもない。個人または国民の本質は、その魂の奥深く流れる精神、その最も尚ぶところのもの、その至高の価値を置くところのもの、即ちその志すところ、その理想とするところを明らかにして、然る後に初めて正しく把握することが出来る。

 総て政府が然る如く、日本政府は必ずしも常に国民的理想の忠実なる実行者であつたのではない。そは往々にして維新精神と背馳する道を歩んだ。日露戦争以降、わけても第一次世界大戦以後から、日本は支那及び亜細亜諸民族を著しく失望せしむる方向に進むやうになつた。日本は味方を亜細亜に求める代わりに、米国人から 『極東における吾等の不倶戴天の敵』 と明らさまにいはれながら、その英米の甘心を買うふことに努めてきた。

 然しながらこの誤謬はやがて嬌正され始めた。一九三二年に勃発せる満州事変は、まさしく誤謬清算の第一歩であり、この時より日本は亜細亜抑圧の元凶たる英米の友人または傀儡たることを止め、真に亜細亜解放の戦士として起ち上がったのである。しかして日本政府をして一挙維新精神に復帰せしめ、日本の国歩を正しく転向せしめたのは、炎炎として燃え上れる日本の三國意識に外ならない。近代日本が国民的統一のために起ち上がれるその時から、綿々不断に追求し来たれる東亜新秩序建設の理念が、一定の誤謬期間を経たる後に新しく復帰せられ、国民は燃ゆる熱情を以て英米勢力の排撃、真東亜建設のために努力しはじめたのである。

 かくして日本は支那との間にも昔日以上の緊密なる肉親的結合を再建し、相携えて興亜の大業に拮据せんとしたに拘わらず、支那はこれを以て日本の帝国主義的野心の遂行となし、その排日運動は凶暴を極め、遂に支那事変の勃発となり、支那事変はその必然の帰趨として更に大東亜戦争にまで発展した。

 真個の支那有識者は、深く日本に対する誤謬から目覚め、復興亜細亜のために日本と協力し始めた。吾等はマハートマ・ガンディが、英米及び支那の宣伝による誤謬を一掃し、荘厳なる 『三國』 の実現のために、その偉大なる勢力を印度民衆の上に揮ひ、印度を正しき方向に指導せんことを願って止まない。
             (毎日新聞、昭和十七年十二月十五日、十六日)


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) ABCD包囲陣の正体

2018-12-14 10:47:03 | 大川周明

                          大川周明

日本の当面せる時局 
 同一目的の下にそれぞれ欧羅巴及び東洋いて戦われつつありし二個の争が、今や自然の帰結として、名実ともに一個の世界戦となった。日本は否応なく其の声明せるところを実行せねばならなくなる。

 日本は逸早くとう新秩序の建設を世界に向かって宣言した。東亜の秩序は疑ひもなく世界秩序の一部なるが故に、東亜新秩序の建設は、取りも直さず世界新秩序の実現を意味する。此の論議は火を観るよりも明白なるに拘わらず、日本のうちには東亜を世界より断離し、唯東亜だけの新秩序の建設が可能であるかの如く空想する者がある。

 而も東亜新秩序を建設のための最初の決定は、英米仏蘭の勢力を東亜より駆逐することである。東亜を白人の植民地又は半植民地たる現状より解放することが、新秩序建設の第一歩となる以上、その実現のためには必然此是諸国との衝突を免れない。故に日本は、万一の場合は彼等と戦ふ覚悟なくしては、斯かる声明を世界に向かって発する道理がない。
 いまや世界史の動向は、覚悟ありしにもせよ無かりしにもせよ、に日本をしてこれら諸国の包みかくすところなき敵意に当面せしむるに至った。かくて日本の非常時は、刻々深刻を加へて居る。単なる生命や宣伝だけで糊塗するには余りに重大になった。
                    (昭十六・八)

日本の国力 
 英米両国は日本の国力を過小に評価して居る。支那事変のために、日本の国力は消耗し、国民は疲弊し果てたと考へて、彼等ら恫喝よって日本を屈服せしめ得べしと信じてきた。各種の方法による度重なる恫喝に拘らず、日本は啻に屈従せざるのみならず、厳然として其の歩むべき道を邁往する。
 仏印進駐は恐らく英米の最も意外とせるところなりしに相違ない。日本の態度に徒競合する彼らは、ただ声高に吃驚せる彼等は、唯だ声高に『そこから先に出るな!』と呼んでいる。

 国力は之を測る如何なる客観的標準もない。民族又は個人の力は、戦って初めて之を知り得る。正しき理想の下にリマ行動する時、一の断行に一の力現はれ、十の断行に十の力現れる。日本の国力は滾々不尽である。惟だ指導者が日本をして存分にその力を発揮せしめるか否かが問題である。民族至深の要求を体得し、世界史の根本動向を明確に認識し、起って国民を導くならば、日本は必勝不敗の力を現すであろう。
           (昭十六・九)

悲劇的なるイラン 
 強烈なる愛国心と金剛の意思とを以て、廃頽衰微のイランに脈々たる生命を鼓吹し、これを外にしては欧羅巴帝国主義の覇絆より脱却せしめ、之を内にしては光輝に満ちたる古代波斯精神を復興せしめるため、倦むことを知らぬ努力を続け来たりしパフラギ皇帝は、英露両国の暴力によって偉業半途にして挫折し、遂に退位の余儀無きに至った。そは第二次世界大戦が生みたる最大悲劇の一つである。

 今春吾等は、イラン国防相の新著『戦争』を翻訳出版して、この復興せる国家の指導者が、如何なる精神と覚悟とを抱いて居るかを吾国に紹介した。吾等は其の正しくて高き理想を、その溌剌たる意気、その適切なる施設を此の書によって看取し、イラン国の多幸なるべき前途を祝った。
 然るに其後数か月を出でざるに、正義と自由と平等とを標榜する両国が、唯だ自己の野心のために無残に此の国を蹂躙し去ったのである。

 而して世界における国際正義の選手、民主主義の擁護者アメリカは、此の暴虐に対して一言の抗議をさへ提出せぬのである。
 不幸なるイランは是迄幾度か同様なる悲運の下に立った。そはギリシャ、アラビア人、韃靻人のために征服せられた。
 第一次世界大戦に於ても、今日と同様なる悲惨を嘗めさせられた。誰が二十年前のペルシャに今日のイランを想像したらうか。パフラギ皇帝の英雄的精神は、やがて再び国民の魂に蘇り、必ず第二の建国者を生むであらう。
             (昭十六・十)

 

ABCD包囲陣の正体
 今日の日本における最も忌々しき事実の一つは、言論の際限なき苛辣である。吾等はその最も著しき一例をABCD包囲陣の力説に於てみる。
 日本は果たしてABCDに包囲されて居るのか。またABCDは果たして日本を包囲する実力があるか。

 第一にDである。蘭印政府の最大の関心事は、本国和蘭の独立復興であり、日本の進攻を恐れこそすれ、日本に対して積極的行動に出ずべき力がない。

 第二はCである。そは唯だAの指図によって消耗的排日政策をとって居るにすぎぬ。支那と日本は現に日華条約に於て堅く結ばれて居る。蒋介石は尚、ABの使嗾によって抗日戦を続行して居るけれど、もし日本に偉大なる政治家あるなられば、明日に出も其の態度を一変せしめることが不可能でない。

 第三はBである。Bは欧羅巴に於て戦腑に忙しく、仮令西亜に其威を伸ばし得ても、東亜に駆逐すべき余力がない。

 惟だ最後のAのみが日本に向かって後世に出づべき実力を具へて居る。それ故にABCD包囲陣の物々しき唱道は、敵性諸国の日本に対する恫喝であり、事実としては米国の対日政策だけが残る。
 此の攻勢は決して今日に始まったことではないが、Aは果たして武力に訴えるだけの覚悟と必要に迫られているか否か。恐らく恫喝と懐柔によって日本を跪拝させようとするのが真実の肚であろう。
 Aは日本を攻める以上にBを援ける必要がある。その対英援助さへも武器貸与、物資供給に止めて、今日まで参戦を敢えてしない。そはドイツと戦ふうことは日本と戦ふことになるからである。

 物のはずみは測りがたい。従って米国の恫喝其度を超え、飽迄日本国家の体面を辱しめんとするならば、起って戦ふ覚悟を抱くべきは当然であり、軍事当局者は必勝の準備既に完きことを声明して居る。
 敢てABCD包囲陣と仰々しく叫喚するに及ばぬ。吾等に挑戦する実力あるものは、依然としてAの身である。
              (昭十六・十二)

 

〔続く〕 亜細亜の興廃 


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) 東亜協同体の意義

2018-12-14 10:41:48 | 大川周明

                                        大川周明
 
           

「新亜細亜小論」上篇


国民の二つの顔 
 「それ民言は、別ちて之を聴けば即ち愚、合わせて之を聴けば即ち聖」といへる菅子の言葉は、まさしく千古の心理である。国民は個々の区々たる概ね耳を籍すに足らぬものが多い。而も時あつて国民は、恰も見えざる何者かに支配せられたるが如く、挙げりて同一の思ひを抱く。故に政治家は天下の目を以て視、天下の心を以て慮らねばならない。もし日本の指導者が、厳酷に国民の口を箝し、苛辣に国民の国事に対する発言を禁じて、独善独巧、能く非常の難局に善処し得ると思ふならば、これほど増上至極の沙汰ではない。

 いま国民至心の願ひが二つある。一つは日支事変の迅速な解決でり、他は積極的な南方進出である。日本一たび協力すれば、亜細亜会報の大業は立どころに成るであろう、日本一国が之を主張する場合は、侵略主義の仮装と極言するアメリカも、若し日支共同して亜細亜モンロー主義を声明するならば、最早之を承認するの外は名からう。此の千載一遇の大機の未だ去らざるに臨んで、支那と協力して亜細亜を開放し、南方に確乎たる経済的支配の樹立せんことを切望して居る。

 国民は切々として此の二事を願求する。そは実に国民総体の願求なるが故に、当局は之に耳を傾け、速やかに之を満足せしめねばならない。
                                (昭十五・十)

帝国的南進論の克服
 日本お南方への進出は、単に母国の戦敗によつて微力なれる従来の支配階級に対し、吾国に有利なる協商や条約を強要することを目的としたり、又は此の地域に於ける新支配者として日本を登場せしめんとするが如き吾國の下に行はれてはならぬ。
 若し日本が、単に事故の経済機構を英米依存の体系より脱却せしむる必要からのみ南方への進出を画策するならば、恐らく土着の民衆は茲に危険なる新侵略者を見出し、旧来の当事者との共同戦線を以て対抗し来る危険性がある。

  仮令英・仏・蘭の旧勢力掃討に成功するにしても、若し彼等と同じき侵略的支配の立場を取るならば、極めて長期に亘る絶望的なゲリラ戦の反撃を覚悟せねばならぬであろう。
 併し乍ら是くの如き旧帝国主義的意欲の危険性に対する警戒は、決して南方問題の放棄を意味する者でもない。そは旧来の帝国主義的南進論の克服の上に、南方政策の正しき再建を要求する者である。而して其の政策は、支那事変の痛切なる経験より生まれ出たる東亜共同体の原理に立脚し、此の共同体の発展拡大として、南洋を抱擁する東亜共同圏の構想によって導かれねばならぬ。吾等は其為の基本原理を堅実に打ち樹てねばならぬ。
                                 (昭十五・十一)

東南協同圏確立の原理 
 南洋を含む東南協同圏の確立は、いかなる基本原理に立脚すねばならぬか。第一に圏内諸民族は、世界史の当面する段階、即ち地球全面がが幾つかの協同圏に再編成せられつつあり、且此の再編成に於ける民族の動向如何が、その民族の興亡を決定するものであることを明確に認識し、東亜及び南洋の諸民族が有つ運命と利害との共通を自覚せねばならぬ。したがって東南協同圏の確立は、東亜及び南洋の諸民族に取りて、共同にして最高なる歴史的使命であることを、それぞれ歴史的立場に立って積極的に把握せねばならぬ。

 そは必然の論理として圏内における帝国主義的植民地的支配の存在を許さない。同時に圏内に於ける諸民族間の如何なる軋轢闘争も許さない。それ故に東南協同圏の確立のために真先に要求せられる条件は、実に日支両国の全面的和平と提携であり、これ無くしては日本の南進は不可能と考えねばならぬ。

 そは更に、圏内諸民族の排他的意識を精算せねばならぬ。圏内先進国民は、その優越感と侵略意識を清算しし、後進民族は其の猜疑心と反抗意識を清算せねばならぬ。而して、此事は、国内諸民族の自由と向上を目的とする反広範なる政治運動に於ける相互の連携と協同とによってのみ成遂げられる。

 而して是くの如き諸任後の実践において、日本民族にその指導者たるべき運命を持つ。蓋し日本は圏内における最先進国であるのみならず、唯一無二の完全なる自主国であり且最近の事変を通じて、有らゆる角度から此の協同圏確立の必要に迫られておる具体的事情があるが故である。

 日本は其等の民族に対する旧来の帝国主義的抑圧の掃蕩、民族の解放と自主とを前提とする協同圏の建設を提議し、且圏内住専の友情と思って諸民族の帝国主義的支配に対する反抗と闘争を援け、実践の友情を以て彼らの信頼をかち取らねばならぬ。
                                 (昭十五・十二)

東亜協同体の意義  
 道徳又は正義は、意識ある組織体に於て初めて発現する。組織あるが故に主義がある。主義あるが故に理想がある。蓋し理想の実践に貢献する行動が即ち正義であり、之を妨ぐる行動が即ち邪悪である。而して現在までのところ、世界に於る至高至大の意識ある組織は、実に国家そのものである。

 然るに国家は、之を形成する民族の性情を経てし、独特なる過去を緯とする統一体なるが故に、松に松の樹容あり、梅に梅の樹容ある如く、それぞれ固有の面目を有し、従ってそれぞれ主義を異にし理想を異にして居る。そは甲乙丙丁の国家が、強ひて意識的に他と異ななんとして生じた差別にあらず、柳の自ら緑や花の自ら紅なる如く各国それぞれ自国の理想奉じ、理想によって終始する間に、自然に発現し来れる差別である。

 この自然法爾の差別あるが故に、万国の正義は決して一味にあらず、一国の正義は決して直ちに他国の正義ではない。
従って一国の正義と他国のそれとが背駆し扞格する場合は、その解決の最後の手段は、竟に戦争の外なかった。

 乍併これは断じて理想の世界ではない。世界史と究極は、人類全体を統一する具体的組織の実現である。吾等は一切の効果が、同一理想によって、世界連邦を形成する日、又は或る一国が万邦を打して一個の国家を形成する日の来るべきことを信ずる。
 而して此の理想に到達する段階として、先ず地域的に近接し、人種的に近似し、経済的に連関し、文化的に緊密なる数個の国家又は民族の間に、超国家的なる組織体が、共通の主義と利害によつて実現せられねばならぬ。

 世界史は、今や是の如き組織体を地上に出現せしめんとして居る。吾等協同体は、経済的関係を主眼とする利益団体に非ず、広汎なる意味に於ける経済的道徳的主体の確立でなければならぬ。
                              (昭十六・一)



大川周明 『頭山 満と近代日本』(七) 国民的精神の覚醒、地租改正反対と軍備拡充

2018-11-14 10:49:25 | 大川周明

大川周明 『頭山 満と近代日本』   
        国民的精神の覚醒、地租改正反対と軍備拡充

 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 

    

 条約改正無期延期・黒田内閣辞職によりて、
民間の反政府運動は一応勝利を以て段落を告げ、各地の政治団体は衆議院議員選挙の準備に力を注ぐこととなった。玄洋社では頭山翁に向つて熱心に立候補を求めたが、翁は決して承知しなかつた。玄洋社では翁が大阪に赴いて留守の間に、飽迄も翁を議員に推すことに決し、玄洋社所有の土地を悉く翁の名義とし、之によつて議員候補者の資格として公民権を獲得し、翁が帰福の後に此事を告げて承諾を求めた。
 併し乍ら翁は、玄洋社には議員として自分よりも適任の者が幾らでもあると言つて、断乎之を拒み、右地所は大原義剛の名義とすることにした。佐々友房の如きも、初期の代議士に是非翁を出馬させたいと極力勧誘したが、翁は君に議員になるなと言はないから、自分にも議員になれと奨めるなと言つて、耳を貸そうとしなかつた。

 さて明治初年以来、幾多の志士が業を棄て産を亡ぼし、
若しくは血を流してまで要望し熱求し来れる帝国議会は、明治二十三年十二月二十五日を以て召集され、二十九日を以て開院された。
 多年藩閥政府と抗争して幾多の艱難辛苦を嘗めたる政党員は、言論・集会・出版・結社等の自由を拘束されたる桎梏(しっこく)を脱し、公然立法機関に拠って政府と対陣することとなつた。
 代議士の脈管には、武士道に養はれ、徳教に訓育されたる血の尚ほ流れて存するものあり、政府に反抗する者も追随する者も、概ね国士を以て自ら任じ、正義正道と信じたる所に従つて行動せんとした。

 第一回帝国議会開会当初に於ては、
未だ後年に見る如き醜陋(しゅうろう)なる言動や不真面目なる態度は、議場に漂ふことなかつた。加ふるに後年ほど選挙に莫大の運動費を要しなかつたので、解散を恐れる議員気質なるものもなく、偏へに主張に忠ならんとした。

 初め後藤象二郎が同家危急を叫んで大同の急を呼号するに当り、
各種異様の流派と人物と網羅し、忽焉(こつえん)として彪大なる団結を出現せしめて、恰も自由党・改進党の小異をさへ此時を以て棄却せしめたるの観があつた。
 而も大隈が条約改正を断行せんとするに及び、保守党及び国権主義者、先づ起つて之を妨げ、改進党を目して売国の賊と罵るに至り、大同団結もまた之に和し、激烈なる大隈反対を表示したので、改進党は早くもまた此時に自由党と絶つた。
 而して大同団結の首領たる後藤は、之を跳躍台として一躍身を薩長の藩籠(はんろう)に投じたので、大同団結は後藤の入閣を喜ばざる大同協和会と、大同倶楽部との両派に分裂した。

 協和会は板垣を起して自由党を再興せんと欲したが、
板垣は後藤との衝突を避けるため、別に愛国公党を組織して両派を調停せんと欲し、三十二年十二月海南より出でて大阪に大会を催した。此の計画は大同団結を維持せんとする後藤の直参派にも、また自由党再興論者にも喜ばれなかつたので、幾くもなく立消となつた。議員選挙は政党界が是くの如く紛糾せる時に行はれたので、競争は往々に同主義間に行はれ、従来政党に関係なかりし者で当選したものが頗る多かつた。

 彼等は後に相集まりて大成会といふ一倶楽部を組織した。在野の諸派は、合同して政府に対するに非ざれば、多数を議会に制することが出来ないので、在野党合同の議が起つたが、其議は改進党中に異見ありて行はれず、やがて改進党を除きたる諸派の一致となり、立憲自由党の名称の下に百三十の員数を得た。而して改進党の四十名を之に加ふれば百七十名となり、総員三百の過半数となる。
 

 第一議会に臨める山縣内閣は、
超然主義を標榜して表面は政党と何等の関係をも有せざる如く見せかけたけれど、自由党・改進党が連合し、民力休養を唱へて政府提出予算に削減を加へんとしたので、民間党の一部を切崩し、辛うじて議場に多数を制して予算を成立させることが出来た。
 議会がとにかく無事に終つたのは、一に山県首相が隠忍譲歩して民党の鋭鋒を避けしに由るものであるが、民党は此によつて意気傲り、官僚は之を視て憤慨し、山県もまた衷心安からざるものあり、遂に病に託して辞職し、薩人松方正義が之に代つた。
 

 さて明治二十二年黒田内閣の出現は
国政の一転機であつた。伊藤内閣は制度の上に於て成すべき事は殆ど成し遂げたが、細目に忙しくして大綱に気が付かなかつた。
 明治政府の外柔内硬は伊藤・井上の欧化主義を以て其の頂点に達し、其為に国民的自覚を喚起し、国粋保存・国体擁護・国権伸張の声が随処に挙がるに至つた。

 茲に注意すべきことは、明治十四五年の交に起りし保守的反動は、具体的に言へば漢学の復興に過ぎなかつたが、明治二十年以後に起りし反動は、国民的自覚の現象なりしことである。
 素より此の場合に於ても窮経(きゅうけい)を抱ける儒生、山寺の和尚、古神主等にして喜んで之に投じたる者ありしとは言へ、此の運動の中心となりし人々は、決して西欧の文明に対して無智でなかつた。

 彼等は明治四年のドイツ統一を中心として、
その前後に起りたる欧羅巴諸国の国民運動の精神を呼吸した。彼等は明治初年以来幾たびか日本政府によりて企てられ、幾たびか失敗を繰返せる条約改正の事業を見て、深く日本国民の意気地なきを憤つた。
 彼等は日本が思想と風俗とに於て欧羅巴の属領たらんとする傾向あるを見て、最も危険なる現象とした。彼等は欧羅巴諸国が、其の国語に於て、文学に於て、風習に於て、努めて各自の民族的特質を護持せんと努めつつあるを知つて居た。於是彼等は明かに国民に向つて、国粋を保存せよ、模倣を止めよ、国民の特質たる忠君愛国の精神を長養せよと宣言した。実に彼等の努力によつて、国民的精神は覚醒し初めた。

 明治二十一年四月を以て創刊せられたる雑誌 『日本人』 は、
三宅雄二郎・志賀重昴・杉浦重剛・井上円了等を同人とし、最初に且最も有力に国民の自覚と反省とを促した。杉浦・三宅の両人は、大隈の条約改正.反対の時に初めて頭山翁と相識り、爾来身を終ふるまで親交を続けた。

 是くの如き国民的自覚は、伊藤内閣をも反省せしめ、従来の非を悟り、外柔内硬は事の当を得たるものに非ず、国家として自ら重んぜねばならぬことに思ひ及んだけれど、内外の反対猛烈を極めたるが故に、一旦退いて黒田内閣をして事に当らしめることとした。
 黒田内閣は、民間政党の領袖大隈・後藤を援(たす)
きて官に就かしめ、以て官民の疎通を図り、外国に対しても井上の屈従的態度を改め、対等の立場に於て条約改正に着手したが、案の内容が愛国者の激しき反対に遭ひ、遂に辞職の止むなきに至り、長人山県有朋が其後を継いで第一議会に臨んだのである。

 山県は第一議会に於て下の如ぎ注意すべき演説を行つた。
曰く 『国家独立自衛の道は、一に主権線を守禦し、二に利益線を防護するに在り。何をか主権線と謂ふ、国境是なり。何をか利益線と謂ふ、我が主権線の安全と堅く相関係するの区域是なり。凡そ国として主権線を守らざるなく、又等しく其の利益線を保たざるはなし。方今列国の問に立ち、国家の独立を維持せんと欲せば、独り主権線を守禦するを以て足れりとせず、又利益線を防護せざるべからず』 と。

 これは従来政府が専ら内治を主とし、軍隊は国内の不穏に備ふるを第一とし、外に向つては無事を事として来たのに対し、明白に国防を安全にし、国威を宣揚し、一個の国家として世界に立たんことを声明せるものである。山県に代りて松方が首相となりても、此の立場に変りはなく、力を軍備拡張に注いだ。

 先是(これよりさき)政府反対党は、
自由党と改進党との同盟を図り、板垣退助は大隈重信を早稲田に訪ひて密かに一致の運動を議し、遂に積年反目の旧怨を解いた。最も熱心に此為に努力せるは中江篤介である。 
 此事は政界に甚大の衝動を与へ、自由改進の両党と、楠本正隆・中村弥六等の中立議員より成る独立倶楽部、及び無所属の四団体を併せて民党と称し、凡そ政府に反対の主義を抱く者は皆其の旗幟(きし)の下に集まり、之に対立する者を吏党と称し、民吏両党の部署全く定まつた。
 政府は大隈が枢密顧問官であり乍ら板垣と会見して政治を議したることを以て、官紀を紊乱するものとし、旨を諭して其官を免じたが、此事は民党を激昂せしめて政府反抗の気焔を煽揚したに過ぎなかつた。

 既にして明治二十四年十一月二十六日、第二期帝国議会が開かれ、
政府は軍艦製造・砲台建築・製鋼所設置等の新計画を立てて議会に臨んだ。
 予算案の説明に当り、陸相高島靹之助は 『陸軍現時の編制は、国防上欠くる所なきを以て之に満足すべきも、海岸防禦・兵器製造・陸地測量等の事業は、未だ整備の域に達せざるを以て、漸次之が完成を期する』 と述べただけであつたが、海相樺山資紀は海軍大拡張の必要を説き一如今帝国をして攻守両つながら優勢を占め、また遺憾なからしめんと欲せば、勢ひ軍艦七十五隻、凡そ二十万噸の海軍力を必要とする。
  
 但し是れ民力の堪えざる所なるを以て、暫く其の実現を他日に譲るといへども、少くも十二万噸の海軍力を具ふるに非ずば、国家を維持する上に於て甚だ危険を感ずるが故に、着々其の計画を進め、向後六七年の問に計画の完成を期する』 と述べ、議場の紛擾(ふんじょう)を睥睨(へいげい)して 『現政府は、国家内外の艱難を切抜けて今日に及んだ。世人は薩長政府と称して之を攻撃する者あるも、今日国家の治安を保ち、四千万生霊の安寧を致したるは誰の力』 と呼号した。
  
 蓋し第二議会は、
政府と民党と初めより極力決戦の意を以て之を迎へたるものにして、樺山が薩長の功業を高調して故(ことさ)らに議会の反感を激成したのは、初めより解散を断行せんとする政府の意向を表示せるものである。
 かくて議会は政府提出の予算案に八百万円の削減を加へたので、政府は之を以て国事を 『破壊』 するものとなし、十二月二十五日断然議会の解散を命じた。

 かくて総選挙は明治二十五年二月十五日を以て行はれることとなつた。
時に政府部内に硬軟の二派あり、硬派は飽くまで選挙に干渉し、政府に賛成する議員を当選せしむべきを主張し、軟派は干渉を不可として之に反対した。
 当時硬派の首領は内相品川弥二郎で、高島陸相・樺山海相之を助け、軟派として之に反対し穴のは農相陸奥宗光であつた。而も硬派が選挙に干渉する決心は、議会解散の日に既に定まり、次期には必ず政府党議員を以て議会に多数を占めんと欲したるものである。

 時に松方首相は頭山翁に会見を求め、
海軍拡張の必要を説き、政府を援助して選挙に勝利を得せしめられたしと懇請した。翁は予てより国会開設のために運動したが、初期議会以来民党の主張なりし地租軽減には絶対に反対して居た。
 翁は外国に対して国家の体面を維持し、進んで国威を宣揚するためには、軍備の拡張を以て当面の急務なりとし、地租軽減の主張は時務を知らぬ俗論であるとした。

 現に玄洋社に於てさへ、地租軽減は天下の輿論なるが故に、之に反対するは不可なりとする者あつたけれど、翁は 『一人の賛成者もない事を行ふこそ、真に民の耳目たる者の為すべき事である』 と言つて居た。

 而して初期の議会には翁は自己の炭坑を抵当として調達せる選挙費を以て同志を当選せしめ、自ら議員とならぬ代りに、福岡からは一人も民党議員を出さなかつた。此の圧倒的勝利には敵味方とも驚いた。福岡県知事安場保和の如きは、翁の手を取りて歓天喜地した。
 此時の議員香月恕経は耳の遠い学者であつたが、翁は香月に向ひ、耳の遠いのは幸ひ、他人の言を聞く必要はないから、一人で地租軽減反対論をやれと言つて演壇に立たせた。

 是くの如く翁は軍備拡張論者であつたから、松方首相から相談を受けだ時、万難を排して飽くまでも所信を遂行するかと訊ねた。松方は翁に念を押されて、仮令四千万人を相手にしても断行すると誓つたので、翁は松方の懇請を容れた。

 さて松方内閣は民党征伐の目的を以て議会を解散し疫のであるから、
民党は前に倍する議員を選出して解散の無意義を大下に明示せんとし、自由・改進両党は成るべく同志打を避ける方針を立てて府県の運動を指導し、板垣・大隈の両党首、互に往来して画策する所あつた。

 而して品川内相・白根次官は、地方官に内訓を与へ、民党議員の当選を妨げるためには、高圧手段を執るも亦止むなき旨を諷示(ふうじ)したので、地方の警察官は公然郡市を巡りて選挙に干渉し、或は甘言を以て誘ひ、或は威嚇を以て脅し、甚だしきは選挙人に刃傷をさへ加へた。

 官憲の行動既に是くの如くなるが故に、不逞の暴徒取在に横行し、剣を抜き銃を放ち、家を焼き人を殺して憚らざるに至つた。政府は各地に予戒令なるものを布き、保安条例を施し、憲兵を派遣し、選挙取締の名目の下に民党を弾圧した。

 実に此の選挙に際し、全国の死傷者数は、
死者二十五人・負傷者三百八十八人に達した。頭山翁が指揮せる福岡県に於ては死者三人、負傷者六十五人を出だして居り、定員九名のうち八人は吏党で、自由党の当選者は僅に一名に過ぎなかつた。
而して選挙の結果は民党百三十三名、吏党九十三名、中立七十四であつた。

 この選挙干渉の大惨劇は、
当然政府の動揺を招んだ。伊藤枢密院議長は、先づ選挙干渉の不法を痛斥し、かかる閣員と同じく政府に居るを欲せずとして辞表を奉呈したが、明治天皇の宸翰(しんかん)を賜はりて留任し、品川内相・陸奥農相が辞職し、副島種臣及び河野敏鎌が之に代つた。

 副島種臣は肥前の老儒、民選議院の建白以来久しく朝に立たなかつたが、入りて内相となるや、其の持論たる王道蕩々・無偏無党を旨とし、官民軋礫の間に立ち、全誠を以て調停の任に当り、衆議院議長星亨以下の民党議員に説いて、互に譲歩の談判を約するに至つた。
 然るに吏党議員の一派は閣僚中の硬派を動かし、此の和衷協同に反対させたので、副島は其の約束を行ふこと能はず、遂に職を辞するに至つた。

 河野敏鎌は曽て大隈と共に改進党を組織して其の副総理たる経歴を有する土佐人にして、民間に信用篤かりしが、副島の辞職するや、農柑より転じて内相となつた。河野は転任に当り、閣外元老の掣を受けず、選挙に干渉せる地方官を交迭することを条件としたので、長人白根次官は是くの如き土佐人の下に服従するを欲せずとして辞表を提出した。
 河野は白根の去るに任せた上、安場福岡県知事以下五六の地方長官に転任非職を命じた。於是安場知事は、急に他の不平知事と相携へて上京し、謂はゆる躍起運動を開始し、逆に高島陸相・樺山海相を説得して辞表を提出せしむるに至つた。 此の両人を失ふことは、松方に取りて手足を奪はれたるに等しく、遂に闕下(けっか)に伏して骸骨を乞はねばならなかつた。

 松方の辞表を提出するや、
頭山翁は直ちに松方を訪ひて其の柔弱を責めた。
翁は声を励まして言つた
――『予にあれだけの言質を与へて置きながら、途中で挫折するとは何事ぞ。君恩を忝(かたじけの)うし、君国の負託を受けながら、難関に逢着して面を背け、伊藤・井上・大隈などに国を任せて別荘にでも逃避する心組か。果して然らば彼等にもまさる不忠不義のものとなる。予は断じて黙視せぬぞ』 と。
此の一言は松方をして椅子から飛び上がり、長大息して嘆声を発せしめた。

 翁は当時を追想して下の如く語る
――『大きな男であつたが、余程驚いたと見える。向ふが余り恐怖したものだから、張合が抜けてそれ以上罵倒も出来なかつた。やつつける位はやり兼ねない僕だと思つて居たらうから、直ぐ其場でやられるとでも思つたんぢやらう。

 かういふ次第で、松方は最早駄目だと思つたから、今度は松方の後を継ぐ伊藤どもが悪いことをせぬやう、打殺すにも及ばぬが、生胆(いきぎも)を引抜いてやらうと思ひ、遠藤秀景と共に伊藤を訪ねたが、病気で会へぬと玄関番が取次がない。病床でも差支ない、急用だからお目にかかりたいと言はせたが、どうしても会へないと言ふ。病気とは嘘だらうと、翌朝また行つたら、今度は不在だと言ふ。取次を叱り飛ばして帰り、手紙をやつて伊藤を叱つて置いた。 

 すると二三日して松方が自分に会つて
『伊藤さんの取次の者が、あなたに大変な御無礼をしましだそうで、どうか宜しくとくれぐも頼まれました』 とのこと、
更に三四日して、当時僕の居た浜の家の女将を通じて、伊東巳代治が是非僕に会ひたいと言ふ。

 おれは伊東に用はないと断つたが、
女将が 『あれほどにお頼みですから一寸でも』と、しきりに頼むので、
それではと言って訪ねて来た伊東に会つて見ると、
果して伊藤のことで 『あれは全く取次の心得違ひで、伊藤さんはさういふ詰らぬ人ではありません、私がお供しますから、どうぞお会ひ下さるまいか』と言ふ。

 自分は『此間は急用があつたが、今は時機が去つてしまつた。
用の無いのに会ふのは双方無駄なことだから会はん。
併し御心配の事は、其事の去つたあとで何とも思つて居らんから御安心なさるやうに言つて下さい』 と言ふと、
伊東は重ねて 『それぢや私の宅に伊藤さんを呼んで置きますから、私の宅でお会ひ下さるまいか』と言ふ。
僕は「また何時かお会ひすることもあらう』 と言つて、遂に会はなかつた。

 当時議会に於て官民両党の対峙するや、
民党は常に一致して行動するが故に、部署甚だ整然たるものあつたので、吏党は其為に往々失敗した。品川弥二郎が選挙干渉の責を引いて内相を辞するや、渡辺洪基・曽根荒助・古荘嘉門等をして一政党を組織せしめ、之を国民協会と名づけ、西郷従道を説得して総裁となし、自分は副総裁となつた。

 組織の発表と共に両人は枢密顧問官の職を辞し、協会を率ゐて民党と戦はんとした。議員の協会に加はるもの七十人、その結党の迅速なる、朝野ともに一驚を喫した。時に西郷・品川は、民間の代表的勢力たる頭山翁を羅致(らち)して協会の勢威を張らんとし、西郷が使者をやりて翁を招かしめた。

 翁は浜の家に流連(りゅうれん)中で、
承知したと返答はしたが往かうとしない。翌日西郷が再び招んだけれど、また返事ばかりで往かない。
  そこで西郷は更に使者をやり、待つこと久しけれど来駕を得ないのは、想ふに美人の傍を離れ難いためか、果して然らば予自身が推参して盛宴に侍したいと言はしめたので、翁も三顧豈(あに)出でざるべけんやと、青山の西郷邸に俥(くるま)を駆つた。そこには主人を初め品川・高島・樺山が待構へて居て、先づ西郷から協会創立の趣意を述べ、切に翁の助力を求めた。

 翁は徐(おもむろ)に西郷の言を聞き終り、
『世の中には為さんと欲して為さざる者がある。為しても為し得ざる者がある。為さずして為さざる者もある。自分は為して為さざるよりも、為さずして為さざるを取る。公等はいま国家のために大に為さんとして居られるが、自分は謹んで其の為すところを拝見したい』 と答へた。
 四人は唖然として再び強いることが出来なかつた。想ふに頭山翁は国民協会の意に為すなきを洞察したのであらう。

 事実国民協会は竜頭蛇尾に終り、何の為すところなくして解散した。後日西郷は人に語つて、予は頭山に慚(は)ぢると言つたそうである。翁は松方に失望して以来、志を政界に絶ち、爾来国家問題に非ずば決して動かうとしなかつた。  




大川周明 『頭山 満と近代日本』(六) 不平等条約改正と大熊重信の暗殺

2018-11-13 16:51:28 | 大川周明

 大川周明『頭山 満と近代日本』   
 六 不平等条約改正と大熊重信の暗殺

 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 


  六 
 

 西欧文明の輸入は、明治初年に於て政府率先して、之を唱道し、奨励し、実行したのであるが、之に伴ひて米国流の民権思想や仏国流の自由思想が発達し、遂に政治化して政党の出現となり、藩閥政府に対する猛烈なる反抗となった。於是(これにおいて)政府は自ら蒔きたる種が意外の実を結びたるに驚き、俄に狼狽して之に対抗する策を講じ、御用新聞を作り、御用政党を作り、維新以来事を共にするを肯んぜざりし天下の保守分子に向って顧眄(こめん)した。
  明治十五年の朝野新聞には 『今年以来何となく忠孝仁義の説が出現して参る』とあり、また十六年の同新聞には『近年は世間一般に古き事を追慕し、古き物を保存するが流行となりたり』 とある。かかる反動は必ずしも政府の誘導によつてのみ生じたものでない。而も政府は此の反動を利用し、時を得ざりし儒者・神主・坊主を味方として、自由民権運動を抑へる一助たらしめんとしたことは疑ひない。

 

 乍併実は自由民権運勤其ものも、いつしか日本化して、甚だしく其の本質を異にして居た。繰返して述べたる如く、自由民権論は尊皇論の変容である。忠君愛国の観念は日本立国の真髄であり、日本の存立する限り、国民の血管を流れて息まぬ所謂正気である。
  民間の志士は初めは狂せんばかりに自由民権を主張したけれど、米国流の民権論や仏国流の自由論は、運動の間に日本化し来り、之を称ふる者も維新当時の志士そのままに、短褐弊袴(たんかつへいこ)の熱血男子多く、東洋流の悲歌慷慨を事とした。
 その最も熱心なる希望は、藩閥の専制を打破して国家を富強ならしめ、国威を存分に発揚するに在つたので、名は民権党でありながら、実は国権党と呼ばるべきものであつた。

 

 然るに政府は民権思想を喜ばぬと同様に、征韓論即ち攘夷論の流を汲める国権思想をも喜ばなかつた。征韓論の破裂は、権力争奪に基きたる一面もあつたが、由来する所は更に遠い。
 もと大体に於て薩摩は征韓論、長州は非征韓論であつた。蓋し長州は下関砲撃に懲りて以来、武力を以て外国と争ふの不利なるを信じ、当時早く兵を引きて利益を得たることが先入主となり、外国と事を構ふるの無分別なるを知り、欧米文明を実地に見聞してからは、一層征韓論の如き主張を無謀なりとした。
 大隈の勢力衰へ、岩倉長逝して後、廟堂に最も権威を揮えるは長閥であり、明治十八年十二月官制改革後の第一次内閣は、伊藤博文を首相とし、井上馨を外相、山県有朋を内相とした。

 

 明治十四年国会開設の詔勅降り、憲法制定の急を告げた時、時の参議伊藤博文は幾多の随員を伴ひ、之が準備のために欧州各国巡遊の途に就たが、オーストリアにスタイン博士の学説を聴き、ドイツに鉄血宰相ビスマークと会し、新興ドイツの溌刺たる元気に触れ、深甚なる感銘を受けて帰朝し、爾来盛んに独逸主義を鼓吹するに至つた。
 それは一面に於て自由党が米仏に則り、改進党が英国に則らんとせるに対抗した意味もあるが、他面ドイツの政治其者が、自由民権を耳を貸さぬ点に於て、政府当局者の意に適したのである。
 かくて高官のドイツに遊ぶもの俄に多く、留学生も盛んにドイツに派遣され、学校にはドイツ人を招聰し、ドイツ語が奨励された。 憲法編纂の顧問にもドイツ人が招聰され、法典の編纂も従来の英仏法を棄てて独逸法に準備し、陸軍も明治初年以来の仏国式を捨て、ドイツ人を教官に招いて一切を独逸式とした。
 
 維新の際に一切の社会的差別を撤廃して、皇室以外総ての国民を平等にせんことを期し、その行程を進んで来たのに、明治十七年に範を欧州大陸にとりて華族令を定め、新に公侯伯子男の爵位を設けて貴族制度を立てた。
 このドイツ的国家主義は、民間の国権主義と時として一致するが、後者は外国の圧迫に対して国威を発揚せんとするものであり、前者は個人の自由に対して国家の統一を強調するものなるが故に、時として相争ふを免れない。而して政府はドイツに倣って専ら政府権力の強化に努め、政府に対抗する一切の勢力を仮借なく弾圧した。

 

 一方国内に対しては極端なる強硬政策を取り、警察と軍隊の力を借りて一切の民間運動を圧追せんとせるに拘らず、政府は外に対して軟弱を極めた。
 もとより政府といへども国運の進展を望み、国際間に於ける日本の地位を高め、世界列強と対等の交際をしたいと念願して止まなかつた。わけても日米条約を範として各国との間に結ばれたる条約は、痛く日本国家の面目を傷くるものなるが故に、之を改正して不平等なる国際的待遇を脱却せねばならぬといふ覚悟は、極めて堅きものがあつた。
 而も長州人を中枢とせる政府は、その若き経験から、出来得る限り穏便なる手段によって其の目的を遂げんとした。其の手段とは取りも直さず欧化政策であり、曩(さき)に台頭し来れる保守主義は、忽ち其影を潜むるに至つた。

 

 かくて新に外相の任に就ける井上馨は、条約改正の実を挙げるためには、日本を欧米化することによつてのみ可能なりとし、制度文物の範を欧米より採るのみならず、風俗習慣までも悉く之に倣はねばならぬとし、茲に極めて急激にして突飛なる欧化主義が、政府によって鼓吹され且実行されるに至つた。
 明治初年の西洋謳歌は主として範をアメリカに求めたもので、甚だ平民的なるものであつたが、今は例を欧州大陸に採りたるもので、貴族的欧米主義とも謂はるべきものである。

 先づ宮中の諸儀式が一切を挙げて洋風に改められた。皇后宮の御服装を初め、女官の服装も洋装と改められた。大臣が畳敷の日本家屋に居住するを不体裁として、高官のために洋風の官邸が建てられた。
 配偶を欧米人に求めて人種の改良を図らねばならぬといふ議論が真面目に主張された。宴会も日本風は下等なりとせられ、洋食店が頻りに開かれた。

 地方でも県庁所在地では知事が 洋食店の設立を奨励した。外賓接待のために、日比谷原頭に宏壮華美なる鹿鳴館が建てられた。外人を対手に、外相官邸の夜会、知事官舎の舞踏会、鹿鳴館のバザーど、連日連夜の饗宴・会遊が行はれた。
 政府は是くして外人の同情を求めんとしたが、彼等は酒宴にこそ出席はすれ、進んで条約改正に応ずる気配もなかつた。夜会・舞踏会の多かりしうちにも、明治二十年四月二十日首相官邸に開かれたる伊藤首相主催の仮装舞踊会は、空前絶後の奇観といふべく、首相以下の諸大臣が、俳優もどきの滑稽醜態を尽して、専ら外人男女の意を迎へんとした。

 而も一方には外侮頻りに吾に加へられた。即ち明治十九年八月には、清国北洋水師提督丁汝昌が、鎮遠・定遠・済遠・威遠の四隻を率ひて露国ウラヂオストックに航し、帰路長崎に人港するや、該艦乗組水兵五名、遊廓に遊んで飲酒泥酔の末に暴行し、次で翌日数百名の水兵同時に上陸して市中を横行し、乱暴狼籍至らざる所なく、遂に警官及び長崎市民と衝突して互に死傷者を出した。
 而して政府は何等之を厳責せんとしなかつた。
 また同年十月、英船ノルマントン号が紀州熊野沖に於て難破し、船長ドレーク以下船員二十六名は短艇に乗りて危難を免れたが、日本人船客二十三名は乗艇を拒まれ、艙内に密閉せられしまま船と共に海底深く沈没せしめられ]悲惨無道の事ありて、痛く国民を憤激せしめたが、政府の之に対する処置はまた極めて柔弱であつた。


 是くの如き外柔内硬は、独り民間の志士のみならず、在朝の政治家をも憤激せしめた。先に欧米を巡遊して新に帰朝せる農相谷干城は、激越の文字を列ねて意見書を提出し、幕府の遺臣勝安房もまた時弊を痛論して当路の反省を求むる意見書を提出し、次で仏国人法律顧問ボアソナードは、井上外相が作成せる条約改正案中、国権を害する一条あるを挙げ、一片の真情日本の体面のため座視するに忍びずとして、各大臣に上書したるもの、端なく世間に洩るるに至つた。
 谷は内閣に在りて熱心に改正案に反対したが容れられず、明治二十年七月遂に政府を去った。民間の志士歓呼して之を迎へ、ために名誉表彰運動会を開いた。一波起きて万波起る。輿論は囂々(ごうごう)として政府を攻撃し、形勢不穏を極めたので、政府は遂に七月二十九日条約改正中止を声明し、九月井上も外相を罷めて、伊藤首相之を兼ねた。

 一時政界を去りて髀肉之嘆に堪えざりし後藤象二郎は、此の形勢に乗じて大に成す所あらんとし、在野の錚々(そうそう、「優れた」の意)たる者を集めて時弊を極論し、此際在野党は小異を捨てて大同に就き、国運挽回のために力を合せて政府と戦はねばならぬことを力説した。

 其言悲壮慷慨にして、国運の危急を論ずるところ最も人を感せしめ、集まれる者皆其説に賛成し、一大団結を組織することを誓った。当時の参会者には末廣重恭・尾崎行雄・犬養毅・中島信行・大石正巳・吉田正春・星亨等の旧自由党員及び改進党員が共に其中に在り、因つて之を大同団結と名け、集会・会議の便を図りて丁亥倶楽部を組織し、盛んに政府攻撃の運動を始めた。

 於是(ここにおいて)地方有志の上京する者頻々として相踵ぎ、前日の諸政党一致して屡々懇親会を催し、青年血気の徒は壮士と称して其の行動益々激烈となった。かくて政府は此年十二月二十五日、保安条例を発布して即日之を施行し、都下に於て過激粗暴の行動に出つる嫌ある者を、皇居を去る三里以外の地に退去せしめた。
 即ち星亨・林有造・中島信行・片岡健吉・島本仲道・尾崎行雄・中江篤介を初め、二十六日夜より二十八日までに退去を命ぜられたるもの、実に五百七十人に達した。被処分者中最大多数は土佐人で、苟も籍を高知県に有して都下に住める者は殆ど皆厄に遭はぬはなく、数日前に上京せる十四歳の少年、工科大学生、鰹節商、さては宮内省付の探偵までが退去を命ぜられた。


 此の非常弾圧の主唱者は山県内相及び三島警視総監で、退去を命ずると共に志士の暴発せんことを怖れ、警視庁では都下警察署より最も頑強なる警官を召集し、庁員の半数を徹夜宿直と定め、特に周到に火災に備へた。
 而して近衛兵二大隊をして赤坂仮皇居を警衛せしめ、大臣官邸は憲兵及び巡査を以て護り、大蔵省には憲兵・巡査の外更に一小隊の兵卒を派して非常を戒しめ、陸海軍の火薬庫・兵器貯蔵庫の如き、平常の取締を十倍した上に、夜間は兵卒をして付近を巡邏(じゅんら)せしめた。

 政府は保安条例と同時に、新聞紙条例及び出版条例を改正し、益々言論の束縛に努めたが、此等の圧迫は唯だ国民の反抗を一層激成するだけであつた。明治二十一年二月、内閣顧問黒田清隆は、伊藤に勧めて大隈を外相とし、政府の威信を立てようとしたが、民心の険悪容易ならざるを見、此年四月伊藤は黒田・大隈に内閣を付与して、新に設けられたる枢密院に入り其の議長となつた。
 後藤は黒田内閣にも満足せず、保安条例によつて激昂したる民心に棹(さおさ)して四方に遊説し、飽迄政府と決戦するの勢を示した。
 後藤は確乎なる主義なく、純一なる理想もないけれど、維新元勲の一人である上に、英姿颯爽、弁論縦横、人を熱殺し人を激発する煽動術に於て絶倫の天才を有して居たので、その大同団結を呼号して東北・東海・北陸を一巡するや、到処(いたるところ)風靡せざるはなく、在野党の望は後藤一身に集まるに至つだ。
 時に井上馨も一政党を組織せんとし、先づ野村靖・青木周蔵等と自治研究会を起し、世間は之を自治党と称したが、幾くもなく消滅した。

 陸軍中将島尾小弥太も、また保守党中正派と称する一政党を組織し、政府に反対し又急進・改進二党にも反対した。但し其の勢力は微弱であつた。


 既にして明治二十二年紀元節を以て憲法発布の式典を挙げさせられ、上下歓呼して暫く政府攻撃の運動を中止して居たが、三月二十二日に至り、国家の危急存亡を唱へて政府に咆哮肉薄し来れる後藤象二郎は入閣して逓信大臣となつたので、前日賞讃の声は一転して誹謗の語となつたが、当の後藤は平然として、予は内部より政治の改革を期して入閣せるのみと嘯(うそぶ)いて居た。時に黒田内閣は、大隈を外相、井上を農相とし、今また後藤を逓相に迎へ、元勲を網羅して大に陣容を整へ、此機に乗じて条約改正の宿志を遂げんとし、大隈外相専ら其局に当った。


 大隈は伊藤・井上の屈従政策に反し、極めて強硬なる態度を以て外人に臨み、現行条約の範囲内に於て吾国の権利を仮借なく実行し、之によつて先づ外人をして現行条約の不便を感ぜしめ、且従前の連合商議を避けて国別に談判を開き、二十二年夏までに米独両国を改正案に同意せしめ、ロシアも亦之を諾せんとするに至つた。
 井上は大隈の改正案が、前年彼の定めたるものと大同小異であるのに、朝野の政治家が之に不同意を唱へざるに不平を懐き、辞表を呈して野に下り、未だ其の允許(いんきょ)なきに東京を去り、また省務を顧みなかつた。

 民間では改正条約の内容について至深の注意を払つて居たが、此年四月の倫敦タイムスによつて、新条約の規定中に、治外法権を撤去して内地雑居を許すに先だち、日本は外人判事数名を大審院評定官に任ずべしとの条項あるを知つた。倫敦タイムスは四月九日改正案の要領を紹介し、同月十九日之に関する社説を発表したのであるが、その詳細なる内容を天下に周知せしめたのは、五月二十一・六月一・二日に亘る日本新聞の記事であつた。

 

 大隈案の内容が日本新聞によつて漸く明白となるや、之を以て帝国憲法第十九条に違反するものなりとする非難が頓(とみ)に昂まつた。而も改進党一派の新聞は、功成らば大隈は一躍して総理大臣たるべく、敗るれば改進党の声望地に堕つべきを知るが故に、党の運命を此の一挙に決せんとして必死に之を弁護し、大同団結に属する団体、鳥尾の保守党中止派等は激しく之に反対した。
 而して朝に在りては伊藤・後藤・山県も之に反対したが、大隈は堅く其説を持して毫も朝野の攻撃に屈する色なく、黒田首相も大隈に一任して動かず、必ず条約談判の功を奏せんと覚悟し、一切の手段を尽して反対派を弾圧するに努めた。而して反対派の中枢を成せるものは、大同団結派・保守党中正派・日本新聞及び雑誌日木人を中心として結ばれたる日本倶楽部・熊本紫溟会・福岡玄洋社の五団体であった。 

 此の五団体は八月二十五日より三日間、全国有志連合大演説会を千歳座に開いて条約案を攻撃し、之に対して改進党は九月二十六日、全国同志大懇親会を新富座に開き、次で翌二十七日より三日間大演説会を開いて政府を弁護した。而して条約中止の建白に対しては断行の建白相次ぎ、九月三十日までに元老院に提出された建白書は、中止百八十五通、断行百二十通に達した。

 

 時に頭山翁は玄洋社を代表して東京に在り、紫溟会の代表佐々友房と共に、各大臣を歴訪して膝詰談判を行つた。八月一日には先づ松方内相を訪ひ、会談一時間にして内相をして反対論のために尽力すべきことを誓はしめ、更に伊藤博文を訪ひて其の同意を得た。一方福岡に於ては、問題の進展に伴ひ、平岡浩太郎・進藤喜平太・香月恕経等の玄洋社領袖が、同志を糾合して筑前協会を組織し、反対運動に熱中して居たが、東京よりの報道によつて、大隈外相の決心頗る固く、到底尋常一様の手段を以てして之を阻止するの至難なるを知つたので、玄洋社員中に一身を犠牲にして天下の為に大隈の生命を奪ふの覚悟を定める者あるに至つた。即ち来島恒喜及び月成功太郎・同勲・同光兄弟である。

 

 来島は八月二十二日着京し、先づ鍛冶橋の曙旅館に頭山翁を訪ひて覚悟の程を打明け、其夜から神田美上代町の月成勲の下宿に同居して準備に取掛かつた。来島は勲の兄功太郎が、予てより自分と同じ目的で荐(しき)りて計画中なりしを知り、本郷真砂町の寓居に赴き、君には妻子もあることだから是非思ひ止まれと説いた。月成は深く来島の好意に感激したが、決して其志を翻そうとはしなかつた。来島は強烈なる爆弾を手に入れ、静に時の到るを待った。

 

 十月に入りて条約改正問題は愈々(いよいよ)激化した。黒田首相は一切の反対を斥けて断行を決意し、十五日には御前会議が行はれ、山縣内相・後藤逓信相は激しく大隈を難詰したが、大隈は之に答へて屈せず、会議は日暮れて尚決しなかつた。
 来島は遂に十月十八日を以て決行の日と定めた。此日来島は月成光と心ばかりの別盃を汲み交はし、新調のフロックコートを着用し、福岡より携へ来りし左文字の短刀をポケットに潜め、東京で入手せる爆弾を洋傘の中に匿して旅館を出で、連れ立つて愛岩山に登った。彼は月成光と共に恭しく宮城を遙拝したる後、西方故郷の空を望んで長く黙祷を続け、やがて山を下つて霞ヶ関の外務省構外に至り、大隈の来るを待つた。

 此日例の如く閣議に列したる大隈は、午後四時霞ヶ関の官邸に帰り、将に外務省の正門に入らんとせし時、外相の馬車が桜田門方面より外務省に向つて馳せ来るを望見し、機を図りて門内に入りて待構へて居た来島は、爆弾を大隈の馬車に投じだ。彼は馬車破れ、馬発れ、御者は転落し、大隈が鮮血に塗れて車中に倒れたるを見、吾事成れりとして悠然門外に出で、宮城に向つて一礼したる後、ポケットより取出せる短刀を以て物の美事に自刃した。

 

 大隈は其の右脚を失つて僅に生命を取り留めたが、之によつて条約改正は無期延期となり、黒田内閣は二十一日辞職した。政府は来島の連累者を物色し、東京に於て玄洋社系の者二十七八名、福岡に於て二十余名を嫌疑者として拘引した。時に頭山翁は帰福の途次大阪に在り、三.十日午後五時旅館に於て拘引されたが、十時頃に放免された。来島は累を同志に及ぼさぬやう用意周到を極めたので、一旦拘引された者も皆釈放された。

 

 此事ありてより玄洋社の名は頓(とみ)に天下に響き渡つた。頭山翁は社長にはならなかつたけれど、玄洋社をして千鈞(せんきん)の重あらしめたのは翁の識量胆略であり、且前年箱田六輔が没してからは、玄洋社の経営は頭の双肩に掛かつて来た。而も当時の玄洋社の財政は極度に窮迫し、何の資産もないのみか、一万円前後の借金に苦しんで居た。
 普通の家賃が毎月五十銭、翁の生活費も十円以内で済んだ頃であるから、一万円の借金は容易のことでなかつた。一社員が死んだ時は、僅に十五円の葬式費用の調達が出来ず、数人の衣類を質に置いて漸く済ました程であつた。
 恰も其頃、関運七といふ福岡の盛大な醤油屋が、頭山翁に炭坑を勧めた。翁は此の意外の勧告を受け、いろいろ考慮の結果これに従ふことにした。もと玄洋社員はみな算盤には暗かつたが、準社員ともいふべき結城虎五郎・杉山茂丸の両人は理財の道に長じて居たので、翁は此の両人をして事に当らしめることとした。

 結城は経営の才があつたので、炭坑事業にも直接其事に当り、杉山は其の縦横の弁を以て資本家の説得に当り、先づ最初に山野炭坑を手に入れた。これは其後三井のものとなったが、坑区面積は約二百万坪、首無し五尺といつて人間の首まである炭層の、厚い山であつた。
 此の坑区を十万円で売却して初めて玄洋社の財源が出来た。次で下山田炭坑、更に大任炭坑と、手当り次第に炭山を手に入れ、一時は石炭王と呼ばれたほど多数の坑区を所有したが、片ッ端から売却して玄洋社の費用に充てた。翁が来島の爆弾事件で大阪で拘引された時、之を報道した東京日々新聞の記事には『福岡市天神町一番地士族石炭商頭山満(三五)・新聞社員広瀬千磨(三三)の両氏は』 云々と書いて居る。

 当時炭山を入手するためには猛烈な坑区争ひが行はれた。即ち坑区所有者より譲渡を受ける外に、坑区所在地の村民の承諾を得なければならなかつたので、競争者は酒食を饗し金品を贈って村民を籠絡した。徒手空拳の玄洋社が之と対抗するのは容易の事でなかつたが、社員が決死の覚悟で働いたので坑区を入手することが出来た。

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大川周明 『頭山 満と近代日本』(五) 金玉均との出会い

2018-11-12 16:13:06 | 大川周明

 

大川周明 『頭山 満と近代日本』  

 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 


   五

 明治十九年の春、頭山翁は福岡に於て荒尾精の訪問を受けだ。翁は一見して荒尾の尋常人に非ざるを知つた。翁は後年此時の会見を回想して 『当時静に思ふに、天は五百年毎に一大英傑を下すと聞いたが、 荒尾は確かに其の人物なりと信じた」 と言つて居る。

 

 荒尾は安政五年、尾州藩士で百石取りの家に生れたが、彼の父は明治初年家族を伴ひて上京し、麹町に荒物屋を始めた。士族の商法の例に洩れず、やがて商売は悉く失敗し、其日の米塩にも窮するに至つたので、両親は妹三人を女中奉公に出し、長男精だけを連れて場末に移転することにした。然る荒尾の隣家は当時警部を勤め、後に栃木県知事となれる菅井誠美といふ薩摩人であつたが、事情を聞いて痛く同情し、精を引取りて書生とし、元園町の私塾に通はせた。

 やがて菅井は本郷警察署長に栄転したが、時偶々征韓論が台頭した頃で、年少純一なる荒尾の精神も之によつて深刻なる印象を受け,
(はや)くも此時から荒尾は支那問題の研究を志した。菅井は荒尾の志望に同感し、外国語学校に入れて支那語を学ばしめ、夜は鈴木といふ英漢数の塾に通はせ、また菅井自身が剣道の達人であつたので、熱心に撃剣を教へた。其上菅井は西郷隆盛の知己を得て居たので、西郷に依頼して荒尾を書生に置いて貰ふことにした。

 荒尾が大西郷の偉大なる感化を受けたことは言ふまでもない。当時西郷は陸軍大将兼参議でありながら、其の生活は質素を極め、小さい家の屋根は所々破損し、雨降る毎に雨漏りがして居た。或夜夫人は西郷に向つて、畏(かしこ)きあたりより恩賜の金の一部で屋根の修繕をしたいと願つた時、西郷は今日本の国に雨が漏つて居る、日本の屋根を繕ふのに何程金が要るかわからんぞと言つて其願ひを斥けた。
 之を聴いた荒井は電光に打たれたる如く感じ、後に此事を頭山翁にも告げて居る。西郷が征韓論に敗れて故山に帰つてから、荒尾は再び菅井の門に復つたが、明治十一年菅井の同意の下に、外国語学校を去りて陸軍教導団に入り、十三年更に陸軍士官学校に入り、十五年卒業して陸軍歩兵少尉となり、熊本鎮台第十三連隊付となつて赴任したのが、二十四歳の時である。

 熊本時代の荒尾少尉については、鳥居素川が日本新聞に掲げた文章が、最も善く彼の面目を彷彿させる―― 『荒尾君その隊に在るや、勤務に精励、士卒を愛撫、最も徳義を尚び、士風を砥礪(しれい)するに努む。青年将校靡然(びぜん)その風に向ひ、各自気節を以て相戒め、遂に全連隊の美風を成すに至る。
 当時さきの遣清留学生たりし御幡雅文の職を熊本鎮台に奉ずるや、荒尾君乃ち請ふて官舎を共にし、隊務の余暇支那語を学習す。
 君は毎日牛豚肉一斤、酒五合を用ゐ、居常(きょじょう)木綿檳榔子(びんろうじ)染の紋付を着用、伝習録を愛読して精神を鍛錬し、また柔術及び居合術を学び、夜もその定規を廃せず、居ること二年、英名は啻に営中のみならず熊本全市に響轟し、児童走卒もまた皆君の人格を敬慕し、群児の相集りて嬉遊するや、西郷大将に擬するに非ざれば、即ち肩を張り潤歩しながら、俺は荒尾少尉ぢやぞと傲称(ごうしょう)するに至る。』 


 荒尾は熊本連隊に在ること二年にして、参謀本部支那課勤務を命ぜられて中央に向つた。彼は参謀本部にありて熱心に支那研究を続けたが、明治十九年四月、宿願叶ひて陸軍中尉の現職のまま参謀本部から支那に派遣された。
 その頭山翁を訪ひたるは、恐らく乗船のために長崎に赴く途中である。翁は荒尾が重厚荘重なる態度風采で、沈着雄弁に東方問題を論じ、殊に西洋対東洋の問題について偉大なる抱負経論を吐露するを聞き、当時是くの如ぎ雄渾なる方策を有する者は独り此人あるのみと敬服し、爾来交りを深くするに及んで愈々其の人物に傾倒し、大西郷以後の第一人の推称した。

 

 既に述べたる如く、近代日本の先覚者は、単に日本国内の政治的革新を以て足れりとせず、近隣諸国の改革をも実現し、相結んで復興亜細亜を建設するに非ずば、明治維新の理想は徹底すべくもないと確信して居た。
 それ故に維新精神の誠実なる継承者は、実に燃ゆる熱情を以て隣邦のことを自国のことの如く考へて来た。頭山翁は 『南洲先生が生きて居られたならば、日支の提携なんぞは問題ぢやない。実に亜細亜の基礎はびくともしないものになつて居たに相違ないと思ふと、一にも二にも欧米依存で暮らしてきた昔が情ない』と長嘆したが、其の大西郷は実に下の如く言つて居た―― 『日本は支那と一緒に仕事をせねばならぬ.それには日本人が日本の着物を着て支那人の前に立つても何もならぬ。日本の優秀な人間は、どしどし支那に帰化してしまはねばならぬ。そして其等の人々によつて支那を立派に道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれぬ。』 大西郷の此の精神を、最も誠実に継承し、また最も熱烈に実行せんとせる者は、実に荒尾精其人である。 

 

 試に下に掲ぐる荒尾の文章を読め―― 

 『欧亜の両陸は東西文華を異にし、黄白の二色は本来その種族を同じくせず、所謂西力の東漸なるものは、直に二者の競争を意味す。されば朝鮮の貧弱は仮令朝鮮のために之を憂へざるも、深く我国のために憂へざるべからず、清国の老朽は仮令清国のために悲まざるも、痛く我国のために悲まざるべからず。
  苟(いやし)くも我国にして綱紀内に張り、威信外に加はり、宇内万邦をして永く皇祖皇宗の懿徳(いとく)を矒仰(せんぎょう)せしめんと欲せば、先づこの貧弱なるものを救ひ、この老朽なるものを扶け、三国鼎峙し、輔車相倚
り、進んで東亜の衰運を挽回してその声勢を恢弘(かいこう)し、西欧の虎狼を贋懲してその覬覦(きゆ)を杜絶するより急なるはなし。是れ誠に国家百年の大計にして、又目下一日も忽諸(こつしょ)に付すべからざるの急務なり。』

 『顧(おも)ふに印度の一たび覆亡の禍を履(ふ)みしより、東方の故国旧邦は漸次豺狼(さいろう)の食餌となり、今や我が帝国を除くの外には、僅に支那朝鮮の二国を剰せるのみ。その貧弱を極めて未だ絶滅せず、老朽を極めて倒驚せず、尚一線一脈の気息を通じて、宗廟社稜を至危極難の境に維持しつつあるもの、抑もまた天意の東方亜細亜を厭棄せざるものありて存するに由るか。天に順ふものは存し、天に逆ふものは亡び、大に従ふものは成り、天に背くものは敗る。豈深く顧みざるべけんや。』

 『何をか天意に順ふと謂ふ。曰く他なし、彼の貧弱なるものを救護して富強ならしむる是のみ。彼の老朽なるものを釐革(りかく)して壮剛ならしむる是のみ。此事や実に我が帝国の天職なり、天に順ふの責務なり。』

 荒尾の是くの如き雄渾高明なる精神は、至深の感銘を頭山翁に与へたに相違ない。彼が支那に渡りて活動を開始するや、その本拠たる漢口楽善堂の二階に掲げたる綱領は、下の如くであつた。

曰く 『吾党の日的は、東洋永遠の平和を確立し、世界人類を救済するに在り。其の第一着手として支那の改造を期す』 と。 而して同志を四方に派して普く人物を萬域に求めさせるに当りては、人物を君子・豪傑・豪族・長者・侠客・富者の六類に分ち、君子を更に六等に分ちて下の如く教示した。

 道を修め全地球を救ふ        第一等
 道を修めて東洋を興す        第二等
 国政を改良して其国を救ふ      第三等
 子弟を鼓舞して道を後世に明にす 第四等
 自ら朝に立ちて国を治む       第五等
 独り自淑して機の至るを待つ     第六等

 

 荒尾は是くの如き精神を以て支那に活動した。彼の同志は一切の困難を忍んで四方に旅行し、支那内地の調査に従事した。而も支那問題の解決は、少数志士の結盟だけで実現せらるべくもない。一応支那の事情を審(つまびら)かにした荒尾は、日支両国が提携して相互の富強を図り、西欧諸国に対抗するに足る実力を養ふためには、先づ両国の貿易を振興せねばならぬとし、此の目的のために日支貿易に従事すべき土魂商才の人物を養成するのが急務であると考へ、滞支三年の後、上海に日清貿易研究所を設立するの案を携へて帰朝した。

 

 彼は啻に支那の事情に精通せるのみならず、熊本連隊時代より彼を知れる佐々友房が 『別人と思ふほど人物を上げて居た』 と感嘆したほど、滞支三年の間に人物識見は磨き上げられ、東方志士の棟梁たるべき態度風貌は一層堂々たるに至つたので、其の朝野の間に遊説するや、先づ時の首相黒田清隆、蔵相松方正義、農相岩村通俊の賛成を得、研究所創立に対する補助金を与へられることになり、次で全国に巡歴して東亜の形勢を説き、日清貿易研究所創立の趣旨を陳べて人物養成の急務を叫び、甚大なる感激を各方面に与へた。

 時恰も国会開設を目前に控へ、世を挙げて政論に熱狂して、支那問題などは殆ど顧みる者なかりし頃とて、荒尾の演説は各地で異常なる反響を喚び、研究所入学を志願する青年は五百余名に達したが、詮衡(せんこう)の結果百五十名を採用することとした。
 然るに一切の準備整ひて将に上海に出発するばかりになつて、政府の補助金交付困難の事情が生じ、荒尾は進退谷(きわ)まりて遂に自殺を決心したが、参謀次長川上操六の同情により、四万円の補助金を入手することが出来たので活路が開かれた。
 而して川上を動かすに与つて最も力ありしは、士官学校以来彼の莫逆(ばくぎゃく)の友であり、今や軍職を辞して荒尾と行動を共にし、支那問題に一生を捧げんとする根津一の努力であつた。

 かやうにして明治二十三年九月、東亜同文書院の前身たる日清貿易研究所が上海に創立されたが、開校以来常に経営のために苦心惨憺しなければならなかつた。極度に困難なる財政事情が生徒間に漏れて動揺を生じ、三十余名の生徒に退学を命じたこともあつたが、一切の苦境を切抜けて、明治二十六年六月、八十九名の卒業生を出した。而して前年には根津が編集の任に当りて、二千頁に余る清国商業総覧が発行された。
 かくて研究所の価値が漸く世間に認められ、上海には日清商品陳列所の建設をも見るに至つたが、開所後一年を経ずして日清戦争の勃発を見、荒尾の事業は一時中止せねばならなかつた。


 荒尾が研究所の経営に窮して金策のために上京する毎に、彼の最も障意なき相談相手は頭山翁であつた。時々は小遣にも困つて翁に無心に来た。翁は 『君の風貌は恵美須と大黒を一身に兼ねたやうであるが、恵美須や大黒にも貧乏恵美須・貧乏大黒があると見える』 と椰楡しながら欣然として用立てた。或は三千円の金が至急入用だと言つて翁を其の旅館に訪ねた。
 貧乏は翁も荒尾に譲らなかつたが、いろいろ心配の結果、或る高利貸が確実な人間が連帯の印を捺すならば之に応ずるといふので、翁は鳥尾小彌太に頼むことにした。時に鳥尾は熱海に居たので、両人は東京を出立しだが、途中で鳥尾と逢つた。

 よつて茶屋の二階で此事を話すと、鳥尾は金の出処が何処でもよければ、井上馨から借りてやらうと言ふ。頭山翁は、金は天下の廻りものだ、聞多の金でも何多の金でも構はないと言つて、其事を荒尾に話すと、荒尾は、井上ばかりは御免だと言つて断はつた。それは井上馨が、荒尾と別懇の間柄なる川上操六と面白からぬ関係に在つたためであつた。

 

  曩(さき)に荒尾が日清貿易研究所創立のために帰朝して九州方面に遊説した時、筑後西郷と呼ばれし林田守隆は 『世を挙(こぞ)つて政論に熱狂しつつある時、荒尾氏が東亜の形勢を説きて之に対する国民の覚悟を促すを聞き、恰も義兵が起つて来たやうに感じた』 と言つたとの事であるが、恐らく頭山翁も同様に感じたであらう。少くとも荒尾との親交が、翁をして一層大なる関心を東亜問題に抱かしめるに至つたことは疑ふべくもない。

  此の偉大なる先覚者は、日清戦争後、支那の無力一朝にして世界に暴露せられ、欧米列強の関心一に東亜に注がれ、やがて非常なる危機を招来すべぎを逸早く洞察し、此の危局に対する方策の第一着手として日清経済同盟を結ぶの必要を説き、時の松方蔵相の賛成を得て、明治二十九年一月上海に赴きて戦後の事情を視察すると共に、支那の大官巨商に経済的提携の必要なることを勧説(かんせつ)し、一旦帰朝して日本の朝野に日支提携の急務を警告し、同年八月台湾及び南支那を巡歴して将来の施設に資せんがために渡台した。

 彼は新領土台湾に於て内地人と島民との融和を図るために紳商協会を創立し、将に南支那に渡りて抱負経論を行はんとしたが、乗船の前日不幸にもペストに罹り、十月三十日、その貴くして短き三十八年の生涯を了へた。彼が臨終の床上、昏々悪熱と戦ひながら遺せる最後の叫びは、実に 『ああ東洋が……東洋が……』 といふ荘厳にして悲壮なる言葉であつた。

 さて頭山翁が荒尾と相識つたのは明治十九年であるが、其の前年に初めて金玉均と会ひ、爾来朝鮮問題に肝胆(かんたん)を砕くこととなつた。翁は一見して金玉均が非常の人物なることを看破し、後年彼に就て下の如く語つて居る―― 『世の多くの才子は大概身体の弱いものであるが、金玉均の如きは実に異例の傑物であつた。あれだけの才子でありながら、身体の強壮なること、その実物を見た日には、誰でも驚くのであつた。色の白い、顔の大きい、そして身丈の高さから、骨組の頑丈さからして、一見壮士の如き観があつた。その上に例の酒々落々たる風格と、滔々懸河(とうとうけんが)の弁、人を外らさぬ話術と来ては、大抵の者は屈服するのであつた。詩文・書・骨董・彫刻、何でも来いだ。趣味としては碁・玉突きなどで、碁は犬養よりも少し強かつたらう。』

 

 明治九年江華湾条約の成立によつて、目韓両国の修好通商を見るに至つたが、彼我の国状は充分に諒解されず、相互の往来も稀であつた。当時朝鮮では閲氏一族を中心とする事大党が、支那に頼つて勢力を保持して居たが、年少気鋭の金玉均は、日本が維新の大業を成就して国運頓に興隆せるを聞き、一たび日本に渡りて其の実状を視察し、日本の援助によつて政治的革新を行ひ、多年国内に浸潤せる支那勢力を駆逐して、完全なる独立を確保したいと考へ、明治十三年の夏、初めて日本に渡来した。 

 

 彼は当時二十六歳の青年で既に内務大臣に相当する堂上戸曹判書の重職に在つたが、仏教興隆といふ名目で来たのである。東京では福澤諭吉が満腔の同情を以て親切なる指導と激励とを与へ、朝鮮復興のためには人材の養成が第一の急務なることを説いたので、金は大なる希望を鼓吹せられ、再会を約して帰国した。
 彼は幾くもなく数十名の留学生を送り、その指導監督を福澤に一任し、福澤は留学生全部を自己の広尾の別邸に収容して之を指導した。而して翌年には朝鮮の官界其他より選抜された一団の人士が日本視察のために渡来し、日本の国情を見て其の進歩に驚き、帰来範を我国に採つて国政の改革を期するに至つた。

 然るに翌明治十五年十月、大院君が兵士を煽動して乱を起さしめた壬午の変あり、朝鮮は日本に謝罪使を派遣することとなつたが、選ばれて使節となつだのが金の同志朴泳孝であり、金もまた一行に加つて来朝した。


 彼等は正式の使命を果たすと共に、わが朝野の有力者を歴訪し、日本の援助によつて国政の革新を図り、支那勢力を朝鮮より駆逐したいといふ希望を陳べた。此の希望は少からず我が朝野の有力者を動かした。金と親交ある福澤は、彼等の運動に最も深き同情を寄せ、彼等の計画に対して種々なる助言を与へた上、彼等を後藤象二郎に紹介し、共に後援者として尽力した時の外相井上馨は、後藤・福澤等が援韓のために奔走しつつあるを見、寧ろ機先を制するに如かずとして、俄に対韓政策を定め、公使竹添進一郎をして金・朴等の独立党を庇護させ、壬午の変の償金残額四十万円を棄揖して彼等の運動に資せしめた。閲氏一族及び清国公使は之を知つて備ふる所あり、物情騒然たるに至つた。

 既にして明治十七年十二月四日、金・朴等は兵を発して関一族を撃ち、王宮を擁して号令し、回天の業、朝にして成れるかの観あつたが、蓑世凱が清兵二千を率ゐて王宮に迫り、竹添公使が挙措宜しきを失つたために、独立党の事業は夢よりも果敢なき結末を告げ、金・朴等は日本に亡命した。頭山翁が金玉均と初めて会見したのは、彼等が此の甲申の変に失敗して日本に来り、金は神戸に流寓(りゅうぐう)して居た時のことである。

 朝鮮の政治的改革は、日本政府の黙諾の上で行はれたものであり、金・朴等は一敗地に塗れたとは言へ、日本に亡命し来れば政府の庇護乃至厚遇を受けるものと期待して居た。然るに政府の彼等に対する態度は冷淡を極め、井上外相の如き、金が幾たび訪問しても絶対に面会を謝絶した。

 此事を知りたる民間志士の同情は翕然(きゅうぜん)として彼等の上に集まり、彼等を援助して事を朝鮮に起し、其の政治的革新の志を遂げしめんとするものあるに至つた。先づ自由党員大井憲太郎・小林樟雄・新井章吾・稲垣示・磯山清兵衛等は、窃(ひそか)に資金を集め、爆弾刀剣を備へ、同志約六十人と共に渡韓して事を挙げんとしたが、明治十八年十一月、事露はれて縛に就いた。
 
 同志の中には二十一歳の女性景山英子も居た。彼等の精神は、大井憲太郎が法廷に於てなせる陳述に尽きて居るが、彼は其中で下の如く言つて居る――『我々は日本人なるも、身を朝鮮人の位地に置き、朝鮮の社稷(しゃしょく)を危からしめんとする蠹毒(とどく)を除かんとして奮起せるものである。
 成敗もと天に在り、狂と呼び愚と呼ぶも、唯だ他の評に任ずれど、我々は自ら許して義軍と称し、成敗利鈍を顧みずして、之を全国の有志に図るや、志士奮躍、袂を振つて之に投ずること、響の風に応ずる如くなりしもの、是れ真に人為の然らしむる所にあらずして、天意に出でたるものとなすも、人誰か之を不可なりとせんやである。
  加ふるに有志の士はみな貴重なる生命財産を顧みざること土芥(どかい)の如く、父母兄弟を後にし、鶏林の鬼と化するを期し、三尺の剣に倚(よ)り、風粛々、易水を渡らんとす。以て此挙の不正不義に非ざるを知るべきである。』

 

 大井・小林等が朝鮮に事を挙げんと企てて居た頃、福岡玄洋社でも同様の計画を樹てて居た。当時東京の芝公園附近に、玄洋社の青年が梁山伯を構へて、四方の同志と気脈を通じて居たが、彼等もまた朝鮮事変に対する政府の態度に憤慨し、此上は民間の志士が結束して亡命志を助け、以て朝鮮の改革を断行する以外に途なしと考へた。
 そのためには玄洋社を総動員して運動の中心となし、広く同志を募りて義勇軍を組織せねばならぬといふので、頭山翁の賛成を求めるために久田金を西下させた。

 久田は福岡に帰りて同志の計画を翁に告げ、その決起を懇願した。翁は之に対し、近日上京して同志と相談しようと答へたので、之を聞いた玄洋社の青年は、翁に先ち続々上京して在京社員に合流した。而して東京では熊本・金沢・青森の諸同志も此の計.画に参加し、只管翁の上京を待ち構へた。

 

 やがて翁は京上の途に就いたが、当時金玉均が神戸に流寓して居たので、同地で金と面会した。翁は此の初対面で、金は援助するに足る人物であることを知つたが、愈々覚悟を定めて事を挙げるには充分の準備を必要とするので、持参せる千円ばかりの金を金玉均に与へ、再び福岡に引返して資金の調達に取掛かつた。恰も此時、大井憲太郎一派の対韓計画が露顕しかけ、警察側は頻りに探偵に努めて居た。再度の京上の途次、大阪で此事を知つだ翁は、斯様な時に同様の計画を進めても、徒に同志を蹉躓(さち)させるだけであると考へ、着京しても持重論を唱へて、血気に逸る同志を制止した。同志は憤激して決起を迫つたが、翁は頑として応じなかつた。

 

 頭山翁は一方同志を慰撫して軽挙妄動を戒めると同時に、他方別個の計画を立てて其の実現に努めた。それは釜山に日清韓の三国語を教授する語学校を創立し、大陸に志ある青年を送りて大陸事情及び語学を研究させ、一朝時ある場合に此の学校を根拠地とし、此処で養成せる青年を活躍させようとする計画であつた。
 此案には中江篤介、越後の赤沢常容、熊本の前田下学(かがく)等も賛成し、玄洋社員来島恒喜・的野半介等が熱心に奔走し、上京せる金玉均も時々会合に加はつた。計画は着々進み、中江が設立趣意書を執筆し、校名を善隣館と定め、資金の調達に取掛かつたが、偶々(たまたま)大井等の事件が暴露したので、其の余波を蒙りて此の計画も挫折した。之と同時に前述の対韓計画に狂奔せる青年も、大井等が一網打尽に検挙せられたのを見て、初めて翁の先見に服し、其の計画を中止した。而して金玉均は小笠原島に送られ、流罪同様の境遇に身を置くこととなつた。


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大川周明 『頭山 満と近代日本』(四) 玄洋社の設立

2018-11-10 17:10:05 | 大川周明

  大川周明『頭山 満と近代日本』 

 

                        
                       頭山 満 (ウィキペディア) 



    

 明治十三年春、頭山翁は再び土佐に遊び
板垣を初め立志社の諸同志と交りを温めた。その福岡に帰るや、箱田六輔・進藤喜平太・平岡浩太郎等と相図り、向陽義塾を改めて政治結社となし、名を玄洋社と命じて三条の憲則を定め、新たなる活動の準備を整へた。
 その憲章は下の如し。
 

 第一条 皇室を敬戴すべし
 第二条 本国を敬重すべし
 第三条 人民の権利を固守すべし

 右の条々各自の安全幸福を保全する基なれば熱望確護し子々孫々に伝へ、人類の世界に絶えざる間は決して之を換ふる事なかるべし。若し後世子孫之に背戻(はいれい)せば、純然たる日本人民の後昆(こうこん)に非ず矣(かな)。鳴呼 服膺(ふくよう)すべき哉。此憲則、集議可決す、長く玄洋社の骨髄なり。

 

 箱田・平岡・進藤及び翁の四人は玄洋社創立の元勲であり、
前四者は相次いで其の社長となつたが、いつれも抜群の人物であつた。箱田六輔は翁より長ずること五年、人参畑の興志塾以来の同志である。忠実にして剛直、非道の事は一歩も許さず、邪を明かにする精神が極めて強かつた。

 もと箱田家は維新前後まで豪富を以て聞こえて居たが、箱田は悉く之を玄洋社のために散じて顧みなかつた。明治二十一年急病のために三一十九歳で長逝したが、若し健在して居たら、初期以来代議士に選ばれ、河野廣中・長谷場純孝・杉田定一等と伍すべき人物であつた。
 

 平岡浩太郎は、西南戦争の際に同志と共に兵を挙げて大西郷に呼応し、一敗地に塗るるや乱軍の問を縫ふて薩軍に投じ、諸方に転戦して勇名を馳せたる豪快なる男児で、博弁宏辞、才気換発、進むを知りて退くを知らず、頭山翁とは凡そ対蹠的なる性格であつた。
 進藤喜平太は醇情にして沈着、謹厳にして潔白、人呼んで 『九州侍所別当』 と言った。福岡を通じて徳望比肩する者なく、玄洋社長たること実に三十余年に及んだ。而して頭山翁自身は、幾度びか社長に推されたけれど、堅く之を辞退し、終始進藤を支持した。
 但し玄洋社の名をして天下に重からしめたのは、頭山翁の存在が最も与つて力ありしこと言ふまでもない。

 さて玄洋社の組織一応成るや、
翁は此年五月始めて東京に上り、六月十一日東北一巡の旅に出た。下に掲ぐる書簡は、翁が越後より家郷に寄せたるものにして、翁の人間味を最も善く露呈せると同時に、その遊歴の状況を彷彿せしめるものである。

 秋冷相催し候処、益々御勝旺御暮し被在可く、大悦至極に奉り候。然れば奉別爾来既に半歳に跨(またが)る。渇想何ぞ堪へん。雨に逢ふては仁兄の鰻待ちを思ひ、井に臨んでは大慈父の風呂の水汲み給はんことを恐想し、雨に風に思を父兄に生ぜざるはなし。

 然り而して時々安否をも伺ひ奉らず、不孝不弟の罪、敢て一言謝罪の辞を知らず、誠に漸懼(ざんく)極点に御座候へども、何分御仁恕被下度、伏て奉恐願候。併し此度の遊歴にて、少しく道義の真味肺肝に感銘致し候へば、聊(いささ)か御慈育の鴻恩に違背仕らざる様、日夜 黽勉(びんべん)(まかり)(あ)り候。憚りながら御憐察下さるべく候。十二月初旬には、多分帰県の心算に御生候。返す返す御自愛の之奉仰願候。恐惶謹言

                      十月一日     頭山 満

 

 左に聊(いささ)か経歴の景況を陳ず。

 六月十一日東京を発し、同十三日常陸の国土浦に至る。当地には知人有之候間、七八日滞在せり。当地には未だ格別の誓も無之と難も、奨弘館とか云へるものを設立し、之より追々盛大に及ぶの企てなり。夫れより下総小金ヶ原抔(注、たどのルビ)を遊覧し、又常陸水戸へ出づ。此地、先勇士の夢の跡のみにて、誠に寥々たる模様なり。

 夫れより平・三春・二本松・福島等を経て仙台に至る。塩釜より舟にて松島に遊べり。実に独歩の絶景なり。仙台には相応の結社杯も有之、夫れより盛岡・青森・弘前・秋田・酒田・庄内等を巡りて遂に当地に達せり。以土各地の景況は何れも大同小異なり。
 大体今日は各地同様にて、一瓶の氷を以て天下の寒を占ふに余りあり。時節も否塞極度に候へば、頓て堅氷大雪の後には、春日の好佳節と相成る可く候。私遊歴の模様、恰も水漂々たる如く、実に水滸伝水滸伝。

 

 頭山翁は此の旅行中に福岡に於て初めて河野廣中と相識つた。
河野は前年東京に於て箱田六輔と会つた時、福岡第一等の人物は誰ぞと問へるに対して、箱田は言下に 『頭山満』 と答へたので、予てより翁の風貌を想像して居たが、愈々来訪を受けて会つて見れば、粗末な木綿着物一枚に紺木綿の兵児帯を締め、朴の木の足駄で雨傘一本提げて居るだけの無造作な身なりであるのに驚かされた。而も翁が一個月前後逗留して居る間に、河野を初め福岡の有志は、皆翁の輪廓の偉大なるに服するに至つた。

 

 翁は其後越後を経て越前に至り、杉田定一父子の経営せる自彊学舎に暫く足を停めた。杉田家は名高き越前坂井郡の豪農で、定一の父仙十郎の代に至り、傍ら酒造業を営んで居たが、息定一と図りて邸内に自彊学舎を設け、酒倉を塾舎に充て、青年の薫陶に従つて居たのである。
 杉田家に滞在中、翁は仙十郎の蔵書のうちから 『和論語』 一巻を発見し、熱心に之を読んだ。此書は痛く翁の心に会つたと見え、其中の重なる章句を晩年まで精確に暗誦して居た。

 

 頭山翁が諸国を行脚して人才を物色しつつありし間も、
国会開設の建白と請願とは依然として続行されたが、此年十二月九日、政府は 『人民の上書、一般の公益に関するものは、何等の名目を以てするに拘らず、渾(すべ)て建白となし、元老院に於て取扱ひ候条、管轄庁を経由して同院に差出すべし』 と布告したので、今や請願は不可能となつた。

 而して建白として元老院に提出せるものは、唯だ参考として留め置かれるに過ぎなかつ定から、幾度差出しても矢を暗中に放つに等しく、何の手応へもなきに至つた。かくて翌明治十四年の前半は、前年の政界多事なりしと打つて変り、表面は無事なるが如く見えたが、七月に至りて北海道開拓使官有物払下事件が起り、民心一時に激動し、久しく蓄へたる在野の不平は、一斉に此の噴火口を借りて暴発するに至つた。

 

 明治政府は北海道開発の目的を以て、
既に明治二年を以て開拓使を置き、年額約四十万円の経費を之に充てた。然るに黒田清隆が開拓使長官に任ぜらるるに及び、従来の定額金を廃し、明治五年以降約十年間に一千万円を国庫より支出し、一切の開拓施設を開拓使に委任することにした。

 明治十四年は即ち予定の事業を完了する期であり、従つて従来開拓使が創設した幾多の事業と、之に附属する官有物とを処分すべきこととなつたのである。而して黒田開拓使長官は、此等の事業を政府に於て継続しても成績を挙げ難ぎを以て、之を民間に払下げて事業を継がしむるを有利なりとし、之を関酉貿易会社と称する一商社に払下げんとした。

 此の商社は、鹿児島人にして維新の際一時要路に立ち、
後に辞職して大阪に居住せる巨商五代友厚及び旧山口県令にして同じく大阪に於て巨商の名を博したる長州人中野梧一が、開拓使の官吏四名と謀り、四名は辞職して野に下り、力を合せて設立せるものであり、明治二年以降十三年に至る間に、一千四百万円を投じて創設せる事業及び物件を、僅に三十万円、而も無利息三十ケ年賦を以て払下げんことを請願したのである。

 願書の提出されたのは七月二十一日であつたが、廟堂の大半は薩長二藩出身の人であるから、此の前古未曾有の不当なる請願に対して異議を唱ふる者なかつたけれど、独り大蔵卿大隈重信が痛烈に之に反対したので、即座に許可することが出来なかつた。時に陛下東北御巡幸の儀あり、七月二十九日車駕(しゃが)東京を発し給ひ、黒田・大隈之に陪従したが、官有物払下の件は未だ許可の沙汰なかつたので、一二参議は攣輿(らんよ)の後を追ひて千住駅に至り、強いて請ふて僅に勅許を得たのである。

 先是(これよりさき)民間の志士は頻りに自由民権を唱へて政府に迫つたが
未だ実際問題を捉へて政府を攻撃する機会を得なかつた。然るに此の払下事件は、最も露骨に薩長が国利民福を犠牲にして私利を営まんとする事実を天下に明示したものであるから、輿論は烈火の如く激昂し、苟
(いやしく)も政治を論ずる新聞雑誌は一斉に其の不当を痛撃し、全国悉く之に和した。
 暫く鳴りを潜めたる国会開設要望の声は俄然また昂まつた。而して当時廟堂に於て参議中の最有力者なりし大隈が開拓使官有物払下に反対し、且輿論を誘ひて之に反対したことが、政府攻撃の火の手を弥(いや)が上に掲がらしめた。


 蓋し大隈は此機に乗じて薩長の専制を抑へんとしたもので、
『小野梓伝』 は此問の消息を下の如く伝へて居る
――「開拓使官物払下の物議の起るや、大隈参議は大勢を端摩(しま)し、左大臣有栖川宮に就き、一夜密に座を請ひ謂ひて曰く、方今に処する善道は、速に国民の希望に従ひ、明年を以て憲法を制定し、十六年に於て国会を召集するに外ならず、然れども之を成すに先たち、断然藩閥の元老数名を斥け、新に民間の志士を入れて之を補ひ、茲に積年の宿弊を洗蕩(せんとう)するに非ずば、事容易に成し難し、則ち刻下人心の動揺は、終に収拾し難きに至らんと。而して私擬憲法・国会開設要目七十九条を記して、之を座右に献じたり。』

 

 かくて大隈は単り政府部内に於て官有物払下に反対したるのみならず、
其の部下として養成したる沼間守一等の京浜毎日新聞、藤田茂吉等の郵便報知新聞、嶋田三郎・肥塚龍等の嚶鳴雑誌等をして、盛んに紙上に其の不当を論じ、且頻りに演説会を開いて之を攻撃させた。
  当時帝都各処の演説会に於て、政府の失政を攻撃すること猛烈を極めたけれど、解散中止の厄を免れたのは、大隈が政府部内に在りて暗に之を庇護せるためであつた。

 而して新聞及び演説は、
皆政府の処置を痛撃したる後、是くの如き専横不正を敢てして忌樺する所なきは、官僚専制政治の然らしめる所なるが故に、之を根本より改めなければ私曲を絶滅することが出来ぬ、その根底を絶滅するの途は国会開設以外になきことを力説した。

 多年国会開設を要望し来れる輿論の炎は、
之によつて油を注がれ、必ず払下を取消し国会開設を見ざれば己まざるの勢を示した、而も廟堂に在りては大隈が断乎払下に反対し、且其弊を除くために国会開設を主張すると聞き、天下の輿望頓(とみ)に大隈に集まり、大隈出でずんば蒼生(そうせい)
を如何せんと称ふるに至つた。

 かくて大隈が其志を遂ぐるの機は略ぼ熟し、将に.挙して藩閥政府を転覆し、政党内閣の実現を見ることも遠からじと思はしめた。

 

 政府は是くの如き形勢に一驚し、
十月十一日明治天皇の東北より還幸し給ふや、即夜御会議を開かせられ、翌十月十二日開拓使官有物の払下を取消し、同時に明治二十三年を期して国会を開くべきことを天下に告げさせ給ふた。

 而も此事のために薩長人士の怨恨憤激は悉く大隈の一身に集まり、其の車駕に従つて外に在るの間に、政府部内は一致して大隈放逐の議を定めたので、藩閥政府転覆の企図は全く画餅となり、帰郷と同時に薩長七参議のために排細されてしまつた。
 而して大隈と志を同じくして政府に在りし大小の諸官は、河野敏鎌・矢野文雄・前島密・犬養毅・尾崎行雄・島田三郎・小野梓・中上川彦次郎・中野武営・小松原英太郎以下相踵(あいつ)いで職を罷め去り、廟堂に大隈派の隻影を止めざるに至つた。伊藤・山県の長州勢力が始めて確立されたのは実に此時からである。

 

 国会開設の時期を明示し給へる聖詔は、
能く政海の狂瀾怒濤を鎮め、民権運動者は今や他日国会開くる時の準備として、政党団結の必要を感じ、此年十月国会期成同盟会及び自由党は、合同して自由党と名くる政党を結成し、総理に板垣退助、副総理に中島信行を選挙した。
 之と前後して大阪に立憲政党の結成を見たが、自由党副総理中島信行を請ふて其の総理としたので、両者は異体同心のものである。

 明治十五年に入りてよりは、政党の団結全国に起つたが
就中九州に於ては福岡県の玄洋社・立憲帝政党・柳河有明会、鹿児島県の自治社・公友会・三州社・博愛社、長崎県の佐賀開進会・唐津先憂社等の委員及び大分県竹田の有志等が、三月十日熊本に会し、熊本の前田案山子・高田露・嘉悦氏房・山田武甫等と相図りて九州改進党を組織した。
 頭山翁も箱田六輔と共に玄洋社委員として此の大会に出席した。

 

 先是(これよりさき)東京に嚶鳴社及び東洋議政会といふ二つの団体があつた。
嚶鳴社は前元老院書記官沼間守一が、明治十二年官を辞して、後、河津祐之・肥塚龍・末廣重恭・波多野伝三郎・田口卯吉等と共に組織した結社で、社員の多くは英学者尺振八の塾より出で、京浜毎日新聞を其の機関として居たが、島出三郎も掛冠(けいかん)後に来り投じた。

 議政会は矢野文雄・森田義吉・箕浦勝人・犬養毅・尾崎行雄等の慶鷹義塾出身者を以て組織し、郵便報知新聞を其の機関とし、前者と共に望を大隈に属し、常に其の政策を助けて来たが、大隈の朝に敗るるに及んで、河野・前島・小野・牟田口等も相踵いで野に下り、茲に三派合同して立憲改進党を組織し、四月十六日其の結党式を挙げた。

 

 さて征韓論は佐賀及び薩摩の戦争となり、
共に政府の鎮圧する所となつたが、今や民選議院論が自由党及び改進党の結成となりて政府に反抗することとなつた。両党は同じく政府に反抗したけれど、自由党は其の精神に於て征韓論者の流を汲み、自由民権を叫び主権在民を唱へながらも、最も力を国威宣揚に注がんとした。

 然るに大隈は初めより非征韓論者であり、
従つて改進党の政綱には特に「内地の改良を主として国権の拡張に及ぼす事」を明示して居る。此点に於て改進党は非征韓派即ち大久保一派と主義を同じくするものである。

 それ故に自由党は征韓論及び民選議院論を併せ、改進党は征韓論を非として民選議院論のみを採れるものと謂ひ得る。而して政府は征韓論に反対し、民選議院論に反対したのであるから、自由党とは正反対の立場を執り、内治を主として国権の拡張に及ぼそうとする点は改進党と同一であるが、大隈を廟堂より放逐せる関係から改進党をも敵視した。

 明治維新の当初、薩長は人才を収欖するの急務なるを感じたるが故に、
成るべく門戸を広くして有為なる人物を歓迎した。
 彼等は荐(しき)りに外国の文物を輸入し、自由民権の議論すらも成るべくは之を輸入した。然れども彼等は漸くにして自由民権の議論を盛んならしめることは、虎の子を養ふよりも危険なることを感ずるに至つた。彼等は自ら余りに進み過ぎたるを疑ふに至つた。
 而して政治運動の民間に勃興するに及んで、保守的反動が次第に彼等の心を掴み、弾圧政策を以て国民に臨むに至つた。是くの如き精神を最も鮮明に示すものは実に下の如き岩倉具視の意見書である。

 

 曩に明治六年、参議の重任に居る者、始めて朋党の兆あり、
一動して佐賀の騒擾となり、再転して台湾の出師となり、八年に及び二三の参議大阪に密会し、遂に漸次立憲の詔を請へり。抑々(そもそも)此事たるや、下民上を罔(あみ)するの路を啓き、大権下に移るの漸をなし、実に不易の国体を変ずる者、具視極めて其不可を論ぜるも用ゐられず。
 時に維新の功臣其末節を令くせず、芳蘭(ほうらん)忽ち葷蕕(くんゆう)に変ずる者あり、具視憂憤の情に堪へず、勉めて政務に従事す。

 果して十年に至り、西郷暴挙の事あり。
次年には分権自治の目的を以て府県会の法を定む。内閣の中二三の人は其甚不可なるを論ずるあり、具視亦所見を同じくす。以謂(おも)らく此法は又大権下移の路を速にす、天下之より多事ならんと。爾来大本既に堅からざるを以て小規亦定まること能はず、甲事将に成らんとすれば、乙功既に壊る、

 彼を補ひ之を支ふ、日給するに逞あらず、役々として休からず。遂に明治十四年夏秋の際に至りて開拓使の事あり。此事や僅に行政事務の.小処分に過ぎざりしも、此年以来、士威軟弱、下民横恣の弊、漸く積聚(しゃくじゅう)するを以て、一たび詭激(きげき)の論を以て人心を煽動するや、上下惑乱、官民鼎沸す。

 

 平常忠実の官吏と難、其向背を定めず
誠偽黒白を判す可からざるに至れり。惟ふに彼の不逞の徒、空拳赤手、徒に口舌を鼓し筆管(ひつかん)を弄す、固よリ三軍の衆あるに非ざるなり、又剣銃の利器あるに非ざるなり。然り而して政府の之に対して岌々々として安からざること、むしろ驚愕に堪へざるものあり。鳴呼大権下移の漸、此に至りて其様を察すべぎなり。

 夫れ政府の頼りて以て威権の重を為すものは、陸海軍を一手に掌握し、人民をして寸兵尺鉄を有せしめざるに因れり。然れども若し今日の如くにして人心を収束することなく、権柄益々下に移り、道徳倫理滔々として日に下らば、兵卒軍士と難、焉ぞ心を離し、文を倒まにせざるを保せんや。

 気運一旦此に至らば、
夫夜呼び関中守を失ふの覆轍を踏まざらんと欲するも、豈得べけんや。故に今日にして政府の威権を恢復し、民心の頽瀾(たいらん)を挽回せんと欲せば、断乎として府県会を中止し、万機一新の精神を奮励し、陸海軍及び警視の勢威を左右に提げ、凛然として下に臨み、民心をして戦憟する所あらしむべし。
 凡そ非常の際は一豪傑振起し、所謂武断専制を以て治術を施す、古今其例乏しからず。故に此時に当り、半期一歳の間、或は嗷々不平の徒あるも、亦何ぞ顧慮するに足らんや。

 

 これは誠に徹底せる、また素朴なる武断専制主義であり、
その起革されたのが明治十五年十二月のことなりしを想へば、当時の日本が如何に思想的に混沌たりしかを察することが出来る。而して如何に岩倉公の勢力を以てしても、府県会中止の事は行はれなかつたが、武断専制だけは此後も長く政府の採用する所となつた。政府は薩摩の暴動を鎮圧せると同じ精神を以て、政党をも弾圧せんとしたのである。

 自由党と改進党との軋礫は、
政府をして漁夫の利を収めさせた。二党は共に政府を敵としながら、その首領の性格、党員の気風、思想的根拠の相異のために、啻に共同戦線を張らんとせざるのみならず、互に抗争を事とした。

 自由党の領袖は
主としてフランス思想に養はれたる仏学者であり、其の唱ふる所は極めて単純であつた。彼等は社会は民約によつて成り、主権は国民に存し、法律は民衆の好悪に成るといふ信条を、甚だ露骨に宣言せるに過ぎなかつた。而も新たに政治的に覚醒せる日本人にとりて、議論の単純なるは理解され易き所以であり、自由党が旭日昇天の勢を以て進んで来たのは、是くの如き単純なる自由民権を其の旗幟としたからである。

 然るに改進党は
イギリスの経験主義・功利主義に心惹かれし英学者を幹部とし、民権論の如き空想のために戦はんよりは、国民の実際の生活を改良向上せしむることを以て人生の能事とし、歩一歩現在を改めんとするものである。
 従つて前者の急進的なるに対して漸進的である。自由党員は熱血の士に富み、理想のために万難を排して進まんとし、改進党員は多智の才子多く、難に遭へば避けて暫く機会を待とうとする。それ故に自由党員は燥急熱狂して屡々刑辟に触れ、改進党員は自重自重、容易に危道を冒さない。

 かくて自由党員は改進党員に対して初めより平かならざるものがあつたが、当時世間の非難の的となりし三菱会社に対し、自由党が激しく攻撃を加へたるに当り、改進党が之を傍観したるを憤り、三菱攻撃は一転して改進党攻撃となり、偽党撲滅・海坊主退治の運動となりて激しく輿論を動かし穴。
 爾来両党は氷炭相容れざる間となり、全国至る処に両党互に反目して相対峙するに至つた。
 

 政府の苛酷なる弾圧は、
先づ自由党をして言論に代ふるに陰謀を以てする革命党たらしめんとした。党員の或者は、自家の目的を遂げるためには、暗殺と暴動との外に手段なしと考へた。公会に演説せずして密室に私議し、秘密書を頒布し爆弾を製造した。
 大事を成す者は小饉を顧みずとして、強盗奪掠をさへ決行し、富家を脅追して運用金を調達した。世間は火付・泥棒と自由党とを併称した。多数の党員が牢獄に投ぜられた。

 前年十一月、海外立憲国の制度を視察するために
欧米漫遊の途に上れる板垣は
明治十七年六月帰朝し、自由党の実状を見、党員の節制容易ならざるを知り、此年十月遂に自由党を解散した。而して狡慧にして難を避くるに巧なる改進党も、また内訌(ないこう)のために、此年十二月総理大隈及び副総理河野が党籍を離脱したので、其の首領を失ふこととなつた。かくて一時勃興したりし諸政党は一旦悉く解散し去るに至つた。頭山翁等が尽力せる九州改進党も、翌十九年五月を以て解散した。

 

 先是(これよりさき)政府は安場保和・井上毅・古荘嘉門等をして、
其の郷里熊本に保守党の団結を作らしめ、之を紫溟会と名けたが、主として之を指導したのは佐々友房であつた。頭山翁が土佐より帰りて福岡に民権運動を始めし頃、佐々は熊本より来りて翁を訪ひ、互に相許す仲となつた。然るに佐々は世間より権謀術数を事とする険険なる策士と思はれて居たので、箱田・進藤等の玄洋社同志は、翁が佐々と交はる事を歓ばず、熱心に彼と遠ざかることを忠告したが、翁は頑として聴かなかつた。

 熊本には紫溟会の外に相愛社といふ団体があつた。
前者は池辺吉十郎の系統を引き、後者は宮崎八郎の系統であつたが、両者は氷炭柑容れざる間柄なので、翁は箱田・進藤等と謀り、九州有志大会を熊本に開き、此の機会に両者を握手させようとしたが、相愛社側は此の大会に社員を出席させなかつたので、玄洋社の計画も水泡に帰した。但し爾後玄洋社と紫漠会との関係は極めて親密になつた。

 此年頭山翁は輿論指導の機関として新聞を発行せんと思ひ立つた。無一物の翁が新聞発行を計画すると聞いて世間は相手にしなかつたが、翁は有志を説得して寄付金を集め、後に九州新聞界に覇を称へたる九州日報の前身福陵新報を発刊を見るに至つた。

                        〔続〕 

〔関連記事〕
大川周明 『頭山満と近代日本』 (一) 皇政復古と欧化主義、頭山満の生い立ち 
大川周明 『頭山満と近代日本』 (二) 征韓論と民選議院論  
大川周明 『頭山満と近代日本』 (三) 民権運動と国会の開設    





大川周明『頭山満と近代日本』(三)民権運動と国会の開設

2018-11-09 21:15:21 | 大川周明

大川周明 『頭山満と近代日本』 (三)
  民権運動と国会の開設
  

 征韓論破裂より西南戦争勃発に至るまでの数年間は、維新政府に対する反感と不平とが、澎湃(ほうはい)として全国に漲(みなぎ)りし時期であり、政府は屡々危地に出入した。其等の不平は、先づ各地に於ける頻々たる暴動となりて現れ、遂に武力による大規模の政府転覆計画となり、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱を経て、西南戦争に於て其の頂点に達した。

而も『土百姓』を以て成れる「鎮台兵」が、能く「古今無双の英雄」を奉じたる『標惇決死』の士族軍を破り、見事に戦乱を鎮定するに及んで、天下の形勢は明かに一変し、最早武力を以て政府と争はんとする者なきに至つた。これ西南戦争の終局が第二維新と呼ばるる所以である。

 

 頭山翁が最も景仰せる先輩は、恐らく西郷南洲である。従つて萩の監獄を出でて西郷の長逝を知つた翁は、無限の感慨を抱いだに相違ない。また翁は前原一誠の心事に対しても至深の同情を有つて居た。 

前原が嚢(さき)に朝を去る時の辞、並に事破れし時同志に与へし書簡は、翁が老年に至るまで之を暗誦して、屡々青年に読み聞かせて居た。

 出獄後の翁は、前原・西郷の志を継ぎ、廟堂の廓清と国威の宣揚を目的として、有為なる青年を糾合して堅固なる団体を結成し、以て有事の日に備へるため、同志と相図りて、博多湾を擁する向濱に謂はゆる向濱塾を設立した。即ち塾の北方に続く十万余坪の山林を入手し、半日は山林の松樹を伐採して同志衣食の資に充て、半日は相集つて書を読み武を練ることとした。塾の同人は奈良原至・進藤喜平太・来島恒喜・月成勲・大原義剛其他であつた。

 

 然るに翌明治十一年五月十四日、大久保利通が西郷崇拝者島田一郎等六人のために、参朝の途次、紀尾井坂附近に刺されて無惨の死を遂げた。此報鹿児島に達するや、老幼男女相告げて皆快哉を唱へ、途上相遇ふ者互に御芽出度うを連呼し、戦没者の遺族は赤飯を炊いて慶祝した。福岡に於て此報に接した頭山翁も、島田等の挙を快としたことであらう。
 明治維新の元勲は、言ふまでもなく西郷・木戸・大久保の三人を推すのである。然るに昨年木戸は病を以て没し、西郷は叛して斃(たお)れ、内外の機務は一に大久保の手によつて決せられることとなつたが、其の大久保が今や刺客の刃に発れ、維新の三傑また一人を留めざるに至つた。天下は再び動揺するかに見えた。翁は時を移さず土佐に赴いて板垣退助を高知に訪ふた。

 

 明治十年以前は、政府反対党の中心は鹿児島を以て目せられ、十年以後は高知を以て目せられた。前者の泰斗(たいと)はいふまでもなく西郷南洲であり、後者のそれは板垣退助である。前者は保守主義を執り、武力を以て反対し、後者は急進主義を執り、言論を以て反対せんとする。
 等しく政府と対立するも、其の方針は全く相反する。而して保守的武断党の反対は遂に西南戦争に於て敗れたので、今や進取的言論党が其の全力を現すべき機会が来たと言はねばならぬ。

 板垣は明治八年の所謂大坂会議以後、木戸と共に再び朝に入つたが、幾くもなく政府と説を異にし、島津久光と共に職を辞して野に下りし後は、輿論の力を以て政治の革新を行はんとし、暫く機会を待つて東京に留まつて居たが、明治十年西南の乱起るに及び、郷党の有志が薩軍に呼応して事を起すものあるべぎを慮(おもんばか)り、之を制止するために二月東京を発して高知に帰つた。
 而して予期に違はず林有造・大江卓・谷重喜等が、同志を募りて西郷に応ぜんとし、当時京都に在りし元老院幹事陸奥宗光もまた之に与して居た。

 

 当時高知には三派の勢力が対峙して居た。一は立志社で、明治七年板垣が征韓の廟議に敗れて帰郷した時に設立せるもの、社員、千余人を算へた。洋学所を開き、法律所を設け、自由民権の説を講義し、仏蘭西革命の悲壮を童謡に作り、露西亜革命党の運命を小説に書いて四方に伝唱せしめるなど、日本に於ける最初の政治的結社として最も活発なる運動を開始して居た。

 大石彌太郎等の「派は、之に対して静倹社を樹立し、漢学を修め、山野を開拓し、純然たる封建思想を護持して居た。其の保守的態度は全く立志社と対蹠的であつたが、政府の施設に不満なりしは同一であつた。

 第三は中立社と言ひ、佐々木高行・谷干城等之を率ゐ、立志社・静倹社の間に立つて常に政府の施設に賛成する官権主義の一派であつた。此等の三派が鼎立して互に相容れなかつたことが、板垣をして上佐青年の薩南呼応を阻止せしめ得た一原因でもあつた。
 西南の乱容易に定まらず、人心恟々(きょうきょう)として動揺するや、板垣は片岡建吉を立志社代表として京都行在所(あんざいしょ)に至らしめ、政治改良の上奏建白をなさしめた。

 蓋し板垣は之によつて一は薩南に呼応せんとせる過激の社員を制止し、一は政府の窮困に乗じ、迫りて改革の素志を遂げんとせるものである。而も政府は建白書中陛下に対し奉り不遜の言ありとして、之を却下して通ぜしめず、片岡が数回理由を陳べて上奏を請ひしも遂に志を得なかつた。

 

 然るに翌年に至り、大江卓・林有造・片岡健吉等前後頻りに獄に下されたので、世人は図らずも政府が薩摩に次で土佐征伐を行ふに非ずやと疑ひ、或は嫌疑の板垣に及ばんことを憂へた。而も板垣は知己朋友の捕はれて東京に護送せらるるもの頻々として相次いでも、毫も屈することなく、民権思想の鼓吹に努めて青年の志気を奨励して居た。
 従つて天下の政府に不満なる者、皆密かに望を高知に属し、遙に来りて教を板垣に請ふ者少なくなかつた。それ故に単り頭山翁のみならず、磐城の河野広中、越前の杉田定一、伊勢の栗原亮一、備前の竹内正志、豊前の永田一二の諸氏、皆前後して土佐を訪ふて居る。

 

 翁が高知を訪ふたのは、板垣が四十二歳、翁は二十四歳の時である。此時翁は板垣に向つて 『決起の意志なきやを糺(だだ)した』 と、後年自ら語つて居るが、翁の決起とは恐らく挙兵の意味であつたらう。而も板垣は徹底せる合理主義者であり、立志社員の決起をさへ制止したのであるから、板垣の返事は翁を失望せしめたに相違ない。

 また板垣が力説せる自由民権の思想も、翁にとりては全く耳新しきものであり、その抱懐する尊皇思想と背馳するものの如く思はれた。さり乍ら自由民権の主張、民選議院設立の要望は、既に述べたる如く其の根底を明治維新の尊皇精神と同じくするものであり、皇室を永遠に安泰ならしめ奉るために、公論を以て政治を行はねばならぬとするものである。
 もと明治政府は広く英才を天下に求むることを標榜したが、年を経るに従つて維新の際に功勲を樹て、背後に武力を擁する薩長両藩が、自然に政権を掌握するやうになり、天皇を奉じて政治を専行すること、往年の幕府と異なるところ無からんとするかに見えた。

 皇政復古の真義を発揮するためには、官僚をして私曲を営む余地なからしめねばならぬ。輿論政治は東洋に於ても決して新奇な主張でない。孔孟の教へたる王道も、輿論政治と一致するものがある。例へば孟子が 『左右皆賢と曰(のたま)ふも未だ可ならざる也。諸大夫皆賢と曰ふも未だ可ならざる也。国人皆賢と曰ふ、然る後に之を察し、賢なるを見れば、然る後に之を用ふ。左右皆不可なりと曰ふも聴く勿れ。諸大夫皆不可なりと曰ふも聴く勿れ。国人皆不可と曰ふ、然る後に之を察し、不可なるを見れば、然る後に之を去る』 と言へるが如き是れである。

 

 板垣は翁に向つて、武力を以て政府と抗争するの不可なること、また仮令可なりとするも之を可能とする時代の既に去れることを説き、宜しく言論を以て武器に代へ、自由民権の旗印の下に、全国民の輿論を味方として藩閥政府と戦ふべきことを力説し、遂に翁を説得した。

 

 先是(これよりさき)明治七年一月、民選議院設立を建議し、愛国公党本誓を発表せる際、板垣は同志を会して安全幸福社を設けたが、翌八年二月、各地の有志を大阪に会し、之を愛国社と改称して同志の団結を図つた。然るに此年三月、所謂大阪会議の結果、板垣は再び参議に復して政府に入つたので、此の運動は暫く中絶の姿となつて居た。大久保の刺殺に昂奮して土佐に集まれる四方の有志は、いまや愛国社の再興を企て、翁を初めとし、杉田定一・栗原亮一等最も熱心に板垣に勧めて其の賛成を得た。 

 

 かくて栗原は愛国社再興趣意書を草し、栗原・杉田以下の諸有志、それぞれ畿内・北陸・山陽・山陰・四国・九州の各地に遊説して其志を告げることとなつた。頭山翁の晩年は沈黙を以て聞こえたが、土佐滞在の一個月中には、屡々立志社の演壇に立つて演説した。而して其の帰るに当りては、立志社中雄弁第一の称ありし植木枝盛を福岡に伴つた。

 

 福岡に帰れる翁は、直ちに演説会を開き、民権思想の鼓吹に全力を傾倒した。植木の雄弁は常に会場に溢れる聴衆を引付け、演説会は極めて盛況であつた。翁もまた屡々演壇に立つたが、態度荘重、音吐朗々、漢学の素養が相当に深かつたので、よく経史の章句を引用し、論旨また明瞭徹底、人をして其の意外の雄弁に驚かしめた。

 

 かかる間に愛国社再興の準備は着々進められ、明治十一年九月、大阪に第一回大会を開くこととなつた。
 土佐からは板垣を初め立志社の幹部西山志澄・植木枝盛・安岡道太郎・山本幸彦、福岡からは頭山翁及び平岡浩太郎・進藤喜平太、小倉からは杉生十郎、佐賀からは木原義四郎・鍋島克一・武富陽春、久留米からは川島澄之助、熊本からは佐野範太、宮崎からは宮村三太、福井からは杉田定一、三重からは栗原亮一、其他鳥取・岡山・松山・高松・愛知の各地から、皆一騎当千の士が参会した。結社式は九月十一・十二両日に亘りて盛大に挙行せられ、愛国社合議書を作り、全国響応して民間勢一を統一し、以て活発なる政治的運動を開始することとなつた。

 かくて大阪本部には立志社の山本幸彦・森脇直樹等幹事として社務に当り、植木枝盛・安岡道太郎・杉田定一・栗原亮一等は遊説員として全国各地に遊説するに決し、其他の出席者は各自の郷里に帰りて民論の鼓吹に努めることとなつた。此時より日本全国、各地に政治結社の勃興を見るに至った。

 

 明治十二年春、頭山翁等は向浜塾を閉ぢ、福岡本町に新に向陽社及び向陽義塾を設立し、箱田六輔を社長として、志ある青年の薫陶に従つた。塾は漢学の教師として高場乱女史、女史の従弟坂巻関太及び亀井紀十郎を聰し、法律・理科・英語の教師として一人の英国人を傭つた。当時は中学校が無かつた頃のこととて、多数の青年が来り学んだが、其中の人に後年支那公使となりし山座円次郎も居つた。

 

 一方愛国社は、此年三月第二回大会を大阪に開いたが、四国・九州・中国・大阪以東の四団体二十一社の代表者が集まつた。
 次で十一月第三回大会を又大阪に開いた。此時立志社員島地正存は、速かに国会の開設あらんことを天皇陛下に請願し奉るべしと建議し、多数の賛成を得て茲に国会開設請願運動を全国的に開始することを決議した。福岡に於ては此年十二月、之に応じて頭山翁・箱田・平岡・進藤等が相図り、此の運動のために筑前共愛同衆会を組織した。

 

 明治十三年は、国会開設請願運動のために、政界最も多事の年であつた。そは愛国社の首唱に基づくものであつたが、岡山県の志士が前年の暮、悲壮激越なる激文を四方に飛ばし、全国の新聞紙皆之を掲載して人心を教動せることが殊に与つて力あつた。
 而して翁等の筑前共愛同衆会は、逸早く箱田六輔及び南川正雄を総代として上京せしめ、一月十六日国会開設、条約改正の二件を元老院に建白し、次で岡山県有志総代もまた上京して建白書を元老院に提出した。

 かくして国会開設を要望する運動は澎湃として全国に起り、東西饗応して四方より建白書を提出するに至つた。而して愛国社は前年十一月の決議により、此年三月大阪に会合して国会開設請願書を作成し、片岡健吉・河野廣中の両人其の奉呈委員となり、東京・大阪・山形・福島・茨城・広島・愛媛・石川・島根・岐阜.堺.高知・福岡・宮城・新潟・兵庫・長野・愛知・岩手・長崎.徳島・大分・熊本・佐賀の一府二十二県総代九十七人、請願人無慮八万七千の代表として上京し、携ふるところの請願書を太政官に奉旱した。

 然るに太政官は、政治に関する人民の請願を受理する成規なしとの理由を以て、之を受理することを拒んだので、片岡・河野両人は更に之を元老院に呈した。而して元老院もまた建白書の外は受理する職権なしとして之を却下したので、両人は遂に請願の志を果さず、其の始末を各地の総代に報告した。

 

 政府は全国各地の有志が頻繁に総代を選んで上京せしめ、太政官の門前、国会詰願書を以て埋まり、新聞紙が盛んに之を報道し、政談演説が毎日都鄙(とひ)に開かれ、天下騒然として物情の穏かならざるを見、集会条例を発布して厳重に政治運動を取締つた。

 さきに請願書を斥けられたる愛国社は、社名を国会期成同盟会と改め、必ず国会の開設を見ざれば巳(や)まざるの意を示したが、集会条例のために検束せられて、各地の結社が互に通信往来すること能はざるに至つたので、更に会名を大日本国会期成有志公会と改め、普(あまね)く全国の同志を糾合し、此年十一月十日、二府二十二県十三万人の有志総代六十四名東京に会し、先づ議長以ドの委員を公選した。
 議長は河野廣中、副議長郡利、請願書起草委員には長野県の松沢求策、高知県の林包明、福岡県の箱田六輔、岩手県の鈴木舎定、群馬県の新井毫を挙げ、幹事には石川県の杉田定一、福岡県の小田切謙明、香月恕経、郡利、京都府の沢辺止修が選ばれた。

 

 此の会議に於て、有志者の或者は重ねて請願書を提出せんと主張し、或者は嚢(さき)に請願書を却下せる所以を以て政府を詰責せんと唱へ、其議未だ決せざる前に、或者は単に国会開設を期するのみならず、進んで自由主義の政党を樹立すべしと提議し、此等の政党論者は別に団結して自由党を組織した。

 此の自由党は国会期成同盟会とは別個の団体であり、当時は甚だ微力のものであつたが、翌十四年十月、国会開設の聖詔下りたる時、両者合して更めて自由党を組織し、板垣退助を総理に戴くに及んで、始めて大なる勢力となつた。

 

 さて土佐より帰りて福岡に民権運動の基礎を置いた後、明治十二年の暮、頭山翁は同志四人と共に薩・摩への旅を思ひ立つた。それは予て憧憬せる大西郷の故山を訪ひ、既同志を残存の薩南志士の問に求めるためであつた。
 一行は懐中無一文で、福岡から鹿児島まで徒歩で往つた。先づ武村に西郷の故宅を訪ふた。時に西郷家には、西郷が沖永良部島流謫(るたく)中に相識の間柄となれる川口雪蓬が、西郷の死後も其家に留まつて遺児の薫育に当つて居た。川口雪蓬は大塩平八郎の養子格之助であるとの説もあるが、未だ真偽を決し難い。

 

 とにかく罪ありて沖永良部島に流され、西郷に後れて赦された学者で、白髭を蓄へ、眼光燗々、犯し難い風手の老人であつた.翁の一行が来意を告げると、老人は慰勲に応対し乍ら言った。 『鹿児島は今や禿山となつた。先年までは天下有用の材が茂つて居たが悉く伐り倒された。今から苗を植付けても容易に大木とはならない。わけても西郷ほどの大木は百年に一本、干年に一本出るか出ないかだ』 と。

翁は晩年に当時のことを回想して、其頃の鹿児島は誠に川口老人の話の通り、何とも言へぬ寂しさであつたと述懐して居る。

 

 翁は川口老人から西郷の話を聞き、また其の遣品を見て、西郷に対する尊敬の念を深くした。此時老人は、西郷が愛読せる大塩平八郎の 『洗心洞箚記』 を翁に示した。西郷は幾度びか繰返して此書を読んだものと見え、摺り切れた箇所には自ら筆を執りて書入れたり、また紙の破れた箇処もあつた。また西郷愛蔵の大塩平八郎の書幅もあつたが、その表装が極めて立派なのを見て、翁は西郷が深く大塩に傾倒して居たことを知つた。

 翁は洗心洞箚記を借りて旅宿に帰り、熱心に之を読んだ。而して薩摩を出立する時に借りたまま福岡に持ち帰つた。川口老人は翁が秘蔵の本を無断で持ち去つたので大に怒り、其後福岡の有志が鹿児島に赴く毎に、翁の処置を非難した。翁は之を聞いて一書を川口老人に送り、折角拝借した以上は存分に味読したい、此書の精神を体得した上で返上すると告げ、其後程なく返送した。

            〔続〕 

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大川周明 『頭山満と近代日本』(二)征韓論と民選議院論

2018-11-07 21:28:54 | 大川周明

大川周明 『頭山満と近代日本』 (二) 
   征韓論と民選議院論


 
 明治維新は、いふまでもなく尊王懐夷を二大綱領とした。攘夷論はもと開港論に反対して起れるものである。然るに尊汪の大義は、徳川幕府の大政奉還によつて一応実現されたけれど、開港は啻(ただ)に其儘に続きたるのみならず、天皇が外人に謁見を賜はるやうになつたので、昨の懐夷は、朝の夢と消え去つだかの如く見えた。現に川上彦斎の如き、三条公に向つて教を鳴らして其非を責めて居る。

 乍併攘夷と開港とが相容れざる如く見えるのは、ついに表面皮相のことであり、鎖国は唯だ攘夷の消極的半面に過ぎない。攘夷の真個の意義は 『万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置かん事を欲す』 と宣(のたま)へる明治元年の大詔に於て、最も適切に言ひ尽されて居る。而して此の精神は既に明治維新の前夜に於て、諸先覚の魂に明確に孕まれて居た。

 尊皇論の台頭は年久しきことであつだが、唯だそれだけでは所謂勤皇の気は、未だ徳川幕府を転覆するほど有力なるものでなかつた。俄然として維新運動の気運を促成せるものは、実に拒否し難き強圧を以て日本に迫り来れる西力の東漸であつた。アメリカは開国を強要する。ロシアは対馬の租借を迫る。フランスは其のメキシコ政策の失敗を東亜に於て回償せんと焦せる。イギリスは貧禁の爪を磨いで近海に出没する。日本の運命累卵よりも危きを見て、四方の先覚者初めて国民的統一のために奮起したのである。

 徳川幕府の制度は、諸侯及び人民の判乱(原文のママ)を防止するといふ消極的主義を根底とせるものである。此点に於ては、極めて周匝(しゅうそう)緻密の用意を以て組織せられ、二百五十年の久しき、一諸侯の叛する者さへなかつた。然れども秦兵強き時は即ち六国連合す。
 一旦国難の外より来るに当つては、諸侯分立の封建制度は、到底その存続を許さるべくもない。かくて既に勤皇の精神を抱きて其心に新しき日本を描ぎつつありし諸国の志士は、起つて徳川幕府を倒し、皇室を中心とする君民一体の国家を実現した。

 

 而も近代国家として自己を再建せる日本は、近隣東亜諸国の全般的なる改革と再建なくしては、日本自体の存在が保障されないことを知つて居た。明治維新前夜に於て、夙(はや)くも佐藤信淵は其の 『存華挫敵論』 の中に、支那を保存して狄を挫くべきことを高調した。狄とは取りも直さずイギリスを指せるものである。彼は英国がモーガル帝国を亡ぼして印度を略取して以来、その侵略の歩武を東亜に進め来り、遂に阿片戦争の勃発を見るに至つたが、若し清国にして此の戦敗に懲り、大に武備を整へて失地を回復すればよし、若し然らずして今後益々哀微するならば、禍は必ず吾国に及ぶべきことを洞察し、支那を保全強化して英国を挫き、日支提携して西洋諸国の東亜侵略を抑へねばならぬと力説した。

 独り佐藤信淵のみならず、真木和泉・吉田松陰を初め、明治維新の幾多の志士は、尊王攘夷の標語の下に、日本の政治的革新と亜細亜の復興とを、併せて同時に理想とした。頭山翁に深き感化を与へたと思はれる平野二郎国臣も、島津久光に上りし 『尊王英断録』 に於て、同様の理想を火の如き文章を以て高調して居る。
 徳川幕府の内部に於ても、有為の士が抱懐せる対外政策は、東亜復興を積極的理想とせる点に於て、倒幕志士と何等異なるところなかつた。それ故に東亜新株序又は東亜共栄圏の理念は、決して今日事新しく発案されたものでない。そは近代日本が国民的統一のために起ち上れる其時から、綿々不断に追求し米れるものに外ならない。

 

 かくして昨の攘夷は今や開国進取に一変.した。日本は先づ一個の独立国とならねばならぬ。そのためには独立国の体面を損ふ不平等条約を改訂せねばならぬ。政府は既に明治二年より条約改正に従事し、明治四年岩倉具視を全権大使として欧米に派遣したのもまた其為であつた。
 また日本は其の国際的地位を安固ならしめねばならぬ。そのためには近隣諸国と親善なる関係を結び、相携えて欧米に当らねばならぬ。維新指導者の関心は、かくして当然朝鮮に向つて注がれた。彼等は鎖国保守の堅ぎ殻の中に閉ぢ籠れる韓国を見て、彼等がいま僅に踏破し得たる荊棘(けいきょく)の道が、此の友邦の前に横はれるを見ざるを得なかつた。

 明治元年政府は使節を韓国に派して、幕府の廃止と明治天皇の御即位とを報告せしめたが、韓国は吾が使節との応接を拒絶した。太政官の設置せらるるや、日本は再び韓国に向つて爾後外交上の一切は外務卿に於て処理する旨を通告したが、韓国は之をも受付けなかつた。其後太政官又は外務卿から屡々諭告を発したけれど、韓国は依然として交渉を拒めるのみならず、令を国中に下して、日本は今や夷狄に化したるを以て禽獣と異なるところない、吾国人にして目本人と交る者は死刑たる可しといふに至つた。 

 而して明治六年には韓国官吏が、吾が官吏の駐在所たる草梁館の門前に貼紙して、目本が千百年自大の国を以てして、一朝制を外人に受け、其形を変じ其俗を易(か)へて愧(は)ぢざるを罵り、吾国に対して甚しき凌辱を加へることをさへ敢てした。

 

 韓国の是くの如き態度は、国家の体面を傷けること甚しきものなるが故に、征韓論が維新戦争以後髀肉(ひにく)の嘆に堪えざりし武人の間に昂まつたことに何の不思議もない。而して徴兵令の廃止、藩兵の解散によつて失業せる四十万の不平士族が之に呼応した。また政治家中には、長州勢力の恐るべきを察し、薩摩をして功を半島に成し、之によつて長州を屈せしめ、更に単純なる薩摩を操縦せんがために、征韓論に賛成せる江藤新平の如き者もある。

 乍併征韓論の最も熱心なる主唱者西郷隆盛の心事は、恐らく一層深く且大なるものであつた。西郷は決して直ちに兵を半島に出だすべしと主張したのではない。先づ自ら大使となりて朝鮮に赴き、彼若し吾が要求を聴かずば問罪の師を興すべしといふに在つた。 西郷は道理を以て朝鮮を説き、両国相結んでロシアの南下に備へたいと考へ、若し吾が道理ある要求を容れざる時には武力を朝鮮に加へんとせるものである。

 西郷は朝鮮の無能にして腐敗せる支配階級が、その無智と頑迷との故を以て、国家と民族とをロシア南進の犠牲とするのを坐視し得なかつた。而もロシアの南下は直ちに目本の脅威である。日本は此の機会に於て大陸政策の確乎たる基礎を築かねばならぬ。西郷が太政大臣三条実美に迫つた主張として、内閣記録に遺つて居る文書は、最も明瞭に西郷の心事を伝へて居る。

 乍併此の征韓論は、内治を先とする岩倉・木戸・大久保等の反対によつて破れ、茲に西郷以下の主戦派、袂を連ねて廟堂を去るに至つた。明治政府に内在せる二つの相対峙する傾向が、征韓論を導火線として、先づ最初の激しき分裂を見たのである。

 

 然るに征韓論者のうち、板垣・副島・後藤・江藤の四前参議は、小室信夫・古沢滋・由利公正・岡本健三郎の四人と共に、八氏連署して民選議院の設立を建白した。その精神は、維新に勲功ありし二三の雄藩が、専ら天皇を奉じて政治を擅行(せんこう)するだけならば、毫も徳川幕府と異なるところない。彼等をして私する余地なからしめて、始めて尊皇の実を挙げ得るとするに在る。それ故に尊皇と民選議院とは、表面一致せざるが如くにして、実は同一精神に出でて居る。かくて幕末の尊皇撰夷の二論は、今や姿を代へて征韓論及び民選議院論として現れた。

 

 此時に当つて板垣・副島・後藤・江藤の声望は頗る天下に重く、加ふるに西郷鹿児島に在りて百二都城の健児は皆之に従ひ、両者遥に消息を通ずるが如く思はれたので、政府は動もすれば鼎の軽重を問はれんとし、朝野騒然たるに至つた。

 而して是くの如き動揺は必然頭山翁の郷国にも波及した。もと九州諸藩のうち、徳川幕府のために戦つたものは唯だ唐津の小笠原藩だけである。従つて其他の諸藩は、多かれ少かれ幕府に対する戦勝の分捕を分ち得べき地位に在つた。即ち佐賀藩の如きは、始めより其の態度が極めて曖昧なりしに拘らず、恐らく其の所有せる軍艦が物を言つて、薩・長・土藩と並んで維新政府の要路に立つもの多かつた。

 此間に在りて比較的不平の地位に置かれたるものに、熊本藩及び福岡藩がある。両者は等しく九州の雄藩であり乍ら、節制と統一とに乏しかつたため、維新の前後に進退宜しきを失ひ、共に鎮西の大藩たるに適はしき待遇を受けることが出来なかつた。

 

 維新政府は其の創業の際に当り、諸多の方面に新人物を必要としたので、人才の収欖について当初は甚だ宏量であつた。新時代の要求に応ずべき才能を具へた者あれば、政府は好んで其用を為さしめんとした。それ故に昨日までは薩長を敵とし、倶に天を戴くまじと決心した佐幕派の人々でも、往々にして新政府に入りて朝班に列した。佐幕派既に然り、中立諸藩の人才に対して、政府は決して之を排斥せんとしなかつた。乍併維新の優勝者は竟(つい)に薩長両藩である。
 優勝者が如何に宏量を示しても、戦敗者又は落伍者は、遂に其の自負を捨てることが出来ぬ。落伍者は仮令優勝者に好遇せられても、尚且自負心を損はれたるの感なきを得ない。かくして優勝せる諸藩の青年は概ね時代を謳歌し、時代と共に進まんとするに対し、落伍せる諸藩の子弟は時代を批判し、時代と戦はんとするに至る。熊本に於て然り、福岡に於て然りであつた。

 人参畑の興志塾に学んだ青年は、その環境からも、また其の学問からも、当然反政府的傾向を辿つた。いまや天下の風雲頓(とみ)に急を告げて来たので、武部小四郎は矯志社、越智彦四郎は強忍社、箱田六輔は堅志社を結び、一朝事あれば一身を君国に献ずべきことを盟(ちか)つた。而して頭山翁は矯志社の一員となつた。

 そのうち時勢は愈々急迫し、明治七年二月に佐賀の乱あり、九年十月には熊本神風連の決起及び前原一誠の萩の挙兵あり、不穏の空気は全国に瀰漫(びまん)した。

 政府は血眼になつて各方面の弾圧に努めた。而して萩の乱起りて幾くもなく、翁を初め矯志社員十数名は、国事犯嫌疑の名の下に一網打尽せられ、福岡監獄及び小倉分監に投ぜられた。時に明治九年十一月九日、翁二十二歳。蓋し其の前日、福岡警吏の一隊は、矯志社員の鬼狩の留守に乗じ、頭山家を襲ひて家宅捜索を行ひ、大久保利通暗殺・政府転覆に関する盟約書を押収したのである。

 

 翌(あ)くれば十年、薩南に新政厚徳の旗を翻せる西南戦争が始まつた。官憲は、福岡罪獄中の翁等が、獄外同志の救援によつて破獄の挙に出つることあるべきを惧れ、之を長州萩の監獄に移した。翁の同志にして先輩たる武部小四郎・越智彦四郎等は、果して同志数百人と共に決起して兵を福岡に挙げ、遥に西郷に呼応した。而も此挙は脆くも敗れ、武部・越智等の五領袖は、明治十年五月三日、除族斬罪を宣告されて刑場の露と消えた。
 若し当時頭山翁が自由の身であつたならば、必ず彼等と共に起つて戦つたであろう。翁自身が語れる如く、天は翁の生命を助けるために獄中に封じたものである。翁等は入獄以来殆ど何等の取調も受けず、未決のまま一年を過ぎ、此年の秋西南戦争鎮定の後に釈放された。

                  〔続〕 

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2018-11-06 18:55:37 | 大川周明

大川周明 『頭山満と近代日本』 (一) 
   皇政復古と欧化主義、頭山満の生い立ち



 清朝の史家趙翼は 『秦漢の間は天地の一大変局なり』 と言つた。此の形容は最も善く明治維新の歴史に恰当《こうとう》する。春秋より秦漢に至る期間は、中国史に於ける偉大なる解放時代であり、貴族政治の崩壊に伴ひて、上古の政治及び社会組織、また之に連帯せる経済制度が、悉《ことごと》く根本的変化を見るに至つた。まさしく新大新地の出現である。明治維新また同様である。そは決して単なる政治的改革ではなく、実に物心両面に百る国民生活総体の革新であつた。頭山翁は安政2年4月12日の誕生であるから、14歳の秋《とき》に明治元年を迎へたこととなる。


 さて明治維新の機運は、第一に大義名分を高調せる漢学者、次では大日本史・日本外史等によつて国体の本義を明かにせる史学者、更にまた復古神道を力説せる国学者の思想的感化を受けたる志士、並に欧米の新知識に接触せる開国論者等によつて促進されたものである。而して異種の思想系統を惹きたる此等の人々が、倒幕と同時に維新政府に入りて、等しく要路に立つこととなつた。
 此事は必然政府諸般の施設に反映し、明治初年に於ては、思想的根拠を異にせる、従つて矛盾撞着せる幾多の法律命令が発せられ、国民をして膏に其の煩項に悩ましめたるのみならず、施政の方針また屡々動揺して、適帰するところを知らざらしめた。
 政府を調刺せる当時の謎々合せの一つに曰く 『太政官とかけて浮気男と解く、心は夜昼七度変る』 と政府の朝令暮改は実に此の誠刺の如く甚だしかつた。明治維新の根本方針は、名高き五個条御誓文によつて確立されたとは言へ、その実現のためには有らゆる紆余曲折を経ねばならなかつた。


 蓋《けだ》し維新の幕一たび切つて落さるるや、雑然たる各種の傾向が、是くの如き偉大なる転換期に敦れの時代・敦れの国の歴史にも共通なる現象として、先づ社会的並に政治的に新旧勢力の対峙となり、やがて武断派と文治派、急進派と保守派の二大陣営に分れ、朝に於ては征韓派と内治派との抗争となり、野に於ては暴動と暗殺との頻発となり、波瀾幾度か重畳して国家は屡々危地に出入した。

 見よ、一方には皇政復古の精神に則りて天皇親政が行はれ、太政官・神舐官等の如き大宝令官制の再現を見、廃仏棄釈・基督教迫害が行はれると同時に、他方には明治維新の精神に応じて大官・学生の欧米派遣となり、一切の旧きものの極端なる排斥となり、欧米模倣の文明開化が強調され、国諸を廃して英語を採用すべしと唱ふる者、共和政治を謳歌する者さへあるに至つた。

 一は洋服を胡服と罵れば、他は和服を蛮服と嘲る。是《か》くの如き対立が、国民生活の一切の方面に現れた。而して此等の二つの傾向が、時には並行し、時には雁行し、時には先後しつつ進んで成れるものが、実に明治日本の政治であり、法律であり、経済であり、総じては一般明治文化である。


 さて明治初期に於て日本の主流となれる思潮は欧化主義であつた。もと明治維新は、儒教の大義名分の思想と、国学によつて閾明(せんめい)せられたる国体観念の把握とを思想的根拠として行はれたる改革なりしとは言へ、既に幕府を倒して天皇を中心とする政治を行はんとするに当りては、今更支那の制度に倣ふべくもなく、さりとて上代日本の制度を其儘に復活すべくもない。

 それ故に明治維新の指導者が、今や新たに交りを結んで強大恐るべきを知れる欧米諸国を模範とし、制度文物みな之に則らんとせることは、固より当然の経路であつた。彼等は日本を富強ならしめるためには、西洋文明を取入れる外に別途なしと考へ、徹底せる日本の近代化、又は日本の西洋化に着手した。



 そは実に驚くべぎ急激なる変化であつた。維新以前僅(わずか)に15年、ペリーの黒船が初めて浦賀に来りし頃まで、国民は西洋人を野蛮視して居た。当時の草双紙や錦絵には、犬の如く片脚あげて放尿せる西洋人の姿を描いて居る。浦賀で一米人が死んだ時、幕府の大奥の女中が 『浦賀で異人が一人落ちました』 と言った。

 落ちるといふは鳥類が死んだ時に使ふ言葉である。その西洋人が暴力を以て開国を強要せる故を以て、撰夷運動が激成され、開国を迫られて承認せるを許すべからずとして倒幕の気勢揚がり、遂に皇政復占の世となつたのである。然るに今や昨日まで攘夷倒幕に無我夢中なりし志士が、君子豹変して欧米文明の随喜者となり、日本の欧米化に死力を傾倒し初めた。

 明治6年木戸孝允が井上馨に与へたる書簡の中に下の如き一節がある。曰く 『久翁へは昨春相論じ見候得共、今日の時勢にては取込丈け取込、其弊害は十年か十五年かの後には、必ず其人出候て改正可致との事にて、ばつとしたる大人らしき論に候へとも云々』 と。

 書中の久翁とは即ち大久保利通である。新日本の韓魏公たる大久保甲東さへ、尚且是くの如ぎ極端なる改草論者たりしとせば、其余は即ち知るべきのみである。わけても当時欧米を巡歴せる人々は、其の事々物々に驚魂(きょうたん)骸魄(がいはく)して、日本は果して彼等と伍して独立を保ち得べぎや否やをさへ憂ふるやうになつた。木戸孝允の如き、欧米を一巡して特に此感を深くし、帰来極度の神経衰弱に陥つたと伝へられて居る。

 福沢諭吉の 『学問のすすめ』 にも、下の如く述べて居る――

 『近来ひそかに識者の言を聞くに、今後日本の盛衰は人智を以て明に計り難しと錐ども、到底其独立を失ふの患(うれい)はなかる可しや、方今目撃する所の勢に由て次第に進歩せば、必ず文明盛大の域に至る可しやと云ふて之を問ふ者あり。

 或は其独立の保つ可きと否とは、今より二三十年を過ぎざれば明に之を期すること難かる可しと云て之を疑ふ者あり。或は甚だしく此国を蔑視したる外国人の説に従へば、辿も日本の独立は危しと云て之を難する者あり。
 固より人の説を聞て遽(にわか)に之を信じ、我望を失するには非ざれども、畢寛この諸説は、我独立の保つ可きか否かに就ての疑問なり。事に疑あらざれば問の由て起る可き理なし。

 今試に英国に行き、貌利太の独立保つ可きや否やと云てこれを問はば、人皆笑て答ふる者なかるべし。其答ふる者なきは何ぞや。これを疑はざればなり。然らば則ち我国文明の有様、今日を以て昨日に比すれば或は進歩せしに似たることあるも、其結局に至つては末だ一点の疑あるを免れず。笱(いやしく)も此国に生れて日本人の名ある者は、之に寒心せざるを得んや。』

 かくして日本の独立を保ち、欧米諸国と対等の交際をなすために、日本を欧米諸国の如き文明開化の国たらしめねばならぬといふことが、明治政治家の切なる念願となつた。而して文明開化の民となるためには、政治法律はいふまでもなく、産業の組織、教育の制度、さては風俗習慣まで悉く欧米に倣はねばならぬと考へた。
 森有礼は、日本語は文章としては意味曖昧、口語としては演説に適せずとの故を以て、之を廃して英語に替へるがよいと考へた。実に日本の国語までが当時の政治家によつて葬り去られんとしたのである。

 かくて日本の旧物は大胆に棄てられた。東京の八百八町、随処に洋学指南所の看板を掲げて怪しげなる英語を教へる者が籏(そう)出した。酒楼の少女が客と語るに洋語を挟み、英語・仏語を入れたる都々逸が謡はれ、男子の袴を穿き、腕まくりなどして、洋書を提げて往来する女学生も現れた。店頭に立つて書籍の売行を見れば、四書五経は反古紙に等しく、仏書の如き大般若経の浩瀚を以てして、其価は洋書の零本一冊にも如かなかつた。

 髪は斬られ、膏は蓄へられ、断髪頭は 『文明頭』 と呼ばれ、女子の間にさへ斬髪者があつた。洋服着用者も多くなつた。その洋装は如何なるものであつたか。明治4年10月発行の 『新聞雑誌』 に掲げられし柳屋洋服店の開店広告に下の如き一節がある
 ー 『奇なり妙なり世間の洋服、頭に普魯士の帽子を冠り、足に仏蘭西の沓をはき、筒袖は英古利海軍の装、股引は亜米利加陸軍の礼服、婦人襦袢は肌に纏(まとい)て窄(せま)く、大漢(おおとこ)が合羽は脛(はぎ)を過ぎて長し。恰も日本人の台に、西洋諸国はぎわけの鍍金せる如し。』 
 俳優尾上菊五郎は、明治4年夙(はや)くも洋服に、長靴を着けて楽屋入りして居た。芸娼妓の間にも洋装する者が現れた。此等の急進主義者は、和服を 『因循服』 と呼んだ。飲食もまた洋風がよしとせられ、明治5年滋賀県令は下の諭達書を発して肉食を奨励して居るー「牛肉の儀は人生の元気を稗補(ひほ)し、血肉を強壮にするの養生物に候処、兎角旧情を固守し、自己の嗜(たしな)まざるのみならず、相喫し候へば神前など揮るべしなど、謂はれなき儀を申触らし、却て開化の妨碍(ぼうがい)をなすの輩少からざるやの趣、右は固陋因習の弊のみならず、方今の御主意に戻り、以ての外の事に候。以来右様心得違の輩有之候に於ては、其町役人共の越度たるべく候条、厚く説諭に及ぶべし。』
 同年京都府でも同じく諭達書を以て牛乳と石鹸の使用を府民に奨励し、「牛乳は内を養ひ、石鹸は外を潔くするは、大に養生に功あることに付、別紙効能童[相達する条、疎に心得ることなく』と言つて居る。

 事情是くの如くなるが故に、明治初年の吾国の教育方針は、日本国民の教育に非ずして、世界人又は西洋人の教育であつた。極言すれば国民を西洋人に造り変へることであつた。現に文部省が最初に全国に造りしものは英学校であり、英学校が後に師範学校となつた。予は昭和2年夏、岩手県に赴きし時、盛岡師範学校最初の教育方針を、当時学生たりし土地の故老より聞くことを得た。
 此の故老の語るところによれば、校長は西洋の学問をするには衣食住をも洋風にしなければならぬとして、50歳前後の初老の婦人教師にまで洋服を強ひ、生徒には洋食を食はせたとのことである。但し其の洋食は、生徒が食ふに堪えずとして強硬に抗議せしため、後には和食に改めたとのことであつた。政府は是くの如き教育によつて教師を養成し、全国に小学校を立てて、国民に無教育者なからしめんとした。

 三上文学博士は、曽て国史回顧会に於ける講演の中で下の如く述べて居るー 『私一個の経験に就て申すことは如何でありますが、私が小学校の生徒であつた時からこのかた、さながら亜米利加の児童として明治政府から教育せられたのであります。
 小学校の初めに「イト」「イヌ」「イカリ」等の単語図を学び、続いて連語図を学んだのでありますが、其文句は「神は天地の主宰にして人は万物の霊なり」 「酒と煙草は衛生に害あり」 等から学んだのであります。酒と煙草は衛生に害ありは其通りで、少しも変なことはありませんが、其神といふのはゴッドの直訳であつたと云ふことを後に承つたのであります。
 それから修身書を学びましたが、其教科書は亜米利加のウェーランドの著したものの翻訳であつて、無論基督教主義の徳育でありました。歴史を学べば初めから外国歴史であつて、日本歴史は教へて貰はなかつた。
 地理を学べばミッチェル氏世界地理書で、日本に関することは一頁かニ頁より書いてなかつたと思ひます。中学以上に於ては英語の教科書を多く用ゐましだから、一層外国の少年らしく教へられたものです。大学の予備門、即ち後の高等学校に於て、明治16年に始めて一週一時間新井白石の読史余論を教科k目として国史を教へられましたが、これが高等学校程度の学校に於て国史を教へられた嚆矢であります。

 それも独逸語のお雇教師グロート氏が、予備門長杉浦重剛さんに向つて、各国とも此程度の学校にては其国の歴史を授くるものであるのに、此学校にはそれが無いのは甚だ不思議であると注意したので、予備門長も成程と思はれ、そこで私共のクラスから国史を置かれたのであります。
 予備門長があの国粋家の杉浦さんであつたからこそ、早速グロート氏の忠告を容れられたのでありますが、若し滔々たる其当時の人をであつたならば、其の忠告も或は容易に受入れられなかつたであらうと思ひます。
 併し私共は他の一面から観れば、小学校より帰り途に、漢学の先生の所に立寄つて、国史略・日本外史・十八史略・大学・論語等を教へられましたので、政府の手によつて亜米利加児童らしく教育されましたけれど、幸に私塾で謂はば補習教育によつて日本人らしい教育を受けたのであります。私共より尚後れたる或る時代の人は、学校に於ても国史及び之に近い学科の教育を受くること少く、私塾に於ても右の如き補習教育を受けなかつた場合が頗る多いのであります。』 

 さて明治政府は 『邑《まち》に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん』 との意気込を以て、全国に学校を立てたものの、教師は容易に得らるべくもない。出来得るならば政府の意図する西洋風の教育を施す教師を、日本の津々浦々に配りたかつたであらうが、それは当時に於て到底不可能のことであつた。
 かくて止むなく学問ある士族、旧藩の学校の先牛、乃至は僧侶や村学究などを校長や教師に採用して、当面の急に応ずることとした。

 そは政府としては不本意であつたとしても、日本のためには幸福なことであつた。若し政府の希望せる資格を具へし教師が、全国一斉に同胞を欧米人たらしむべく教育したとすれば、日本人の性格は大なる変化を蒙らねばならなかつたであらう。

 然るに幸にも此等の村学究先生は、政府当局とは事変り、毫も西洋を尚び又は恐れることはない。中央の有識者が日本の独立を危ぶんで居た時に、彼等の眼中には紅毛碧眼の徒なく、専ら漢学又は国学によつて鍛えし思想を少年に鼓吹し、日本は神国であり、文明国は支那のみなるかの如き思想を、純真なる少年の頭脳に刻み込んでくれた。これは日本にとりて思ひ儲けぬ幸運であつたと言はねばならぬ。政府が飽迄も日本を第二の欧米たらしむる方針を以て進み、国民生活の一切を欧米化せんと努めたるに拘らず、国民が能く日本的白覚と自尊とを護持し得たのは、此等の老先生に負ふところ大であつた。


 頭山翁は黒田藩で百石取の馬廻役を勤めた筒井亀策の3男として生れ、少年時代の教育を古川塾・瀧田塾・亀井塾等の漢学者の私塾に於て受けた。乙次郎といふ名前であつたが、十歳か十一歳の頃に鎮西八郎源為朝にあやかつて筒井八郎と自称した。幼より記憶力がすぐれ、物事を悟るのに鋭敏であつた。七八歳の頃、父兄に伴はれて桜田烈士伝の講談を聴きに行き、帰来その物語の要領を精確に復論したのみならず、十八烈士の姓名を番く記憶して居た。亀井塾におつたころも、貫の抜群の記憶力を以て 『筒井の地獄耳』 と称せられた。

 翁は14歳を迎へた明治元年、太宰府の天満宮に参詣し、爾来其名を満と改めた。此年は翁の精神にも維新が行はれたと見え、日常の行動が俄然一変するに至つた。それまでの翁は手に負へぬ腕白者で、兄や姉のものでも欲しい思へば容赦なく奪ひ取り、子供仲間では5つ6つ年長の者を頭ごなしに押さへつけ、近所の菓子屋などでは食ひたい放題に店頭で掴み食ふので、菓子屋ではそれを通帳につけて時々催促に来た。武士の家庭では買喰ひなどをすることは堅く禁ぜられて居た。翁の父は極めて温和な人であつたが、母は頗る厳格な人で、翁の乱暴を見兼ねて時には激しく折艦することもあつたが、そういふ時でも翁は母に5つ殴たるれば6つ叩き返すといふ風であつたので、母は『此子が一日でも半日でも普通の子供であつてくれたら』 と嘆いて居た。
 然るに14歳の時に、何を感じてか心様俄に一転し、打つて変れる孝行者となり、よく両親の手助けをするやうになつた。但し天稟の風格は従前の通りで、実兄筒井亀来翁は下の如ぐ語るー『それでも変り者は矢張り変り者で、米を搗くのも普通の杵では軽いからと云つて、杵の中に鉛を入れてくものだから、米を滅茶々々に粉にしてしまふやうな事がありました。』 


 もと福岡の藩祖黒田長政は 『大唐の渡口』 なるの故を以て特に徳川家康に請ひて筑前52万石に封ぜられたものであり、2代忠之以来は、佐賀藩と共に長崎警衛の任を命ぜられて来た。寛永鎖国以後、長崎は日本唯一の海外折衝地であり、西洋文明は僅に此の窄き門を通して吾国に伝へられた。
 近世に至り黒田斉清は、此の重要の任に在るを利用して海外文物の輸入に努め、曽て白ら蘭医シーボルトを長崎に訪い、諸生をして蘭学を学ばしめた。
 薩摩の島津家より入りて斉清の後を嗣げる長薄は、更に洋学の勃興を促し、自ら率先して西洋科学を修めたほどであり、青木興勝・永井太郎・安部龍平等の西学者が輩出して居る。然るに明治維新に際して、福岡藩は態度鮮明を欠いたために、かの大藩を以てして明治政府に重要なる地位を占めることが出来なかつた。
 而して中央に於ては急激なる欧化政策が強行されたに拘らず、従来他藩に比して蘭学が盛なりし福岡でありながら、毫も中央の方針に呼応することなく、昔乍らの学問並に教育が専ら行はれて居た。頭山翁の学んだ亀井塾は、亀井南冥・昭陽・揚州と三代相伝の学者が、荻生但侠の学説から出でて別に一家の見を立てたる学問を講じたる私塾であつた。

 其頃福岡の人参畑に高場乱といふ女医並学者が居た。父祖の業を承いで眼科医となつたが、漢学を亀井陽州に修め、易に就ての造詣最も深かつた。いつでも男装し、外出する時は竹皮製の甚八笠を被り、未だ曽て傘を用ゐない。夏は浴衣一枚、冬は之を三枚襲ね、曽て袷(あわせ)や綿入を着なかつた。無欲・悟淡・豪放・至誠の人で、医術の傍ら青年に学問を教へて居たが、後には講義の方が主になり、興志塾と称した女史の人参畑の塾は、当時福岡の名高き学者正本昌陽の鳥飼の塾と並べ称せられるやうになつた、明治四年頭山翁がト七歳の時、眼を病んで高場乱女史の治療を受けに行つたところ、大勢の青年が女史の講義を聴いて居た。女史の溌刺たる講義振り、塾生の元気横溢せる気風が痛く翁の心を捉へたので、翁は直ちに入門を志願した。
 女史は此処の塾生は皆命知らずの乱暴者だから、若年の者は到底伍して行けまいと、再三入塾を制止したが、翁は荒武者揃ひだからこそ仲間入りしたいのだと言つて、遂に其の許可を得た。其日塾生等は何か煮て居るところであつた。
 翁は黙つて其処に坐り込み、箸を執つて第一番に食ひ初めた。女史は此の有様を見て、叩かれもせずに御馳走になるとは何とした結構な身分かと不思議がつた。其日塾生は十八史略の講義を聴いて居たが、新入生たる翁の傍若無人なる態度に憤慨し、恥を掻かせる心組で、誰言ふとなく左伝の輪講をやらうと言ひ出し、第一に翁を指名した。翁は見事に左伝を講読した。塾生は意外なる翁の学問に驚き、其の侮り難きを知つた。

 此事は翁が亀井塾に於て、相当に深く漢学を修めたことを示すものである。翁の入門以前に興志塾の塾生たりし者は、建部小四郎・箱田六輔・阿部武三郎・松浦愚・宮川太一郎・進藤喜平太其他の人々で、皆翁より六七歳の年長者であつた。高場女史の不在中に、翁が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る。

 翁と同塾せる宮川太一郎は、当時の翁に就て下の如く語る――

 「頭山が人参畑に居た頃は、その一挙一動凡て吾人と其趨(すう)(しゃ)を異にして居たが、殊に其読書法と来ては、又極めて奇なるもので、毫も章句に拘泥せず、而も其会心の所に至るや反復誦読、夜に継ぐに晨を以てするといふ工合で、之を暗誦するに至らねば息(やす)まず、其精力の絶倫なりしことは優に儕輩(さいはい)に抽(ぬき)んでて居た。』
 是くの如き勉強の方法は、既に瀧田塾に居た時からのことである。
 此塾で翁は 『暁』 といふ一字だけを熱心に習ひ、其他の字を一切なかなかつた。そのために暁の字が非常に上達し、それに伴つて一体に筆蹟が上つた。独り学問の上のみならず、同様の傾向は翁の一切の行動に現れて居る。


 明治6年、翁は19歳にして母方の頭山家の養子となつた。頭山家は18石5人扶持の小禄であつたし、維新以後其の生活は頗る困難であつた。翁は困窮せる家計を助けるために働いた。畑も耕したし、山に入つて薪も採つた。時には山の如く薪を背負ひ、町の四辻に立つて 『焚物(ときもん)、焚物
、よう燃える焚物』 と大声で呼ばはりながら薪売りをしたこともある。また其頃翁は一切の人間の欲を遠離して仙人にならうと思ひ、深山に立籠つて修行したこともある。それでも遂に仙人にはなり切れなかつたので、翁自ら 『俺は仙人の落第生ぢや』 と言つた。



大川周明 「反米感情を誘発するもの」(昭和29年3月)

2018-10-11 20:02:36 | 大川周明

  大川周明 

反米感情を誘発するもの 

 孔子は 『君子は和して同せず、小人は同して和せず』 と言った。
同するとは一つの主義を固執することである。したがって同は不同の存在を許さない。同は必ず不同を排撃する。それ故に同は常に抗争を伴う。一つの主義を標榜することは一種の挑戦である。和とはいかなる主義にも拘泥せぬことである。それは同を同として、不同を不同としてそれら両者の存在を許し、そのいずれをも非とせぬことである。

 それゆえに同じは常に抗争の上に立つのに対して、和は常に抗争の上に立つ。
聖徳太子はその憲法第1条に 『和を以て貴し、忤ふなきを志とする』 と明記して、神道・儒教・仏教のいずれをも排斥せず、三学も等しく国民生活の向上に役立たせた。 

 和は所謂はゆる折衷ではなく、また妥協ではない。
如何に況や付和雷同でもない。それは同じと不同を無差別に羅列し混淆することでない。

 和は同と不同を明瞭に意識しながら、其等両者を同時同存させること、
即ち同に同じながらも不同を排斥せぬこと、取りも直さず 『異に忤はぬ』 ことである。それは同と不同とを十分認識し、之を理解し、之を批判して、それぞれに其所を得させること、即ち人生におけるそれぞれの立場を与えることによってのみ可能である。

 例えば聖徳太子の場合をいっても、中国精神並びにインド精神についての徹底する理解と的確なる批判とがあったれたればこそ、それぞれこれを国民生活の適切なる局面に按配して見事なる 『和』 を実現し、これによって当時日本が直面する深刻重大なる問題に、水際立って鮮やかな解決を与えたのみならず、その後の日本の進むべき根本動向を確立し得たのである。

 若し聖徳太子が物部氏の如く神道を一個の主義として固執し、
異に 『忤ふ』 立場を取り、中国や印度の影響を拒否したならば、当地の日本の精神界並び政治対界は惨憺たる混乱に陥ったであろうし、また日本文化の向上登高も阻ばまれたことであらう。

 世間には日本主義などと唱えて、
一切の異邦的なるものを排斥する人々があり、私自身も其等の一人に数へられることがある。 乍併聖徳太子の例に見ても明瞭であるやうに、日本は決して異邦的なるものを拒否排斥するものではない。日本主義などと主張するそのこと自体が 『同』 に執着する物部党の精神で、忤ふなきを宗とする日本伝統の精神と相距ること白雲万里である。

 私は日本に伝統の精神に生きようとするものであるから、
いまだかつて日本精神などを標榜したことがない。日本に生れた以上、私が日本的に感じ、日本的に思い、日本的に行おうと心がけるのは、日本人として当然至極のことで、決して日本主義などとよばれるべきものでなく、唯だ天地自然の道理に従って生きるだけである。

 乍併若し日本的なるものを唯一無二の真理として
これを異邦的なるものとして対抗させ、之を他国又は世界全体に強制しようとするならば、それは取りも直さず日本主義となる。  

 私は異邦的なるものを単に異邦的なるが故に排斥せぬのみならず、寧ろ常に異国の善なるものを求め続けてきた。また私は異国の善なるものを求め続けてきた。また私は決して日本的なものを他国に強制しようと思ったことはない。


  被占領7年に亙りて日本に君臨したマックアーサーは、
『マッカーサーの謎』の著者ガンサーに向かって、その占領目的は日本の 『全国家・全文化 The entire empire, the entire civilisation』 の米国化であると豪語している。米人が米国内で米国流に振舞うことに毛頭依存の在る筈はないが、もし米国が米国文化のみが真個の文化であるとして、米国的デモクラシーを他国又は全世界にかうとするならば、それは直ちに忌むべく斥くべき米国主導となる。

 総ての国家は之をそれを構成する民族の性情を経てとして其の独特なる歴史を緯とする組織体なるが故に、松には松の樹容があり、杉には杉の樹容があるやうに、それぞれ独自の面目を有し、それぞれ理想を異にして居る。
  それは甲乙丙丁の国家が、強いて他国と異な乱と努めたために生じた差別でなく、柳の自ら緑に、花の自ら紅なると同じく、各国それぞれの理想を奉じて国歩を進める間に、自然委生まれた差別である。
 それ故にマッカーサーが日本を 『全国家・全文化』 を挙げて米国化しようとするのは、松を地上から絶滅させて、杉だけを栄えさせようとするに等しい荒涼の沙汰である。 

 朝鮮人及び台湾人は、人種的にも文化的にも、
最も吾々と親近な民族である。其れにも拘わらず日本主義を以て之に臨むることの非なるは、謂はゆる皇民化の失敗が之を立証する。苦心惨憺たる経営数十年の後に善意を以て行われた皇民化さへ、結局は善意の悪政に終り、折角の善意も独善の誹りを免れなかったとすれば、米国とは民族の性情も歴史も対蹠的に違っている日本を、短兵急に米国化しうるものと考へたことは、マッカーサーの途方もない誤算である。

 日本主義が非なると同じく、米国主義もまた非である。
既に述べたやうに、主義の標榜は一種の兆戦である。米国が米国主義を以て日本に望むことは、取りも直さず日本に対する挑戦であるから、日本人の反米感情を誘発することは当然の因果である。


 明治天皇の御製にも
『善きを取り悪しきを捨ててとつくにの』 とある通り、吾々は決して異国のものを排斥せず、その善きものはき欣んで之を学び取る。 それは日本の国家を一層高貴ならしめ、日本の文化を一層豊富ならめるためであり、取捨選択の主体は日本である。

 然るに日本お全国家・全文化を徹底して米国化することは
日本の国家と文化を一顧の価値無だになきものとして、全面的に之を否定し去るものであり、結局日本其のものを地球の表面から払拭しようとするに等しい。魂を米国に売れる者を除けば、日本人は決して斯くの如き無理非道に屈従するものではない。

 若し米国が占領下日本のジャーナリズムに叛乱せる米国礼賛論や自国嘲弄論を読んで、善意にせよ悪意にせよ、日本を米国より劣等なるものとして、日本を米国化せんとする米国主義は、日本の独立自存に対する挑戦なるが故に、かやうの主義を捨てざる限り、真実なる日米親善など望むべくもない。

 何となれば斯かる米国主義は、必然独善排外の日本主義を誘発するからである。

         ( 『みんなみ 』第3号、昭和29年3月) 

 


大川周明『大東亜秩序建設』支那事変より大東亜戦争へ

2018-10-08 16:39:13 | 大川周明

大川周明 『大東亜秩序建設』
   大東亜秩序の歴史的根拠 

七 支那事変より大東亜戦争へ

 是くの如くにして日本の課れる進路は、満洲帝国の建設と共に、一挙正しき転向を見た。満洲建国は、日本が亜細亜抑圧の元兇たる英米との協調を一抛し、興亜の大業に邁往し初めたものとして、まさしく維新精神への復帰である。満洲事変勃発に際して、国民の熱情が火の如く燃えたのも、実に共為であった。
 然るに最も遺憾に堪へぬことは支那が日本の真意と亜細亜の運命とを覚らず、満洲建国を以て日本の帝国主義的野心の遂行となし、いやが上にも抗日の感情を昻め来れることである。

 


 吾等は支那の抗日について、決して支那のみを責めようとは思はない。既に述べたる如く、日露戦争以後の日本の国歩は、世界史の根本動向と異なれる方向に進められた。ロシアと戦ひ勝ちて、表面良相ではあり乍ら世界一等国の班に入るに及んで、是迄張りつめ来れる国民の心の弦ゆるみ、沈滞苟安の風潮、漸く一世に漲り初めた。
 かくて日露戦争に於ける勝利によって、亜細亜の諸国に絶えて久しき復活の血潮をらしめたに拘らず、日本は却って彼等を失望せしむる如き方向に進んだ。日本は亜細亜の友人又は指導者たる代りに、その圧迫者たる欧米に迫従したのである。

 

 

 

 日露戦争によって 『頭脳に新世界』 を開かれた安南の青年は、陸続国を説して東京に留学し、独立運動者としての資格を鍛錬すべく刻苦勉励して居たが、日仏協約の締結によって悉く追放の憂目を見た。日本に亡命し来れる印度革命の志士は、イギリスの強要によって放逐された。
 東京外国語学校の印度語教師なりしアタル君が、英国大使館の迫害に堪へ兼ね、毒を仰いで自殺せることは、吾等の今尚ほ忘れ得ぬ悲惨事である。

 

 

 

 支那に対しては、日支両国の堅き結合による以外、また亜細亜復興の途なき運命を、直覚的に把握し、深き同情と愛着とを以て支那問題に終始し来れる人々が、支那浪人の名の下に活動の舞台から斥けられ、専ら利権獲得を目的とする商人の冷かなる手のみが徒らに支那に伸びて往った。
 さればこそ孫文一派に対する永年の援助と友誼とに拘らず国民党の権力を最後に確立せしめたる北伐革命に際し)ては、日本は国民党内部に何等の緊なる聯繋を有せず、その革命指導権をロシアに与へ去って顧みなかった。此事は日本の不幸であると同時に、一層重大なる意味に於て支那の不幸であった。かくて支那の排日は侮日となり、侮日は抗日となりて遂に支那事変の勃発を見るに至った。

 

 

 

 昭和12年7月7日、盧溝橋畔一発の銃声を導火線とせる日支両国の悲しむべき争ひが、斯程まで長期に亙らうとは、恐らく当初は何人も予想せざりしところである。現に日本政府は之を北支事件と呼び、暴支膺懲といふ簡単至極のスローガンを掲け、調はゆる不拡大方針を以て之に臨んだ。然るに思ひもよらぬ局面の展開は、否応なく事実によって不拡大方針を覆し、名称もまた支那事変と更められ、共名の如く戦線は全支那に及んで今日に至った。
 昭和16年12月8日、対米英戦争の宜戦の大語下りてよ2支那事変は大東亜戦争のうちに包容され、その名称は廃止されたけれど、現に日支両国は激しく戦ひ続けて居る。

 

 前後7年に亙る支事変の経過を一顧すれば、之を2期に大別することが出来る。初めの一年有半は所請進攻作戦の時期にして、当初の不払大方針が飛躍的に規模雄大を極むる全面戦争となり、目覚ましき勝利を収めて居る。
 次の4年有半は、一面戦争・一面建設の旗印の下に、大体に於て封鎖戦・建設戦に終始して今日に及んだ。此間に欧羅巴戦争の勃発あり、日独伊3国同盟の締結あり、終に対米英戦争の宜言あり、それそれ東亜及び欧第巴にて戦はれつつありし2つの戦争が、必然の帰着として名実共に一個の世界戦となるに至った。

 

 

 

 さて支那事変の本質並に意義は、戦局の進展と共に次第に明瞭となった。単純にして無内容なる 暴支膺懲のスローガンは、いつの間にか其影を潜め、東亜新秩序の建設、次では大東亜共栄圏の確立といふ戦争目的並に理想が、高く掲けられるやうになった。
 東亜秩序は疑ひもなく世界秩序の一部であり、東亜新秩序の建設は世界旧秩序の破壊を前提とする。この論理は青天に白日を指す如く明かなるに拘らず、此の理想が初めて掲けられしころ、日本のうちには東亜を世界から分離し、唯だ東亜だけの新秩序を実現し得るかの如く空想せる者が多かった。
 さり乍ら東亜新秩序建設のための最も根本的なる条件は、東亜諸民族が日本と協力提携すること、並に米・英・仏・藺の勢力を東亜より駆逐することである。
 東亜を白人の植民地又は半植民地たる現状より解放することが、新秩序建設の第一歩である以上、此等の諸国との衝突は遂に免るべくもない。それ故に日本は、万一の場合に此等の諸国と決戦する覚悟なくして斯かる声明を世界に向って発する道理はない。

 

 

 

 事情是くの如くなるが故に、支那事変勃発以来、米英両国は日本に対して包み隠すところなき敵意を示して来た。而して彼等の日本に対する態度は、事変当初より欧盟巴戦争勃発に至るまでの2年間、欧羅巴戦争効発より日独伊3国同盟締結に至る期間、及び3国同盟成立以後く前後3段の変化を示した。
 第一の期間に於て、彼等は支那に於ける自国権益を飽迄も擁護するため、露に重慶を援助して日本に抗戦させた。然るに欧羅己戦争開始後の第2期にては、彼等は能ふべくんば日本を自己の陣営に誘致するため、少くとも独伊陣営に参加させまいために、止むなくんば支那に於ける権益の一部を犠牲にしても、日本の背心を買はんとせるかに見えた。イギリスのビルマ・ルート遮断はまさしく此の政策の一端である。
 当時の日本には尚多くの英米依存主義者が居たので、是くの如き米英の策動は甚だ危険なる誘惑であったが、日本は其の策動に乗ることなく、遂に3国同盟の成立を見るに至った。 

 

 

 

 英米の態度は此の条約締結と共に三変し、爾来日本を日するに敵国を以てし、その重慶援助は俄然として積極的となった。而も米英は、事茲に至りても且日本が直接巴戦争に参加することを欲せず、極力之を牽制し、少くも参戦をを期せしめることに腐心したが、勢ひの窮まるところ、遂に大東亜戦争の勃発となった。

 

 

 

 わが陸海空の精鋭が、東西南北、到る処に米英軍を粉砕し、開戦以来半年ならずして大東亜共栄圏の基本地域を尽く掌裡に収め、更に之を外城に擔大しつつあることは、実に世界戦史の奇蹟である。
 是くの如く迅速に、是くの如く偉大なる戦果を挙げようとは、恐らく日本国民の多数さへ予想せざる処なりしを以て、その世界に与へたる衝動、わけても敵国に与へたる驚愕は、深刻にして甚大であった。
 試みに大東亜戦争勃発直前に於ける重慶の観測を見よ。11月26日の申報は 『和平か戦争か』 と題する社説に於て、日米相戦へばアメリカが勝利を得ることは百分の百明であると断言して居る。また10日には 『日本の動向の検討』 と題する社説に於て、日本に4年に亙る支那事変によって、数十年間に蓄積せる資力を耗し尽し、其上国際環境は極度に悪化し、対外貿易を喪失して外貨獲得も不可能なる窮地に陥って居るとして、日米戦争に対する日本の無力を高調して居る。
 重慶は日米交渉に於て日本がアメリカの強硬なる態度の前に屈服を余議なくされるだらうと見って居た。若し万一日本がアメリカに屈服せず、起って相戦ふに至らば、アメリカの武力の下に容易に撃砕されるであらうと信じて居た。

 

 而して是くの如きは決して重慶のみのことでなく、アメリカ自身もまた同様に推測し且信じて居た。此の憐れむべき推測と信念とは、今や一朝にして覆された。而も其の敗戦によって、支那の対日抗戦は米英に取りて著だしく重要性を加へ、今や支那に於ける権益擁護といふが如き消極的意味からでなく、米英自身の興廃といふ切実なる必要上の上から、必死に重慶を支援せねばならなくなった。
 重慶は此間の消息を熟知するが故に、荐りに米英に向って援助を強要しつつある。唯だ日本の海上制覇が逸早く完成された上に、ビルマ・ルートが閉鎖されたので、是くの如き援助は極めて困難なる状態に陥った。

 

 いま翻って支那事変発当時の日本の国情を省みるに、内外共に憂ふべきことが数々あった。支那事変の先駆となれる満洲事変は、満洲帝国の建設、その資源の急速なる開発、交通の飛躍的発展、工業の異常なる発達によって、わが国防力の増強に貢献するところ大なりしとは言へ、従来満洲を緩衝地帯として吾国と相対して居た蘇は、今や日満一体となれるために、日本と面々相対峠するに至ったので、蘇聯は急速に東方の軍備を強化して吾が陸群を凌ぐの勢を示し、浦塩には50隻の潜水鑑を集めて吾が大陸聯絡を脅し、蘇満国境には紛擾の絶える時がなかった。

 加ふるに吾が陸単の軍備拡張は、そのころ漸く5箇年計画が着手されたばかりであり、必要なる重工業並に軍需工業の拡充も未だ成らず、飛行機及び戦車の方面に於て所期の希望を距ること甚だ遠かりしことを思へば、当局の苦心は察するに余りある。
 而して支那に於ける当時の吾が兵力は、北京天津方面に於て1個師団にも足らぬ僅少の駐軍と、上海に少数の海軍特別陸戦隊と、揚子江上に若千の補給があっただけで、急速に之を援助すべき浜力の準備なく、幾万の居留民は奥地深く散在し、外交機関の引上けさへも容易ならぬ状態であった。

 

 もと支那を敵国として大規模なる戦争を行ふことは、軍当局はいざ知らず、国民一般の殆ど予想せざりしところである。国民は支那と戦ふどころか、国民党が日本に対して狂暴化した後でさへ、専ら親善提携を望んで居た。それ故に支那事変は、日本としては戦ひを欲せざる国と、戦ひを欲せざる時に勃発せるものであり、政府が努めて不拡大方針を取らんとしたのも無理ならぬ次第である。

 

 

 

 恐らく蒋介石もまた日木に対して勝算を抱いて居なかった。彼もまた当初は局地解決を望んだことと想像される。併し乍ら国民覚の狂暴焦躁分子は、最早破の彼の手によって制御すべくもなかった。彼等は英米蘇聯の支援を頼み、彼等にとりて好都合なる資料のみによって日本の国情を誤算し、遂に 『抗戦徹底』 を叫ぶに至った。

 想ふに国民党及び彼を支援せる欧米列強は、日本の国力は断じて長期戦にへず、3年を出でずして国民生活の逼迫から国内崩壊は必然であると判断して居たであらう。然るに事実は完全に彼等の予想を裏切り、国民は克く一切の経済的困苦を克服し来れるのみならず、支那事変の刺激によって、飛行機・戦車其他作戦資材の整備が飛躍的に促進された為に、陸海車の戦力は驚嘆すべき躍進を示した。加ふるに長期に亙る戦争の間に、兵士の訓線にも兵器の改良にも、深甚なる工夫が凝らされた。
 或いは厳冬蒙古の原野に、或は炎熱南支の山嶽に、成は温地に、或は密林に、一切の時節と場所に於て作戦上の最も貴重なる経験を積んだ。それ故に重慶及び米英が、日本の国力は最早疲弊し果てて、新に強敵と戦ふ勇気を失ったであらうと想像せる5年の長期戦が、実は却って日本を空前に強力なる国家たらしめ、一旦大東亜戦争の勃発を見るや、古今東西に比類なき武威を発することができた。

 

 かくて支那事変は、一面に於て最も悲しむべき出来事であったと同時に、他面に於て大なる利益を日本に与へ、東亜全面より米英勢力を駆逐する覚悟と、この覚悟を決行するに足る武力を養はしめることとなった。

 

 

 

 若し是が清朝末期又は軍閥時代の支那であったならば、恐らく南京陥落の後に、然らずば漢口・広東を失った時に支那は早くも吾が軍門に降ったことであらう。然るに戦へば必ず敗れながら前後7年に亙りて抗戦を続け、殊に大東亜戦争半年の戦果を目して、日本の武力の絶対的優越を十二分に認識せるに拘らず、また其の最も頼みとせる米英の援助が殆ど期待し難くなれるに拘らず、且抗戦を止めんとせざるところに、吾等は此の4半世紀に於ける支那の非常なる変化を認めねばならぬ。

 

 若し日本が現在の支那を以て、清朝末期又は軍閥時代の支那と同一視して居るならば、直ちに其の認識を更めねばならぬ。

 

 

 

 日支両国は何時までも戦ひ続けねばならぬのか。これ実に国民総体の深き嘆きである。普通の常識を以てしても、日支両国は相和して手を握れば測り知れぬ利益あり、戦って相争へば百害がある。わけても世界史の此の偉大なる転換期に於て、若し両国が和衷協力するならば、亜細亜の事、手に唾して成るであらう。いま日支両国が復興亜細亜の大義によって相結び、その実現のために手を携へて起っとすれば、印度また直ちに吾に呼応し、茲に独自の生活と理想とを有する大東亜圏の建設が、順風に帆を挙けて進行するであらう。

 

 

 

 然るに現実は甚だしく吾等の理想と相反すゑもとより南京政府は既に樹立せられ、汪精衛氏以下の諸君は、興亜の戦に於て吾等と異体同心であり、進んで大東亜戦争に参加するに至ったのではあるが、支那国民の多数は其の心の底に於て尚ほ蒋政権を指導者と仰いで、反日・抗日の感情を昻めつつある。かくして日本は、味方たるべき支那と戦ひ乍ら、同時に亜細亜の強敵たる米英と戦はねばならる破目になって居る。

 

 大東亜戦争当面の目的は、大東亜地区より米英其他の敵性勢力を掃蕩することにあり、其次に来るものは大東亜秩序の確立であるが、そのための絶対的条件をなすものは支那事変の処理、即ち支那との和衷協力である。此事は今後戦線が如何に拡大されようが、また其の戦果が如何に甚大であらうとも、決して変るまじき順序である。支那事変が処理せられざる限り、米英の抗戦力が如何に弱り、如何に低くならうとも、大東亜戦争は決して有終の美をなすことが出来ぬ。

 

 

 

 さて日独伊3国同盟が結ばれたころから、支那事変は世界戦争の連環の一つであり、従って是くの如きものとして解決せらるべきものであるとの主張が、いろいろなる方面から唱へられ初めた。此の主義は半ば正しく、半ば誤まつて居る。

 

 即ち支那事変は単に日支両国だけの関係に於て考ふべきものでなく、事変の背後には有力なる第三国が、日本を敵として東洋制覇の野心を抱き、あらゆる術策を逞しくして来たので、事変の進展如何によっては、遂に其の第三国とも、具体的に言へば英米とも一戦せねばならぬことを認識するものとして、この主張は正しくある。而して現に事変は対米英戦争にまで発展した。併し乍ら其故に支那事変は、世界戦争の一連鎖として、世界戦争そのものの処理と共に解決せらるべきものとする意見は、吾等の決して首肯し得ざるところである。

 

 

 

 日支両国の間に第三国の介在せることが、従来常に両国の溝を深くせることは、歴史の示すところ最も明白である。日清戦争に於ける三国干渉は言ふまでもなく、第一次世界戦争に際しても、支那は日本と共に聯合国側に参戦し与国として戦へるに拘らず、欧米勢力を有力なる決定者として日支両国の間に介在させたので、両国の親善友好を増す代りに、反って反日敵意を助長した。満洲事変に際しても、支那は日本との談合を避けて終始英米に泣訴したため一層問題を紛糾させた。

 

 

 

 支那事変は欧羅巴戦争に先ちて、日支両国の間に出れる悲劇である。その解決は決して第三国の介入を許さず、両国直接の折衝によって解決せねばならぬ。加ふるに大東亜戦争は、事実によって支那事変の性格を一変し、之を以て東亜に於ける一個の内乱たるに至らしめた。吾等は一刻も早く此の内乱を鎮定してこそ、初めて大東亜戦争の完遂を期し得るのである。

 

 

 

 曽て第一次世界大戦に当り、大限内閣の所調21箇条要求が甚だしく支那を激せしめた。而も此の要求は、支那の保全を本願とせるものであり、此の条約にして一たび締結される以上、世界の如何なる国家と難も、最早日本と一戦を交へる覚悟なくしては、支那沿岸の一寸一尺の土地をも奪ひ得ぬこととなる。

 

 それ故に条約の精神は明白に亜細亜復興の要件なりしに拘らず、之を年因録として支那の排日運動は、年々広汎深刻を加へ、それが満洲にまで波及せるため、遂に満洲事変の発生を見るに至った。而して日本は既に述べたる如く、此の事変によって其の誤れる進路を改め、維新精神に復帰して亜細亜解放の戦士たる覚悟を決着し、支那との間にも従前にまさりて緊密なる肉親的結合を再建せんと努めたのである。

 

 是くの如き日本の精神と理想とは、対米英立戦によって火の如く瞭然となれるに拘らず、蒋政権が今尚ほ亜細亜共同の敵と相結んで、興亜の大義を蹂躙しつつあることは、真に痛恨無限と言はねばならぬ。

 

 

 

 而も今より80年以前、日本が其の国民的統一のために奮起せる当時を回せよ。ロシアは対馬の租借を迫り、アメリカは開国を強要し、フランスは其のメキシコ政策の失敗を東亜に於て回償せんとし、イギリスは貪婪の爪を磨いで近海に出没日本の運命累卵よりも危かりし時、薩長両勢力は不倶載天の敵の如く相争って居た。いま日本がアングロ・サキソン世界幕府を倒して亜細亜復興のために獅子奮迅する時、日支両国は曽て薩長が相争へる如く相争って居る。
 支那の国民党には明治維新の研究者多く、蒋介石自身もまた其の研究に大なる興味を持ったと言はれて居る。若し彼等にして明治維新の精神を真個に把握し得たならば、日本に対して沙汰の限りなる狂暴を敢てし、10年の建設を一朝にして空無に帰せしむるが如きことなかったであらう。

 

 さり乍ら維新精神の継承者が明白に自覚し誠実にその実現に努力し来れる日本の国家的続一と支那の革新、此の両者の堅き結合による亜細亜復興は、両国共同の宿命的課題なるが故に、やがては正しく解決されるであらう。唯だ吾等は其の解決の一日一刻も速かならんことを切願して止まない。

  

 佐藤信淵が欧羅巴列強わけてもイギリスの東亜優略に備へるための国防を強調せる 『防海余論』 『呑海肇基論』 『存華挫狄論』 の三著は、彼が81歳の高齢に達しながら、日本の現在及が将来を『慷慨善思』して筆執り、之を安濃津侯に献ぜんとせるものである。
 而も其子信昭が 『不肖此書を一見するに、実に是れ世界を混同し、万邦を統一するの大議論にて、八十老翁の壮心感伏に堪たり。然りと難も家厳は草間の小父なり、卑賤にして如此の大議論を為す者は、往々不測の大患に遇ふ。・・・・・且又此書世上に漏らば、或は越爼の刑あらんことを畏る。願くは固く辞して比書を献ずること勿れ』 と諌め、実に 『書を抱いて悲泣連日』 に及んだので、遂に之を焼棄てたと信淵自身が述べて居る。

 

 その草稿が幸に家に伝へられ、写本として坊間にも流布した。彼は此年の初秋より健康頓に衰へて、身を病床に横へるに至り、食を摂り難きこと3箇月に及べるに拘らず、酒を以て飯に代へながら 『存華挫狄』 の稿を床中に改め、翌嘉永3年正月6日、つひに82歳の長き生涯を終へたのである。

 

爾来春風秋雨百年、いま 『存華挫狄』 の日が到来したのだ。

 

大東亜秩序建設は、亜細亜的規模に於て行はれる第二維新である。そは惨怛たる経営に終生を託して、一身を国事に倒したる幾多先輩の志業を完うするものである。天上に物見人多し、幽魂みな還現する。後代に志士あり、長く当年に鑑みんとする。吾等は必ず此の大業を成就せねばならぬ。