『吉田松陰』
徳富蘇峰
第十三 松下村塾
彼は天成の鼓吹者なり、感激者なり。
踏海(とうかい)の策敗れて下田の獄に繋がるるや、
獄卒(ごくそつ)に説くに、自国を尊び、外国を卑み、
綱常(こうじょう)を重んじ、彝倫(いりん)を叙(つい)ずべきを以てし、
狼の目より涙を流さしめたり。
その下田より檻輿(かんよ)江戸に赴(おもむ)き、
途(みち)三島を経るや、警護のに向い、大義を説き、
人獣相距る遠からざる彼らをして憤励の気、
色に見(あら)われしめたり。
その江戸の獄に在るやいうまでもなく、送られて長門野山の獄に投ぜらるるや、
その感化は、同囚者に及び、獄卒に及び、
遂にその司獄者までも、彼が門人となるに至らしめたり。
彼が在る所、四囲みな彼が如き人を生ず、これ何に由りて然るか、
薔薇(ばら)の在る所、土もまた香(かんば)しというに非ずや。
而して彼が最もその鼓吹者たり、
感激者たるの特質を顕わしたるは、松下村塾においてこれを見る。
松下村塾は、徳川政府 顛覆(てんぷく)の卵を孵化(ふか)したる保育場の一なり。
維新革命の天火を燃したる聖壇の一なり。笑う勿(なか)れ、
その火、燐よりも微に、その卵、豆よりも小なりしと。
赤馬関(あかまがせき)の砲台は粉にすべし、奇兵隊の名は滅すべし。
然れども松下村塾に到りては、独り当時における偉大の結果のみならず、
流風 遺韵(いいん)、今に迨(およ)んでなお人をして欽仰(きんぎょう)嘆美の情、
禁ずる能(あた)わざらしむるものあり。
これ何に由りて然るか。
彼が門下の一人なる伊藤博文はいわずや、
「如今 廟廊(びょうろう)棟梁の器、多くはこれ松門に教えを受けし人」と。
一半の真理は、この句中に存す。
彼は安政二年十二月、野山の獄より出でて家に蟄居(ちっきょ)せしめられたり。
而してその安政三年七月に至っては、蟄居中さらに家学を授くるの許を得たり。
その名義とする所は、山鹿流軍学なりといえども、その実は然らず。
彼は兵法家にあらず、彼は革命家なり、
その教る所革命の精神なり、その講ずる所革命の業なり。
松下村塾の名は、その内叔(ないしゅく)玉木、外叔久保らが相接して用いたる村学にして、
松陰これを襲用したりといえども、
吾人がいわゆる松下村塾に到りては、松陰を推して、
その開山とせざるべからざるものあり。
蓋(けだ)し松陰が、自ら松下村塾に直接の関係を有したるは、
僅かに安政三年の七月より、安政五年の十二月までにして、即ちその歳月は、二年半に過ぎず。
而してこの二年半の歳月が、未来における日本の歴史に、
千波万濤の起激点となりたるは、何ぞや。
彼れ何を以てかくの如き大感化を及ぼしたるか。
曰く、その人に在り。曰く、その時勢に在り。
曰く、その教育の目的に在り。曰く、その教育の方法に在り。
彼は、精を窮め、微に入り、面に脺れ、背盎にき白鹿洞(はくろくどう)の先生に非ず。
彼は、宇宙を呑み、幽明を窮むる橄欖(かんらん)林の夫子(ふうし)に非ず。
彼は学 未だ深からず、歳 末だ高からず、
齢 未だ熟せず、経験 未だ多からず、
要するにこれ白面の中書生(老書生といわず)のみ。
而して彼が力よりも多くの感化を及ぼし、
彼が人物と匹敵する、ある点においては、むしろ彼より優れる弟子を出したるは何ぞ。
「感は知己に在り」の一句これを説明して余りあるべし。
彼は造化児の手に成りたる精神的爆裂弾なり。
一たび物に触着すれば、轟然として火星を飛ばす。
この時においては物もまた砕け、彼もまた砕く。
彼の全体は燃質にして組織せられたり、火気に接すれば乍(たちま)ち焰となる、
その焰となるや鉄も鎔(とか)すなり、金も鎔すなり、石も鎔すなり、瓦も鎔すなり。
彼の人に接するや全心を挙げて接す、彼の人を愛するや全力を挙げて愛す。
彼は往々インスピレーションのために、精神的高潮に上る。
而してこれを以て他に接し、他を導いてこの高潮に達せしむ。
知るべし、彼が教育の道 多子(たし)なし、ただ己が其骨頭、大本領を攄(の)べて、
以てこれを他に及ぼすのみなるを。
彼れ「松下村塾の記」を作りて曰く、
そもそも人の最も重んずる所のものは、君臣の義なり。
国の最も大なりとする所のものは、華夷(かい)の弁なり。
今、天下は如何なる時ぞや。
君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて華夷の弁を并せて、またこれを失う。
然り而うして天下の人、まさに安然として計を得たりと為す。
神州の地に生れ、皇朝の恩を蒙(こうむ)り、内は君臣の義を失い、
外は華夷の弁を遺(わす)れば、学の学たる所以、人の人たる所以、それ安(いず)くに在りや。
則ち知る、華夷の弁は攘夷にして、君臣の義、尊王なるを。
而してさらに、彼が金誡(きんかい)たる「士規七則」に就いて見よ。
一、およそ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。
蓋(けだ)し人には五倫あり、而うして君臣、父子を最も大なりと為す。
故に人の人たる所以は、忠孝を本と為す。
一、およそ皇国に生れては、宜しく吾が宇内(うだい)に尊き所以を知るべし。
蓋(けだ)し皇朝は万世一統にして、邦国の士夫は禄位を世襲し、
人君は民を養い以て祖業を続(つ)ぎ、臣民は君に忠にして以て父志を継ぐ。
君臣一体、忠孝一致、ただ吾が国のみ然りと為す。
一、士の道は義より大なるは莫(な)し。
義は勇に因りて行なわれ、勇は義に因りて長ず。
一、士の行いは、質実にして欺かざるを以て要と為し、
巧詐にして過を文(かざ)るを以て恥と為す。
光明正大、みなこれより出づ。
一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、則ち鄙夫(ひふ)のみ。
書を読み友を尚(たっ)とぶは君子の事なり。
一、徳を成し材を達するに、師恩、友益は多きに居(お)る。
故に君子は交遊を慎しむ。
一、死して後 已(や)むの四字は、言簡にして義広し。
堅忍果決にして、確乎(かっこ)として抜くべからざるものは、これを舎(お)きて術なきなり。
これ則ち質実、義勇、斃(たお)れて已(や)むの真骨頭を以て、
尊王攘夷の大本領を発揮したるものといわざるべからず。
彼これを以て自ら感激す、彼これを以て自ら鼓舞す、その一呼虎 嘯(うそぶ)き、
一吸竜躍るものまた故なしとせんや。
怪しむ勿(なか)れ、彼が教育の主観的なるを。その順序なく、次第なく、
人に依りてその教を異にする無く、才に応じてその器を成す無く、
その接する所は、才も不才も、壮も幼も、智者も愚者も、
尽(ことごと)く己が欲する所を以てこれを人に施せしもののみ。
思い切りていえば、己を以て人を強(し)いしのみ、
而して他をしてその強いらるるを覚えしめざるは、
彼が血性と献身的精神とによるのみ。
怪しむ勿(なか)れ、彼が師を以て自から居(お)らざるを。
彼の眼中師弟なし、ただ朋友あり、これ一は彼が年歯なお壮なるがため、
一は学校といわんよりも同志者の結合というが如きためなるべしといえども、
また彼が天性然るべきものあり。
滔々(とうとう)たる天下その師弟の間、厳として天地の如く、
その弟子は鞠躬(きくきゅう)として危座し、
先生は茵(しとね)に座し、見台(けんだい)に向い、昂然として講ず。
その講ずる所の迂濶(うかつ)にして乾燥なるは固(もと)より、
二者の間において、情緒の感応し、同情の迸発(ほうはつ)する甚だ難し。
これを彼(か)の松陰が、上に立たずして傍に在り、
子弟に非ずしてむしろ朋友、朋友に非ずしてむしろ兄弟の情を以て相接したるに比す、
その教育の死活、論ぜずして可なり。
試みに看よ、『幽室文稿』の巻頭に、「岡田耕作に示す」の一文あり、曰く、
正月二日、岡田耕作至る。余、ために孟子を授け、
公孫丑(こうそんちゅう)下篇を読み訖(おわ)んぬ。
村塾の第一義は、閭里(りょり)の礼俗を一洗し、
戈(ほこ)に枕し槊(ほこ)を横たうるの風を為すに在り。
ここを以て講習は除夕を徹し、未だ嘗(かつ)て放学せざるなり。
何如ぞ、年一たび改まれば、士気 頓(とみ)に弛(ゆる)める。
三元の日、来りて礼を修むる者はあれども、未だ来りて業を請う者を見ず。
今 墨(ぼく)使は府に入り、義士は獄に下り、天下の事 迫(せま)れり。
何ぞ除新あらんや。然り而して松下の士、
なおみなかくの如くんば、何を以て天下に唱えん。
耕作の至れるは、適(たまた)ま群童の魁(さきがけ)を為す。
群童に魁たるは、乃(すなわ)ち天下に魁たるの始めなり。
耕作、年 甫(はじめ)て十齢、厚く自ら激励すれば、その前途実に測るべけんや。
これ豈(あ)に十歳の童子に向って告ぐるの言ならんや、
而して彼の眼中には、幾(ほと)んど童子なし。
彼は十歳の少年をも、殆んど己と同地位に取扱えり。
その「群童に魁(さきがけ)たるは則ち天下に魁たる始めなり」という一句、
直ちに他の頭蓋を打ち勃々然(ぼつぼつぜん)、
その手の舞い足の踏む所を知らざらしむ。
彼また嘗(かつ)て品川弥二郎に与うる書あり。
弥二の才、得 易(や)すからず、年、穉(ち)なりといえども、
学、幼なりといえども、吾の相待つは、則ち長老に異ならざるなり。
何如ぞ契濶(けいかつ)乃(すなわ)ち爾(しか)るや。
時勢は切迫せり、豈(あ)に内に自ら惧(おそ)るるもの有るか、
そもそも已(すで)に自ら立ち、吾の論において与(くみ)せざること有るか。
逸遊(いつゆう)敖戯(ごうぎ)して学業を荒廃するは、
則ち弥二の才、決して然らざるなり。
説有らば則ち已(や)む、説無くんば則ち来たれ。
三日を過ぎて来たらざれば、弥二は吾が友に非ざるなり。
去る者は追わず、吾が志、決せり。
これ則ち十五、六歳の少年に告げたるなり、
その真率(しんそつ)にして磊灑(らいしゃ)なる、
直ちに肺肝を覩(み)るが如し。
その他高杉に与うるの書、久坂に与うるの書の如き、
互に切磋(せっさ)、砥厲(しれい)、感激、知己の意を寓するもの、一にして足らず。
顧うにその弟子が、彼が骨冷なる後に至るまで、
なお沸(なみだ)を垂れて松陰先生を説くもの、豈(あ)にその故なしと為(せ)んや。
既に義勇節慨の真骨頭たり、
攘夷尊王の活題目たるを知らば、松下村塾のいわゆる教育なるものもまた知るべし。
教育とは何ぞ。
東坡(とうば)の「留侯論」中の語を仮(か)り来れば
「その意書に在らず」の一句にて足るべし。
彼らが学問は、書物の上の学問に非ずして、実際の上の学問なり。
その活事実を捉え来りて直ちに学問の材料と為したるが如き、
時勢の然らしむる所とはいえ、その活ける精神を人に鼓吹したるもの、
豈に少しとせんや。
これを詳言すれば、堯舜三代というが如き縁遠き事に非ず、
いわば「米国より和親を申込めり、これは如何に為すべきか」、
「攘夷の大詔 煥発(かんぱつ)せり、これを奉戴して運動するには、
如何なる事を為すべきか」というが如き事にして、その学校たるや、
もしくは革命運動の本部たるや、学問たるや、運動の評議たるや、
殆んど区別する所なく、学問即ち事業、事業即ち学問にして、
坐して言うべく、起ちて行うべく、行うて敗るるもさらに意とする所なしというに止る。
然れば彼らが学問は、他日の用意に非ず、今日学ぶ所は、
即ち今日の事にして、今日これを行うを得べし、
また行わざるべからざるの責任を有するものにして、
これを譬(たと)えば、なお剣道の先生が、道場を戦陣の真中に開くが如く、
その勝負は、いわゆる真剣の勝負にして、勝つ者は活(い)き、負る者は死ぬるのみ、
その及第その落第、その試験の法、総てただ活劇の上に存す。
彼らは如何にしてこの活学問を講じたるか。
吾人は彼が塾生に示す文を読む、
村塾、礼法を寛略にし、規則を擺落(はいらく)するは、
以て禽獣 夷狄を学ぶに非ざるなり、以て老荘 竹林を慕うに非ざるなり。
ただ今の世の礼法は末造(まつぞう)にして、流れて虚偽刻薄と為るを以て、
誠朴忠実、以てこれを矯揉せんと欲するのみ。
新塾の初めて設けらるるや、諸生みなこの道に率(したが)い、
以て相い交わり、疾病(しっぺい)艱難には相い扶持し、
力役事故には相い労役すること、
手足の如く然り、
骨肉の如く然り。
増塾の役、多く工匠を煩わさずして
、乃(すなわ)ち能(よ)く成すこと有るは、職としてこれにこれ由る。
二百年来、礼儀三千、威儀三百の中に圧束せられたる人心を提醒して、
この快活自由の天地に入らしむ。惟(おも)うにその青年輩をして、
気達し、意昂り、砂漠の枯草が甘露に湿(うるお)うて、
欣々然(きんきんぜん)として暢茂(ちょうも)するの観を呈したるまた知るべし。
また高杉晋作に与えたる書中に曰く、
病肺の事最早昔話に御坐候。必ず御案じ下されまじく候えども、
甚だ壮なり。隔日『左伝』『八家』会読(かいどく)。
勿論塾中常居、七ツ過ぎ会読終る。
それより畠または米 舂(つ)き、在塾生とこれを同じうす。
米 舂(つ)き大いにその妙を得、大抵両三人、
同じく上り、会読(かいどく)しながらこれを舂(つ)き、
『史記』など二十四葉読む間に米 精(しろ)げ畢(おわ)る、
また一快なり。(翁に話候えば評していわく、オカシイ事ばかりする男といった)。
米を舂(つ)きながら会読(かいどく)するの先生あれば、
糠(ぬか)を篩(ふる)いながら講義を聞く生徒もあるべし。
彼が他日再び野山の獄中に投ぜられたるの時において、
福原又四郎に書を与え、尊王攘夷の事を論じ、
諸友の因循(いんじゅん)なるを尤(とが)め、
曰く、「彼らあるいはまた背き去るといえども、
蓋(けだ)し村塾爐を囲み、徹宵の談を忘れざるべし」と。
ああ寒爐火尽きて灰冷なるの処、霜雁月に叫んで人静なるの時、
三、五の青年相い団欒(だんらん)し、灰に画きて天下の経綸を講じ、
東方の白(しら)ぐるを知らざるが如き、
四十年後の今日において、なお人をして永懐堪うべからざらしむ。
いわんや時勢迫り、人物起ち、天下動かんとするの当時においてをや。
彼は教育家としては、多くの欠点あるべし。
彼が主観的にして、客観的ならざる、彼が一角的にして多角的ならざる、
彼が情感に長じて、冷理に短なる、胸中今日多くして明日少なき、
これみな欠点の重(おも)なるものなるべし。
彼は教育家としては実に性急の教育家なり。
何となれば、彼は卵を孵化し、これを養い、これを育て、
以て鶏と成さんとする者に非ず。
卵は卵の儘(まま)にてその功を為すべし、
雛(ひな)は雛の儘にてその功を為すべし、
時機に依れば、彼れ自ら卵を煮、
雛を燔(あぶ)るも、
以てさらに意と為(な)さざればなり。
然(しか)れどもこれを以て、彼を残忍なりという莫(なか)れ。
彼が自(みずか)ら処するまたかくの如きのみ、彼は弾丸の如し、
ただ直進するのみ。彼は火薬の如し、
自から焚(や)いて而して物を焚く。
彼は毎(つね)に身を以て物に先んず。
彼 嘗(かつ)てその門人の死生大悟を問うに、答えて曰く、
死生の悟りが開けぬというは余り至愚故、詳(つまびら)かにいわん。
十七、八の死が惜しければ三十の死も惜しし、
八、九十、百になりてもこれで足りたということなし。
草虫、水虫の如く半年の命のものもあり、これ以て短とせず。
松柏の如く数百年の命のものあり、これ以て長とせず。
天地の悠久に比せば松柏も一時蠅なり。
ただ伯夷などの如き人は、周より漢、唐、宋、明を経、清に至って未だ滅せず。
もし当時大公望の恩に感じて西山に餓死せずば、
百まで死せずも短命というべし。
何年限り生きたれば気が済むことか、前の目途でもあることか、
浦島、武内も今は死人なり。
人間僅か五十年、人生七十古来稀。
何か腹のいえるような事を遣(や)りて死なねば成仏(じょうぶつ)は出来ぬぞ。
吾今よりは当世流の尊攘家へは一言も応答せぬが、
古人に対して少しも恥かしき事はない。
足下輩もし胆あらば、古人へは恥かし。
今人はうるさし、この世に居て何を楽しむか。
さても凡夫の浅猿(あさまし)さ、併(しか)し恥を知らずと、
「孔子いわく、志士仁人は身を殺して仁を為す有り」とか、
「孟子いわく、生を舎(す)てて義を取る者なり」とかいいて、
見台(けんだい)を叩いて大声する儒者もある。
そのうるさいを知らずに一生を送るものもある。
足下輩もその仲間なり。
何んぞそれ厳冷酷烈なる。
これあたかも三百の痛棒を以て、他の頭脳を乱打するものにあらずや。
彼は如何なる場合においても、主観的なり。
怒るも、泣くも、笑うも、澄すも、
ただ己が全心を捧げて以て人に接するのみ。
彼はまた野山の獄中より書を門人に与えて曰く、
平時喋々たるは事に臨んで必ず唖、平時炎々たるは事に臨んで必ず滅す。
孟子の浩然の気、助長の害を論ずるを見るべし。
八十送行の日、諸友剣を抜く者有り、
また聞く、暢夫江戸に在りて犬を斬るの事あり。
これらの事にて諸友の気魄 衰萎(すいい)の由を知るべし。
僕いま死生念頭全く絶ちぬ。
断頭場に登り候わば、血色敢て諸氏の下にあらず。
然れども平時は大抵用事の外一言せず、
一言するときは必ず温然和気婦人好女の如し。
これが気魄の源なり。
慎言謹行、卑言低声になくては大気魄は出るものに非ず。
張良 鉄椎(てっつい)の時の面目を想見るべし。
僕去月二十五日より一 臠(れん)の肉一滴の酒を給(た)べず。
これでさい気魄を増す事大なり。
僕 已(すで)に諸友と絶ち、諸友また僕と絶つ。
然れども平生の友義のため、区々一言を発す。
これ僕が鑿空(さくくう)の語に非ず。
実践の真また聖賢伝心の教なれば軽視する勿(なか)れ。
血気は尤(もっと)もこれ事を害(そこな)い、暴怒(ぼうど)またこれ事を害う。
血気暴怒を粉飾する、その害さらに甚し。
中谷、久坂、高杉等へ伝え示したく候
これ豈(あ)に煽動家の夢想する所ならんや。
彼は自から欺かざるのみならず、また人をも欺かざるなり。
彼は自家の胸中を吐くの外、他を勧化(かんげ)するの術を知らざるなり。
而して前書においては、彼が死生大悟の功夫を知るべく、
後書においては、彼が存養、潜注の用意を察すべし。
吾人は彼が自から処する所以を視、人に処する所以を見れば、
他の自から水を飲み、人に酒を強い、他を酔倒せしめて、
自から快なりとする教唆(きょうさ)的 慷慨(こうがい)家の甚だ賤(いやし)むべきを知るなり。
彼の人物は水戸派の志士に比して、高きこと一等なるやまた分明なり。
彼が一生は、教唆者に非ず、率先者なり。夢想者に非ず、実行者なり。
彼は未だ嘗(かつ)て背後より人を煽動せず、彼は毎(つね)に前に立ってこれを麾(さしまね)けり。
彼はいわゆる己が欲する所を以て、これを人に施せしのみ。
もしくはこれを人に強いしのみ。
彼は乱雑にして、少しく圧制なるペスタロジなり。
彼はある時は人を強ゆることあり、強いて聞かざれば、大いに怒ることあり。
然れども彼は実物教育の大主義を践行せり。
ただペスタロジに異なるは、一は天地万有を以て実物教育の資となし、
他は活世界の時事を以て実物教育の資と為したるのみ。
その嬰児(えいじ)の如き赤心を以て、その子弟を愛し、自から彼らの仲間となり、
彼らの中に住し、彼らの心の中に住するに到りては、二者 豈(あ)に軒輊(けんち)あらんや。
彼は野心あり、修煉少く、霊想 未だ真醇(しんじゅん)ならず、
思慮浅薄なる保羅(パウロ)なり。
彼の功名に急に事業に逼切なる、
而してその「不朽」の二字に手を打懸けたるに係(かかわ)らず、
未だ全くこれを攫(つか)む能(あた)わざるが如き、
而してその己れと異なりたるものを寛容するの雅量に乏しき、
真理を両端より察するの聡明なき、
人の師となるにおいて、大なる短所を有するに係らず、
その伝道心に到りては、この山を彼処(かしこ)に移す程の勢力ありしなり。
彼は思うて言わざるなく、言うて服せざるなく、
服して共に行わざるなき勧化者(かんげしゃ)なり。
彼の眼中には恒(つね)に一種の活題目あり、
これを以て自から処し、これを以て人に勧(すす)む。
その勧むるや、中心 止(や)まんと欲して止む能(あた)わざるなり。
彼の狭隘(きょうあい)なる度量も、この時においては、俄然(がぜん)膨脹するを見る。
彼が眼中敵もなく、味方もなく、ただ彼が済度(さいど)すべき衆生(しゅじょう)あるのみ。
彼をしてもし伝道師たらしめば、あるいはロヨラの後塵を拝せしならん、
あるいはザウイエルの下風に立ちしならん。
もしその修煉の功を積まば、あるいは雁行(がんこう)し、
あるいは連鑣(れんひょう)先を争うも未(いま)だ知るべからず。
彼は社会の寵孫(ちょうそん)にあらず、彼が子弟もまた然り。
彼らはあたかも雪を踏んでアルプス嶺を攀(よじのぼ)る旅客の如し。
その隆凍、苦寒を凌(しの)がんためには、互に負載し、抱擁し、
自他の体温によりて、その呼吸を保たざるべからず。
艱難は同情を生じ、同情は恩愛を生ず、先生 前(さき)に斃(たお)れて弟子後に振う。
彼は知己の感を以て、その子弟を陶冶せり、激励せり、
彼は活ける模範となりて、子弟に先ちて難に殉ぜり。
否な、子弟のために難に殉ぜり。
この時において懦夫(だふ)といえども、なお起つべし、
いわんや平生の素養あるものにおいてをや。
いわんや恩愛の情、知己の感あるものにおいてをや。
彼はその子弟に向って我が如く做(な)せといえり。
而して做せり。彼ら豈(あ)に徒然(とぜん)として止(や)まんや。
その時を以てすれば、二年半に満たず。
その所を以てすれば萩城の東郊にある、台所六畳、坐敷八畳の矮屋(わいおく)に過ぎず。
而して洪大尉が伏魔殿(ふくまでん)を発(あば)きて、一百八の妖星を走らしめたる如く、
ただこの中より無数の活劇、及び活劇をなせし大立者を出したる所以のもの、
豈(あ)にその由る所なくして然らんや。
世あるいは一人を以て興り、世あるいは一人を以て亡ぶ、
個人の社会に及ぶ勢力もまた軽視すべからざるものあり。
「吉田松陰」民友社
1893(明治26)年12月23日発行
初出:「国民之友」
1892(明治25)年5月~9月