日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

徳冨蘇峰『吉田松陰』 十八 家庭における松陰

2019-12-12 21:16:41 | 吉田松陰

         「吉田松陰」
          徳富蘇峰


第十八 家庭における松陰 

 彼が家庭の児たるを知るものは、
また如何に彼が家庭における生活を知らん。

 彼が世界における生活は、猛風悪浪の生活なりき、
彼が家庭における生活は、春風百花を扇(あお)ぐの生活なりき。


 彼が短命なる生活の三分の一は、
成童以後生活の過半は、旅行と囚獄とにおいて経過したり。

 然れども日葵(ひまわり)が恒(つね)に太陽に向う如く、
磁針が恒に北を指す如く、川流の恒に海に入る如く、
彼の心は恒に家庭に向って奔(はし)れり。


 家庭における彼を見れば、あたかも天人を見るが如きの想いあり。
彼はその全心を捧げて父母を愛せり、兄妹を愛せり、叔姪(しゅくてつ)を愛せり。

 彼は思い切りて藩籍を脱せり、
然れどもその亡邸の初夜において、彼の夢に入りしは、彼の父母兄妹なり。
 彼は万里 踏海(とうかい)の策を企てたり、
然れども彼はこの際において、兄に面別するに忍びず、
兄が寓する長州邸の門前を徘徊(はいかい)して涙を揮い、空しく去れり。


 彼は「磧裡(せきり)の征人(せいじん)三十万、
一時 首(こうべ)を回(めぐ)らして月中に看る」の詩を
(ののし)りて曰く、「これ豈(あ)に丈夫(じょうふ)の本色ならんや」と。

 然れども彼は故郷を懐えり、故郷の父母は、恒に彼の心に伴えり。
彼は死を決して間部を刺さんがために、同志を率い、京都に馳(は)せ上らんとす。
而してその父、母、叔、兄に告ぐる書において、
人を泣かしむるを禁ずる能(あた)わざりしなり。



 彼の家庭における生活は聖き生活なり。温かなる生活なり。
彼の家庭は真個(しんこ)に日本における家庭の標本なり、模範なり。
 彼 自から曰く、
「謹んで吾が父母 伯叔(はくしゅく)を観るに、忠厚勤倹を以て本と為す」と。

 吾人が曩(さ)きに描き来りし彼の父母伯叔の風を見るものは、
必らず彼の自から語る所の誣(し)いざるを知らん。

 彼と彼の兄との関係は、その人物の点において、
必らずしも子由と子瞻との関係にあらざりき。

 彼の兄は尋常一様の士人のみ、必らずしも超卓抜群の器能才力あるにあらず。
然れどもその友愛の深情に到りては、二蘇の関係も啻(ただ)ならざりき。
 「朝日さす軒端の雪も消えにけり、吾が故郷の梅やさくらん」、
これ獄中立春に際して、兄に寄するの歌、
吟じ来れば無限の情思この中より湧くにあらずや。

 これと同時に、彼が獄中より兄に与うる賀正の書あり。

  新年の御吉慶目出度く存じ奉(たてまつ)り候。

 尊大人(そんたいじん)様、

 大 孺人(じゅじん)様を初め御満堂よろしく御 超歳(ちょうさい)大賀 奉(たてまつ)り候。
獄中も一夜明け候えば春めき申し候。
別紙二、書初(かきぞめ)、蕪詞、御笑正 希(ねが)い奉り候。
(まず)は新禧(しんき)拝賀のためかくの如くに御坐候。
恐惶(きょうこう)謹言。

 

      安政二年正月 朔旦(さくたん)

 

   寅次郎

 

     家大兄案下

 

 なおなお幾重も目出度く存じ奉(たてまつ)り候。
相替らず拝正の儀、東西御奔走と察し奉り候。
さて今朝 雑煮を食い、遣(や)りきれぬ事、山亭にての如し。
これ戯謔(ぎぎゃく)の初め、初笑々々。

 詩有り曰く、眠り足り何ぞ新正を迎うるを用いん、
雑煮腹に満ち腹雷鳴る、
知るべし新年吉兆の処、かつ聞く善歳万歳の声。

 

 家庭における彼が、如何に小児らしきよ。

 彼は獄中において雑煮を喫しつつ、
その少年の日、兄と護国山麓の旧家において、
雑煮を健啖したる当時を想い出し、
ためにかかる天真 爛熳(らんまん)
佳謔(かぎゃく)善笑の文字を寄せたるなからんや。

 

 健全なる家庭は、男女の道において最も健全なり。
彼は独身者なり、彼は国家を以て最愛の妻となせり。
 然れども彼は夙(つと)に婦人の家における大切なる地位を知れり、
また社会における大切なる位地を知れり。

 

 彼の蹈海(とうかい)失敗後、野山の獄に拘せらるるや、
その同囚富永有隣を慫慂(しょうよう)して、
曹大家(そうたいこ)『女誡』を訳せしむ。

 彼曰く「節母烈婦あり、然りて後孝子忠臣あり、
楠、菊池、結城、瓜生(うりゅう)諸氏において、
これを見る」と。

 独り彼が眼識の尋常有志家に比して、及ぶべからざるのみならず、
その人品の崇高純潔にして、堅実健全なる、
酒を飲み気を使う暴徒にして、有志家の名を僭する徒輩に比し、
天淵 啻(ただ)ならざるを見るべし。

 

 試みに左に掲ぐる書簡を見よ、
これ彼が安政元年十二月野山の獄中よりして妹に寄せたるものなり
    〔細註は記者の挿入に係る〕

 

  十一月二十七日と日づけ御座候御手紙ならびに九年母(くねんぼ)
みかん、かつおぶしともに昨晩相とどき、
かこい内はともしくらく候えども、
大がい相わかり候〔獄中の情景観るが如し〕まま、
そもじの心の中をさっしやり、なみだが出てやみかね、
夜着をかぶりてふせり候えども、いよいよ涙にむせび、
ついにそれなりに寝入り候えども、まなく目がさめ、
よもすがら寝入り申さず、色々なる事思い出し申し候 [松陰その人懐うべし]

 

 そもじや父母様やあに様の御かげにて、
きものもあたたかに袷(あわせ)物もゆたかに、
あまつさえ筆紙書物まで何一ツふそくこれなく、
寒さにもまけ申さず候間、御安心 成(な)さるべし。

 そもじ御家おばさまも御なくなりなされ候事なれば、
そもじ万(ばん)たん心懸け候わでは相すまぬ事、
ことにおじさまも年まし御よわい高く成(な)らせらるる事ゆえ、
別して御孝養を尽したべかし。

 また万子も日々ふとり申すべく候えば、心を用いてそだて候え。
赤穴のばあさまは御まめに候や。

 御老人の御事万事気をつけて上げ候え。
かかる御老人は家の重宝と申すものにて、
金にも玉にもかえらるるものにこれ無く候。

 そもじ事はいとけなき折より心得よろしきものとおもい、
一しお親しく思いしが、
このほど御文拝しいらざる事まで申 遣(つか)わし候なり。

 

 

 別にくだらぬ事、三、四まいしたためつかわし候間、
おととさまか梅兄様に読みよきように写しもらい候え。
 少しは心得の種にもなり申すべく候。

 さて御たよりの中にも手習よみものなどは心がけ候え。
 正月には一日はやぶ入り出来申すべきや。
あに様の御休日をえらび参り候て、心得になる噺(はなし)ども聞き候え。

 拙もその日分り候わば、
昔噺(むかしばな)しなりとも認(したた)め遣(つか)わし申すべし〔情思懇篤〕
また正月にはいずくもつまらぬ遊び事をすることに候間、
それより何か心得になるほんなりとも読んでもらい候え。

 貝原先生の『大和俗訓』『家道訓』などは丸き耳にもよくきこゆるものに候。
 また浄瑠(じょうる)りほんなども心得ありて聞き候えば、随分役にたつものに候。

 さてまた別に認(したた)めたる文に付き、
うたをよみ候。ここにしるし侍(はべ)りぬ。

 

    頼母(たのも)しや誠の心通うらん文見ぬさきに君を思いて

 

 右したためたるはそもじを思い候より筆をとりぬるが、
その夜そもじの文の到来せしは定めて誠の心文より先に参りたるかなと、
たのもしくぞんじ候ままかくよみたり〔友情濃至〕

 

      三日
  

                        「吉田松陰」民友社 
                 1893(明治26)年12月23日発行  

 

              初出:「国民之友」 
                 1892(明治25)年5月~9月 

 


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